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建炎二年から

建炎二年
二月丙寅、延康殿学士と述古殿学士がそれぞれ端明殿学士、枢密直学士にもどった。
四月己巳、京西で数万が盗賊になったとある。
五月丙戌、進士の経義詩賦兼収方が出来てる。
七月甲午、宗沢が死ぬ。嘘つき野郎が死んでくれて、高宗も助かっただろう。
十一月甲午、北京大名府が陥落。ここに来ても両河周辺の守備隊長は戦死するんだなあ。
十二月己巳、右僕射の黄濳善が左僕射に、知枢密院事の汪伯彦が右僕射に。頼もしい!

建炎三年
二月、淮南方面に女真軍がせまる。癸亥、己を罪するの詔。己巳、黄濳善らが罷免。単純だな。
三月庚辰、中書侍郎の朱勝非が右僕射に。癸未、苗傅・劉正彦の乱。隆祐太后の垂簾同聴政。なにゃかんやで翌月には鎮圧。この月に劉豫が降服してる。
四月戊申、隆祐太后を皇太后に。癸丑、朱勝非が罷免。呂頤浩にかわる。
五月、張浚が四川で軍閥化しとる。苗傅と劉正彦が捕まる。で、六月癸丑に処刑。
七月丁亥、呂頤浩と張浚が范瓊を粛清するよう打診し、壬辰に死を賜る。この辺りは難しいところだな。范瓊はなんで逃げなかったのだろうか。どう考えても粛清されそうな人間なんだが、おそらくそれは南宋中期頃の考えなんだろうな。この時期だと逃げる理由がよく分からないといったところだろう。
十月、女真軍が南下。高宗逃げ回る。

建炎四年
正月、張俊の活躍で女真軍の動きが鈍る。
二月、何となく女真軍が撤退。といいつつ戦争はつづく。
四月丙辰、呂頤浩が首になる。
五月甲辰、范宗尹が宰相に。
六月辛巳、崇寧以来~
七月丁卯、劉豫が斉の皇帝に即位。張孝純が右丞相に。張孝純は優秀だからな。
八月、しかし張浚は無能なくせに専制的な政治をするな。突然、北伐とかいわれてもなあ。数ヶ月前にはぼろぼろだったのに。厚かましい連中だな。
九月丁卯、早速敗戦。何しに北へ向かったのだろうか。
十一月甲辰、秦檜が帰国。救国の英雄がついに帰還したか。

紹興元年
二月癸未、将来宗祀明堂。皇祐にしたがい、天地合祭並びに祖宗を配す。
四月庚辰、隆祐太后が崩御。どうでもいいが張浚の記事が多い。やはり四川の人だからだろうか。誰でもやってることが、さも特筆すべきことのように記されている。愚かしいこと限りなし。
八月丁亥、参知政事の秦檜(いつのまに?)が右僕射兼知枢密院事になる。宰相が枢密院を兼ねとかいうのが前にでていた。
九月辛亥、天地合祭。その後、元符末の応詔上書人、当日奸臣朦蔽、分為三等、反号邪人。令有司求訪元籍定姓名、依元祐党人例、検挙推恩。なるほど。癸丑、呂頤浩が左僕射・平章事兼知枢密院事。

さすがに戦争の記事が多い。ただ一二の例外を除いて、局地戦が多い。

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ぼちぼち再開しよう

よし、ぼちぼち綱要のメモを続けよう。掃除をしてると時間がかかっていけない。ばっぽんてきにいろいろ整理し直した。荷物もかなり減らしたが、まだ減らしきれていない本も数多い。困ったものだ。

建炎元年
五月庚寅、改元。元祐太后を奉迎。丁酉、宣仁太后の事跡が再調査。当然のが流れではあるはな。
六月庚申、張邦昌派の罪を三等に分けるのか。蔡京と発想が同じだなあ。甲子、帝妃を公主へ。元豊路線が否定されていくなあ。
八月癸亥、李綱が失脚。はやい。

蔡京派というか、裏切り者の粛清と防戦の嵐だな。しばらくこれがつづくのだろう。

宣和六年八月から南宋開始まで

宣和六年
九月、蘇軾と黄庭堅の文章をすべて消し去れ!!だとさ。
十月、王時雍と何㮚と韓駒が蘇軾の曲学だとかいって左遷されてる。王時雍がねえ。ふうん。
この年、河北と河東で盗賊が蜂起したらしい......もちろんこの間、女真とはずっともめてる。

宣和七年
三月、傅墨卿と孫覿以下6人が元祐の曲学で処罰されてる。女真ともめてる最中にすることでもないだろうが。
九月、楊時が崇政殿説書。
十二月、女真軍が檀州を突破。己を罪するの詔を降した......皇帝退位。

靖康元年
正月、除授など祖宗の成法による。
二月壬寅、范仲淹を魏国公、司馬光を太師、張商英を太保とし、元祐党籍学術の禁を解除。辛亥、監察御史が祖宗の法によるよう進言。癸丑、陳瓘を右諫議大夫に。
四月、己未、科挙も祖宗の法によって詩賦で士を取ることに。荘子・老子・王安石の字説が禁止される。呂公著・韓維・范純仁・呂大防らが復権。
五月、王安石の王爵が剥奪され、孔子廟への配享も廃止される。
六月丁未、蔡京が徹底的に罵倒されている。
七月丁亥、宣仁皇后の謗史の改修が議論にのぼる。
十二月乙丑、元祐皇后を元祐皇太后にしている。時期的にあってるのかね?

靖康二年
二月、皇帝一家が連行された。戊子、火事があって元祐皇太后が私第に出向いた。
三月丁酉、張邦昌が大楚皇帝へ。丁巳、道君皇帝が北狩。
四月、皇帝が北狩。北宋の滅亡。

靖康二年
四月甲子、元祐皇太后を延福宮に奉迎。丙寅、張邦昌が康王に申し開き。庚午、元祐皇太后が垂簾聴政。癸未、康王が南京に到着。
五月朔、康王が南京で即位。南宋の開始。

政和から宣和

今日二つ目の記事。

政和六年
五月、蔡京の年にちなんで、鄭居中が太宰になってる。
七月、豐享豫大......これほどおろかな御筆もないな。
十一月、ああそうか、この年は官制改革があったのか。それと夏との戦いのことで妙に記事が長いのだな。

政和七年
七月、ここまで道教関係のつまらない話がたくさんあったが、読んだ瞬間忘れてしまった。ここにきて女真がついに北宋に接近したことになっている。
九月、万歳山......
十二月、観文殿学士の張商英が観文殿大学士に復してる。陳瓘も南康軍居住に移ってる。この時期になると、もはや邪等とか党人とかいう名前すら見付けにくくなってる。

重和元年(政和八年)
正月、女真が力をつけてきている。が、宋は文化事業(礼制局とか)に余念がないらしい。それと夏との戦いも連年つづいてる(という書き方がなされているし、そう思って欲しいようだ)。
二月、女真と買馬旧交。
六月、追復朝奉大夫の范祖禹が徽猷閣待制になってる。范祖禹は蜀の人だから、彼だけ事跡が分かったのだろうか。他の人の紀事は出ていないのに。王寀・劉昺が流されてる。「謗訕悖道」の中味はなんだろうか。
八月、劉安世・任伯雨・張庭堅らが一官を復され、提挙宮観になってる。
十一月、安堯臣の諫言。

宣和元年(重和二年)
正月、昨年末からの出来事として、徐處仁が失脚。裕民局の設置ねえ......徐處仁も愚かだな。
二月、宣和に改元。
三月、劉法の戦死。劉法は名将らしいから、もう少し扱われても良いような気がするな。劉法について調べてみるかな......と思ったけど、前に調べて大した紀事がなかったんだった。ぼちぼち契丹がほろびそうだ。
五月、洪水が開封府を襲う。
六月、忠君愛国の人・李綱が諫言。早速左遷される。
八月、高麗が医を求めて来国。実は女真と結んで契丹を滅ぼそうとしていることを諫言しにきたらしいとのこと。ふ~ん。細かい左遷の記事はもしかしたら政争と関係あるのかもしれないけど、知らない人が多いのでそこまで分からない。随分衰えてるな。ただ靖康年間に大抜擢されたけど無能だった人間の名前をちらちらみかけるから、やはりそれなりに派閥色のある政争なんだろうという気もする。

宣和二年
正月、蔡確が哲宗擁立に功があるといって王様になってる。やはりまだやっていたのか。?、蔡確の弟はまだ罪籍にいたのか。
二月、契丹夾撃の特使が派遣。
三月、王安石の遺文探求。まだやってたのか。
六月、蔡京の蔡と京の字を避けさせてる。そんな話もあったな。おお、蘇軾が承議郎・龍図閣待制に復してる。やっとか。
十月、契丹戦の準備がちゃくちゃくと整うなか、方臘が叛乱を起こす。
十二月、方臘の叛乱が拡大。ついに杭州が陥落する。
この年、陳瓘が楚州に移住。なんでも方臘の叛乱で流言飛語があり、陳瓘の身内が賊につかまり、好くないことを言いふらす可能性があるとのこと。もっとも卞・京の党人みなよく害するなしという表現からして、非常に怪しい記事だ。蔡卞って、いつの時代だよ。


あっちこっちで叛乱がおこってる。が、これはもっと手広く調べてみないと、多いのか少ないのか分からないし、そもそも数が同じでも質はちがうというのもあるしな。というか、こういうのは昔の研究の専売特許だったから、調べればすぐにでも詳細なデータが得られそうだな。これは調べてみよう。民衆の叛乱ばかり調べてる研究とかあったような気がする。自分とは関係ないはなしなのに、ご苦労なことだ。それとも人の痛みは自分の痛みだとでも思っているんだろうか?人格が異なると思うんだがな。

政和六年まで

政和元年
正月、鄒浩が復官。ただ陳瓘の事件はまだ問題になっているらしい。
五月、上書邪上(?)の范柔中は特別に許されないことになってる。なにを発言したのだろうか。
六月、蔡京が復帰しつつある。
八月、張商英が失脚。
九月、童貫が契丹へ使いした有名な話。李良嗣をつれて帰還。陳瓘が処罰。張商英派が粛清。
十月、郭天信の事件で張商英派が相継いで処罰される。
十一月、上書邪等の取締が厳しくなってる。
十二月、陳瓘の事件。女真族の情報が記されてる。契丹の滅亡もぼちぼちだな。

政和二年
正月、科挙にちなんでまた先烈うんぬん国是云々が登場。
二月、蔡京が致仕。といっても京師に住んでるのであまり意味ない。
四月、張商英の自便が許される。
五月、蔡京の致仕を落とし、3日に1度政事堂におもむくことに。ほんとすきだな。宦官の黄経臣が失脚してる。こんな時期だったか。
八月、元祐の制詞を焼き捨てさせてる。
九月、官名が変更される。太宰のあれ。

政和三年
正月、王安石が舒王にねえ。
二月、劉太后が崩御。南宋に入ってから罵倒されることになるし、そもそも死に方がねえ。
七月、王珪・孫固の贈官と諡および韓忠彦・曾布・安燾・李清臣・黄履の職名を進復している。ここに出てる人はみな旧法派ではないので、当たり前と言えば当たり前だが。

政和四年
八月、女真が謀反。
十一月、邪等の名前が見える。が、これは上書邪等のことではないらしい。邪等とか下品な名前がすきな時代だな。さすがは徽宗の時代だな。くさってる。

政和五年
八月、陳瓘が承事郎に復し、自便を許されてる。なんか紛争の多い年だな。

今日はここまで。政和六年は記事が多いみたいだな。北宋の寿命もあと11年くらいか。


中国史学基本典籍叢刊の十朝綱要を読んでるのだが、たまに簡体字で印字されている。単なる打ち間違いならいいのだが、もともとデータを簡体字で作って、それを繁体字に変換してるのであれば、困ったものだ。まぁわたしの場合はだいたいわかればそれでいいので、細かいことをどうこういうつもりはないが。

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Author:awatan
HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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