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春秋関係

先月の頭にはじめた春秋會義の佚文収集がのんびりとつづいている。まさかつづくと思っていなかったので自分でも少々意外の感がある。もちろん帰宅が遅いときは作業しないで寝るので毎日やっていたわけではないし、途中で風邪とか引いたのでその分は進んでいないしで、大した分量はあつまっていないのだが、継続しているということに驚きを感じる。

そういえば春秋権衡の巻三は計算違いをしていた。まだ全然終わってないな。まぁ今年中に終われればいいだろう。

しかし歴史書は訳しにくいな。孫引きに孫引きを重ねているから、少しずつおかしくなっているのだろう。雑に訳さないとなにがなんだか分からなくなる。もしかしたら漢書とかは違うのかもしれないけど。漢書は訳そうと思ったことがないから分からん。もうすこしいろいろ書く予定だったけど、書くほどの内容もなかった。仕方ないので今日はこれでおわろう。

最近は微妙に返り点本も良いような気がしてきた。でも書き下しだけで原文のないものは役に立たないと思う。書き下しというか読み下しは原文あってのものか、あるいは原文を暗記していてのものだと思うのだが、どうなんだろうな。

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資料収集

春だからか少し春秋のことでも調べようかという気持ちになり、ここ数日の間、唐代の春秋について基本的な資料の確認を進めてみた。それなりに発見もあり、資料を見てかつて記憶していたことを思い出すこともあり、思い出せなくなった過去の記憶もあり、しばし時間を忘れることができた。

が、やはり冷静になると、こういうことはいくら調べても意味のないことだから、もうやめにしてスキルアップでもはかるべきではないかという気持ちの方が強くなる。

春秋権衡や東都事略を訳すのにもそれなりの時間はかかるが、あくまでも趣味のことだし、探求ではないので、まだいいが、研究っぽいことを始めるときりもないし、得られるものはなにもないしで、やればやるほど苦しくなってくる。

もっとも飽きやすいのも私の特徴だから、いずれ仕事が忙しくなれば、調べている時間的な余裕もなくなり、自然ともとにもどるのだろう。まぁ途中で止めてもなにか発見はあるだろうから、そういうのがあれば、細切れにしてここに書くことにしよう。もちろん一番大事な発見があれば、ここに書かないことはいうまでもないが。


かなめもの最新刊?をようやく入手した。相変わらずそういう方向の話が好きなんですね。本巻最終話。

その他にもここ2ヶ月で四コマやら春秋関係の本やらを購入したけど、いろいろあって忘れてしまった。

ネットの海を漂っていたところ、大学の授業で漢文の学参(受験用の参考書)を使っているところがあるらしい。意味が分からない。これは学力のレベルや大学のレベル云々のことではなく、分からない漢字が出てくれば辞典を引くべきなのであって、学参を開いてどうするんだ。趣味人がやむを得ず使うなら話は分かるが、なにがしたいのか理解に苦しむ。

あと1丁

今日は休暇を利用して一日中春秋権衡の訳にいそしんだ。というわけでもないが、二時頃から夕食を除いて十時半までやっていたので、それなりに時間を費やしたはずだ。おかげさまであと一丁くらいで巻二が終わることになった。あすも継続できれば、なんとか終われるだろう。

もっとも礼制にかかわる部分が二カ所ほど不明のままになっている。そのほかへんてこりんな訳もたくさんあるだろうから、いちど訳し終われば、言葉遣いを統一し(杜預と杜氏と杜とを区別するとか)、注をつけ直し、補注を増補し、最後に礼制のいやなところに着手することになるだろう。

とりあえず目が痛くなったので今日はこれで終わり。

ひさしぶりの権衡

久しぶりに劉敞の『春秋権衡』を訳したら、あまりに久しぶりすぎて頭がまわらなかった。結局、5時間ちかくかけて、1丁程度しか進まなかった。劉敞の議論は礼の話が多いから、いちいちその根拠を調べるのに手間取ったというに過ぎないのだけども。いずれにせよ頭が回転してくれなかったことはたしかだ。

しかし劉敞の礼説は典拠があるのか類推なのか分かりにくい。劉敞のみならず当時の礼説というのは、我々が考えているような文献的根拠をもとに論ずるものではなく、もっと別の手法から導き出されたものだけに、その根拠をつきつめるのは労力がかかる。ときに根拠を導き出すための片鱗すら残っていない場合があって大いに困る。

いずれにせよ巻2はあと4丁半になった。明日は出勤だが月曜日は休みなので、三連休の間にもう少し進めたい。巻2で隠公と桓公が終わりだから、キリとしては悪くあるまい。それに巻7の左伝総論を足せば、ほぼ『春秋権衡』の左伝の部の概要は分かるはずだ。できればこれに公羊伝の総論をおこなった巻8を載せることができればいいのだが。

先月の末に巻1の訳文の点検を行ったところ、まずいところが山のように見つかった。単純に文章(訳文づくり)が下手だとか、原文の文意を正確に捉えられていないとか、いろいろあるにはあるのだが、それとは別に強いて漢語を別の表現に置き換えようとして逆にこてこてした日本語になっているところが多い。やはり私意が入ると宜しくないと見える。

権衡と属辞とどっちがいいか

いろいろあって春秋権衡ではなく春秋属辞の方が適切ではないかと思えるようになってきた。春秋権衡はもちろんおもしろいほんだが、あれは基本的な解法を説明することなく、断定的に自分の意見を書いているだけだから、春秋学の基本的な解法手順を知らない人が読むと意味がわからない。一方の春秋属辞もきわめて専門的な本ではあるが、こちらは基本的なところから論証?を進めているので、なんとなく春秋学の研究方法が分かる。

春秋属辞は春秋権衡とは比べものにならないほど大部の書物で、春秋権衡と同じくらいややこしい内容だから、その全てを説明するのは難しい。が、春秋学はこういう学問ですよというのを説明するには適切のような気がする。呂大圭の春秋学はあくまでも春秋学がめざすところを論理的に抽象的に論じたもので、それはそれとして価値はあるが、具体的な手順が簡略に書かれて過ぎていて分かりにくい。その点、春秋属辞はどこまでも具体的でわかりやすい。

迷うことが多いが、迷う時間もない。


そうそう世の中には春秋三伝を基礎にした「春秋学」学に価値がある、つまりようやく春秋三伝を基礎にした研究にまで「進んできた」のだから、そういう研究をすべきだという議論があるらしい。春秋学のような、あるいは春秋三伝のような、本質的にまちがった研究をもってきて「進んできた」とは滑稽なはなしだ。春秋学にもともと進むべきものなどなく、あるのはただ経文だけだ。歴史的に思想を解析するのはもっとも無意味だといえる。

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HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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