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経学変古時代2(春秋/経学歴史)

経学変古時代(つづき)

  宋人は注疏を信ぜず,馴れて経を疑うに至り,経を疑いて已まず,終に経を改め経を刪し,経文を移易し以て己が説を就すに至る。此れ訓と為すべからざる者なり。
  世に鄭康成の好みて字を改むるを譏るものあるも,鄭箋の毛〔詩〕を改むるもの,多くは魯〔詩〕と韓〔詩〕の説に本づくを知らず。其の依拠を尋ぬるに,なお徴験すべし。『礼記』に注するには盧〔植〕と馬〔融〕の本を用い,盧植の云う所の「発起紕繆」なるが如きに当りては,注に「某,当に某と為すべし」と云い,亦必ず確に憑依あり。『周礼』は故書なれば『儀礼』と同じからず。古今は文異なれば,一従一改すること,即ち斉〔論〕と古〔論〕とを以て魯論を考うるの意なり。『儀礼』の〈喪服伝〉,『礼記』の〈玉藻〉〈楽記〉は,明らかに錯簡たるを知ると雖も,但だ其の説を注に存して其の正文を易えず。先儒の経を説くこと,此の如く其れ慎めり。豈に擅ままに経の字を改むる者あらんや。
  唐の魏徴の『類礼』を作りて『礼記』の次序を改易せしとき,張説の之を駮して行われざるは,なお謹厳の意を得るがごとし。乃ち宋に至りて風気大変す。
  朱子の『論語』に注せるとき,重出の章を刪らず,「与其進也」の三句,其の文を鉤転せず,但だ其の説を注に存す。『詩』の「爰其適帰」に注せるとき,「『家語』は奚に作る」と云うも,改めて「奚」と為さず。「上帝甚蹈」は,「『国語』は神に作る」と云うも,改めて「神」と為さず。体例なお未だ失わざるなり。独り『大学』に於いて,其の文を移し,又其の伝を補い,『孝経』は経伝を分かち,又経文を刪し,未だ宋人の習気を免れず。而るも『大学』を移すは先に二程子あり,『孝経』を刪するは胡侍郎と汪端明に本づくと言えば,則ち未だ尽くは朱子の咎と為すべからず。
  王柏の『書疑』を作すが如きは,将に『尚書』もて意に任せて増刪せんとし,『詩疑』は鄭と衛とを刪し,風と雅と頌とも亦意に任じて改易すれば,忌憚無しと謂うべし。『四庫提要』は之を斥けて曰く,「柏は何人ならんや。斯れ敢えて筆を奮い以て孔子を進退せんとするか。」経学,斯に至り一阨と云うべし。他に兪廷椿の『復古編』の如きは,五官を割裂し,以て冬官を補い,呉澄の『礼記纂言』は,将に四十九篇もて顛倒割裂し,私に古籍を竄すること,完膚なからしめんとす。宋元明人の説経の書,此の如き者多し,実に宋人之が俑始と為す。


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経学変古時代(春秋/経学歴史)

経学変古時代(つづき)

  春秋の公羊と穀梁は,漢の後已に絶学と成る。左氏は事を伝えて義を伝えず,後人専ら左氏を習い,春秋一経に於いて,多く其の解を得ず。
  王安石は春秋を以て断爛朝報と為して之を廃し,後世此を以て安石を病む。安石の〈韓求仁の春秋を問うに答う〉に曰く,「此の経は他経に比べて尤も難し。蓋し三伝は信ずるに足らざるなり。」尹和靖云う,「介甫の春秋を解さざるは,其の之を難きを以てなり。春秋を廃するは其の意に非ず。」尹氏の説に拠らば,安石は本と春秋を廃するを欲せざる者なり。然れども三伝を信ぜざれば,則ち春秋は已に廃せられたり。若し春秋を以て断爛朝報と為すは,則ち特だ安石のみに是の言あるに非ず,専ら左氏を執り春秋を為む者は皆な此の意あるを免れず。左氏家の「経は旧史を承け,史は赴告を承く」の説を信ずるは,是れ春秋は朝報の如し。公〔羊〕穀〔梁〕家の日月褒貶の例を信ぜず,概して闕文と為せば,是れ春秋は朝報の断爛なる者の如し。
  宋人の春秋を治むる者多けれども,顓門を治めず,皆唐人啖〔助〕・趙〔匡〕・陸〔淳〕の一派を沿う。孫復,孫覚,劉敞,崔子方,葉夢得,呂本中,胡安国,高閌,呂祖謙,程公説,張洽,呂大圭,家鉉翁の如きは,皆その著わるる者なれども,劉敞を以て最も優れたると為し,胡安国もて最も顕わるると為す。
  元と明は胡〔安国〕が『〔春秋〕伝』を用いて士を取れば,之を推すこと太だ高きも,近人又之を詆ること太だ過ぎ,胡が『伝』は卒に廃せり。平心にて論ずれば,胡氏の春秋の大義は孟子に本づき,一字褒貶は公〔羊〕穀〔梁〕に本づき,皆其の非を謂うを得ず。而るも之を求むること深きに過ぎ,勤めて公穀両家の外に出で,鍛錬すること太だ刻にして,多く諷を時事に託するの心を存す。其の書,経筵に奏御せらるれば,原と藉りて以て約を納むべし。但だ尊王攘夷,春秋の大義と雖も,王ならば唯諾趨伏の尊ぶべきに非ず,夷ならば一身両臂の攘すべきに非ず。胡が『伝』は首めに権臣を戒め,芸祖の黄袍を懲艾するの非を習い,高宗の諸将を猜疑するの意を啓けり。王夫子の岳侯の死を謂うに,其の説は庸主の心に中るを先にすと。此れ其の立言の大失,経を解するの明らかならざるに由るなり。
  崔子方の『春秋本例』は,日月を以て本と為し,宋儒の中に在りては,独り能く公穀を推すも,作る所の『経解』は,並びに三伝を糾し,未だ専らには一家を主とする能わず。朱子云う,「春秋の義例,自ら心に信ずる能わず。故に未だ嘗て敢えては一辞を措かず。」此れ朱子の矜慎の処なるも,亦未だ専らには公穀を信ずる能わざるに由るが故に,義例に依拠する所無きなり。


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経学変古時代(経学歴史)

皮錫瑞『経学歴史』
経学変古時代

・『』……書名
・〈〉……篇名
・〔〕……私の補足

  経学は唐より以て宋初に至り,已に陵夷衰微せり。然れども篤く古義を守り,新奇を取る無く,各々師伝を承け,胸臆に憑かざること,なお漢唐注疏の遺のごとし。宋の王旦の試官たりしとき,題に「仁に当りては師とも譲らず」と為せしとき,賈辺の「師」を解して「衆」と為すの新説を取らざれば,宋初篤実の風を見るべし。乃ち久しからずして風気遂に変ず。
  『困学紀聞』に云う,「漢儒より慶暦の間に至るまで,経を談ずる者は訓故を守りて鑿たず。『七経小伝』出でて稍々新奇を尚べり。『三経義』の行わるるに至り,漢儒の学を視ること土梗の若し。」王応麟の説に拠らば,是れ経学は漢より宋初に至るまで,未だ嘗て大変せざるも,慶暦に至りて始めて大変するなり。『七経小伝』は劉敞の作,『三経新義』は王安石の作なり。或ひと謂う,『新義』は多く〔劉〕敞が説を勦(かすめと)れり。元祐の諸公,王学を排斥すれども,伊川が『易伝』は専ら義理を明らかにし,東坡の『書伝』は議論を横生し,みな世に伝えらると雖も,亦各々新を標す。
  司馬光が〈論風俗箚子〉に曰く,「新進後生,口に伝え耳に剽み,『易』を読みて未だ卦爻を識らざるに,已に十翼は孔子の言に非ずと謂い,『礼』を読みては未だ篇数を知らざるに,已に『周官』は戦国の書と為し,『詩』を読みては未だ〈周南〉〈召南〉を尽さざるに,已に毛〔亨〕・鄭〔玄〕を章句の学と為し,『春秋』を読みては未だ十二公を知らざるに,已に三伝は之を高閣に束ぬべしと謂う。」
  陸游も曰く,「唐より国初に及ぶまで,学ぶ者は敢えて孔安国・鄭康成を議せず,況や聖人をや。慶暦より後,諸儒の経師を発明すること,前人の及ぶ所に非ず。然れども〈繋辞〉を排し,『周礼』を毀ち,『孟子』を疑い,『書』の〈胤征〉〈顧命〉を譏り,『詩』の序を黜け,経を議するを難しとせず,況や伝注をや。」案ずるに,宋儒は伝注を撥棄し,遂に経を議するを難しとせず。〈繋辞〉を排するは欧陽脩を謂い,『周礼』を毀つは〔欧陽〕脩と蘇軾を謂い,『孟子』を疑うは李覯と司馬光を謂い,『書』を譏るは蘇軾を謂い,『詩』の序を黜けるは晁説之を謂う。此れみな慶暦及び慶暦の稍々後の人,其の時風の気節の然るを見るべければ,亦独り劉敞と王安石のみを咎めず。


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『呂祖謙全集』

書くほどのことではないが,『呂祖謙全集』が刊行されるらしい。

数年前から話しは聞いていたが,この手の大掛かりなものは,実際に出版まで漕ぎつけられるか否か不明だったので,実際に出版されると知って人ごとながら安堵した。もっとも,まだ発売していない可能性もあるので,油断は禁物である。

呂祖謙の名前を知っている人は,現在では専門家かマニアくらいのものだろう。いや,私は知っている!と文句を言う人がいるかもしれないが,そう言う人は自覚がないだけで,恐らくマニアなのだ。実際問題,呂祖謙などが日本で話題に上ることはあり得ないのだから,この名を知っている方が尋常ではない。

呂祖謙というのは,朱熹の友達で,朱熹が若い頃に自分の名前を出すため,ダシにつかわれた人間である。とはいえ,ダシに使われるくらいだから,相当な実力の持ち主で,しかも相当の家柄で,さらに人と為りも相当に穏和だったものだから,人から好かれもしたし,尊敬されもした。

しかし呂祖謙という人は,今一つ評価の決め手がなかった。確かに博学で文章にも巧みだとはいえ,歴史好きが祟ったのか,きめ細かい議論を好まず,粗雑なところがあり,朱熹に比べると数段学者としての腕は劣る。文章にしても何も突出した巧さではなく,巧かったというに止まる。だからどうしても評価が難しくなるのである。

ただ歴史好きだったということから,『東莱博議』というものを書いており(東萊は呂祖謙の号),これは随分日本でも読まれた。春秋学を歴史に含めるのは現代人の錯覚で,本来は似ても似つかぬシロモノなのだが,『東萊博議』は初学者が苦痛なく春秋左氏伝の滋味を味わい得るように作られたものだけに,呂祖謙の見識と相俟って,読んでいてもそれなりに楽しめる。とはいえ,本書も已に過去のものであるから,現在嗜む人がそういるとは考えられないところが,いかにも呂祖謙の著作らしいところである。

呂祖謙を褒めるつもりが,貶したようなことになってしまった。しかしこれも仕方のないところである。褒めようと思えば褒められるし,全集が刊行されるほどの人間であるのだが,遺憾なことに大して面白くない人であることは否定できないのだ。まぁ,宋代や南宋研究には必要な人間だから,その手の人間で金銭的に余裕のある人は買うのだろう。


追記(2008/11/13):
忘れていたが,『呂祖謙全集』は発売された。詳細は北九州中国書店のここにある。

リンク先を見てもらえば分かるが,正直言って不要な部分が多く,贅肉だらけのぶよぶよ全集たる感をぬぐえない。『宋文鑑』,『近思録』,『音注唐鑑』や『東莱集註三蘇文集』なんてものは,呂祖謙の全集で読む必要はない。全体をスリム化すれば,全8冊くらいに収まったのではないだろうか。

こういう大がかりな本を出した理由は知らないが,もう少し現実的な利便性を考えて出版してもらはないと,値段ばかりが跳ね上がって,買おうと思っていた人間も手控えることになってしまう。しかし,日本でどれだけの人間が買ったのやら......

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日本国家社会主義学盟などなど

何を調べていたのか忘れたが,たまたま何かのページにリンクされてあり,wikiの「日本国家社会主義学盟」のページに辿り着いた。履歴を見ると,2007年12月25日が初版で,それ以後の改変は少いようなので,去年の年末に出来たページらしい。

この項目は,「日本の右翼」なるカテゴリがあるようである。同カテゴリーの内容は,お世辞にも充実しているとは言えないが,それでも私の予想以上に項目が多く驚いた。こういうのが好きな人もいるんですね。

話しは戻って,日本国家社会主義学盟だが,これは所謂国家社会主義運動が日本で起こっていたときに作られたもので,早い話しが国家社会主義政党の設立の母体団体あるいは基盤団体となるべく結成されたものである。学盟と名が付いているように,建前では国家社会主義の研究をも視野に収めていた。ただし純粋な研究という意味では,国家社会主義集団には別に日本社会主義研究所というのがある。この研究所からは『日本社会主義』や『国家社会主義』なんて「最高の理論的」雑誌も出ている。

日本国家社会主義学盟(以下のリンクは私のサイトから)は,英国フェビアン協会をまねたもので,昭和7(1932)年4月5日から18日にかけて結成され,同年12月1日に日本社会主義研究所と合併して新たに「日本国家社会主義学盟」(同名)になった。この新‐学盟は紆余曲折を経つつ,最終的には昭和9年3月6日に大日本国家社会主義協会に解消,同協会は10日に大日本国家社会党を結成する。

紆余曲折の事情はややこしいので省略するが,国家社会主義運動は昭和6年の満洲事変以来,昭和10年あたりまでが山で,同12年の支那事変(日中戦争)以後は衰退する。同年には日本国家社会党の母体である先の協会も,日本経綸学盟に解消され,活動を理論研究に狭めざるを得なくなる。

日本国家社会主義学盟は,当初こそ諸種の国家主義団体の集合体であったが,新‐学盟の成立で赤松克麿らの日本主義派は去り,9年には石川準十郎派と近藤栄蔵派に分裂して,学盟は石川を推し,遂に石川を総理に担いだ大日本国家社会党へと転生する。随って,学盟に終始重要な地位を占めていたのは石川ということになる。もちろん石川が常に学盟をリードしていたと言うわけではないが。

ちなみに,wikiの記述には一箇所ミスがある。事務局主事は石川準郎とあるが,これは石川準郎の誤り。

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林癸未夫著作目録

林癸未夫(Hayashi,Kimio)
(1883-1947)

戦前,国家社会主義を主張した学者の一人。
検索で調べただけなので,役には立たない。単なる備忘録。
論文は省いた。

著 書
  1. 『最近欧米労働政策例纂』第1編(人道社,1919年)
  2. 『最近欧米労働政策例纂』第2編(人道社,1919年)
  3. 『最近欧米労働政策例纂』第3編(警醒社書店,1919年)
  4. 『強者にも弱者にも』(警醒社書店,1922年)
  5. 『産業民主主義運動』(同人社書店,1922年)
  6. 『国際労働運動史』(早稲田大学出版部,1923年)
  7. 『工業経済政策』(巖松堂,1923年)
  8. 『社会と宗教と芸術』(文省社,1925年)
  9. 『工業経済講義』(改訂増補版,巖松堂書店,1925年)……不詳
  10. 『社会政策原理』(早稲田大学出版部,1926年)
  11. 『社会政策新原理』(早稲田大学出版部,1926年)
  12. 『工業経済綱要』(巖松堂,1927年。再版,1928年)
  13. 『社会問題各論』(『現代経済学全集』第9巻,日本評論社,1929年)
  14. 『工業経済概論』(巌松堂書店,1930年。改訂版,1935年。増訂版,1937年)
  15. 『西洋思想の日本化』(章華社,1932年)
  16. 『国家社会主義原理』(章華社,1932年。普及版,1937年)
  17. 『国家社会主義と統制経済』(日本国家社会主義学盟,1932年)
  18. 『国家社会主義論策』(章華社,1933年)
  19. 『社会政策学概論』(章華社,1934年。改訂版,1937年。改訂版,大観堂,1942年)
  20. 『経済的全体主義としての国家社会主義理論』(日本講演協会,1935年)
  21. 『随筆天邪鬼』(人文書院,1939年)
  22. 『現代工業経済論』(巌松堂,1940年)

講演・パンフレット
  1. 『社会政策』(角田帝國堂,久野書店,1926年)
  2. 『市立名古屋図書館講演集』第7回(市立名古屋図書館,1929年)
  3. 『工塲工業と産業組合』(『工塲パムフレット』No.644。日東社,1929年)
  4. 『露西亞革命の現在及将来』(『経済研究叢書』第25輯。日本工業倶楽部経済研究会,1931年)

海外翻訳本
  1. 周憲文(訳)『社会政策新原理』(中華書局,1932年)


番外編
  1. 『戦力と厚生‐林癸未夫博士還暦記念論文集』(文松堂,1945年)



追記:2008/12/06
随筆天邪鬼』と『西洋思想の日本化』の感想文を書いた。

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宋代の尊号

昨日尊号について書いたが,その補足を少々。

尊号は皇帝の名前・称号・署名のことだが,実用的には,公文書に書く皇帝の名称を意味する。普通は悩むことなく「皇帝」の2字で終わりなのだが,北宋にはそう簡単に済まされない問題があり,ことあるごとに臣下が皇帝に尊号を奉り,皇帝が何度か固辞しつつ,最終的にそれを受け容れ,結果として長い長い尊号が使われるようになった。昨日あげた真宗などは,一時期「體元御極感天尊道應眞寶運文武功上聖欽明仁孝皇帝」という異常に長い尊号を用いていた。

ではなぜこのような煩瑣な尊号を使うようになったのだろうか。なかなか難しい問題ではあるが,2つほどの原因があったと思われる。

第1は因循である。尊号の歴史は古いが,宋代の尊号に直結するのは,唐の中宗(もしくは武則天)時代である。儒学の倫理枠に収まらない唐の皇帝は,従来の「皇帝」の2字に満足できず,諸種の修飾語をつけて見栄を張ろうとした。尊号はこうして誕生した。

しかし尊号は皇帝が勝手に提唱するものではない。実質はともかく,形式上は臣下から奉られることになっている。このため代替わりしても,臣下としては,前の皇帝に尊号を奉った手前,次の皇帝にも尊号を奉る必要が生まれる。まさか「今の皇帝は馬鹿だから,尊号はいらないよね」とは言えないのである。しかも何度も尊号を欲しがる皇帝が現れると,その次の皇帝にまで何度も尊号を奉らなければならなくなる。こうして尊号は増えていったと考えられる。

宋代もこれと同じで,前の唐王朝の皇帝が尊号を奉られているのに,自分達の皇帝に尊号を奉らないのは問題ではないか,という臣下の心理が発動する。そのため宋王朝でも引き続き尊号が奉られることになった。

要するに宋代で尊号が奉られたのは,単純に因循・因襲が大きい原因であったと考えられる。一度継続されたものを止めるのはなかなか難しい。それが皇帝に関係することであればなおさらである。余計なことはしないで,前のことを襲っておいた方が無難なのは,いつでも同じである。

2つ目の理由は,宋と遼の関係によるものである。唐が亡びた後,万里の長城の北部には遼という王朝があり,五代から北宋に至るまで,変らず勢力を誇っていた(北宋では長城以南にまで勢力を拡大していた)。この遼の皇帝は,唐を模倣したのか,長い尊号を用いていた。

遼と宋はたびたび使節を派遣し,両国の安全を確認しあったが,そのとき形式上両国の皇帝が公文書にサインすることになっていた。そこで遼の皇帝が長い尊号を付けているのに,我が宋の皇帝は「皇帝」の2字ではカッコ悪い。だから遼に負けないようにもっと長い尊号にするのだ,という心理が宋側に働いた。そこで遼に対抗すべく,長々とした尊号を用いたのである。

しかし宋王朝も安定してくると,皇帝は長い尊号に嫌気がさし,臣下の方も煩わしく感じるようになった。だから尊号奉上の議がおこると,儒学かぶれの臣下が反対し,皇帝もそれを容れて尊号を拒否するというようなことがたびたびおこった。しかし歴代皇帝に尊号じたいを止める気迫はなく,尊号の廃止は結局神宗を待つ必要があった。

神宗は司馬光の「ほんらい皇帝の二字ですでに至高を意味するのだから,不用な字は省くべきだ」という意見を採用し,その治世18年間尊号を受けず,「皇帝」の2字で通した。王安石などの宰相は,前例もあるので何度か尊号を奉ったが,神宗は敢えてそれを断ることで,尊号の廃止を天下に示したのである。

神宗が尊号を断ったまま没すると,自然と尊号も廃止される。後の皇帝は尊号が欲しくても,神宗が断った手前,欲しいとは言い難い。逆に断りたい場合には断りやすい。臣下の方は臣下の方で,「神宗が受けなかったのだから,尊号は用いるべきでない」と言いやすい。しかも神宗没後,新法旧法をめぐって政争が激化したので,神宗の尊号廃止は政界に隠然と力を持った。

旧法派は確かに新法を全廃した。しかしそれは神宗に反対したことと同義ではない。新法派は当然だが,旧法派にしても,神宗の意向にそって,今後の政治を行う,という大前提を持っていた。旧法派は,神宗がその崩御直前に発したとされる悔恨の情を読み取り,「新法の廃止こそ先帝(神宗)の意向だった」と発言し,新法派は「新法を断行することが,神宗の遺志を継ぐことだ」と主張した。だから新旧両派ともに,新法という具体的な問題は別に,文化的精神的な側面では神宗の継承を大前提としていたのである。ましてや旧法派の首領・司馬光はかつて自身が尊号廃止を主唱したのであるから。そのため哲宗も徽宗も欽宗も,そして高宗も,いずれも尊号を拒絶した(ただし高宗は譲位しているので,譲位後には尊号を受け付けている)。こうして宋代の尊号は消滅する。

尊号の消滅は偶然の産物である。尊号程度のものは,煩瑣ではあれ,続けても実害はなかった。しかし敢えてこれを廃止したことに,一種の宋代的な特殊性を発見できないではない。尊号が儒学の理念に合うか合わぬかは解釈次第だが,宋代の人々にとって,儒学と尊号は相容れないものだった。尊号のようなまやかし文句は,道教や中国外の影響に見えたのである。それらを排除し,純粋に中夏の人たろうとするとき,尊号もまた廃止される。ここに宋人特有の儒学意識を見ることは可能である。なにせ尊号は宋代で廃止されても,すぐに復活するのだから。


追記:2009/05/24

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北宋皇帝の廟号と諡

北宋皇帝の廟号と諡

太祖啓運立極英武睿文神聖功至明大孝皇帝
太宗至仁應道神功聖文武睿烈大明廣孝皇帝
眞宗應符稽古成功讓文明武定章聖元孝皇帝
仁宗體天法道極功全神文聖武濬哲明孝皇帝
英宗體乾應曆隆功盛憲文肅武睿神宣孝皇帝
神宗體元顯道法古立憲帝王功英文烈武欽仁聖孝皇帝
哲宗憲元繼道世揚功欽文睿武齊聖昭孝皇帝
徽宗體神合道駿烈遜功聖文仁憲慈顯孝皇帝
欽宗恭文順仁孝皇帝
高宗受命中興全功至聖神武文昭仁憲孝皇帝

『十朝綱要』を参照して作ったので,『宋史』と異なる部分がある。特に『宋史』本紀に見える太宗の諡は間違っているので注意を要する。なお廟号は太祖と某宗を,諡はその後の16字(神宗のみ20字)を指す。北宋の場合,諡は生前の尊号やその治績を加味して皇帝没後に贈られる。通常は2~4回に分けて奉られ,徐々に文字が増えていく。上に挙げた諡は最後に奉られたものである。

尊号は皇帝が生前に名のった名前(称号)である。本来尊号は「皇帝」の二字だが,諸種の理由から,だんだん長い尊号を用いるようになった。神宗の時代に全廃される。

例として,真宗の尊号を下に挙げる。「省去」は以前の尊号を削除し,単なる「皇帝」に戻したことを指す。
  • 咸平02年11月………崇文廣武聖明仁孝
  • 大中祥符01年12月…崇文廣武儀天尊道寶應章感聖明仁孝
  • 天禧01年01月………崇文廣武感天尊道應眞佑上聖欽明仁孝
  • 同03年11月…………體元御極感天尊道應眞寶運文武功上聖欽明仁孝
  • 乾興01年02月01日…省去
  • 同04日………………應天尊道欽明仁孝


推敲:2009/05/24

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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