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暑い記念を記録

暑くなってきた……駄目になってきた。仕事から帰ると何もする気にならなくなる。記念に記録しておこう。

記録ついでに,王均の乱を調べてみた。王均の乱は,北宋の真宗時代に四川で起きた将校の反乱。すぐ鎮圧されたが,成都での戦争はなかなか凄惨なものがあったらしい(戦中も戦後も)。その中でいろいろ兵器の名前が出て来てくるんだが,よく分らないものが多いのだ。『漢語大詞典』あたりに活字説明があっても,図がないので,イメージとしてちゃんと湧いてこないのである。『三才図会』あたりにはあるんだろうか?ちなみにその武器は洞屋というらしい。

『東都事略』のつづきを書こうと思いつつ,どうも書く気に慣れない。句読までは終わったのだが。つぎは上官均か……

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テーマ : ひとりごとのようなもの
ジャンル : 日記

宋代初期の地図

最近は暑くなってきて,仕事して寝て仕事しての寝ての繰り返し。だれもそうだろうけど,あまり愉快な気持ちではない。まあ,仕事が楽しい人は別でしょうがね。

日記ついでに。

宋代の史料を読むとき,『中国歴史地図集』の宋代部分を利用することが多い。遺憾ながら,私には地名を見ただけで地理が想像できないからだ。それはともかく,最近,太宗時代の対契丹戦の史料を調べていて,どうもしっくりこないものがあった。もともと同書の地図は政和二年という,北宋最末期の状態を体現している。だから太宗のような北宋初期の地図ではないのである。

ということで,唐代の部分を利用することにしたのだが,宋代の地図に慣れていると,唐代の地図の新鮮なこと。もちろん頭では唐代領域の宏大なことは知っているが,同じ色でベターと塗られた領域を見ていると,改めて唐の領域の大きさを感じさせられる。と同時に,なにかしらん,北宋最初期の地図を見ているような気にもなった。

石晉が燕雲十六州を契丹に割譲して以降,確かに宋代の地図は同書宋代の色分けに近いものになっていた。しかし太宗が燕雲十六州を奪回しようとしたとき,そこには同書宋代の地図のような,明白な色分けはなかっただろう。燕雲十六州はほんらいは宋のものであって,しかも当然にして取り返さなければならない,宋代領域と同じ色の地域だったはずである。

開封から大名府,雄州・覇州,それから易州・幽州と同じ色でぬられた,そんな唐代の地図を見ていると,なにやら北宋初期の皇帝の頭にあった地図を眺めているような気になった。

気になっただけなんだけどね。

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ジャンル : 日記

なんとなく雑談

むかし『續資治通鑑長編』の検索サイトがあった。パスワードを求めているような求めていないような,よくわからないところだった。でも『長編』の検索画面に直接飛ぶと検索できたので,これは便利と思っていた。

台湾の中央研究院のデーターベースにも『長編』があって,台湾の関係機関は検索できるそうなので,もしかするとその辺りが大元だったのかもしれない。当然ながら,テキストは中華書局の校点本だろう。しかしこのサイト,著作権とか問題ないのかね?とか考えているうちに,いつのまにか検索できないようになっていた。結局,使わず仕舞いだった。

そんなことを思い出して,最近,わけもなく『長編』のテキストを探してみた。すると国学導航というサイトが見つかった。現在は四川の大地震のことで,白黒の画面が目に飛び込んでくる。
それはともかく,どうもここ数年来で発売された古籍のテキストを置いているらしく,なにかしらん組織的に活動しているのだろう。

このサイト,経史子集の古風な四部分類の下,いろいろな古籍が置かれている。はじめは『長編』を探していた私だったが,ついつい『長編紀事本末』の方に目がいって,ついつい2~3巻,コピーさせてもらった。ありがとう。

『長編紀事本末』はその名の通り,『長編』の紀事本末である。『長編』よりも記事は簡略化されているが,系統だって記事を調べるのに便利な本である。特に『長編』欠落部分は重宝する。

この本は私が見たことのあるものだけで2種類ある。一つは『宛委別藏』所収のもので,もう一つは『宋代資料萃編』所収のものである。これ以外に,見たことはないが,北京大学のものがあるらしい。
前者は抄本で,後者は刊本の影印本だったとおもう。私が比べたのは「紹述」だけだが,全体的に前者の方が字の間違いが少なかった。

そこで例のサイトのテキストだが,落としたテキストは,二三年前に黒竜江人民出版あたりで出版された簡体字テキストだろう。店屋で立ち読みしたときの記憶によると,たしか『宋代資料萃編』を底本にしていたとおもう。多分,校勘くらいはしてるんだろう。(知らんが)

最近は少々仕事が忙しいので無理なはなしだが,折角テキストデータも手に入ったことだし,いずれ「紹述」の部分だけ読み直したいものだ。なにせあの時代の復讐劇は面白いからな……


と,それだけ。何もないただの落書きでした。

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晩年の神宗

神宗が晩年に司馬光を用いようと思ったというのは本当か?

簡単な所では,『宋史』と『續資治通鑑長編』(以下,長編)に以下の記事がある。

「元豐五年に新官制の施行を練っていたころ,皇帝は禁中で悩まれ,成案を出されず,さきに輔臣にむかって,『新官制の実施に当たっては,新旧(新法支持者と旧法支持者)の両者を用いたい』と仰った。また『御史大夫は司馬光でなければ駄目だ』とも。蔡確は進み出ると,『国是が定まったばかり。願わくは少しく遅らせたまえ。』王珪も蔡確を助けたので,取りやめになった。……元豊七年の秋,宴を催したとき,皇帝は疾病に冒され,はじめて立太子の意向を固められた。そこで輔臣に「来春に皇太子を建てる。司馬光と吕公著を師保とするつもりだ」と仰せられた。(これは邵伯温の『元祐辨誣』,および呂大防が著した呂公著の「墓碑」に拠った。大防はただ「公著」とだけ言い,「光」については言及していない。存疑。)」(『長編』巻350,元豊七年十二月戊辰)

「元豊の新官制が行われ,(王珪は)礼部侍郎から銀青光禄大夫を特に授けられた。(元豊)五年,三省の官名を正したとき,(王珪は)尚書左僕射兼門下侍郎を拝し,蔡確は右僕射になった。これ以前,神宗は執政に,『新官制の実施に当たっては,新旧の両者を用いたい』と言っていた。また『御中大夫は司馬光でなければ駄目だ』とも言っていた。王珪と蔡確は互いに色を失った。王珪はひどく狼狽し,自失茫然としていた。蔡確が『陛下は(西夏に奪われた)霊武の奪回を念願とされている。公(王珪)が充分に責任を果たされたなら,宰相の位は大丈夫ですよ。』王珪は喜び,蔡確に謝意を示した。帝はいつも司馬光を召そうとしていたが,王珪は兪充を慶州知事に推薦し,西夏平定の策を献上させた。王珪の腹は,軍隊を西夏の地に送り込めば,きっと皇帝は司馬光を召さないだろうし,たとえ召しても司馬光はやって来ないだろうというものだった。そして司馬光はやはり召されなかった。(宋は)永楽城で敗北し,十余万もの死者を出したが,これは王珪が発端を作ったのである。」 (『宋史』王珪伝)


第一は,北宋の官制は元豊五年に大変革を遂げるが,神宗はこの機会を利用し,新旧両派から人を取ることを考えた。その目玉の一つとして,司馬光を御史大夫に抜擢しようとした,とするもの。

第二は,元豊七年の秋,体調不良により万一を考えた神宗は,立太子の曉に,司馬光と呂公著を中央に呼び,皇太子(後の哲宗)の師保(先生)にしようとしていた,とするもの。

おそらくどちらの記事も新法関係者の資料には存在しなかったか,存在しても文脈を変えていたと思われるが,それではこの両者の出処はどこか。『長編』の李の自注から判断すると,直接的には邵伯温の『辨誣』と呂大防の「呂公著墓碑」に依って編修したと推定される。(ただし司馬光と御史大夫の典拠は微妙)『辨誣』は北宋末から南宋初年に生きた邵伯温が,紹聖年間に行われた宣仁太后への誹謗(誣)を雪ぐ(辨)ために著したもの。執筆の目的からして,旧法党系の資料になる。『辨誣』現存しないが,同じ邵伯温には『聞見録』があり,以下の記事が発見される。

元豊の官制が出来たとき,皇帝は「御史大夫は司馬光でなければ駄目だ」と仰った。蔡確は進み出て言った,「国是が定まったばかり。願わくは少しく遅らせたまえ。」元豊七年の秋になり,『資治通鑑』が完成した。……この時,皇帝は少し疾病に冒されたが,やがて癒えると,宰輔に「来春に皇太子を立てる。司馬光と呂公著を師保とするつもりだ」と仰った。皇帝は司馬光と呂公著の二公でなければ,皇太子を託すことは出来ぬとお考えだったのだ。来春の三月になり,まだ皇太子を立てられる前に,帝は崩ぜられた。神宗は公(司馬光)を深く信頼されていたのである。煕寧の初年,荊公(王安石)が新法の建議をしたとき,皇帝はこれに惑わされた。元豊の初年になり,聖人の御心は大いに悟られ,荊公を退け,用いられぬこと七年。公(司馬光)を御史大夫に任じ,東宮の師保にとお考えであった。恐らくは宰相にとのおつもりだったのだろう。ああ,天下の不幸,皇帝はまだ公を用いるまえに崩ぜられた。これこそ後世に朋黨の禍の起こった原因である。(『邵氏聞見録』巻11)


もう一つの資料,呂大防の「呂公著墓碑」は,朱熹の『三朝名臣言行録』所引注に「呂汲公神道碑」とあり,呂公著の神道碑であることが分る。ただしこれも同書引用の断片を除いて現存しない。神道碑は行状を本に草されるが,呂公著の行状の執筆者は不詳。もちろん行状も現存しない。

神宗が呂公著を師保に想定していたとする記事に限れば,『名臣碑傳琬琰集』下巻(呂正獻公公著傳實録)の中に同様の文句を見つけられる。『実録』は『哲宗実録』を指すのだろうが,これには蔡京の手になるものと,南宋に編纂された重修本がある。前者は蔡京の手になる通り新法系統の編纂物で,後者はそれを補正する目的で,旧法党の范祖禹の息子の范注が編纂したものである。随って旧法党色の強いものだったと推定される。ただし後者は,蔡京編修の『哲宗実録』を書き直した理由も『重修実録』に添付し,天下に公平を示したそうである。もちろん『実録』は現存しない。

通常,『実録』は官僚の子孫が,その行状を朝廷に提出し,それを本に実録編修の官僚が『実録』附載の「伝」を作製するのだが,『哲宗実録』は成立が複雑なので,現存の呂公著の『哲宗実録』所載の「伝」が何を本にしているのか,蓋然性という点でも不明とせざるを得ない。

随って,『長編』の記事に限れば,呂大防と邵伯温という旧法党系の人物の手になる資料を本にしたことになる。しかし両者ともに神宗から徽宗までの(後者は高宗最初期までの)政治を実際に見聞していた人間である。事件当事者の記事だけに信頼しかねるとも言えるし,その逆も成り立ち得る。

なお『宋史』の記事は『長編』より少し潤色がされている。これが史官の筆(『宋史』編纂官ではなく,恐らく南宋の史官)になるものが,それとも別に基づく資料があってのかは不明である。


ある事件が本当にあったのか否かは,論理的には判断不可能である。しかし神宗が晩年に司馬光や呂公著の登用を計ったか否か示す現存資料の有力な根拠という点に限るならば,旧法党系の手になる資料に基づいているようである。ただしそれは北宋後半の現実政治に無関係な南宋の人間が伝文に基づいて作ったものではなく,該当時期に実際に活躍していた官僚や知識人の手になる文章に基づいたものである。

ちなみに神宗崩御の後,蔡確や邢恕が旧法党(当時は旧人とか呼ばれていた)を用い,自分で自分の首を絞める結果になったという意見もある。元祐の始めに死んだ程は,むしろ司馬光らが政治を執らず,蔡確や章惇らに新法を改訂させた方が無難に行われるのではないかという向きのことを論じている。

原文
「初,元豐五年,將行官制,上於禁中自為圖,帖定未出,先謂輔臣曰:『官制將行,欲取新舊人兩用之。』又曰:『御史大夫非司馬光不可。』蔡確進曰:『國是方定,願少遲之。』王珪亦助確,乃已。……是歳秋宴,上感疾,始有建儲意。又謂輔臣曰:「來春建儲,其以司馬光及吕公著為師保。」(此據邵伯温『元祐辨誣』,及呂大防所為「呂公著墓碑」。大防止稱公著,不及光。當考。)」(『長編』巻350,元豊七年十二月戊辰)

「元豐官制行,(王珪)由禮部侍郎超授銀青光祿大夫。五年,正三省官名,拜尚書左僕射兼門下侍郎,以蔡確為右僕射。先是,神宗謂執政曰:『官制將行,欲新舊人兩用之。』又曰:『御中大夫,非司馬光不可。』珪・確相顧失色。珪憂甚,不知所出。確曰:『陛下久欲收靈武,公能任責,則相位可保也。』珪喜,謝確。帝嘗欲召司馬光,珪薦兪充帥慶,使上平西夏策。珪意以為既用兵深入,必不召光,雖召,將不至。已而光果不召。永樂之敗,死者十餘萬人,實珪啓之。」 (『宋史』王珪伝)

元豐官制成,帝曰:「御史大夫,非用司馬光不可。」蔡確進曰:「國是方定,願少俟之。」至元豐七年秋,『資治通鑑』書成。……時,帝初微感疾,既安,語宰輔曰:「來春建儲,以司馬光、呂公著為師保。」帝意以為非二公不可託聖子也。至來春三月,未及建儲,而帝升遐。神宗知公之深如此。當煕寧初,荊公建新法之議,帝惑之。至元豐初,聖心感悟退荊公,不用者七年,欲用公為御史大夫,為東宮師保。蓋將倚以為相也。烏乎,天下不幸,帝未及用公而崩。此後世所以有朋黨之禍也。(『邵氏聞見録』巻11)



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翻訳を手に余計なことを考える

日本後紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)日本後紀(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)
(2006/10/11)
森田 悌

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去年の秋から冬にかけて出版されたので,いまさらどうこう言うつもりはない。

六国史の三番目のもので,桓武天皇の治世後半から平城・佐賀・淳和の三天皇の時代をカバーする。原本は40巻で六国史の中では比較的大部であるが,既に多くが散佚しており,今では10巻が残るに過ぎない。そのため本書の輯佚作業が代々なされてきた。輯佚というのは,簡単に言えば,既に失われた本の引用文を集める作業である。本書も歴代の成果を吸収しつつ,新たに輯佚を行い,残存の10巻と合わせて現代語訳をしたものだ。

従来の『日本後紀』の逸文は,残存部分と切り離されたものがおおく,研究的ならいざ知らず,私のような素人が目を通すには不便なところがあった。しかし本書は残存の10巻と輯佚部分とを時代順に配列しており,通読には便利である。構成は現代語訳+原文で注釈はない。これについては,原文は必要なのかとか,原文より注釈の方がよかったのではないかとか,いろいろ言えるが,これらは見識の問題なので特に言うことはない。それよりも本書を読んでいて,本文と全然関係のないところに感銘を受けた。それは六国史の翻訳ということである。

考えてみれば,日本史の本があれほど出ていて,研究するところがないと言われるほど研究されておりながら,六国史の全訳もなかったことに改めて感心させられた。もちろん,六国史の翻訳を読めば,この時代が分るわけではない。逆に,個々の文章を正確に読む為にも,多くの研究が必要だと言える。それはもっともなことだ。しかし,それであっても,まだ六国史の全てに現代語訳がないことに,何かしら学問の存在価値を感じざるを得ない。

六国史の翻訳があっても,一般の人は読んだりしないだろう。読んでも事細かに分析はすまい。分析するにも時間がないし,最後には原文と口語訳との壁に悩まされるのがオチだろう。しかし現代人に読める文章がないというのに,我々一般人はなぜこの時代を知っているのだろうか?

学者の概説書や,それを更らに通俗化したような小説,もっと極端には漫画やアニメなんてもので理解しているのかも知れないが,それは結局,それらの本や漫画に語られたことを知っているに過ぎない。

謂ゆる概説書にはその時代の歴史が語られている。しかしそれを語っているのは学者だ。学者の文章が論理的であればあるほど,読者はその解説に感銘を受け,正しさを感じるだろう。しかしそれは学者の文章が論理的だっただけ,あるいは学者の頭脳が論理的であっただけで,なにも歴史の解説が正しいことを意味しない。

我々の知り得ぬ知識を前提にした説明は,我々にはその正当性を判断する根拠を持たない。まず考えられないことだが,すべての学者が全くの出鱈目を書いたら,我々はその出鱈目を正しいものだと思うだろう。どんなに出鱈目でも,歴史を論理的に説明することは可能なのだから。

六国史の翻訳があっても,一般人が読むと思えないが,しかし翻訳されてあれば検証も可能だ。捌ききれない分量の残る近世ならいざしらず,六国史の分量であれば,その重要性を鑑みて,とうの昔に現代語訳が揃っていてもよさそうなものだ。それがまだなかったということに,本書を手にとって,妙に感じいった。

ともあれ『日本後紀』が私のような素人にも読めるというのは,ありがたい話しである。もっとも私には『後紀』の原文などよめないから,現代語訳が正しいかどうかなんて分かりはしないんだが。


ちなみに,こんなことをいうと,それこそ史料も信用できないということになる。それはそうだ。私もそう思う。人間から離れた客観世界を写す歴史書なんてものは存在しない。だから史料を前提にして客観界の歴史を組み立てるなんぞもあり得ない。ではそんないい加減な史料を一生懸命研究して,何が得られるというのだろう。歴史とは何か。いや,そもそも歴史はなぜ研究されなければならないのか。私は歴史家ではないので,こんな問いに答える義務はない。

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日本史の怪?

粟田真人という古代の有名人を調べると,日本のwikiにないのに,中国のwikiには存在する。それも中国語のは妙に詳しい。

粟田真人は古代日本で中国と直接接触のある数少ない人間だから,それはそれで構わないが,「就此观之,中国对日本国号之承认,粟田真人功不可没。」という表現が妙に笑えた。

日本を莫迦にしてるのか,日本人になりきって書いたのか,気持ち悪くも味のある表現だ。

しかし,日本のwikiに記事がないので,中国語のwikiから他言語のリンクが貼られてないのだが,中国人は奇妙に思わないのだろうか?

かくいう私も,むかし中国のwikiより細かい記事を日本語版で書いたことがあるので,人のことは言えないわけですがね。

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風邪引きの戯言

土曜日以来,風邪をひいたようで,『東都事略』の李定と舒亶を終わるどころか,本を開くのも億劫な状況になってしまった。下を向くと鼻水が垂れるし,椅子に座ると熱でもあるのか腰が痛いしと,情けない話しだ。

その頭の痛い状態のとき,ふとむかしの不満を思い出したので,忘れないうちに書いておこう。

今の私にはほとんど無意味な言葉だが,昨今はグローバル化がすすんで,研究も英語が重視されている。本ブログでよく書くような中国史方面の場合は,中国語と英語が必要で,それ以外にも違う言語ができた方がいいし,できなければならないという。

私個人としては,確かに英語で論文を書いた方が人に読まれる機会が多い。折角価値のある研究をしても,世界のリンクから外れてしまってはもったいない。だから英語で書いて,より多くの人の目に止まるようにすべきだというのは,少なくとも間違った議論ではない。また中国語というのは,程度の差はあれ,中国史を扱う場合に必要なのだから,これが必要だというのは,今に始まったことではない。第四以下の外国語も,できるにこしたことはない。これも正論だと思う。

しかし何かしら不満があった。例えばグローバル化で英語が必要なら,なぜ第四以下の言語を必要とするのか。これは第四以下の諸国でなされる研究に価値があるからだろう。私はここに疑問を感じたのだ。

何度も言うが,日本人が英語で論文を書くことに全く反対ではない。しかし仮に日本の研究に極めて価値があり,他の言語を使う人間が英語と中国語の外に日本語が必要だと思えば,日本語を勉強せざるを得ないだろうし,日本の論文(日本語だとは限らない)を参考にする必要が生まれるだろう。しかし残念なことに,日本語の文献はもう読まなくてよいという意見は,私が勉強していたときから日増しに強くなっていた。それは日本人すら薄々は感じていた。多分,今ではそれ以上だろう。

何故だろうか。答えは簡単で,日本に売る物がなくなったのだ。常識で考えても明らかなことだが,欧米や中国の研究を日本に紹介する価値があるのは,多くの人がそれらの言語を収得していないときだけである。これらの研究は,英語圏や中国ではほとんど意味がない。せいぜい他国で自国の研究がどう評価されているのかを知る程度の価値しかないが,日本の研究に価値がなければ,そもそも日本の研究状況など相手にはしないだろう。では日本国内はどうかと言えば,これも需要は日々減退していかざるを得ない。それほど多くの研究者が英語も中国語もできるようになれば,一々それらの言語の説明などいらない。必要なのは,研究機関の設備(本の収蔵)だけである。

では欧米の研究や中国の研究を模倣した研究はどうか。これはもしかすると日本ではある程度の価値があるかも知れない。なにせ研究者というのは,自分の研究の前に,価値観として欧米イズム(こんな言葉はないが)を自分にたたき込み,これを基礎に生活しているからである。しかしこのような模倣研究は,欧米や中国では何の存在価値もない。

これはあたりまえのことである。模倣研究という言葉が既に示すように,模倣研究が模倣するその対称,すなわち研究の本場は欧米と中国なのである。だれが好きこのんで模倣者の研究を読むために,面倒な日本語を一々収得するのだ。自分のことを考えても明らかだと思う。欧米の研究を模倣しただけの中国の研究が出ても,そんな中国書籍を読もうとは思わないだろう。わずかに優れたものを拝見すればそれで事足りるのだ。もし難解な言語の研究書なら,物好きに翻訳してもらえばいい。いかに翻訳が難しくとも,これくらいの労力なら折れないではない。

要するに日本の研究が英語や中国の研究を模倣する必要があるのは,日本に売り物が無くなったからである。欧米からも中国からも,日本の研究が必要とされなくなったからである。だからもし日本の研究を意義あるものにしたければ,それは単に外国語の習得とかいう程度の問題ではない。日本の研究そのものに価値を附与させなければならないだろう。その場合の価値は,明らかに思考上でも経験上でも劣勢に立つ模倣の研究では生み出せないのではないか。(特殊な例外は除くが)ならばどうしても日本の研究の特化や尖鋭化は避けられず,そのような特化された中に,どうしても世界が日本の研究に注目せざるを得ない研究を出すしかない。

英語は結構なことだ。特に世界中で英語が利用されている現在,英語で自己の意見を発表するのは最も有効だろう。だが如何に英語で論文を書いても,中味がなければゴミである。価値ある研究成果でなければ,どれほど美しい英語で論文を書いても,誰も読みはしないのである。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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