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焦袁熹『春秋闕如編』++++

春秋闕如編八卷

江蘇巡撫採進本

(国朝*)焦袁熹の撰。袁熹、字は広期、金山*の人、康熙丙子の挙人。本書は未完成の書物で、成公八年で筆が止まっている。また巻ごとに袁熹の名印が押されていることから、本書はその稿本であると推定できる。また本書の端には孫の鍾璜の手になる跋文が附されているが*、これもまた当時の直筆である。

さて穀梁伝が常事不書*の例を発してこの方、孫復が有貶無褒*の理論を発展させた。後代の学者はこれを受け継ぎ、模倣を繰り返し、厳罰主義でもって経を解釈するようになっていった。その結果、春秋二百四十二年の中、上は天王より下は列国に至るまで、一人として糾弾を免れたものはなく、〔孔子の高弟たる〕子游・子夏ですら一辞も付け加えられなかったかの春秋をして、ついに〔厳罰主義の本尊たる〕申不害・韓非の口舌をしてなお余りあるほどの有様となった。その流弊の極まるところ、天道をすら貶すものが現れる状態になったのである(呂柟の『春秋説志』には、季孫意如の卒を書す理由を説明して、「天道の錯誤」に言及した件がある*)。春秋はかくして混乱極みに至ったものと言えよう。

(つづく)

*国朝:清朝のこと。
*金山:調査中。おそらく上海。
*跋文:四庫本になし。
*常事不書:「定例行事は経文に記さない」の意。
*有貶無褒:「経文には対象事件・人物を貶したところはあっても褒めたところはない」の意。
*天道の錯誤云々:『春秋説志』巻五に云う、「卒意如者何。曰:定公既立、則意如不可不卒、徳其立已也。其忘昭公乎。若曰昭公薨于外而意如卒于内、雖天道亦左矣。」


ググっていたら四库提要著录丛书というのが出ているらしい。要するに四庫本のできが悪いから、四庫所収書目で他の善本と差し替え可能なものを集めたものということだろう。収録書目が分かれば便利なんだがな。まぁ分かっても利用の便がないから意味ないけど。

いや、やっぱり紙ですって。紙は読みやすいし。あちらこちらの蔵書を見て回って集めまわるより、その叢書一つで全部見られるほうが便利ですよ。まあね、中国様のすることだから、四庫本とは別本というだけでゴミ本を収録している可能性が結構あるので、それなりの利用価値しかないような気はしますがね。それに私が買うわけじゃなし、どうせ大した価値もない他の叢書を公費で買うのなら、これ買っても同じですよ。

そういえば文瀾閣の四庫全書も出版計画があるらしい。こっちの方があほくさい。文瀾閣の四庫本なんてほとんど文淵閣と文津閣の引き写しで、現存善本も多いのだから、善本のなくなった稀覯本だけまとめて印刷すればいいのだ。

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春秋釈例(つづき)。でも読めん

『釈例』本文の:

今所畫圖,本依官司空圖,據泰始之初郡國為正。時孫氏僭號于呉,故江表所記特示略。咸寧六年,呉乃平定。孫氏居八郡之地,隨其宜増廣。今江表凡十四郡,皆貢圖籍,新國始通,文記所載猶未詳備,若足以審其大略。自荊揚徐江,内郡縣人以各還其舊城,故此三州未界大江之表,皆改從今為正,不復依用司空圖也。

本依官司空圖が読めない。おおまかに「司空図を用いた」ではないかと推測するが、依官がよく分からない。というか、句の切り方すらよく分からない。我ながら学がないなぁ。分からないので今回は原文のままにする。


> フランス

なるほど。フランスの「陰謀」ですな。

福島第一原発で何が起きているのか――米スリーマイル島原発事故より状況は悪い‐大前研一


※以下、昨日のつづき


土地名篇の釈例には「現在の天下郡国県邑と山川道路、すなわち天下の地名をすべて図に画き止め、そこに春秋時代の諸国邑と盟会の地名を並べた。これを名付けて古今書春秋盟会図別集疏一巻といい、『釈例』に付す」とあり、また「画したところの図は、●本依官司空図(*)、泰始初年の郡国によるべきであろう。〔……〕しかし孫氏〔の呉〕が平定されて後、江表の十四郡が図籍を上納してきた。そこで荊、揚、徐の三州は今の地名によるべきであるから、司空図はもちいなかった」とある。そうだとすれば、本書にはもともと図が附されていたと見なし得る。しかしそれらは既に散佚してしまった。〔一方、この輯佚本には〕郡県を列挙した盟会図疏なるものが付されているが、そこに見られる地名は、いずれも北魏、隋、唐の時代に設けられたものであり、晉代初期にはなかったものである。陽城の一条に至っては、(唐)武后のことが記されているのである。〔盟会図疏なるものは、〕杜預の原本が散佚したことを承け、唐代の学者が補輯したものと見なし得る。この外にも土地名の解釈には後世の学者が増加した言葉が見られる。このように問題はあるのであるが、このたびの編修においては、みだりに原文に改変を加えず、問題ある文言の末に弁証を加えるにとどめた。

さて、杜預の著書は左氏におもねる欠点がある。しかしその奥深い洞察力は後人のよく及ぶところではない。また彼の見出だした義例は経文を頼りに考案したもので、春秋経の本質をよく捉えている。日月の例を盲目に振りかざす公羊学派や穀梁学派とは比べるべくもない出来映えである。摯虞は「左丘明は春秋経を明らかにせんがために『伝』を著したが、『左伝』は春秋経とは独立して世上に流通した。『釈例』は『左伝』を明らかにせんがために著されたものだが、そこで明らかにされたものは、『左伝』だけのことではなかった。だから『釈例』もまた『左伝』とは独立して世上に流通することになった」(四庫官注。「だから(故に)」の字義が不分明である。おそらく「すべきだ(当)」の誤植ではないかと思われるが、『晉書』原本がこのとおりであるので、しばらく原文に従うことにする)(*1)という。決して過賞とは言えまい。

なお『永楽大典』の佚文は。宋代に流通していた来歴ある版本を原本とする。その夫人内女帰寧例の篇末に「凡そ若干字、経伝若干字、釈例若干字」(*2)とある。当時にあって文字の校正がいかに精確であったか、これによって察知し得るであろう。例えば長暦の「文公四年十有二月壬寅、夫人風氏ず」において、杜預は「十二月庚午、朔、壬寅なし」と指摘する。ところが近刻の注疏本は〔十有二月とすべきところを〕「十有一月」に作っている。十一月は庚子が朔であり、その三日が壬寅にあたる。これでは「〔十一月に〕壬寅なし」とは言い得ない。また襄公六年の経文は、本来、「十有二月、斉侯、萊を滅す」であった。ところが近刻『左伝』は、前に「十一月、斉侯、萊を滅すは、萊、謀を恃めばなり」といい、その後に「晏弱、棠を圍む。十一月丙辰にしてこれを滅ぼす」という。しかし長暦によれば、十一月は丁丑が朔であるから、この月に丙辰はない。十二月は丁未が朔であるから、その十日後が丙辰である。杜預はこの日を十二月の下に繫け、かつ、日月に誤植があるとも指摘しない。つまり近時刊刻の『左伝』の二つの「十一月」は、いずれも「十二月」の誤植なのである。このように〔輯佚本には〕近刻本を校訂し得る部分が数えきれぬほど存在する。

春秋経は『左伝』を根本とし、『左伝』は杜預の『春秋経伝集解』を手引きとし、その『春秋経伝集解』はまた本書をもって羽翼とする。このような流れで筆削の旨を求めるならば、本書は古代を考究するための橋渡しともなり、また春秋経の本義を極めるための宝物庫ともなり得るであろう。


(*)???
(*1)『晉書』巻三十四、杜預伝。
(*2)『釈例』本文には「凡そ八百六十六字、経伝三百九十四字、釈例四百七十二字」とある。

春秋釈例

昨日からのことだが、近くのスーパーでレトルト製品が品薄になっている。昨日は偶然かさもなくば被災地に優先的に送っているのかと思っていたが、必ずしもそればかりが原因ではないのかもしれない。量販店だから普段から箱買する人もいるのだが、なんとなくそれも普段より多い気がする。いざというときの備えを普段からしておかなければならないと思ったのだろうか。でもまぁこの近辺は数年前にそこそこの地震があったはずなんだが。


春秋釈例十五巻

永楽大典本

(晉)杜預の撰

杜預の生涯は『晉書』本伝に詳しい。本書の論点をまとめるとこうなる。──春秋経の本義は『伝』にあり、『伝』の義例は「凡」にある。『左伝』の「凡」は五十、その実質は四十九である。これらはいずれも周公の垂れたもうた書法であり、史書の旧章である。仲尼はこれを拠りどころとして『春秋』を修めた。一方、『左伝』に「書(書す)」「不書(書せず)」「不言(言はず)」「不称(称はず)」「書曰(書して曰く)」とあるのは、いずれも仲尼が新たな意味を込め、大義を発明した部分であり、これを変例とよぶ。また旧史に記述のないところで仲尼の意に適合していた場合、仲尼は旧史の文面をそのまま春秋の義として利用した。さて〔『左伝』は編年体であり、記事が各所に散在している。そのため各年の記事を〕相互に比較しなければ、〔仲尼の下した〕褒貶の意図を明らかにしがたい。これを明らかにするために杜預は義例および地名、家譜、暦数を〔四十〕部の書物として別にまとめた。その体裁はまず経文と伝文の数条を列挙してその意味するところを示し、次に『伝』の「凡例」を引き、最後に杜預自身の解釈を記したもので、これを『釈例』と名づけた。『釈例』のなか、地名(*1)は『泰始郡国図』を、世族譜(*2)は劉向の『世本』を拠りどころとした。この『釈例』と『集解』とは相互に表裏の関係にある、と(*3)。

さて『晉書』によると、「杜預は孫呉を平定した後、余裕が生じたことから、『春秋経伝集解』を著した。またこれとは別に諸家の家譜を参考にして『釈例』を著し、さらには『盟会図』『春秋長暦』をも著すことで、一家の学を完成させた。これらは杜預が老年になってから出来上がったものである」という。しかし本書の土地名篇に「呉において孫氏が僭号を用いていたので、江表の地名は粗略である」とあるのによれば、本書の草稿は孫呉平定以前に完成していたはずである。それゆえにか本書に記された地名には両漢三国の郡県が多く、西晉時代のものと完全には一致しない。また『盟会図』と『長暦』は両者とも『釈例』中の一篇であり、独立した書物ではない。杜預の著書については、〔杜預自身の手になる〕春秋経伝集解序を参考にするのがよく、『晉書』の記載は実情に一致しない。そればかりか『晉書』は「杜預の文章は実直で堅苦しいというので、当時の人々に重視されず、ただ秘書監摯虞の称賛を得たにすぎなかった」ともいう。しかし嵇含の『南方草木状』には、「晉の武帝は杜預に一万枚の蜜香紙(*4)を与え、『春秋釈例』および『經傳集解』を書き写させた」と記されている(*5)。これによるならば、杜預の『春秋経伝集解』等は当時から既に重視されていたものと考えられる。すなわち『晉書』の記述は不確実なものと言わねばなるまい。

『釈例』の記録は『隋書』経籍志以後にあらわれ、それらはいずれも十五巻とする。しかるに(元)呉萊の後序にのみ「四十巻」と記されている。元代の刊本は〔十五巻本を〕分巻したものであろうか。明代以来、本書は世上から消失し、ただ『永楽大典』に三十篇と(唐)劉蕡の原序を残すのみとなった。そればかりか遺文〔三十篇〕中の六篇は釈例(*6)のみあって経文と伝文の引用がなく、その他の部分にも闕文が多い。このたびは『大典』から佚文を輯集してそれを篇ごとに並べ、さらに孔穎達『正義』および諸書引用の佚文を集め、不足分を増補し、『大典』佚文の誤謬を正した。そして原本の体裁とおぼしき全二十七篇十五巻にまとめ、呉萊の後序もあわせ付すことにした。

さて杜預の春秋経伝集解序には「『釈例』は全四十部」とあり、『崇文総目』には「全五十三例」とある。そして孔穎達の『正義』には「『釈例』は同じ事柄を「部」にまとめ、小異ある事柄はその附録としている。また特殊な経文で例と見なしがたいものは終篇に集められている。四十部の順序は、隠公即位から始まり、以下、初出の事柄の順に並んでいる。また世族譜と土地名は、例とは見なし得ないので、終篇の前に配置している。そのうち土地名は宋と衛が「垂に遇した」のが初出で、世族は「無駭卒す」が初出である。そして「無駭卒す」は「垂に遇す」の後にあるので、地名を世族譜の前に配している」という。現在、本書原本の篇順は考えるべくもないが、孔穎達の論述から推測するならば、経文に現れた事柄の先後でもって篇順を決めたものと推測される。また長暦篇は土地名と世族譜の後に配列するのであろう。なぜなら〔杜預は〕春秋経伝集解序において土地名と世族譜に論及した後、暦について論じているのだから。

(つづく)

(*1)『釈例』第四十四。
(*2)『釈例』第四十五。
(*3)以上、杜預の春秋経伝集解序の文をもじって杜預の春秋学を説明したもの。杜預の序文を知っていれば理解できるが、知らないと理解が難しい。要するに、杜預の私見によれば、孔子の作った春秋は旧史の文章に依拠したもので、その旧史の文章は周公の作った書法に依拠したものである。その書法を「凡(凡例)」という。ただ孔子は完全に旧史に依拠したのではなく、ところどころ新意を加えた。それが「変例」とよばれるものである。ただし旧史の文章の中、意図せずして孔子の変例と合致する部分は、孔子はことさらに手を加えることなく、そのまま旧史の文章を用いた。これらの凡例、変例を通じて春秋経の意味するところを理解するのが春秋学であるが、春秋経は編年体のため、凡例、変例が各年にちらばって存在し、初学者には発見しにくい。そこで杜預は凡例や変例をひとまとめにして学者の便に供そうとした。それが『釈例』である。とまあ、こういう感じのことになる。
(*4)蜜香樹の皮葉によって作ったもの。
(*5)『南方草木状』巻中の蜜香紙に見える。
(*6)『釈例』は経、伝、釈例という三部構成をとる。ここでの「釈例」は書名の『釈例』ではなく、『釈例』中の一構成要素を指す。

春秋左伝正義2

作伝の機縁については、「〔丘明は〕みずから国史を修めた」とする劉知幾の発言(*10)が最も理に適っている。疏は「『大事は策に書す』は、経に書かれたものである。『小事は簡に書す』とは、『伝』に記されたものである」という(*11)。なるほど『晉史』の記された趙盾のこと、『斉史』に載せられた崔杼のこと、さらには殖の所謂「我が名は諸侯の策にある」というその記述は、いずれも経の文体と一致している(*12)。また『墨子』によると、周の『春秋』は杜伯のことを載せ、燕の『春秋』は荘子儀のことを載せ、宋の『春秋』は𥙐観辜のことを載せ、斉の『春秋』は王里国と中里徼のことを載せるというが、その文体を検するに、いずれも『伝』と一致している(*13)。経と伝のいずれにおいても国史をもとに作られたことは、これらの証拠から明白である。そうだとすれば『伝』をなみして経を解釈にするのは、わざわざ近しいものを棄て、却ってこれを遠きに求めるに等しいおこないだと言えるだろう。

『漢書』芸文志には「春秋古経十二篇、経十一巻」とあり、その注には「公羊と穀梁の二家のもの」とある。すなわち左氏の経文は宮廷の蔵書目録になかったことになる。しかし杜預の集解序には「経の年と『伝』の年とを相附し、その主旨を比べ、各々にもとづいてこれを解釈した」とあり、陸徳明の『經典釈文』にも「もともと夫子の経と丘明の『伝』は別行していたが、杜氏が経と伝を合わせて解釈した」(*14)とある。ならば『左伝』にはおのずと経があったことになる。そこでふたたび『漢書』芸文志の書き方を調べると、さきに「古経十二篇」と記すからには、これに続けて「経十一巻」と記すのはおかしいことに気付く。また公羊と穀梁の二伝はいずれも十一巻であり、〔芸文志に載せる〕「経十一巻」に一致する。ならば「経十一巻」は公羊と穀梁の経とみなし得る。だから芸文志には「公羊と穀梁の二家のもの」と注されていたのである。さらに徐彦の『公羊伝疏』には「左氏は公羊に先だって竹帛に著された。だから漢代の学者はこれを古学といった」とある(*15)。つまり芸文志にある「古経十二篇」は左伝の経を指すのであり、それ故にこそ「古」の字が添えられたのだ。以上のことから、『漢書』を印刷したものが、もともと二条であったものを、あやまってひとまとめにしてしまったことが分かるのである。左氏の経文を二伝のそれと比較した場合、いずれも左氏が優れている。ここからも竹帛によって伝えられた本(テキスト)の方が、口授によって伝えられたものよりも正確であることが分かる。

『左伝』の注解として、孔奇と孔嘉の学説(*16)は久しき以前に佚して世に伝わらず、賈逵と服虔の学説もまた他書に断片が散見するのみであり、現存する最古の学説は杜預の注と孔穎達の疏である(*17)。杜預の注は『左伝』を重んずるあまり、強引な経書の解釈が多く、孔穎達の疏も杜預の正当性を立証せんとするあまり、劉を不当に貶めるところが多い(四庫官注──劉は『規過』を著して杜預の集解を批判した。しかし孔穎達らの疏は、劉の駁正部分をことごとく否定している)。この傾向は自己の専門を篤信しすぎたことによるものであり、当然ながら欠点の一つとしなければならない。しかし注と疏があればこそ、左氏の意味するところが明らかとなり、左氏の意味するところが明らかになってこそ、春秋二百四十年の善悪の跡もまた一つ一つ証拠だてられるのである。後代の学者はことさらに思い上がり、憶説でもって褒貶を口にする。しかし『左伝』あることにより、かえってその誤謬を指摘できるのである。つまり漢晉以後は『左伝』によって春秋の意図が明らかになり、宋元以降はこれによってさらに憶説の誤謬を指摘することにもなったのである。『左伝』と注と疏とは、ひとしく春秋に功あるものと言えるだろう。

(*10)『史通』鑑識篇の言葉。ただし『史通』本文は「躬為魯史」に作る。
(*11) 杜預の「大事書之於策、小事簡牘而已」(集解序)に対する『正義』を指すのであろうが、このままの表現では記されていない。
(*12) おのおの『左伝』宣公二年の「趙盾弑其君」、襄公二十五年の「崔杼弑其君」、同二十年の「孫林父、殖出其君」を指す。
(*13) いずれも『墨子』明鬼下所載の事柄を指す。
(*14)『経典釈文』巻十五に見える。
(*15) 経伝解詁序の疏に見える。
(*16) 『後漢書』列伝三十一の孔奇伝および孔嘉伝に各々『春秋左氏刪』および『左氏説』があったとする。なお左伝学派の系譜を論ずる場合、賈誼や劉歆から始めるのを通例とし、孔奇や孔嘉の名を持ち出すのは異例である。
(*17) 注と疏はおのおの杜預の『春秋経伝集解』と孔穎達らの『春秋正義』を指す。

春秋左伝正義1

春秋左伝正義六十巻

内府蔵本

(周)左丘明の伝、(晉)杜預の注、(唐)孔穎達の疏。

劉向、劉歆、桓譚、班固以来、『春秋伝』は左丘明の手に成り、左丘明は孔子から経を受けたとされ、魏晉に至るまでこれに異論を唱えるものはなかった。ところが唐の趙匡に至り、はじめて「左氏は丘明ではない」との異論が唱えられた(*1)。恐らく趙匡は『伝』と経とに齟齬があるというので、それを責めるべく、まずもって「『伝』の作者は孔子から経を受けていない」と批判したのだろう。これは『毛詩』を譏るべく、まず「『毛詩』は子夏より出たものでない」と批判した王柏と(*2)、その智を一にするものである。

さて宋元代には多くの学者が異論を提起した。王安石は『春秋解』一巻を著し、「左氏は丘明にあらざることの十一の証明」を述べたという。しかし本書については陳振孫の『書録解題』に「王安石の名に仮託したもの」(*3)と指摘されるばかりか、そもそも書物が現存せず、その十一の証明が何に拠るものであったのか、もはや不明とせざるを得ない。これ以外でやや根拠のありそうな異論は、朱子の「『虞は臘せず』は秦人の言葉である」という指摘(*4)と葉夢得の「『左伝』は智伯の滅亡まで記載している。ならば左氏は六国(戦国時代)の人であろう」という主張(*5)のみである。

しかし『史記』の秦本義によると、恵文君十二年に「始めて臘す」(*6)とあるが、これに対する張守節の『正義』には「秦恵文王のときになって、ようやく中国に倣って臘祭を行うようになったのだ」と指摘がある。そうだとすれば〔秦本義の「初臘」の意味は、〕中国には太古より臘祭があったが、秦は恵文王のとき始めてその祭を行うようになったの意味になり、秦が臘祭を創始したという意味ではないことになる。これについては閻若璩も『古文尚書疏證』において次のような駁論を展開している。すなわち「『史記』の記述には、秦の文公が「初めて史書に記録を残した」、秦の宣公のときに「初めて閏月を記した」とある。しかし〔この「初めて」は〕中国に無かったという意味では断じてない。秦が創始したという意味ではないのだ」とある(*7)。そうだとすれば臘祭は秦の用いたものだから〔左氏は秦人の手になる〕という主張も、根拠がなくなってしまう。

『左伝』に記された予言は百発百中である。なるほどこれらは後からつけ加えたものだろう。ただ哀公九年(*8)にある「趙氏は代々乱を免れまい」の予言のみ、それ以後に証拠を見ないことを除いて。さて、春秋経は獲麟で終わっているのに、弟子は孔子の卒まで記事を続けた。ならば『伝』が智伯の滅亡まで記事を続けたことも、後世の人間の仕業と考えるべきだろう。例えば『史記』の司馬相如伝に揚雄の言葉が載っていようとも(*9)、この一事でもって「司馬遷は後漢の人間だ」と言えぬようなものである。智伯に言及があったところで疑うに足らないことである。ここに『左伝』を左丘明の作と定め、人々の惑いを除き去るものである。


(*1) 類似の発言は陸淳『春秋集伝纂例』巻一(趙氏損益義)に見える。
(*2) 類似の発言は『詩疑』巻二(毛詩辨)、および王柏『魯斎集』中の同論文に見える。
(*3)「専ら左氏は六国時代の人であることを弁じたもので、その明証十一事をあげたもの。著名に『王安石の撰』とあるが、これは嘘である」(『書録解題』巻三、春秋解)とある。
(*4) 『朱子語類』巻八十三、春秋綱領に指摘がある。
(*5)葉夢得『春秋考』巻三に類似の指摘がある。なお「六国」は戦国の七雄から秦一国を引いた残りで、したがって六国時代は「戦国時代」に同じ。
(*6)『史記』秦本義は「初臘」に作る。
(*7)『尚書古文疏證』巻四(言泰誓有族誅之刑為誤本荀子)中の一節に見える。
(*8)定公九年の誤。
(*9)司馬相如伝の太史公曰以下に見える。


※長いので二つか三つに分ける。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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