スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

好きになれないもの

昨日,『明儒学案』の修訂本について書いたが,折角なのでパラパラ眺めて見た。私は朱子学とか陽明学とか,そういうものが嫌いだ。特に陽明学は嫌いだ。もちろん,嫌いだからと言って,不当な評価をする気はないが,趣味で読む分には,自分の好悪を全面的に押し出すのは人間として当然だろう。

さっそく上巻を開くと,陽明学者のつまらん寝言が書いてあった。下巻を開くと,ここでも泰州学派という,陽明学者の中でも私が最も嫌いな集団の言葉が溢れていた。最後の東林とか劉宗周にいたっては,見る気もしないくらいだ。諸儒学案は,明朝初期までの最初の方は悪くない。しかし中頃になると,どうだかねえ,読みたくねーな,という感じに襲われる。

でも気を取り直して,黄宗羲のいう陽明の中軸,江右王門学案(江西の陽明学者)の中でも特に「深い人間」だったらしい王塘南とか定宇とか万思黙とかを見てみる。平天下の平は最も妙とか,意味不明なことが書いてあるが,しらーっとするのは避けられない。ちなみに平天下というのは,『大学』の八条目の最後,天下を平らかにすることを指す。分らない人は分らなくていい。人生になんの益もないから。

なんというか,私は陽明学に興味はないし,そこに現代的意味を感じられない。だから彼等のテリトリーには入っていない。彼等からすれば,人間の霊妙な心の働きを深く考え,それを可能な限り文字に写し取ろうとしたのだろう。この場合,深く考えるというのは,平たい意味での「頭で考える」ことではない。日常の,ごくささやかな日常の生活から,人間の心の霊妙で微妙な働きを察知することを意味する。そういう心の軌跡を,彼等は文字に書きとめたのである。だからもし私が彼等と同じテリトリーに入ることさえできるなら,彼等の遺した文章から,人心の精妙な軌跡を知ることが出来るし,その努力に感嘆もするのだろう。

しかし私は彼等の外に立っている。その私からして彼等の議論を読むと,まるで中世欧州の魔女のように見える。

自分のサークル以外の人間にはほとんど理解不能の言葉を駆使して,仲間同士で分っているとか分っていないとか言い合って悦に入る。外から見ると気色の悪い連中だが,その努力は大変なものである。また人間それ自身は決して有害でない場合が多い。中には泰州学派のように有害な連中もいるが,概ね大人しい人間が多い。しかしながら,その全存在は明らかに異質だ。

私にとって,陽明学は閉じられた学問なのだ。陽明学はその中に入らなければ意味をもち得ず,さればといってその中に入ればすでに足をとられいるのだ。それを脱却するには,それ自身まるごと焼き捨てなければならないような,そういう存在である。

昨今よく見かける,陽明学者の社会活動!みたいなのりで陽明学者を見るなら,それほど気色悪い存在には見えない。しかしそれは本当に陽明学者の本質なのだろうか。陽明出でて以後,陽明学の虜になった人間は,本当にそんな社会活動に魅力を感じたのだろうか。如何に昨今,そんな社会活動に注目が集まっても,当の陽明学者が熱心に聞き入った言葉というのは,気色の悪い言葉の数々ではなかったのだろうか。

私は陽明学の本質は,やはりその理解不能な気色悪さにあると思っている。


ちなみに陽明学が好きな人にケチをつける気はないので。そもそも好き嫌いというのは論理的なものではない。人間生活上,好悪が先に決まっていて,それを弁護するために難癖を付けると言う場合が多い。私の場合も,嫌いだからその理由を探したというに留まる。好きな人にはまた別に,好きな理由があるだろう。ただ予め言っておくと,食わず嫌いを除いて,本当に好悪が分かれる場合は,好きなものが好きである理由こそ,嫌いなものが嫌いである理由なのだ。だからはじめから分かり合えはしないのだ。

スポンサーサイト

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

『明儒学案』修訂本

『明儒学案』の修訂本が中華書局から出版された。
校点者は同じ沈氏。

以下,『明儒学案』を使う人は専門家しかいないので,常識的な説明はしない。

底本は旧本と同じく馮本(鄭本の重印本)だが,旧本よりも多数の版本と校勘している。また修訂本は旧本の批評,即ち『釈誤』の意見を全面的にくみ入れており,併せて『全集』所収の『学案』も参照している。中国の研究では,先行研究を顧みない場合が多いが,今回は旧本の著者による訂正のみならず,『釈誤』『全集』を参照している点で,研究者の良心を感じさせる。

装幀や紙質も旧本よりも良くなっている。『学案』にはもはや従来ほどの権威はないが,基本著書であることにかわりなく,その意味からすれば,紙質がよくなったのは喜ばしい。また字の写りもよく,旧本に比べて字数のずれがいくつか見られる。データからの出力か活字を組んでのものか,私には分らないが,少なくとも部分的には,旧本を全面的に直した部分があるようである。

ただし,これは著者自身が指摘するように,修訂本に於いても,明朝の文集等の第一資料との比較は余りなされていない。これは校点者の沈氏がそれら第一資料を見る便宜がなかったことが大きい原因らしい。遺憾なことではあるが,仕方のないことである。その程度は研究者が自分で努力しろということであろう。

なお旧本に対する最も強い批判の一つ,所謂黄宗羲の原序,即ち賈氏重修本の黄氏文集より取りたる序文は,削除されてある。この点は従来の批評を受けた結果であろう。これは見識の問題であるから,利用者からどういっても無駄であるが,参考程度に「原序」を載せてもよかったような気はする。

また賈本にあって鄭本にない伝記類は,鄭本を利用した全集本に采録されていない。しかし旧本と修訂本にはともに収められている。これは校点者の序文に記されているが,該当場所に直接の注記はない。この点はすこし不親切な気がした。

以上,修訂本は態度としては良心的なものである。まして『全集』所収本は,『全集』を購入する必要があるのだから,『明儒学案』の単行書として修訂本が上梓されたことは,明代に興味のない私のような人間でも,喜ばしい限りである。

とはいえ,修訂本といえども,第一資料と厳密に比較した場合,校点・句読の問題点を指摘することは可能だろう。そもそも第一資料と相当程度乖離した引用文も存在する。また第一資料から判断すれば,厳密には発言者の名前を間違えている場合も存在する。

例えば,諸儒学案に収められた羅倫は,修訂本では3頁にも満たない分量である。しかし要語として取られた羅倫の言葉には,羅倫の文集から判断する限り,彼の発言ではないものが含まれている。(最終条)黄宗羲は,羅倫の文章の中に引かれた他人の言葉を,羅倫の言葉と誤認したのであろう。

また羅倫の小伝は,いくつかの先行伝記を利用しているが,明らかに『重校一峯先生集』十卷(鄒元標、呉期炤,萬暦十八年刊)を利用した形跡がある。しかしこの呉氏の重校本には諸種の難点が含まれており,随ってこれを利用した『明儒学案』にも問題が生まれるわけである。

これらはもちろん校点の範囲を逸脱するだろう。しかし『明儒学案』のような資料集的文章を整理する場合には,可能な限り指摘があってもよいはずである。従来の校点の誤りが軽減された修訂本を利用する場合であっても,可能な限り原典を探して事実関係を確認する必要がある。これは当り前のことであるが,便利な本であるが故に,そして黄宗羲しか目にし得なかった資料も多かった故,ついつい疎かになる場合がある。

本書がより周到に整理され,便利になればなるほど,この傾向は否めない。長い年月をかけて校正に従事された沈氏の学業にはどれほど敬意を表しても足りないくらいであるが,その業績がいかに優れたものであっても,やはり『明儒学案』は利用者を択ぶ本であると言わなければならない。

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

変人に鑑みて

意味のないひとりごと。

世の中には変人というのがいる。数は少ないが,なかなかどうして,他人にとってはもちろんのこと,本人にとっても,やっかいなシロモノである。

変人にもいろいろタイプはあるが,多くの場合,変人が変人であるのは,人と異った価値観を抱いている場合ではないかと思う。特に,ふつう好ましからぬとされていることに,むやみに価値を持っている人間を変人と呼ぶ場合がある。

この変人,単に空想上の世界に埋没してくれておれば,あまり人の害悪にはならない。変わった人だなあとか,子供っぽいなあとか,あまり評価は高くなくとも,それなりに存在を許容される。誰しも少しは変わったところがあるので,害悪のない他人の偏執振りには,目を瞑るのが世の中に生きていく上でのマナーなのかもしれない。

しかしこのような空想上の変人は,変人の変人たる所以ではない。変人が真に変人たり得るのは,行動に移したときである。行動といっても,何も罪を犯したり,反社会的活動をすることばかりではない。自分の信じるところを積極的に吹聴し,人に説明し,自己の所信に忠であろうとする態度,こういう行動に出るとき,その人は真に変人であるのだ。

もう一つ,変人に近い言葉に少数者というのがある。少数者,つまり世間一般の大勢から離れている人間のことである。大勢と違う人=少数者は,一般人の認識とズレのある人=変人に,同じでないまでも近しいものを感じるのである。この両者,私からすれば,同じ本質のものだとは思わないのだが,ときによっては同じ現れ方をするものだということも,否定できないように思う。

変人は一般と違うから,世間的には少数者である。だから,たまに世間では,変人だけを集めて,少数社会を作ったら,その社会の中では変人も「一般人」になれるのではないかと,そんなことを思っている人もいるようである。しかしそれは少し見通しが甘いと思うのだ。

変人の変人たる所以は,一般人と主張「が」異なっていることではない。主張が異なっているのではなく,直面した事態「に対して」異った態度や思考を取ることにあるのだ。だから,仮に変人どうしが集まっても,比較的変人度の薄いひとの意見がまず生まれ,次ぎに比較的変人度の濃いひとがそれに反旗を翻すことになる。そしてそこでも比較的変人度の薄い一般的意見と,それに対抗する変人的意見が対立することになるだろう。

変人度の濃い人間ほど,人の意見に対して違う見方や考え方をする。これは使いようによっては有利なことで,人が考えられないことを考え,行動できるのである。しかし大概,そういう人間は変人とは呼ばれないで,学者とか発明者とか,なんとかかとか,そういう社会的ステータスの高い人間として一括される。そしてそうはなりきれなかった人間だけが,変人として一般人の下に措かれるのである。

格別,ヒガミを言うつもりはなかったのだが,子供のとき以来,変人と呼ばれた私の個人的な感想である。ただ,変人は自分の変人振りが好きな人間が多いので,多分,「更生」は無理だろう。ただ生きていくのが辛いだけなのだ。でも更生はもっと辛いのだ。

テーマ : ひとりごとのようなもの
ジャンル : 日記

昨日の続き

先日書いたように,『宋史』は雑然としていて,歴代正史の中で最長の長さを矜っている。歴史の事柄を細かく知るには,確かに史料の豊富な方がよく,その点,『宋史』は長いというだけで評価されそうである。しかしそれは近代的な歴史研究が事柄の分析を重視するからであって,単に書物として読もうと思えば,甚だしく長い本は,それだけでマイナス点を付けられる。

これは『続資治通鑑長編』も同じで,英宗朝までの部分と,神宗・哲宗朝の部分とを比べた場合,読み物としては英宗朝までの方が綺麗にまとめられている。

『続資治通鑑長編』は,節録本の類を除くと,現行本の源流は一つで,いずれも『永楽大典』からの輯佚書にたどり着く。清朝の四庫官(四庫全書編纂官)が『永楽大典』から本書を輯佚したとき,太祖から英宗までの部分を収めた『永楽大典』には缺失がなかったのに対し,神宗・哲宗・徽宗・欽宗の四朝はそういう訳にはいかなかった。まず神宗は即位後三年あまりが欠落しており,哲宗も即位後三年あまりが失われており,徽宗と欽宗の二朝については全く『永楽大典』が残っていなかった。従って,『永楽大典』から復元された本書は,太祖から英宗までと,神宗・哲宗の冒頭三年の除く部分を合わせたものである。そのため単に表面的な形態だけからしても,英宗までと,神宗以後とでは,史料の保存上に優劣が生まれてしまう。

『続資治通鑑長編』(忘れていたが,宋代の歴史において本書を引く場合は,『長編』と略称するのを通例とする)には一つ特徴があり,同時代人からも賛否があった。それは古い時代に粗く,新しい時代に詳しいというものである。太祖から英宗までと,神宗,哲宗とは明らかに長さが違う。現行の中華書局の整理本は20冊あるが,冊数上では英宗までは8冊,神宗と哲宗で12冊。時間上では太祖から英宗までは107年,神宗と哲宗は(欠落分計6年を除く)33年に過ぎない。随って,単純に考えても,長さの上では3:1のものが,分量では2:3ということになり,どれほど後半に詳しいかが分るだろう。正確に言うと,神宗以後が異常に細かくなっているのである。ここに欠落分の6年のみならず,治世25年あまりの徽宗朝と,1年間の治世とはいえ抗金戦争という大事件を控えた欽宗朝が加わった場合,どれほどの分量になったことか。(まあ徽宗朝の中味はスカスカだろう。ちなみに同シリーズの『資治通鑑』も全20冊である)

確かに宋代史を知ろうとすれば,神宗・哲宗の時代は不可欠で,その資料が豊富だというのは都合がいい。しかし長すぎるのはやはり欠点である。通常,『長編』を読む場合,余りに長くて,よほど宋代が好きな人間でなければ読み了えられない。だから読み物として楽しく読めるのは,110年余りの時代を8冊程度にまとめた英宗朝以前の部分なのである。

とはいうものの,先日の『宋史』と『東都事略』とは逆に,私は『長編』に限っては,神宗・哲宗の部分が面白い。これは全くの偏見で,単に私が神宗哲宗時代の党争が好きだというだけの理由である。宋代の争いは,武力や刑罰による威嚇ではなく,言論や人事,政論で戦わされた。それがどれほど現実に意味があったかはどうでもいい。単に党争として見た場合,武力や死刑という最終手段を封じた場合,どれほど複雑で巧みな(そして嫌らしく,低レベルな)争いが繰り広げられたか。この点を知るには,やはり長くても神宗・哲宗朝が最も面白い。

長い中国史でも,これほど言論だけで諍いをつづけた時代は他に存在しない。壮大な実験という意味から歴史書を読むのであれば,神宗・哲宗朝は頗る面白い。

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

カレンダー
03 | 2008/04 | 05
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -
プロフィール

awatan

Author:awatan
HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

自営サイト
最近の記事
カテゴリー
リンク集
全記事表示

全ての記事を表示する

FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。