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権衡211

二一一 八年、「公子遂会雒戎盟于暴」(公子遂 雒戎に会し暴に盟す)。【注1】左氏は「之を珍とするなり」【注2】という。言うこころは、公子遂が権に戎と盟を交わしたのは、事の宜を得たものであるから、褒めて公子といったのである、と。間違いである。もし両つながら公子と記しているので【注3】褒めたと見なすのであれば、僖三十年の「公子遂如京師、遂如晉」(公子遂 京師に如き、遂に晉に如く)は貶したことになる。あちらで貶したといわないのは、なぜだろうか。【注4】

【注】
1 経は「冬、十月、壬午、公子遂会晉趙盾、盟于衡雍。乙酉、公子遂会雒戎、盟于暴。」と続く。暴の盟に対して、杜預は「公子遂不受命而盟、宜去族。善其解国患、故称公子以貴之」(公子遂 命を受けずして盟すれば、宜しく族を去るべし。其の国患を解くを善みす、故に公子と称ひて以て之を貴ぶ)と注す。
2 伝は「冬、襄仲会晉趙孟、盟于衡雍。報扈之盟也。遂会伊雒之戎。〔伊洛之戎、将伐魯。公子遂不及復君、故専命与之盟。〕書曰『公子遂』、珍之也。〔珍、貴也。大夫出竟、有可以安社稷、利国家者、専之可也。〕」(冬、襄仲 晉の趙孟に会し、衡雍に盟す。扈の盟に報ずるなり。遂に伊雒の戎に会す。〔伊洛の戎、将に魯を伐たんとす。公子遂 君に復するに及ばず、故に命を専らにして之と盟す。〕書して『公子遂』と曰ふは、之を珍とすればなり。〔珍は貴なり。大夫 竟を出ずれば〕、以て社稷を安んじ、国家を利すべき者有れば、之を専にするも可なり。〕)という。〔〕内は杜預の注。
3 本経の前にも「公子遂会晉趙盾、盟于衡雍」と公子遂を記していることによる。したがって「公子遂如京師、遂如晉」において公子遂を褒めるには、「公子遂如京師。公子遂如晉」と記さねばならないはずだと言いたいのであろう。
4 『権衡』巻四・一九〇条を参照。なお「公子遂如京師、遂如晉」の主題は「遂」であり、そこで明確な褒貶は発されていない。

【参考】
・劉氏伝……曷為れぞ再び公子遂と言ふ。之を与せばなり。
・意林に説なし。

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権衡210

二一〇 徐伐莒。杜云:「不書將帥,徐夷,告辭略。」非也。傳云:「徐伐莒。莒來請盟。」然則莒來告也。且徐不來告則已。苟其來告,若不稱君,必當稱將帥,豈亦自云徐而已乎。杜氏之意,固以謂從赴告而已。向者晉人戰于令狐,又何以云貶趙盾稱人哉。

「徐伐莒」(徐 莒を伐つ)。杜 云ふ:「将帥を書せざるは、徐 夷なれば、告辞 略すればなり」と。非なり。伝に云ふ、「徐 莒を伐つ。莒 来りて盟を請ふ」と。然らば則ち莒は来りて告ぐるなり。且つ徐 来りて告げざれば則ち已む。苟も其れ来りて告げ、若し君を称はざれば、必ず当に将帥を称ふべし。豈に亦た自ら徐と云ふのみならんや。杜氏の意、固り以て赴告に従ふと謂ふのみ。向者に晉人 令狐に戦ひ、又 何を以て趙盾を貶して人と称ふと云はんや。

「徐伐莒」(徐 莒を伐つ)。杜は「将帥を書せざるは、徐 夷なれば、告辞 略すればなり」という。間違いである。伝には「徐 莒を伐つ。莒 来りて盟を請ふ」という。ならば莒は魯に盟を求めてやってきたのである。また徐が盟を求めてやってこなければ、それまでのことであるが、もし盟を求めてやってきたのであれば、君の名を出さずとも、必ず将帥の名を出したはずである。使者みずから「徐」と名のることなどあり得るだろう。杜氏の考えによれば、もちろん赴告に従ったとするであろう。ならば、さきに晉人が令狐で戦った際、なぜ趙盾を貶して晉人と記したというのであろうか。

参考
・『権衡』巻五・★条参照。
・劉氏伝に伝なし。
・意林に説なし。

権衡209

二〇九 公會諸侯晉大夫盟于扈。左氏曰:「公後至,故不書所會。」非也。按經公與盟矣,何謂後會乎。杜云:「公後其會而及其盟。」此飾非之言爾。會盟同地,會所以為盟也。今及其盟,不得云後會。且盟重會輕,不當獨責其輕。又已稱公會諸侯矣,豈不及其會者乎。若實不及其會,而及其盟者,書公及諸侯晉大夫盟,乃可耳。左氏又曰:「凡會諸侯,不書所會,後也。」按:十五年會于扈,亦不序諸侯,寧復魯侯後會邪。未可以類推也。

「公会諸侯・晉大夫盟于扈」(公 諸侯・晉の大夫に会し扈に盟す)。左氏 曰く、「公 後れて至る、故に会する所を書せず」と。非なり。経を按ずるに公は盟に与かれり。何ぞ会に後ると謂ふか。杜 云ふ、「公 其の会に後れて其の盟に及ぶ」と。此れ非を飾るの言のみ。会盟は地を同じくすれば、会は盟を為す所以なり。今 其の盟に及べば、会に後ると云ふを得ず。且つ盟は重く会は軽ければ、当に独り其の軽きを責むべからず。又 已に「公 諸侯に会す」と称はば、豈に其の会に及ばざることあらんや。若し実に其の会に及ばずして其の盟に及ばば、「公 諸侯・晉の大夫と盟す」と書せば、乃ち可のみ。
左氏 又 曰ふ「凡そ諸侯に会し、会する所を書せざるは、後るればなり」と。按ずるに十五年に扈に会すも、亦た諸侯を序せざれば、寧ぞ復た魯侯 会に後るるか。未だ類を以て推すべからざるなり。

 「公会諸侯・晉大夫盟于扈」(公 諸侯・晉の大夫に会し扈に盟す)。左氏は「公 後れて至る、故に会する所を書せず」【注1】という。間違いである。経によれば、公は盟に参与しているのに、いかなる理由から会に後れたというのだろうか。杜は「公 其の会に後れて其の盟に及ぶ」という。これは左氏の間違いを誤魔化しているだけである。同じ場所で会と盟をおこなったのだから、会は盟を交わすためのものである。もし盟に間に合ったというのであれば、会に後れたとはいえないだろう。また盟は重く会は軽い。軽い方のことだけでもって責めることはできない。そればかりか既に経には「公 諸侯に会す」というのである。このどこが会に間に合わなかったといえるのか。もし本当に会には間に合わず盟には間に合ったのであれば、「公 諸侯・晉の大夫と盟す」と書けば、それだけでよいのである。
 左氏はまた「凡そ諸侯に会するに、会する所【注2】を書せざるは、後るればなり」という。さて十五年に扈に会したときも、諸侯を序列していないが、どうしてまた魯侯が会に後れたものと見なしえるだろうか【注3】。これでは類推によって経の意義を見いだすことはできない。


1 ややわかりにくいので、左氏および杜預の注(経の注)を引いておく。伝には「秋八月、斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・許男・曹伯会晉趙盾、盟于扈。晉侯立故也。公後至、故不書所会。凡会諸侯、不書所会、後也。後至、不書其国、辟不敏也。」(秋八月、斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・許男・曹伯 晉の趙盾に会し、扈に盟す。晉侯の立つが故なり。公 後れて至る、故に会する所を書せず。凡そ諸侯に会する、会する所を書せざるは、後るればなり。後れて至れば、其の国を書せざるは、不敏を辟くればなり。)とあり、また杜預の注(経注)には「不分別書会人、揔言諸侯・晉大夫盟者、公後会而及其盟」(分別して会する人を書せず、諸侯・晉の大夫と揔言するは、公 会に後れて其の盟に及べばなり)とある。
2 杜預の注には、「会する所を書せずとは、具さには列公侯及び卿・大夫を列せざるを謂ふ」とある。劉敞もこの意で解釈したのであろう。
3 文公十五年の伝には「於是有斉難、是以公不会」(是に於いて斉の難有り、是を以て公 会せず)とあり、魯公がもともと扈の会に参加していなかったことを記す。

参考
・正義……然れば則ち諸侯を揔称するは、皆 是れ諸侯を罪するなり。此れ諸侯を揔称し、会する所を称はざるは、公の後ると為すなり。伝 還た自ら凡例を釈して云ふ、「後れて至れば、其の国を書せざるは、不敏を辟くればなり」と。不敏は猶ほ不達のごとし。諸国 皆 在り、公 独り後れて至る、是れ公 事に達せざるなり。公の事に達せざるを辟け、公の罪を諱みて責を諸侯に帰するものなり。諸侯に功無しと言ふが若く然り。故に諸侯を貶して之を揔ずるは、公の恥を辟くる所以なり。
・劉氏伝……諸侯 何を以て序せず、大夫 何を以て名いはず。序するに足らざればなり。其れ序するに足らずとは奈何。或ひと曰ふ、蓋し宋を治めんと欲するも後 能はざればなりと。或ひと曰く、趙盾 君の位を戴き、以て諸侯に臨めば、之を悪むなりと。
・意林……「公 諸侯・晉の大夫に会し扈に盟す」。趙盾 既に内 専ら其の君を廃置し、而して又 外に諸侯に盟を強ふ。王者の法、当に受くべからざる所なり。故に斥けて之を遠ざく。陪臣 国命を執るは、漸く長ずべからずと曰ふが若きのみ。此れ其の為すを得る所に非ざるなり。

権衡208

二〇八 晉人及秦人戰于令狐。杜氏曰:「趙盾廢嫡而外求君,故貶稱人。晉諱背先蔑,而夜薄秦師,以戰告。」按:如此説,安知稱晉人者,非趙盾諱無信而以微者告乎。在春秋中,杜氏所注,若此者多矣。何獨至此晉人,而謂之春秋貶乎。此乃見事在可以説之域則説之,事在不可説之域則不説也。智足以紿學者矣,亦何解經之有。

二〇八 「晉人及秦人戦于令狐」(晉人 秦人と令狐に戦ふ)。杜氏 曰ふ、「趙盾 嫡を廃して外に君を求む、故に貶して人と称ふ。晉 先蔑に背きて夜に秦師に薄るを諱み、戦を以て告ぐ」と。按ずるに此の説の如ければ、安くんぞ晉人と称ふは、趙盾 信 無ければ微者を以て告ぐるを諱むに非ざるを知らんや。春秋の中に在りて、杜氏の注する所、此の若き者 多し。何ぞ独り此の晉人に至りて之を春秋の貶と謂ふか。此れ乃ち事の以て説くべきの域に在れば則ち之を説き、事の説くべからざるの域に在れば則ち説かざるを見すなり。智 以て学者を紿くに足るも、亦た何ぞ経を解すること之れ有らん。

二〇八 「晉人及秦人戦于令狐」(晉人 秦人と令狐に戦ふ)。杜氏は「趙盾 嫡を廃して外に君を求む、故に貶して人と称ふ。晉 先蔑に背きて夜に秦師に薄るを諱み、戦を以て告ぐ」という。さて、もしこの通りであれば、経に「晉人」という理由について、「趙盾に信義がなかったために、微者の所行として赴告したわけではない」と、なぜわかるのだろうか。春秋に対する杜氏の注には、このような発言が多々みられる。なぜこの「晉人」のみに対して、春秋が貶したとみなすのだろうか。これこそ口を差し挟めるものであれば口を差し挟むが、さもなくば口を閉ざすというものである。これで学者を欺くことはできようが、とても経を解したとはいえまい。

参考
・劉氏伝……「戦ひて之に及ぶと言ふは、之を主る者なればなり。猶ほ晉人 此の戦を為すを志すと為すがごとしと云ふのみ。何を以て師の敗績を言はざる。敵すればなり。」
・意林……なし。

権衡207

二〇七 七年,公伐邾,取須句。左氏曰:「寘文公子焉。」非也。僖公取須句,反其君,義事也,經不襃。今文公取須句,以封叛臣,惡事也,經不貶。不唯不襃貶而己,又略無所見。豈春秋之實邪。

二〇七 七年、「公伐邾、取須句」(公 邾を伐ち、須句を取る)。左氏 曰く、「文公の子を寘(お)く」と。非なり。僖公の須句を取り、其の君を反すは、義事なるに、経は褒めず。今 文公 須句を取り、以て叛臣を封ずるは、悪事なるも、経 貶せず。唯だに褒貶せざるのみならず、又 略して見る所無し。豈に春秋の実ならんや。

二〇七 七年、「公伐邾、取須句」(公 邾を伐ち、須句を取る)。【注1】左氏は「文公の子を寘(お)く」という。【注2】間違いである。僖公が須句を取り、その君を返したことは、義事であるのに、経は褒めていない。【注3】いま文公が須句を取り、叛臣を封じたことは、悪事であるのに、経は貶していない。ただ褒貶しないだけではなく、省いて経に示すことがない。これでいて春秋の事実といえるだろうか。


1 「春、公伐邾。三月、甲戌、取須句。」杜預の注に「須句、魯之封内属国也。僖公反其君之後、邾復滅之。書取、易也。例在襄十三年」(須句は魯の封内の属国なり。僖公 其の君を反すの後、邾 復た之を滅ぼせり。取と書すは易ければなり。例は襄十三年に在り)とある。
2 伝は「春、公 邾を伐つは、晉の難を間(うかが)ふなり。〔公 霸国に難有るに因りて小を侵す。〕三月甲戌、須句を取り、文公の子を寘く。礼に非ざるなり。〔邾の文公の子 叛して魯に在り、故に公 須句を守るの大夫たらしむ。大皥の祀を絶ち、以て鄰国の叛臣に与す、故に礼に非ずと曰ふ〕」という。なお亀甲括弧内は杜預の注。
3 『権衡』巻四の一六九条及び一七〇条を参照。

参考
・『劉氏伝』に伝なし。
・『意林』に説なし。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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