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穀梁古義疏

tuini kokuryoukogiso ga hatubaisareta. masaka hatubaisarerutoha omowanakatta. bikkurisita. sorenisitemo sadentoka hokanimo sakini dasumono ha attato omounodaga, naze korewo dasu kini nattanodarou. mottomo kokuryoukogiso ga koutenseiridekiteitakoto ha kanarimaekara kiiteita. dakara genkouzitai ha kanarimaeni dekiteita to omou. sorega youyaku hinomewo mirukotoni natta to iukotodarou.

dodemoiiga, kuuhaku ha doko de iretara iinodarou.wakaran.

穀梁古義疏

面倒くさいので止め。

阿部吉雄氏に『漢文の研究』というのがあったらしい。最近入手して読んでみたところ、実にふつうの受験参考書だった。

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近況

尚書孔伝参正は近日入荷らしい。

儀礼注疏、ようやく巻1が終わった。そういえば胡培翬の儀禮正義は校点本が出ているはずだけど、あれはどんなできなんだろう。考えたら見たことなかった。

もう一つ、穀梁補注の中華書局のやつ、あれは結構誤読が多いのだけど、さっき書虫で見たら新装版になっているらしいことを知った。校点ミスも直しているのだろうか?

隠公の摂政

左伝によると魯の隠公は摂政だったらしいが、摂政とは何だろうか。

唐代には攝冢宰というのがあるらしい(『通鑑』唐紀六十四の以李徳裕攝冢宰など)。が、これは:

子張曰:「書云『高宗諒陰,三年不言』,何謂也。」子曰:「何必高宗。古之人皆然。君薨,百官總己以聽於冢宰三年。」(『論語』憲問)


をふまえてのものだろうから、隠公のように、「桓公の代わりに君主となった」的な意味でつかわれる摂政とは違う。

で、まず経書関係から用例を集めると:

(1)仲尼曰:「昔者周公攝政,踐阼而治,抗世子法於伯禽,所以善成王也。(禮記 文王世子)
(2)繆公曰:「先君之不爾逐可知矣,吾立乎此攝也。」(公羊傳 隱公三年)
(3)元年,春,王周正月,不書即位,攝也。(『左氏伝』隠公元年)
(4)孟子曰:「否,此非君子之言,齊東野人之語也。堯老而舜攝也。云々」(『孟子』萬章上、咸丘蒙問云々条)


ということで、経書の用例はないわけだが、準経書に四例ほどみつかる。この中、(3)は問題の箇所なので省くとして、実質三例。(1)は周公摂政についてよく引かれる文王世子の言葉。重要なので関係箇所の全文を引くと:

仲尼曰:「昔者周公攝政,踐阼而治,抗世子法於伯禽,所以善成王也。聞之曰:為人臣者,殺其身有益於君則為之,況於其身以善其君乎。周公優為之。」是故知為人子,然後可以為人父。知為人臣,然後可以為人君。知事人,然後能使人。成王幼,不能蒞阼,以為世子,則無為也,是故抗世子法於伯禽,使之與成王居,欲令成王之知父子君臣長幼之義也。


細かい解釈は除くとして、微妙な発言ではあるが、いちおう成王は王様で、周公は摂政という位置づけで、下にみる『荀子』のような解釈はしないのを通例とするらしい。なんとなく我が平安時代の摂政に似ている。

次ぎに(4)。これは下の『史記』に見える堯舜のこと。伝説のとおりであれば、これは問題あるまい。

ややこしいのは(2)で、簡単に説明すると、宋の宣公は、実子をさしおいて、弟の穆公に位を譲った。穆公は何を勘違いしたのか、「宣公は本当は実子を国君にしたかったが、諸般の事情で私(穆公)に位を譲った」と考えたらしく、そこで「私(穆公)が国君になっているのは『摂』なのだ」とのたまい、結局、穆公は実子を国外に追放し、宣公の子に国君の地位を譲ったらしい。ただし穆公は「摂政」を自任していたとはいえ、宋の君主であったことにかわりなく、また対外的にも宋の君主とみられていた。まあ、結果的に宣公の子は穆公の子に殺されるので、穆公は余計なことをしたとしか言いようがないのだが、それはともかく、この話は隠公と桓公の話に非常に近い。ただし出典は『公羊伝』であって、『左氏伝』ではない。

以上で準経書はおわり、もう少し用例をふやすべく、諸子も「検索」してみる。

(1)天子也者,不可以少當也,不可以假攝為也。能則天下歸之,不能則天下去之,是以周公屏成王而及武王以屬天下,惡天下之離周也。成王冠,成人,周公歸周,反籍焉,明不滅主之義也。(『荀子』儒效)
(2)孔子為魯攝相,朝七日而誅少正卯。(『荀子』宥坐)
(3)孔丘攝魯相,七日而誅少正卯。(『尹文子』孔丘攝魯相条)
(4)武王既終,成王幼弱,周公攝天子之政,邵公不悦,四國流言,居東三年,誅兄放弟,僅免其身,戚戚然以至於死。(『列子』楊朱)


この中、(2)と(3)は君主のこととは違うが、孔丘さんの話というので入れてみた。要するに「相」のことを「とった」という意味で、孔丘先生は権力を握るやいなや政敵をチュン!と殺っちまったというはなし。

それはともかく、(1)は非常に問題の箇所で、『荀子』のこの箇所の謂では、武王が崩じた後、その子供はまだ幼なく、とても天下を収められないというので、姫旦様みずから王の位に即いて政務を執り、成王が聖人してから王の位を退いた、というような感じになる。

(4)は一般的に語られる周公の摂政(攝天子之政)。武王が崩じた後、成王がまだ幼いというので、周公がかわりに政務を執ったということ。けど、こともあろうに兄弟と周王朝建国の功臣・召公に疑われたという、周公にはどんだけ徳がないんだ、というはなし。それはともかく、この場合の摂政も平安時代の摂政に似ている。

諸子を検索したので、ついでに『史記』も調べておく。これは司馬遷が勝手に書いたものだからあまり信用できないが、戦国以前のことが載っているので、調べても損はあるまい。

(1)於是帝堯老,命舜攝行天子之政,以觀天命。(『史記』五帝本紀、帝堯)
(2)舜年二十以孝聞,年三十堯舉之,年五十攝行天子事,年五十八堯崩,年六十一代堯踐帝位。(『史記』五帝本紀、帝舜。注:索隱謂告天使之攝位也)
(3)帝太甲既立三年,不明,暴虐,不遵湯法,亂,於是伊尹放之於桐宮。三年,伊尹攝行政當國,以朝諸侯。(『史記』殷本紀)
(4)成王少,周初定天下,周公恐諸侯畔周,公乃攝行政當國。(『史記』周本紀)
(5)二十五年,王壽夢卒。壽夢有子四人,長曰諸樊,次曰餘祭,次曰餘眛,次曰季札。季札賢,而壽夢欲立之,季札讓不可,於是乃立長子諸樊,攝行事當國。(『史記』呉太伯世家)
(6)四十六年,惠公卒,長庶子息攝當國,行君事,是為隱公。(『史記』魯周公世家)
其在成王時,召王為三公,自陝以西,召公主之,自陝以東,周公主之。成王既幼,周公攝政,當國踐祚,召公疑之,作君奭。(『史記』燕召公世家)
(7)召公、周公二相行政,號曰共和(『史記』周本紀)注「索隱……共,國。伯,爵。和,其名。干,簒也。言共伯攝王政,故云『干王位』也。」


(1)には類似の記事が多くある。(2)も同じ。いずれも既出。(4)も既出。(6)は問題の箇所なので省略。

(3)は書序とだぶる話で、商の太甲は君主になったばかりのころ、あほんだらだったので、宰相の伊尹は太甲を追放して自分が政権を握ったという話し。この場合の摂政は微妙で、幼主にかわって政務を執ったのでもなく、かといって王様がいないでもない(追放されても太甲は生きていた)。どちらかというと王莽の居摂に似ている。

(5)これは宋の宣公と穆公に似ている。呉王の壽夢には四人の子供がいた。で、王様としては最も賢い四男の季札に位を譲りたかったが、季札は賢いので、兄を無視して国君にはなれませんぜ、と断った。で、しかたなく長男の諸樊に位を譲った。しかし諸樊は父の願いをかなえたいので、「おれは(季札のための)摂政だぜ」みたいなことをいったということになる。ただしこちらも宋の穆公と同じで、ちゃんと呉の君主になっている。

(7)は有名な共和の出典。西周の後半、王朝が混乱したとき、王様がいなくなったので、周公と召公(周公旦と召公奭のことではない)が政務を執ったといわれているが、一説には、共伯和という人が政権を壟断したともいわれている。その共伯和の政治のことを、索隱は「共伯攝王政」と表現している。これは索隱の便宜的な表現にすぎないけれども、王様不在の摂政ということになる。

その他:

(1)許弘仁馳告之曰:「天子已崩,宇文將軍攝政,闔朝文武咸集,天道人事自有代終,何預於叔而低回若此。(『通鑑』唐紀一、武徳元年)
(2)太后(則天武后)問其状。對曰:「〔張〕説嘗謂元忠為伊、周,伊尹放太甲,周公攝王位,非欲反而何。」(『通鑑』唐紀二十三)


というのがある。

日本で摂政というと、ふつうは天皇が政務を行い得ないとき、皇族から天皇の政務を代行する人間が立ち、それを摂政とよぶことになっている。近いところでは大正末期に昭和天皇(後の)が摂政となった例がある。大昔だと平安時代に天皇が幼少のおり、外戚の藤原氏が摂政となって政務を代行したこと、さらに昔であれば、推古天皇のときに聖徳太子が摂政になったとかならないとかいう話がある。推古天皇は女帝だから中継ぎという意味があり、其の意味では幼少の天皇と類似の環境にあったのかもしれないが、学説が錯綜としているし、そもそも現存の資料をどこまで信用していいか分からないので、まあいいだろう。それに国も違うし。

さて本題。摂政とは何か。あるいは隠公の摂政とは何か。

ひろく解釈すると、摂政とは、本来君主となるべきでない人間が、何らかの事情で君主の行うべき政務を代行していることを指すと見える。ただこれには二種類あるらしく、一つは君主が即位しているにも関わらず、幼少のためみずから政務をとることができぬ故に、代行者が摂政となって政務を執るという場合。もう一つは、ある人間がなんらかの事情で君主の位を践み、実質的に政務を執っているが、その人は正式には君主となるべき人ではなく、君主となるべき人を後継者に指名しなければならないことになっている、あるいは指名することが要求されている場合。

特殊なものとして、君主を追放して自分が政務を執るというのもあるようだが、これは伊尹と王莽に特有のものという気もしないではない。竹書紀年によると伊尹は勢力を盛り返した太甲に粛清され(その子供が宰相になったらしい)、聖人君子の政治を行った王莽はみじめな最期を遂げたので、彼等のようなことをすると正式な君主はもとより、人々の反感をかって嫌な死に方をすることになるらしい。なお『荀子』の周公は君主そのものになったらしいので、摂政とはよべない。

ということで、上の話が間違いなければ、隠公は二種類目の摂政だったのだろう。ただこれって外からみれば普通の君主と同じなので、「摂」の字をつかうメリットがあまりない気もする。というか、摂政のつもりが治世30年とかになったら、正統後継者の方が先に死ぬんじゃないかね。ああそうか、その場合は譲位するのか。でも劉敞によると、摂政は譲位できないらしい。なぜなら摂政は君主の位にいるべき人でなく、したがって君主の位の保持者ではないので、自分のものでない君主の位を譲ることはできないから。

ああ、そうそう、隠公が摂政だというのは、左氏伝の所説であって、公羊伝と穀梁伝は違うよ。だからもし公羊伝か穀梁伝の所説が正しいのであれば、隠公は摂政ではなく正統後継者だから、上にあれこれ書いたのは全くのどーでもいい話になる。


どうでもいいけどATOKは正統後継者もまともに変換できんのか。政党後継者ってなんだ。もう一つどうでもいいけど、神武天皇の即位って案外おそいのね。周の恵王って、つい最近の人じゃないか。日本は神話の時代をつかっても中国の歴史に及ばんのか。


およばんのか→雄四番の下(ATOK)


追記:

もう少し資料の質を加味して(ATOK→資料の質を紙して)、摂政の内実を分析することはできる。例えば周公以前の摂政は日本の平安時代の摂政に似ているが、伝説と史実の狭間の話であり、どこまで史実であるか疑問が残る。逆にあるていど資料的に信頼できる春秋以降の資料による限り、正統後継者以外のものが君主の位につき、正統後継者に君主の位をわたすことが期待されている人と考えられる。あるいはこれをもっと積極的に表現するなら、君主権(ATOK→君主剣)の代行者というよりは、中継君主のようなものと見なせる。

が、わずか十数例でそんなことは分からない。そもそも摂政に統一的な定義があったかどうかすら不明だ。各国でばらばらだった君主交代劇を、後の時代の人が「摂政」という都合のいい表現で括っただけかもしれない。無理に解釈してみせる必要はない。なにせ歴史なんてものは分からなくても何の害もないのだ。分からなくて結構、間違っていて結構。

孔継涵の跋文

孔繼涵(1739-1783)、字は體生(一に孟)、号は葒谷、孔子の末裔で孔廣森の叔。清代中頃の学者で、経学・天文・地理・算術に長け、戴震と切磋琢磨した仲という。ただ独自性を出す学者ではなかったらしく、貴重な書物を発見してはそれを校勘し世に送り出すばかりで、自身の著述は跋文を除いてあまりない。

この人はまれに永楽大典の輯佚書に跋文を附している。戴震や楊昌霖が四庫全書編纂のために永楽大典から抄出した草稿を借りていたらしい。その輯佚書の一つ春秋会義も孔繼涵の跋文が附してあるのだが、誰から借りのだろうと思い、一日つぶして史料を調べた結果、算術の輯佚書を戴震から借りたというような伝記が見つかったので、もしや戴震ルートかと思いきや、前に春秋会義を調べたとき楊昌霖から借りたとあったのを思い出した。しかも春秋会義の識語だった。

もう無駄な時間を使いたくないので書き残しておこう。

※以下追記

孔繼涵は戴震から永楽大典輯佚本を借りていたらしく、その文集『雜體文稿』の算經十書序(巻一)に記述が見られる。その他、ざっと中國古籍善本目錄導航系統で調べただけでも、孔繼涵の跋文を附す書物はいくつか存在し、中には永楽大典本をもとにしたと思われるものもある。これらの跋文は文集に入っておらず、孔繼涵の書物入手経路を調べるにはなかなか骨が折れそうだ。

鄭學五種(清孔繼涵編、清乾隆四十一年孔繼涵家抄本)
今水經一卷(清黄宗義撰、清乾隆四十二年孔繼涵家抄本)
水地記三卷(清戴震撰、清乾隆四十二年孔繼涵家抄本)
紹陶録二卷(宋王質撰、清乾隆四十一年孔繼涵家抄本)
日渉園集五卷(宋李彭撰、清乾隆四十年孔繼涵家抄本)
元音十二卷(明孫原理輯、清孔繼涵家抄本)
微波榭鈔書三種五卷(清乾隆孔繼涵家抄本)
義豐集一卷(宋王阮撰、清抄本)
春秋釋例不分卷(晋杜預撰、清抄本)
春秋會義十二卷(宋杜諤撰、清抄本)
諸蕃志二卷(宋趙汝適撰、清孔氏紅櫚書屋抄本)
金薤琳琅二十卷(明都穆撰、清抄本)
曉庵遺書二卷(清王錫闡撰、清乾隆抄本)
文莊集三十六卷(宋夏竦撰、清抄本、清孔繼涵跋、九行二十一字無格]
呂忠穆公年譜一卷勤王記一卷遺事一卷逢辰記一卷(清乾隆四十二年孔繼涵家抄本、清孔繼涵校并跋]
沈下賢文集十二卷(唐沈亞之撰、清乾隆四十二年孔繼涵家抄本、清孔繼涵校并跋、十行二十字白口左右雙邊]
張大家蘭雪集二卷(元張玉孃撰]后附一卷(清乾隆四十一年孔繼涵家抄本、清孔繼涵校并跋、十行二十一字白口左右雙邊]
春秋五禮例宗十卷(宋張大亨撰、清孔氏抄本、清孔繼涵跋]存七卷(一至三、七至十]
國語二十一卷(呉韋貽注、清孔氏詩禮堂刻本)
紹興十八年同年小録一卷附録一卷(清乾隆四十二年孔氏青櫺書房抄本)
寶祐四年登科録一卷附一卷(清乾隆四十一年孔氏青櫺書房抄本)
建炎以來朝野雜記甲集二十卷乙集二十卷(宋李心傳撰、清抄本)
勾股割圜記三卷(清戴震撰呉思孝注、清乾隆孔氏刻微波榭叢書本)
雪山集十二卷(宋王質撰、清乾隆四十一年孔氏微波榭抄本)
黄文獻公文集六卷(元黄溍撰、清抄本)
禮記注疏六十三卷考證六十三卷(漢鄭玄注、唐孔穎達疏、陸明音義乾隆四年武英殿刻十三經注疏本)
春秋繁露十七卷(漢董仲舒撰、明嘉靖三十三年周采刻本)
春秋繁露十七卷(漢董仲舒撰、明刻本)
轉注古音略五卷(明楊慎撰、明嘉靖李元陽刻本)
續資治通鑑十八卷(宋李撰、元朱氏與畊堂刻明修本)
國語補音二卷(宋宋庠撰、明正十二年明堂刻本)
國語二十一卷(呉韋昭注、明嘉靖七年金李澤遠堂刻本)
砩北雜志二卷(元陸友撰、明末刻本)
十家宫詞不分卷(清朱彝尊輯、清孔氏紅櫚書屋抄本)
隸續二十一卷(宋洪適撰、清康煕四十五年曹寅揚州使院刻本)

孔繼涵の墓誌は翁方綱が書いており、また他にも伝記が見られるが、学問的な意味で役に立ったのは清代疇人傳の記載だった。

銭基博『経学通志』総志01

『説文』に「経は織である」(*1)とあり、『玉篇』に「経(縦糸)と緯(横糸)でもって布(おりもの)ができる」とある。ここから転じて「天下を経綸する」(*2)という意味になった。『易』の屯卦象伝には「雷震は屯なり。君子以て経綸す」とあり、『周礼』の天官太宰には「以て邦国を経(おさ)む」とあり、その注には「経は灋である(*3)。王にあってはこれを礼経といい、常にこれを用いて天下を治める。邦国の官府にあってはこれを礼灋といい、常にこれを守って灋式とする。常という字は、上は王から下は邦国の官府に至るまで、いずれにも用いられる名称である」とあり、『釈名』には「経は径である。径路に通れぬところなく、常に利用可能であることを譬えたものだ」とある。これが経の意味である。

(*1)『説文解字』は「經、織從絲也(経は織物の縦糸である)」とする。
(*2)経綸:糸を紡ぐこと。転じて天下を治めること。
(*3)原文「經灋也」。ただし天官太宰同条の注には「典、常也、經也、灋也」とあり、本条と意味が異なる。なお灋は法のこと。


※細かいところは後で直す。眠たい。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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