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『春秋学入門』附-4

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

泉州府志所伝

呂大奎、字は圭叔、同安の人。若くして陳北渓の門人の王昭に学び、すっかり詞章の学を棄て、理学(*1)にのみ力を注いだ。淳祐七年の進士に合格し、昇進を重ねて吏部侍郎になった。地方に出て興化軍知事になり、漳州知事に移った。赴任のため家を過ぎったとき、蒲壽庚が元に降伏し、大圭を脅迫して降伏書に署名するよう強要した。拒否したため、殺された。その著書は全て賊に焼き捨てられた。ただ『学易管見』『春秋或問』『易経集解』のみ世に伝わった。

万暦重修『泉州府志』巻十七

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『春秋学入門』附-3

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○最終更新日:2009/11/01

侍郎呂樸郷先生大圭

呂大圭、字は圭叔、南安の人。若くして郷里の先生の潜軒王昭に学んだ。昭の師は陳北溪安卿であり、安卿は朱文公(*1)に師事した。世々温陵截派と言われた。

大圭は出仕する前、生徒数百人に学問を授けていた。淳祐七年の進士に合格し、潮州教授を授けられた。簡討(*2)に遷り、崇政殿説書、吏部侍郎になった。南方の方言ができるというので、地方に出て興化軍知事になった。中産以下の税金滞納を肩代わりした。『莆陽拙政録』を著した。

徳祐の初年、知漳州軍節制左翼屯戌軍馬に移った。任地に赴く前、たまたま蒲壽庚が州知事の田子真とともに元に降伏した。壽庚は大圭を捕らえ、降伏書に署名するよう強要した。大圭が拒否したので、殺そうとした。たまたま管軍総管の中に弟子がおり、圭叔を抱えて脱出した。大圭は家に着くと、日頃認めていた著書を泥封した一室にしまい、服を変えて海島に逃げた。壽庚は兵を遣わして追跡し、官を餌に投降を誘った。大圭はこれを拒否したため、殺された。享年四十九。部屋に泥封しておいた書物は、賊のために全て焼き捨てられた。ただ門人が伝えた『易経集解』、『春秋或問』二十巻、『春秋五論』一巻、『論語孟子集解』、『学易管見』だけは世に残った。

大圭は樸兜に住んでいたので、地元の人々は樸郷先生と呼んでいた。元の孔公俊が大同書院を建て、朱文公を祀ったとき、大圭をその門人として配享した。丘葵の賛(*3)に曰く、「泉南の名賢、紫陽の高弟、造詣すでに深く、踐履また至り、身を致して君に仕え、生を捨て義を取る。学ぶところ守るところ、公に於いて奚にか愧ずるところあらん。」

按語。黄氏の『道南統緒辨正』には「呂氏大圭は祐間の進士、歴官して侍郎となり、出でて興化軍となった」とある。『南安邑志』『旧郡志』『同安志』『莆陽志』も同じである。ただ『新郡志』だけは『閩書』に基づき、少しく異なっている。この度は黄氏の本に従って改正した。『南安邑志』、『旧郡志』、『道南統緒』、朱氏『経義考』、『閩書』、『泉郡新志藁』。(*4)

李清馥『閩中理学淵源考』巻三十三

〔訳者注〕
(*1)朱文公は朱熹を指す。
(*2)簡討は検討に同じ。ここでは実録検討官を指す。
(*3)丘葵は呂大圭の弟子、賛は文体の一種。
(*4)『南安邑志』以下は、李清馥が本記事を執筆するのに用いた資料を列挙したもの。

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『春秋学入門』附-2

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春秋五論序

『春秋論』五篇全一巻。一に曰く、夫子の春秋を作るを論ず。二に曰く、日月褒貶の例を弁ず。三に曰く、特筆。四に曰く、三伝の長短を論ず。五に曰く、世変(*1)。宋の吏部侍郎・興化軍知事(*2)、武栄の呂大圭圭叔の著したものである。『五論』は文藻豊富にして厳正、春秋の大旨は本書に完備している。

圭叔は淳祐七年(*3)の進士。まず潮州教授を授けられ、のち贛州提挙司幹官に改められた。任期満了で袁州・福州の通判に遷り、朝散大夫に昇格。行尚書吏部員外郎、兼国子編修・実録検討官(*4)、兼崇政殿説書を経由した後、地方に出て興化軍の知事になった。同地では、いつも中下層民の税金滞納を肩代わりしていた。

徳祐の初年、知漳州軍節制左翼屯戌軍馬に移った。任地に赴く前、たまたま元の兵が到着した。沿海都制置の蒲壽庚は州を挙げて投降し、圭叔にも降伏の署名を求めた。圭叔が拒否すると、殺そうとした。たまたま管軍総管の中に圭叔の弟子がおり、圭叔を抱えて脱出した。圭叔は服を変えて海島に逃げたが、壽庚は官職を餌に投降を誘い、〔人を遣って圭叔を〕追跡させた。〔壽庚の使者が〕姓名を尋ねても返答しなかったので、圭叔は殺された。これ以前、圭叔は著書を一室に隠していたが、このとき焼き捨てられた。『五論』と『読易管見』『論語孟子解』(*5)は、学者の間に広まっていたため、幸いにも世に残った。しかし惜しむらく、『管見』などの書物は既に散佚し、現存するのはわずかに本書のみである。

圭叔は若くから学問を好み、郷里の先生である潜軒王昭に師事した。昭は北溪陳淳の弟子であり、淳は学問を晦菴(*6)に受け、その高弟と称された。その来歴から、人は彼らを温陵截派と言った。ああ、当時にあって道学を批判した人々は、いつも道学を迂闊無用の学だと非難した。しかし宋の社稷が滅亡せんとするとき、人は争って北に向かったが(*7)、圭叔のみは姑息な投降を求めず、甘んじて海島に遁れ、己の命を捨てることさえ憚らなかった。まことに大節凛然と言わねばならぬ。ここに鑑みれば、道学が人に背き国に叛かぬこと明白である。なんと感嘆すべきことではないか。武栄は現在の泉郡南安県に当たる。唐の嗣聖年間(*8)、県を武栄州に改めたことがあったので、こう言うのである。圭叔は県の樸兜郷大豊山の麓に住んでいた。そこで学者は圭叔を樸郷先生と言った。

康熙丁巳の年(*9)、納蘭性徳容若が序文を識す。

〔訳者注〕
(*1)『通志堂経解』本文に徴する限り、四と五は順番が逆である。以下、納蘭性徳は現存資料を持ち寄り呂大圭の伝記を巧みに組み立てているが、意味不鮮明の箇所も少なくない。伝記資料としては附録3の『閩中理學淵源考』所伝の方が正確である。
(*2)曖昧な記述だが、他の資料に徴する限り、呂大圭が吏部侍郎と興化軍知事を兼任したことはない。
(*3)西暦1247年。
(*4)原文は「兼国子編修・実録検討官」。恐らく「国史編修官・実録検討官」のことと思われるが、国子監関係の部署につき、さらに国史編修官・実録検討官(もしくは国史編修官になり、さらに実録検討官)になった可能性もある。
(*5)正確には『読易管見』『春秋或問』『春秋五論』『論語孟子解』であるが、『閩中理学淵源考』巻三十三はこれに『易経集解』七巻を加える。『読易管見』については『経義考』巻三十八所引胡一桂の評に大綱が説明され、『易経集解』の名は『閩書』呂大圭伝にも見える。
(*6)晦庵は朱熹の号。
(*7)元(モンゴル)に帰順したという意味。
(*8)武則天の聖暦二年(西暦699年)を指す。『旧唐書』地理志(泉州中)に「聖暦二年、分泉州之南安・莆田・龍溪三県、置武栄州(聖暦二年、泉州の南安・莆田・龍溪三県を分け、武栄州を置く)」とある。
(*9)康熙十六年(西暦1677年)。

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『春秋学入門』附-1

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春秋或問跋

春秋を伝えるものは幾百家、それらの学説のほとんどは褒貶賞罰(*1)を主としたものである。三伝がこれを提唱して以来、多くの学者が賛同したからであろう。しかし朱文公(*2)だけはそう考えなかった。今でも門人の記録によって、その概略を窺い知ることはできるが、残念なことに、まとまった書物にはならなかった。

潮州学官の呂先生(*3)は同地の生徒に学恩を垂れられたが、そのとき春秋について質問するものがいた。先生は『五論』を示されたが、聞き知らぬ学説とて、みな驚愕するばかりだった。そこで成説を尋ねたところ、先生はまた『集伝』『或問』の二書を出された。それらは文公の説に基づきつつ、さらに発展させたものだった。『五論』によって端緒を開き、『集説』(*4)によって議論を尽くし、さらに『或問』によって難点の解明に務めたもので、こうして春秋の旨は明白になったのである。ああ、孔先生の心は文公によって明らかとなり、文公の論は先生によって完備した。ならば先生もまた世教に功あるものである。

夢申は先生に教示を受けたものである。あえて本書を秘蔵することなく、朋友と相談の上、出版することにした。本書が広く読まれることを願う次第である。時に宝祐甲寅の正陽の月(*5)、門人元公書院堂長の何夢申が敬しんで跋文を書す。

〔訳者注〕
(*1)褒貶賞罰説については第一論文を参照。
(*2)朱熹のこと。朱熹の春秋学説は『朱子文集』『朱子語類』に散見するが専著はない。
(*3)呂大圭を指す。呂大圭は科挙合格後すぐに潮州の学官(教授)になった。
(*4)すぐ上の『集伝』を指すと思われるが、あまりに露骨な誤植なので、別著の可能性も否定できない。
(*5)宝祐二年(西暦1254年)四月のこと。

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『春秋学入門』5-4

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第五論文

(つづき)

〔何休と范の得失〕

公羊の過失については、既にその一二〔校3〕を挙げた。しかし何休の過失はさらに甚だしい。「元年春王正月」(隠1)に対して、公羊伝は「君主の始年である」と言うに過ぎない。ところが何休は「春秋は新王の受命を魯に託した」(*29)と言う。滕侯の卒に「名」〔校4〕を書かないことに対して(隠7)、公羊は「滕は微国だから、侯と書いても紛れない」と言うに過ぎない。ところが何休は「春秋は魯を王とし、隠公を始め〔て命を受けた王〕と見なした」と言う。そもそも「周を退け、魯を王とする」学説(*30)は、公羊に明文がない。ところが何休はこれを主張している。聖人を誣告すること実に甚だしいと言わねばならない。

公羊は「母弟を弟と称し、母兄を兄と称す」(*31)と言う。これは既に間違っている。しかし何休はさらにこう言うのである。――「春秋は、周の文を変じ、商の質に従った。質家は親に親しむ。だから群公子よりも一等親しむべきことを明らかにしたのである」(*32)と。後世、同母弟に親しみ、父の子孫を冷遇した者は、いつもこの言葉を拠り所とした。公羊は「嫡子〔校5〕を〔後継ぎに〕立てる場合、年長を選び、賢き者を選ばない。庶子を立てる場合、身分の貴きを選び、年長を選ばない」(*33)と言う。この言葉は確かに根拠がある。ところが何休はこう言うのである。――「嫡子が孫を遺して死んだ場合、質家は親に親しむから、先に弟を後継ぎとする。文家は尊を尊ぶから、先に孫を後継ぎとする」(*34)と。後世、質家と文家の異同に惑い、嫡庶の騒動を引き起こした者は、いつもこの言葉を拠り所とした。

これ以外にも、「〔公 〕戎と〔潜に〕会す」(隠2)の経文を解釈しては、「王者は夷狄を治めない。しかるに『戎』を経文に記すのは、来るものは拒まず、去るものは追わぬからだ」と言う。春秋が作られたのは、もとより夷狄と中華の区分を正すためである。それなのに「夷狄を治めない」などと言ってよいのだろうか。「天王 〔宰咺をして〕来たりて〔恵公仲子の〕賵を帰らしむ」(隠1)を解釈しては、「王者はその土地によって諸侯に職を分かち、ともに南面して統治に当たる。全くの臣下として遇しない」と言う。春秋が作られたのは、もとより君臣の分を正すためである。それなのに「全くの臣下として遇しない」などと言ってよいのだろうか。

「隠公三年〔校6〕、春、二月、己巳、日に之を食する有り」に対して、公羊は「異を記した」と発言するに過ぎない。ところが何休は「〔この異を記したのは、〕これ以後、衛の州吁は君主を弑し、諸侯ははじめて〔諸公の〕まねごとをしだしたからだ」(*35)と言う。桓公元年の「秋、大水あり」に対して、公羊は「災を記した」というに過ぎない。ところが何休は「〔災を記したのは、〕これ以前、桓公は隠公の位を簒奪し、勝手に〔鄭と〕朝宿の地を交換した(*36)。その陰気と怨気(*37)が〔この大水を〕招いたのだ」と言う。その他、地震・山崩・星電・雨雪・螽・螟・彗孛 (*38)などに対しても、執拗に天変の原因を追及し、人事と災異の対応(*39)を証明しようとする。もし一致を見い出せないようなら、強弁して止まない。春秋はもともと災異の対応を記さない。ましてやこれほど煩瑣滅裂なことがあろうか。この種の発言はすこぶる多いが、すべて何休の妄作である。

愚見によれば、〔杜預・何休・范〕三子の解釈の中、范のみやや過失が少ない。彼は穀梁の穏当を欠く部分に対して、「私には分からない」と言っている。恐らく穀梁の過ちを批判してのことであろう。しかし何休は曲説をなし、公羊の過誤を増大させている。だから「范は穀梁の忠臣だが、何休は公羊の罪人だ」と言うのである。

〔訳者注〕
(*29)魯を命を受けた新王と見なした、と言う意味。
(*30)孔子は春秋経を作ったとき、経文上では魯を受命の王とみなし、従来の王である周を退けた、という学説。公羊学特有の論理で、その他の春秋学者は否定している。
(*31)隠公7年の公羊経文「齊侯使其弟年來聘」に対する公羊伝に見える。母弟・母兄は同母弟・同母兄の意。
(*32)同上の何休注に見える。商は王朝の名。周の前の王朝。質家は内実を重視する人々。質家は内実を重視するから親族を重んずる。
(*33)隠公元年の公羊伝に見える。「後継ぎを決める場合、正妻の子供は年齢順で選び、人物の優劣で選ばない。妾の子の場合は、身分で選び、年齢で選ばない」の意。
(*34)文家は形式を重視する人々。文家は形式を重視するから、君の系統を重んずる。
(*35)衛の州吁は隠公4年の経文に見える。「諸公のまねごと」は、隠公五年「初献六羽」の公羊伝に拠る。
(*36)桓公元年の「鄭伯以璧假許田」を指す。公羊伝は「許田」を魯の朝宿の地(周王に謁見するために宿る土地)と解釈する。
(*37)何休の「陰逆而與怨氣并之所致」をふまえた発言。公羊疏は「『陰逆』は勝手に朝宿の地を交換したことを指し、『怨気』は〔隠公が弑されたことに対する〕民の悲痛の心を指す」と解釈する。
(*38)地震は「九月癸酉、地震」(文公9年)、「五月甲子、地震」(襄公16年)、「己卯、地震」(昭公19年)、「八月乙未、地震」(昭公23年)を指す。山崩は成公5年の「梁山崩」を指す。雨雪は「庚辰、大雨雪」(隠公9年)、「冬十月、雨雪」(桓公8年)、「春王正月、大雨雪」(昭公4年)を指す。彗孛は「有星孛入于北斗」(成公14年)、「有星孛于大辰」(昭公17年)、「有星孛于東方」(哀公13年)を指す。螽、螟は諸所に見られる。星電は「三月癸酉、大雨、震電」、もしくはこれに加えて「夏四月辛卯、夜、恆星不見、夜中星霣如雨」(荘公7年)を指すのであろう。
(*39)「人事と災異の対応」は、人事に天が応じて災異を降すという天人相関説を述べたもの。人事に災異が応ずる以上、災異に対応する人事も求められるはずである。だから何休は災異があれば、その災異の原因を人事の中に求めたのである。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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