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四庫提要(春秋類)013

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

『春秋通義』1巻

○両江総督採進本

著者の姓名が記されていない。『宋史』芸文志を調べると,蹇遵品・王・家安国・邱葵に『春秋通義』があり,彼らの書物はどれも散佚して現存しない。蹇氏と王氏の著書は各十二巻,家氏の著書は二十四巻,邱氏の著書は二巻である。本書は一巻を残すにすぎず,総計四十八条ある。本編冒頭に小序が冠され,「孔子は春秋に手を加えたが,旧史の文に依拠し,新たな意味を加味したもので,正例はこれを筆にのぼし,通常の事柄は削除した。また誤謬や乖離があれば訂正した。別にこれをまとめて特筆と題する」と言い,小序の最後に「特筆」の二字を標題として出している。恐らく本巻は『通義』の一部なのであろう。ただ四人の中の誰の著書であるかは分らない。

しかしながら〔特筆についてまとめたとは言うものの,〕星隕如雨(星隕ること雨の如し)の一条(*1)について,公羊伝は「不修春秋(*2)には『隕星不及地尺而復(星隕り地に及ばざること尺にして復る)』とあったが,君子がこれに手を加えて『星隕如雨』とした」と言っている。これはただ旧文を潤色しただけで,褒貶に関わるものでないが,〔本書はこれを〕特筆とみなしている。これは道理の通らぬものである。また「華督には君を無視する心があり,その後に悪事に動いた。だから先に殤公を書き,その後に孔父を書いた」(*3)ことは,〔左氏〕伝に明文があり,確かに特筆といえる。ところが〔本書に〕かえって言及がないのは,疎漏に属すものである。しかし「春秋二百四十二年,獲麟で終わるのは,乱が極まれば必ずや治にもどるものであり,王者の功業は決して滅びぬことを明らかにしたのである」(*4)と言っている。これなどは諸学者に比べて甚だ見識あるものである。

『四庫全書総目提要』巻26



(*1)莊公7年経。公羊の経に随うと,「夏,四月,辛卯,夜,恆星不見。夜中,星霣如雨」とある。「星隕如雨」は穀梁と左氏の経文。
(*2)不修春秋:孔子が修める前の『春秋』の謂。旧文のこと。
(*3)華督(華督父)云々は,桓公二年の経文「宋督弑其君與夷,及其大夫孔父(宋督 其の君の與夷を弑し,其の大夫の孔父に及ぶ)」に対するもので,四庫官は左氏伝によって解釈している。左氏伝には「宋督攻孔氏,殺孔父而取其妻。公怒。督懼,遂弑殤公。君子以督為有無君之心,而後動於惡。故先書弑其君(宋の華督は孔氏を攻め,孔父を殺してその妻を奪った。殤公はこれに怒った。督はこれを懼れて,ついに殤公を弑した。君子は華督には君を無視する心があり,その後に悪事に動いたと考えた。だから経文には孔父の殺害よりも先に「其の君を弑した」と書いてあるのである)」とある。ただし穀梁伝は「書尊及卑,春秋之義也(尊貴のものを書してから卑賤のものに及ぶのが春秋の流儀である)」と解釈し,左氏伝とは異なっている。宋代では穀梁伝の説を採る場合が多い。
(*4)獲麟条に見える。

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四庫提要(春秋類)012

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

王『春秋皇綱論』5巻

○内府蔵本

宋の王の撰。太原の人間と自称しているが(*1),その生涯は知る術がない。陳振孫の『書録解題』には「太常博士になった」というが,龔鼎臣の『東原録』を調べると,真宗の天禧年間に銭惟演が曹利用と丁謂を〔朝廷に〕留めたことを載せ(*2),そこに「晏殊は翰林学士の王に語った」とある。(*3)ならば太常博士に終わったわけではあるまい。王応麟の『玉海』には「至和年間,は『春秋通義』十二巻を著した。これは三伝注疏と啖助・趙匡の学説にもとづいたものである。それらの所説の中,適切なものは経文の下に配置し,〔三伝注疏や啖助・趙匡らの解釈が〕無い場合は自分の考えを示した。これ以外に『異義』十二巻と『皇綱論』五巻があった」とある。現在,『通義』と『異義』は残らず,本書だけ現存している。〔本書には〕総計二十二の論述があり,いずれも孔子の筆削の主旨を明らかにし,三伝と啖助・趙匡らの是非を弁駁したものである。(案語。趙匡を本書はすべて趙正と記している。これは太祖〔趙匡胤の「匡」〕の諱を避けたものだろう。本書の尊王下篇に『論語』を引用して「天下を一正す」(*4)とするのも,これと同じである。)

本書の発言は明白平易なものが多く,穿鑿附会のところはない。孔子修春秋篇には「もし〔春秋は〕ただ乱臣賊子を恐懼せしめるためだけにあるというなら,賢者を尊び,善人を称美するという〔春秋の〕主旨が欠けることになる」とあるが,これは孫復らの〔春秋に〕貶すことはあっても褒めることはない(*5)という学説を破るに足るものである。また傳釋異同篇には「左氏は旧史を閲し,諸種の学説を兼ね備えており,春秋の事迹を伝えること甚だ完備している。しかし経書の外に立って一書を成しており,異説に心を惑わせ,史料の取捨にも不適切なものがある。聖人の微旨〔を解釈する〕に至っては,頗る粗略なところがある。〔左氏伝は〕発端と結末のあらましが具備しているので,恐らく一人の手になるものであろう。公羊と穀梁の学説は議論を根本としており,諸学者の説を選んで経文の下に繋いでいる。(*6)だから事迹を詳細に論ずることはできないが,聖人の微旨については〔左氏伝よりも〕深く探ったものが多い。しかし曲説や無意味な学説(*7),浅薄な発言があちこちにある。恐らく多くの学者の講述から生れたのであろう」(*8)とあり,また「左氏は一時の言動の善悪や卜筮・呪術などによって人の禍福を予測し,すべて的中していると言っているが,これは〔左氏伝の〕弊害である。だから〔経を読むものは〕左氏伝の文章〔から正しい部分〕を選んで,経文の意味を理解しなければならない。例えば,玉(宝玉)に疵があっても,疵に目を瞑って玉を用いればよいだけであって,玉そのものを棄ててしまってはならない。〔公羊と穀梁の〕二伝についても同様である」とも言うが,これも孫復らの全く三伝を捨てた(*9)学説を破るに足るものである。宋代の春秋解釈家の中にあって,古代以来の宗旨を失わなかったものというべきであろう。

ただ郊禘篇において「周公は郊禘の祭祀を行うべきであり,成王が〔周公に祫禘の祭祀を〕賜わったのは正しく,魯の国がこれを用いたのも僭礼ではない」といい,殺大夫篇において「およそ〔経文に〕『大夫を殺した』と書かれたものは,すべて大夫――機を見て〔殺される〕前に国外に逃げなかった――を処罰したものである」というのは,偏った見方であり,聖人の教えとするに足らない。

『四庫全書総目提要』巻26



(*1)通志堂本には「太原王」とあることによるのであろう。
(*2)『東原録』によれば,余命を知った真宗が曹利用と丁謂を排斥しようとしたとき,銭惟演が二人を庇って朝廷に留めたとある。
(*3)四庫本の『東原録』には「晏相嘗説與王哲學士」とあり,提要と微妙に誤差がある。
(*4)「天下を一正す」,『論語』は「天下を一匡す」に作る。
(*5)原文「有貶無褒」。前回の『尊王發微』の補足を参照。
(*6)公羊傳と穀梁傳は,経文一条ごとに解釈(伝)を発しているので,経文に解釈を繋けると表現している。左氏伝は一年の経文を列挙した後,伝だけまとまって存在する。だから経文ごとの解釈は公羊・穀梁よりも分りにくい。
(*7)原文「曲辨贅義」。あるいは贅義は無経の伝を指すかとも思われるが,無形の伝は左氏伝に多く,公穀の特徴と断ずることはできない。
(*8)王によると,左氏伝は一人の人間が親筆編修したものであり,公羊傳と穀梁伝は複数の人間の発言が集まって出来たものである,ということになる。理由は,左氏伝は首尾一貫した書物であるのに対し,公羊傳と穀梁伝は論旨が多岐に渡って,筋が通っていないから,と。
(*9)原文「盡廢三傳」。春秋三伝を一切用いることなく,春秋経文を読み解いていく立場を指す。宋代以後の主流的立場の一つ。

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四庫提要(春秋類)011

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

孫復『春秋尊王発微』12巻

○内府蔵本

宋の孫復の撰。復,字は明復,平陽の人。生涯は『宋史』儒林伝に詳しい。李の『続資治通鑑長編』によると,「〔殿〕中丞(*1)・国子監直講の孫復は春秋学を修めたが,三伝や〔杜預らの〕旧注に誤られることなく,その発言は簡易で,春秋経の本旨を得たものだった。〔不治の〕病に倒れると,枢密使の韓が主上にこう助言した。――書記と紙を与えて,復の門人の祖無択に命じて復の家で〔その学問の成果を〕記録させるように,と。かくして十五巻の書物を得たので,秘閣に収蔵した」とある。しかし本書は十二巻である。『中興書目』を調査すると,復には別に『春秋総論』三巻がある。蓋し両者を合せて十五巻としたのだろう。現在,『総論』は散佚してしまい,ただ本書だけが残っている。

復の学説というのは,上は陸淳を淵源とし,下は胡安国を導き,春秋には貶したところはあっても褒めたところなどないというもので,主として厳罰主義を重んじたやり方である。晁公武の『読書志』は常秩の発言を載せ,「明復の春秋学は商鞅の法のようなものだ。灰を道に棄てたものは処罰され,歩が六尺を超えたものは誅罰される」と言っている。蓋し篤論であろう。しかし宋代の諸学者は厳罰主義を喜び,かえってこれを称讃しあい,波に乗って返ることなく,ついに孔子の筆削を曲げて冤罪の経書にしてしまった。そもそも孟子ほどに春秋を理解したものはいないが,そこでも「春秋が作られて乱臣賊子は恐懼した」というだけである。もし二百四十年の間,あらゆる人間が乱臣賊子だとでもいうのなら,復の所説は当たっている。しかし全てが乱臣賊子でないというなら,聖人はきっと〔すぐれた人間や事柄を春秋に〕記録したであろう。それがなぜ「天王から諸侯・大夫に至るまで,あらゆる人間,あらゆる事柄に誅罰が加えられているのだ」などということになろう。(*2)〔聖人の微旨を〕厳しく求めすぎたため,かえって春秋の本旨を失ったのは,実に復から始まったものである。その所説には,人間のあり方を弁別し,紛らわしい事柄を明白にしたところがあり,〔天下国家の〕興亡治乱の機宜について前人未踏の学説を提起したところもある。しかし総じて言うなら,やはり功績はあっても罪過を補うに足らないものである。以後,春秋を修め,厳罰主義を採ったものは,大概みな本書を根拠とした。だから特に本書を〔四庫全書に〕登録し,〔厳罰主義の〕依って来たるところを明らかにするとともに,右の如くその得失を詳細に論じたのである。

程端学によると,〔復には〕『尊王発微』と『総論』の二書の外,別に『三伝辨失解』があると言う。朱彝尊の『経義考』もこれに依っている。しかしそのような書物は史書に記録がなく,諸学者が言及することもない。『宋史』芸文志と『中興書目』を調べると,両書ともに王日休の手になる『春秋孫復解三傳辨失』四巻が見える。端学は間違って日休の著書を復の著作と考えたのだろうか。それならば日休の書は復を反駁した書物であって,復の著書ではない。

『四庫全書総目提要』巻26



(*1)殿中丞:原文は中丞に作る。『長編』巻186には「殿中丞」とある。宋代で単に中丞というと御史中丞を指すが,孫復は学者馬鹿なのでそんな高官にはなれない。四庫官の引用ミスだろう。
(*2)まずい訳で恐縮だが,孫復の春秋学を全く知らない人は理解できない文書だと思う。要するに四庫官は,春秋には善悪両方とも記録されており,聖人は悪は貶すが,善は褒めたということが言いたいのである。孫復の立場は下の注を参照。

(*)四庫官の発言は要点を押さえているが,訳してみると,この時代の春秋学を全く知らない人には意味が分らないようにも思われる。少しだけ補足しておく。

春秋学には褒貶があるとされる。つまり,聖人は『春秋』を著し,春秋時代の善人や善事を褒め,悪人や悪事を貶したとされる。これが一般的な春秋学の立場なのだが,孫復はそう考えなかった。

彼は考えた。――春秋時代は中華的秩序が崩壊に向かう時代であった。その最後のときに生きた孔子は,その狂った時代を写し取るべく『春秋』を著した。随って,『春秋』に書かれたものは,すべて中華的秩序の崩壊を記したものである。随って,『春秋』に記されたものは全て否定されるべきことである。随って,『春秋』に記されたものは全て貶されたものである。随って,『春秋』には聖人が褒めたところなど一つもないのである,と。

この立場(訳文では厳罰主義としておいた)は,南宋の胡安国の春秋学と結びつき,清朝の初期に叩き潰されるまで,数百年の間,春秋学の最も中心的な学説となった。しかし四庫全書が編纂された当時,諸般の事情でこの立場は既に否定されていたので,四庫官もその公式的立場から孫復の学説をぼろくそに非難したわけである。

つまり「春秋には善悪両方とも記録されており,悪は貶すが,善は褒められている。ところが孫復は『春秋は貶しても褒めない』と言っている。これは全く間違った考え方である。孫復の学説には見るべきところも多いが,概して短所に目を潰れるほどの長所はない。しかし後々の主流学説となったので,その間違いを懲らすためにも,発端となった孫復の学説を四庫全書に登録し,且つその間違いを徹底的に論じておく」と。

なぜ孫復がこんな学説を提出したのか,またその学説そのものの内容はどんなものか,なぜ清朝初期にこの学説が衰退したのかについては,面倒なので省略する。知らなくても上の提要を理解するには差し支えない。

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四庫提要(春秋類)010

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

『春秋年表』1巻

○浙江鮑士恭家蔵本

著者の名氏が記されておらぬ。陳振孫の『書録解題』には次のようにある。――「『春秋二十国年表』一巻,誰の作か分らぬ。周以下,魯・蔡・曹・衛・滕・晉・鄭・齊・秦・楚・宋・杞・陳・呉・越・邾・莒・薛・小邾を列挙している。『館閣書目』には『年表』二巻とあり,『元豊年間に楊参齢が著した。周の以下,全十三国のこと』(*1)とある。また董氏の『蔵書志』にも『年表』があり,『著者名なし。周より呉・越に至るまで全十国。征伐・朝覲・会同について全て記されてある』(*2)とある」。今,この表はちょうど二十国であり,『書録解題』の記載と同じい。蓋し陳振孫の見たものであろう。

本書は宋代にあって当然ながら単行本であったが,岳珂が九経を印刷したとき,春秋の最後に附録として付けたものである。珂の附記には「『春秋年表』について,現行本は諸国の名号を欠くものや,年月に乱れがあり,経伝(春秋経および三伝)と比較したところ間違いが多かった。今,それらはすべて訂正した。諸国の君主の死亡と即位についても全て記されているが,ただ魯国についてだけ欠けている。今,それらは経伝によって増補した。廖本には『年表』と『帰一図』がない。現在,公羊伝と穀梁伝を印刷したので,〔『年表』と『帰一図』の〕二書をあわせて経伝の最後に附することにする」とある。本書は珂の増訂を経て,馮継先の『名号帰一図』とあわせて印刷されたのである。『通志堂経解』は岳珂の言葉を考えもせず,『名号帰一図』と同じ書物にしてしまい,さらに〔『年表』を〕馮継先の著書とみなしている。(*3)誤解も甚だしいと言わねばならぬ。

『四庫全書総目提要』巻26


(*1)ちなみに『書録解題』(武英殿本)はこの後に「仍総計蛮夷戎狄之事」と,畏るべき文字が記されてある。
(*2)現行本の『年表』は君主の卒廃立奔が記されるのみで,征伐・朝覲・会同などの指摘はない。同系統のものに『史記』の表があるので,間違いの多い本書にそれほど利便性はない。(まあ現在通行している通志堂本は,劣悪印刷のおかげで極端に見にくい本になっているので,内容以上に評判が悪くなっているのだが)
(*3)私の手持ちの通志堂経解は同治本(修訂本のようなもの)のためか,それとも劣悪な縮刷本のためか,『年表』と『名號歸一圖』は別書とされている。ただし同治本冒頭に附された康煕本(納蘭性徳らの初版)の目録には,「春秋名號歸一圖二巻(宋馮繼先)」としており,初版に『年表』と『名號歸一圖』を合併していた痕跡はある。何分,康煕本そのものを見ていないので不詳。まあ見ることができればすぐ分ることだが……
(*)ちなみに通志堂経解は康煕本と同治本で出入りがある。最も単純には,同治本には補正や訂正,あるいは不穏当発言の削除が加えられた外,なぜか孫覚の『春秋経解』が省かれている。理由は知らない。

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四庫提要(春秋類)009

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

馮継先『春秋名号帰一図』2巻

○兩江總督採進本

蜀の馮継先の撰。陳振孫の『書録解題』には「本書に列挙する人名〔の順序〕は,周が第一,魯が第二,斉が第三,晉が第四,楚が第五,鄭が第六,衛が第七,秦が第八,宋が第九,陳が第十,蔡が第十一,曹が第十二,呉が第十三,邾が第十四,杞が第十五,莒が第十六,滕が第十七,薛が第十八,許が第十九,そして雑小国が第二十である」とある。しかし『崇文総目』には「本書は官・諡・名・字を初名の左側に集めたものである」とあり,『文献通考』も李の言葉を引いて「むかし〔左〕丘明が春秋を伝えたとき(*1),列国の君臣の名や字を統一せず,多い場合には〔呼称が〕四つも五つもあった。そのため学問を始めたばかりのものは,〔呼称が〕紛々として覚えにくいことに苦しんだ。繼先はその同じものを集めて一百六十篇とした」と言う。この〔『崇文総目』と李の〕二つの発言から推測すれば,継先の旧本はもともと〔名前を〕横に傾斜して列記したもので,表譜のような体裁であり――だから「図」と名が付けられた――,一百六十篇に分けられていたと思われる。ところが現行本の体裁は振孫の発言と同じで,一人を一条としている。既に初名の左側に〔異名を〕集めたものではなく,また謂ゆる一百六十篇というものもなく,『崇文総目』や李の所説と全く異なっている。

岳珂の版行した『相台九経例(刊正九経三伝沿革例)』には,「『春秋名号帰一図』二巻は版本に間違いが多い。むかし京本,杭本,建本,蜀本によって校勘してみたところ,例えば氏名に異同があるとき,本当は複数人なのに,一人としている場合や,名は異なっていても,実は同一人であるのに,〔間違って〕二人としている場合,ある国から他国に嫁いだとき,〔女性を〕両国に記録している場合,某公や某年が経や伝と異なる場合,伝を経と間違えたり,注を伝と間違えている場合,部首の類似から魯魚の誤りを犯している場合,行が連続して区別がなくなっている場合などがあった。今,すべてその間違いを訂正し,且つ行を分けて別記した」とある。ならば現行本は珂が校正配列したもので,李以前の旧本ではない。の発言によると,「宋の大夫の莊菫と秦の右大夫のは,もともと左氏伝に「父」の字などなかった。しかし継先は軽々しくこれを増加している。(*2)他にも子韓は斉の頃公の孫だとされており,『世族譜』も左氏伝と同じである。しかし継先は韓子のことだと考え,楚と鄭にいる二人の公孫黒と同一篇に入れている(*3)」とある。しかしこの本(*4)を調査したところ,そのような文はなかった。ならば珂が削除したのは明白である。

『四庫全書総目提要』巻26



(*1)左氏伝を作ったとの謂。
(*2)莊菫の名は昭公21年左氏伝,右大夫は襄公11年左氏伝に見える。
(*3)子韓の名は,昭公14年左氏伝に見える。同一篇云々の原文は「與楚鄭二公孫共篇」となっている。四庫官の指摘の通り現行本と体裁が異なるため,「共篇」の意味はよく分からない。なお鄭と楚にいる公孫黒は,鄭の公孫黒と楚の公孫黒肱で,いずれも子と呼ばれる。
(*4)この本:四庫提要を書くための底本。通常は四庫本を指すが,まま提要と四庫全書とは版本を異にする場合があるので,正確には四庫提要執筆者の手許にある版本ということになる。

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四庫提要(春秋類)008

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

陸淳『春秋集傳辨疑』10巻

○江蘇巡撫採進本

唐の陸淳の撰で,啖助・趙匡両氏の三伝駁正の発言を叙述したものである。〔本書について〕柳宗元の手になる淳の墓誌には『辨疑』七篇とあり,『唐書』芸文志も同じであり,呉萊の手になる序文も七巻と言っている。ところがこの〔手許にある〕本は十巻である。誰が分けたものか不明である。刊本には萊の序文の末尾に,延祐五年十一月の集賢学士の克酬(原本は「曲出」に作る。今,改正する)の発言を添付しているが,そこには「唐の陸淳の著書――『春秋纂例』『辨疑』『微旨』の三書は後学に有益である。そこで江西行省に上梓するよう求めた」云云とある。分巻されたのはこの時であろうか。

淳の撰述した『纂例』は,啖助が逐条列挙し,みずから筆削の主旨を明らかにしたものであり,三伝批判については大意を挙げるに止めたものと考えられる。本書は三伝の学説の中で『纂例』に採用しなかったものを取り上げ,その間違いを列挙し,一字一句につき批判を加えている。このような理由で辨疑と名づけられたのである。引用は趙匡の学説が多く,啖助はそれに次ぐ。冒頭に凡例一篇計十七条を冠しているが,〔それは『集傳』で〕経文や伝文を節録したことについて弁明したものである。〔三伝の学説の〕採用不採用については,経文の年月にしたがって説明を加えている。

本文中,「鄭伯克段(鄭伯 段に克つ/鄭伯が段に勝った)」の伝(左氏)について,啖氏は「鄭伯は母を幽閉しはしなかったろう」と言うが,臆断の嫌いなしとしない。このようなやり方を認めては,信頼できる史書など存在しなくなる。まして大隧の古跡は『水経注』に明記されている。左氏の虚偽だと言い張ることはできまい。この種の論法は,伝統に泥むこと以上に弊害を生じるものである。(*1)

また「斉衛胥命」の伝(公羊および穀梁)について,伝の学説は『荀子』と同じである。〔公羊や荀子が生れた〕当時,聖人〔孔子〕の生きた時代に接近していたのだから,きっと〔筆削についての〕伝承があったのだろう。ところが趙氏は「無礼を譏ったのである」としている。この種の論法はあら探しの譏りを免れまい。(*2)

また「叔姫歸于紀(叔姫 紀に帰ぐ/叔姫が紀に歸いだ)」の伝について,穀梁は「〔経文に〕『逆(むか)えたこと』を言わぬのは,卑しきものが逆えたからである」と言っている。淳は「逆えたことを言わぬのは,夫みずから逆えたからである」と言う。そもそも礼に於いて,媵(=叔姫)を送ることはあっても,媵を逆えることはない。だから伝の間違いではあろう。しかし礼として,みずから妻を迎えることはあっても,みずから娣姪(=叔姫)を迎えることはない。淳の説も当を得たものと言えぬ。この種の論法は,相手を批判すればするほど支離に陥るといったものである。(*3)

しかし左氏は事実に根拠はあるが論述に粗雑なところが多く,公羊と穀梁はいつも曲折を吐き,中でも公羊は特にひどいものがある。漢代以来,学者は専門を守り,甘きを論ずるものは辛きを忌み,赤を認めるものは白を譏っていた。本書と『微旨』が世に出て以来,三伝の誤謬を攻撃し,それを利用すること(*4),往々にしてその核心を衝くものがあった。美点と欠点が並び存するとはいえ,その核心に就いて見れば,確かに漢代以来の学者が未だ発見し得なかった〔聖人の微旨を明らかにした〕ものがある。根拠のない空論を振りし,末節を争うような〔末流の〕学者と同列に論ずることはできない。

『四庫全書総目提要』巻26


(*1)春秋始まってすぐ見える鄭伯(鄭の莊公)とその弟の公子段との争いを前提に置いた話し。兄弟の争いの詳細は『左氏伝』隠公元年伝を参照のこと。『左氏伝』の記事を簡単に説明すると,鄭の莊公が即位した後,弟の公子段と権力闘争を始めたが,兄弟の生母は弟に加担した。後,兄の莊公は弟の公子段を追放(または殺害)するに至り,弟に加担した生母に対しても,黄泉の国でなければもう面会しませぬと言って幽閉した。しかし莊公の生母に対する情愛は絶ちがたく,潁考叔の助言を得て,地下道を掘って(黄泉の国になぞらえて)生母に面会し,親子のわだかまりは解けたというお話し。この時の地下道を隧(大隧)と言った。この『左氏伝』の解釈に対し,啖助は『辨疑』巻1の鄭伯克段于鄢条に於いて,鄭の莊公は一時の迷いで弟の訓育を誤ったに過ぎぬのだから,生母を幽閉することなどあり得ぬと論断した。この啖助の見解に対し,四庫官は,『左氏伝』が指摘する生母幽閉事件に登場する「大隧」は,『水經注』(古代の地理書)に確かに存在するのだから,『左氏伝』のエピソードが全くのニセモノだとは考えられない。(大隧は四庫本『水經注』の巻22に見える)啖助の論断は,単に自分の思いこみを論断の根拠にしており,到底その正当性を認められない。自分に都合の悪い史実はすべて間違いだというような論法を認めては,あらゆる歴史書は無意味になってしまう,伝統的学説を盲信する学者よりも危険なやり方だ,と主張したのである。

(*2)胥命は桓公三年に見える経文の文句。古来,難解の一つに数えられるものである。胥命は諸侯同志が約束することを意味するが,これは誓約書を作り,生贄の血を注いで神に約束の実行を誓うという儀式を行わず,単に口約束ですます。つまり諸侯同志の発言は信頼で結ばれており,一々誓約書を交わしたり,神に誓う必要はないのである。ところが春秋の時代はそのような口約束はほとんど無意味であったから,敢えて誓約書を作り神に誓う「盟」の儀式を行った。ところが桓公三年に齊侯と衛侯は胥命を行っている。諸侯が勝手に会合を持つのは好ましくないとはいえ,盟の儀式を行うよりはよほど善い。だから公羊伝と穀梁伝は「経文に胥盟と書かれてあるのは,ほぼ正しいことだということを聖人が読者にお示しになったのだ」と論評を下した。これに対し,趙匡は『辨疑』巻2の桓三年齊侯衞侯胥命于蒲条に於いて,「会も寓(注‐いずれも経文に見える言葉)も盟を言わぬ。会や寓も〔胥命と同じく〕口約束だけですますものだ。なぜこの〔胥命の〕経文だけを特別視できよう。また〔齊侯と衛侯の〕二君は賢君といえず,特異の事迹もなかった。経文から判断すれば,〔胥命と書いてあるのは〕齊侯と衛侯には人君として行うべき礼がなかったことを譏っただけだなのだ」と批判した。趙匡は胥命を「諸侯の会合に相応しからぬ粗雑な会合」とみなしたのであろう。この趙匡の見解に対し,四庫官は,『春秋経』が成立して以後,孔子の遺志は弟子達に伝えられたはずだが,その遺志は戦国末期にはまだ残っていたはずだ。その戦後末期の大儒である荀子には,「春秋は胥命を善しとしている」(大略篇)とある。ならば胥命を善と理解するのは孔子の遺志と認めることができ,趙匡のような勝っては発言は慎むべきだということになる。四庫官からすれば,趙匡は無理矢理でも三伝の間違いを見つけ出し,別の解釈を導こうという姿勢があるように見えたのである。なお現在では『荀子』大略篇は成立の遅い篇とされている。

(*3)叔姫云々は隠公七年に見える経文。穀梁伝および范注に従えば,叔姫は五年前に紀に嫁いだ伯姫の媵ということになる。媵とは夫人が他家に嫁ぐとき,付き添いでやって来る親族の女性を指す。また叔姫の場合は,伯姫からすれば,伯姫の娣姪(妹もしくは従姉妹)となる。陸淳の発言は『辨疑』巻1の七年叔姫歸于紀条に見えるもので,「穀梁は『逆を言わぬのは何故か。卑しきものが向かえた逆えたため,言うに足らぬからである』という。逆を言わぬのは,いずれも夫じしんが逆えたからである。経文に書さぬのは,尋常のことであれば書さぬからである」という。これに対し,四庫官は,媵に夫の出迎えも親迎もないとし,媵に出迎えを認める穀梁の学説を斥ける一方,媵の親迎を認めた陸淳の学説も達論とは見なさなかった。なお礼には「諸侯は夫人を迎える場合に親迎(みずからお出迎えすること)すべきだ」とする規定があると言われるが,これには古典籍中に反論があり,定説とはなっていない。親迎云々は宋代の解釈で大もめになった議論の一つでもある。

(*4)原文「抵隙蹈瑕」:抵隙は間違いを批判すること,蹈瑕は失敗を利用すること。直後の「往往中其窾會」と併せて,「陸淳らの三伝批判のポイントは,なかなか核心をついていた」という意味と推測される。「三伝の誤謬を攻撃し,それを利用すること」と訳したが,「蹈瑕」の意味の取り方には自信がない。

*思わず長くなってしまった。疲れるので次回から細かい注釈は省略する。

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四庫提要(春秋類)007

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

陸淳『春秋微旨』3巻

○内府蔵本。

唐の陸淳の撰。

案語。陳振孫の『書録解題』には「『唐書』の芸文志には陸淳の『春秋集伝』二十巻とあるが現存しない。また『微旨』一巻とあるが未見である」とある。袁桷は淳の『春秋纂例』の後序に於いて,「杭州で『微旨』三巻を手に入れた。皇祐年間の汴京(開封)の刊本である」と言っている。恐らく本書は開封で印刷されたもので,南渡以後に刊本の流通がなくなり,桷が北宋の旧版を手に入れてから,また世間に流通するようになったのだろう。柳宗元は淳の墓表を作ったが,そこでは「『春秋微旨』二篇」と言っており,『唐書』の芸文志も二巻としている。この本は三巻である。いつ分巻されたのか判然としない。しかし本書冒頭に淳の自序があり,全三巻である旨が論じられている。柳宗元の文集を校正したものが三篇を二篇と間違え,『唐書』を編纂したものが柳宗元の文集を襲ったのだろうか。

本書はまず三伝の異同を列挙し,継いで啖助と趙匡の学説を参照し,その是非を判断している。自序には「常道に反することで却って道に合致せんことを求めた事柄,一見正しきも内心に姦悪を潜ませる行為,もともとは正しかったが結末は邪悪になったもの,始めは間違っておりながら結局は正しくなったものなど,紛らわしいものについて,すべて細かく分析し,経の主旨を明らかにした。この故に微旨と名づけるのだ」とある。本書は淳の自撰ではあるが,解釈ごとに逐一「私が師より聞いたところによると」と記している。これは学の由来を明らかにしたものである。

また自序には「三伝の旧説はすべて〔『微旨』の本文に〕残したが,解釈の当否は朱と墨とで区別した」とある。現在通行の本は,朱書されるべきところに対し,方匡(四角の形)によってその始めと終わりを示している。(*1)皇祐の旧版は木版のために朱墨を利用できず,そこで『嘉祐本草』の用法によって,陰文と陽文(*2)を用いて印刷したのだろう。後世の人が印刷に付したとき,これでも雙鈎(*3)の技法が難しいというので,ついに方匡での区別に代えたのだろう。これらは本書の大筋に関係するものではないので,今はしばらくその方式に拠り,旧例をここに付しておく。

『四庫全書総目提要』巻26



(*1)現物未見につき不詳。恐らく本文を四角の中に包むか,〔 〕もしくは[ ]の中に入れているのだろう。
(*2)陰文陽文:印刷文字を凸(陽文)にするか凹(陰文)にするかを指す。凹にすると,紙面に浮かぶ文字は白抜き文字となる。PC上のことで言えば,文字カラーを白にして背景を黒にする,もしくは文字を反転させることを意味する。
(*3)ここでは印刷上の文字処理の用法を指す。
その他,『書録解題』『唐書』などは前回の引用に同じ。なお提要に指摘される,朱書と墨書との区分であるが,四庫本は一切の区分を取り除いている。これは古経解彙函本や経苑本も同じ。随って,現在では陸淳がどの部分を朱書にしたか判別できない。

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四庫提要(春秋類)006

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

陸淳『春秋集伝纂例』10巻

○浙江汪啓淑家蔵本

唐の陸淳の撰。蓋しその師の啖助および趙匡の説を解釈したものである。助,字は叔佐,もと趙州の人,関中に移り,官は潤州丹陽県主簿となった。匡,字は伯循,河東の人,官は洋州刺史。淳,字は伯沖,呉郡の人,官は給事中になった。後,憲宗の諱を避けて,質と改名した。事迹は『唐書』儒学伝にある。

考えてみると,『二程遺書』,陳振孫の『書録解題』,および朱臨の手になる本書の「後序」はすべて「淳は助と匡を師とした」といい,『旧唐書』は「淳は匡を師とし,匡は助を師とした」といい,『新唐書』は「趙匡と陸淳は助の高弟である」と言っている。しかし呂温の文集に「代人進書表」があり,そこには「啖助を厳師とし,趙匡を益友とした」とある。また淳みずから「集伝始終記」を作ったときには,助を啖先生,匡を趙子と言い,他所では趙氏とも言っている。「重修集伝義」でも「淳は筆と紙を手に,啖先生の傍らに侍すること十有一年」と言い,匡に言及がない。また柳宗元は淳の墓表を作ったが,そこでも助と匡を淳の師友としている。〔陸淳らの〕当時,〔啖助と趙匡の〕序列を論ずること明らかである。〔『旧唐書』の編者〕劉昫以下の諸家は伝聞を誤ったものである。

助の春秋学説は,〔左氏・公羊・穀梁の〕三家の得失を考え,遺漏や闕失を繕うことに力点があり,このため先学と意見を異にすることが多い。例えば「左伝は丘明の著作ではない。『漢書』には『丘明は魯の曾申に伝え,申は呉起に伝え,起から六伝して賈誼に伝わった』などの説が見えるが,すべてこじつけである。公羊の名は高,穀梁の名は赤というが,恐らくは間違いであろう」といい,また「春秋の文は簡易であるため,先学は各々一つの伝を守り,あえて〔三伝を〕疎通させず,たがいに批判しあい,弊害はさらにひどくなった」,「左伝は周晉齊宋楚鄭の事迹を述べること特に詳しい。これは後世の学者が師から授けられた〔数国の史〕を敷延し,年月順に編纂して伝記としたものである。また各国の卿らの家伝や卜書・夢書・占書・縦横家・小説家の書を取り混ぜたものである。だから事迹を論ずること多岐にわたるが,経文の解釈は極めて少なく,公羊と穀梁が経文に密着し〔て解釈を発し〕たものに及ばない」とも言っている。これらの議論は偏見を免れず,欧陽修と晁公武らの意に満たなかった。しかし程子は「はるか諸家の上にある。〔未だ聖人の蘊奥を完全に明らかにしなかったとはいえ,〕異端を排除し,正しい方法を開いた功績がある」と言った。〔陸淳らが〕伝を棄てて経を求めたのは,確かに宋人の先河を導いたものであり,臆断の弊害を生んだその過失は覆うべくもないが,〔三伝の〕こじつけを論破した功績は没すことのできぬものである。

助の書はもともと『春秋統例』と名づけられ,わずか六巻であったが,その死後,淳と遺児の異が遺文を集め,匡に〔助の書を〕増補改訂するよう求めた。そこで始めて『纂例』と名づけられた。大暦乙卯の年に完成し,全四十篇十卷とした。『唐書』芸文志も同じである。この本の巻数も一致しているが,来歴のあるものなのであろう。

本書の第一篇から第八篇までは全書の総論であり,第九篇は魯十二公およびその系譜であり,第三十六篇以下は経文と伝文に見える文字の脱謬および人名・国名・地名といったものである。筆削の例を発明した部分は,ただ中間の二十六篇だけである。袁桷の後序には「本書は久しく途絶えており,〔我が家に〕伝わるものは寶章桂公の校本である。蜀にも小字本があると聞くが,遺憾ながら未見である」とある。呉萊と柳貫の後序にも「平陽府で刊行した金の泰和三年の礼部尚書の趙秉文の家本を入手した」と言っている。元の時代,既に稀覯書であったものが,流伝して現在に伝わった。天下の孤本と呼ぶべきものであろう。

『四庫全書総目提要』巻26


呂温集:呂温『呂衡州集』巻4,代國子陸博士進集註春秋表を指す。
修傳始終記:『纂例』巻1,修傳終始記第8を指す。
重修集傳義:『纂例』巻1,重修集傳義第7を指す。
柳宗元云々:四庫本でいうと,『柳河東集注』巻9の「唐故給事中皇太子侍讀陸文通先生墓表」を指す。
左傳非丘明所作云々:『纂例』巻1,趙氏損益義第5に見える。
春秋之文簡易云々:『纂例』巻1,啖氏集傳注義第3に見える。
左傳序周晉齊宋楚鄭之事獨詳云々:『纂例』巻1,三傳得失議第2に見える。
歐陽脩:『新唐書』巻200(啖助傳)の賛に見える。
晁公武:『讀書志』巻3の春秋微旨六巻春秋辨疑1巻の案語に見える。
程子則稱其絶出諸家云々:『河南程氏文集』巻5,南廟試策第二道の對に見える。
筆削之例:聖人が凡人に垂れたもうたありがたい教えのありか。
袁桷云々:袁氏の後序は古經解彙函本,經苑本,および四庫本に見えない。
呉莱云々:『淵穎集』巻12,春秋纂例辨疑後題に見える。
柳貫云々:『柳待制集』巻18,記舊本春秋纂例後に見える。
○以上諸家の評は『経義考』巻176に見える。ただし『新唐書』の賛は宋祁と正しく表記されている。四庫官が直接何によったかは不詳。

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四庫提要(春秋類)最終条

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

案語。

明代の科挙で用いられた経書の解釈は,すべて元の制度に因襲し,宋代の儒学者のものを用いた。しかし程子の『春秋伝』は完成せず,朱子も春秋に注釈を加えなかった。だから胡安国の学問が程子にもとづき,張洽の学問が朱子にもとづいていたといって,春秋については,この二者〔の著書〕を用いることになったのである。これはその学問の淵源を重んじたもので,二人の著書が他の学者〔の書物〕に優っていたからではなかったのである。この後,張洽のものは文字が多いといって徐々に廃れゆき,胡安国のものだけが行われるようになった。しかしこれも〔科挙の〕試験官や受験者が簡便に走ったが故のことであって,法律で定めたものではなかった。

また他の経書の場合,〔解釈を〕一つに限ったものの,設問は経文を軸にしていた。しかし春秋経だけは〔胡安国の〕解釈を明らかにすることだけに主眼が置かれていた。このため設問に経文を用いても,ただ〔胡安国の〕解釈の標識――某公・某年・某事を知らせるもの――であるに過ぎなかった。張朝端の『貢挙考』を見ると,明朝一代の科挙の設問が列挙されている。他の経書はどれも経文の首尾が完具しているが,春秋だけは設問中に二三文字――「密に盟す」や「夾谷」のように――が並べられているだけである。経文を判断の基準としていなかったこと明白である。これでは春秋が学官に置かれてあるとしても,実際には胡安国の解釈を経文としたようなもので,孔子はただ虚名を与えられたにすぎない。〔明朝の〕経解の荒漠たること怪しむに足らぬ。『欽定春秋傳説彙纂』は諸家の説を総括し,聖人の発言に照らして折中を加えたものである。およそ安国の誤謬については逐一駁正を加えている。これは是非の正しきを知るに充分であり,決して覆い隠すことのできぬものである。

今,残された書物を検査したところ,明代の春秋学説について棄てたものが多い。これは科挙の俗学でもって,聖経の本旨を蝕みたくなかったからに他ならない。

『四庫全書総目提要』巻31(春秋類)



:『四庫全書総目提要』春秋類存目二の末尾,随って春秋類の最後に附されたもの。『四庫全書』春秋類正目に明代の経解が少ない理由を論じたもの。
因元制:春秋関係では,明朝初期の規定では胡安國『春秋傳』と張洽『春秋集註』が科挙テキストとされていた。
程子作春秋傳:程頤の『春秋伝』のこと。未完の書。
胡安國學出程子:胡安國は程頤の私淑の弟子故に,その学問の淵源が程頤にあると言ったもの。文中で問題になっているのは,胡安国の著書『春秋傳』のこと。通常は略して胡傳とか胡氏傳という。『春秋傳』は現存。四部叢刊続編など。
張洽學出朱子:張洽は朱熹の弟子。また朱熹の友人・張栻(南軒)の族人。文中で問題になっているのは,『春秋集註』のこと。張洽はこれ以外に『春秋集傳』を作っている。『集註』は現存(通志堂経解など),『集傳』は一部現存(宛委別藏など)。
觀張朝瑞貢舉考:万暦刊本も現存するが,『四庫全書存目叢書』に『皇明貢挙考』の名で収録されている。利用に便のある人はこれで見た方が早い。
欽定春秋傳説彙纂:清朝初期に編纂された勅撰春秋解釈書。『四庫提要』では,同種の『日講春秋解義』『欽定春秋傳説匯纂』とならび,清代春秋経解の冒頭に提要が置かれている。胡氏傳を徹底的にこき下ろしたことで有名。胡氏傳を批判したい人は先ずもって本書を読む必要がある。今時いないと思うが。

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四庫提要(春秋類)000

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

経学家に門戸の見が生じたのは春秋三伝からだが,それでも結局は世に並び立つことができた。その間,諸儒の議論は,中唐以前は左氏が優勢で,啖助・趙匡から北宋までは公羊と穀梁が優勢だった。孫復や劉敞らは「伝を棄てて経に従う」と言いはするが,棄てたのは左氏の事迹と公羊・穀梁の日月の例だけである。彼らは譏貶の意を押し広げ,許すこと少なく,譏ること多かった。これは公羊・穀梁のやり方をまねたものである。ちょうど析を誅殺するのに〔析の作った〕竹刑を用いたようなものである。そもそも事迹を削って如何にして是非を判断するのだろうか。証拠もなく〔是非を〕判断するのでは,春秋を占いに見立てるに等しい。聖人は人の過ちを禁じるが,人の善事を褒めもする。まして経典には称讃が少なくないのに,筆を手に文を綴っては,あらゆる人間に筆誅を加えている。春秋は無辜を罪に陥れるとでもいうのだろうか。「夏時を用いて正朔を改めた」や,「尊号を削って天王を貶じた」というに至っては,春秋はこれほどに僭乱なのだろうか。波に沿うて返らず,この種のものは世に広がり,旧説が流伝しても廃れてしまうことはなかった。このため〔春秋類の編纂に於いては,〕解釈が適切で根拠があり,平易で道理にかなうものを採用基準とした。欠点と美点が互いに存在する場合は,是非を明らかにして〔本文を〕残すことにした。空談や臆説を行い,私意でもって聖経を乱すものは,書名のみを残すことにした。六経の中,易はあまねく道理を包む故に,あらゆる物事を解釈することが可能であり,春秋は事実をことごとく備えているが故に,人ごとに解釈を立てることができる。このため一知半解に陥り,議論が生じやすく,著作の豊富なこと二経を最多とする。だから採用には細心の注意を払わねばならぬのだ。

『四庫全書総目提要』巻26(春秋類)


○本文,『四庫全書総目提要』春秋類に冠された案語。
中唐以前則『左氏』勝:必ずしも然らず。
啖助趙匡以逮北宋則『公羊』『穀梁』勝:必ずしも然らず。
孫復劉敞之流:孫復・劉敞ともに宋代の代表的経学者であり,また宋代春秋学の先駆者でもある。ここでは宋代春秋学の代表者として扱われている。
棄傳從經:春秋学の立場の一つ。宋代で流行した。春秋経文の理解に際し,三伝の解釈を排除し,経文のみからその意味を理解しようとする姿勢を指す。清代以後,ぼろくそに批判された。
公羊穀梁月日例:月日例は春秋学の解釈法の一つ。日月の例や時月日例と呼ばれる。公羊傳と穀梁傳,特に穀梁傳と何休注に頻繁に現れる。経文に時(四時/四季)や月や日が記されるか否かで,襃貶の意味を判断するもの。宋代に徹底的に批判された。
用夏時則改正朔:いわゆる夏時説のこと。夏時説の提唱は程頤に繋るが,著名なのは胡安国の「夏時を以て周月に冠す」という学説。学説に矛盾を含み,またそれ自体複雑怪奇のため,南宋から明朝初期の学界に一大論争を巻き起こした。しかし清代に胡安国の根拠が突き崩され(偽古文尚書を根拠としていたので),ぼろくそに批判され,宋代の春秋解釈で最も恥ずかしい解釈の一つに数えられるようになった。簡単に言うと,東西南北の方角が常に一定であるように,春夏秋冬の寒暖も常に一定であるはずだから,春はいつでも春で,夏はいつでも夏で……という学説。随って夏正・殷正・周正の三正説を否定した。古典的なものでは,明初期の張以寧『春王正月考』,清朝の呉鼐『三正考』が夏時説否定の最有力学説として知られる。
削尊號則貶天王:春秋経文は周王のことを通常「天王」というが,まれに「王」という。この理由について,孔子が天王を譏って,「天王」から「天」の字を削ったのだという解釈を指す。これについては,「孔子は匹夫のクセに,エラそうに周王にケチをつけてイイのか?」というもっともらしい批判があり,四庫官はこの考えを採用したのであろう。

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悪い人間を褒める人

世間に評判の悪い人間を好む人がいる。私なんかもその内の一人だと自認しているが,この場合,好きになる理由に二つほど考えられる。

まず最も健全な考え方で,この立場の人は「○○氏は一般的に××と悪く言われているが,実は立派な人間なのだ」式の論法(?)を使う場合がある。例えば三国志で有名な董卓さんは悪く書かれる場合が多いが,「実は武勇に秀でた名将で,文化や芸術を愛した立派な人間だった,だから好きだ」的な物言いになる。

これに対して,「○○氏は一般的に××と悪く言われているが,だから好きだ」式の愛好家がいる。例えば章惇は北宋の政治を滅茶苦茶にした人間だが,これに対して,「章惇は一般的に悪くいわれるが,実はカクカクの立派なことをした」的なことを言わず,「章惇は政治を滅茶苦茶にして世の中の人々を苦しめた,だから好きだ」ということになる。もちろん私の立場はこれだ。

上の立場の愛好家には,愛好家の信じる「立派さ」が実は虚像であったと(嘘っぱちでも)教えてやれば,愛好を棄てる可能性がある。逆に下の立場の愛好家には,愛好家の信じる「あくどさ」は間違いであり,実は「正しい人間だった」的なことを説明できれば,大抵は幻滅して愛好を止めてしまう。

しかし「実は立派」な人の仮面を剥ぐのは簡単だが,「本当に悪者だ」という人間に仮面を付けるのは難しい。また悪いといわれる人間を好む人々に対して,むきになって批判する人は,大抵「悪い人間」を褒めるのが許せないからである。だから「悪いから好きだ」という人間を説得するために,わざわざ「悪い人間」に善人の仮面を着けてやる暇人はいない。説得する側が自己矛盾に陥るからだ。しかし善人の仮面をつけてやらないと,曲がった愛好家は説得できない。

というわけで,「実は立派」式の人間をやりこめるのは知識で押し切れるが,倫理観が根本的に顛倒している人間を黙らせるのはなかなか厄介である。

だからどーしたと言われたらそれまでだが,自分の性格を鑑みて,人との会話の切れた理由はここらにありそうだと思って,とりとめもなく書いてみた。

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馮継先の『春秋名号帰一図』

『春秋名号帰一図』というのは,五代の蜀の馮継先という人間が著したもので,古来,春秋学の基本書とされている。書名に「図」とあるが,絵が書かれているわけではない。

春秋学は春秋経を読む学問だが,その惑星として三伝なるものが存在する。三伝は春秋公羊伝・穀梁伝・左氏伝のことだが,特に左氏伝は春秋時代の歴史が豊富に記されているため,よほど偏った立場の学者でもない限り,三伝の中で最も重んじられてきた。我が日本でも左氏伝はよく読まれ,現在でも左氏伝のみ現代語訳が文庫本で通用している。(単行本の翻訳となると,左氏伝は他にも幾種類か存在するが,公羊伝と穀梁伝の翻訳は岩本氏の手になる労作があるのみで,しかも普通の人間が買い得るような値段ではない)

それはともかく,左氏伝にはいくつかの難点がある。第一に長いこと,第二に記事が細切れになっていること,そして第三に人名が複雑なことである。これ以外にも文章が古くて読みにくいという点も挙げられないではないが,これは古い文献ならどれも同じことなので取り上げない。

第一と第二は互いに関係がある。どれほど長大な歴史書でも,流れるような叙述ならば読みやすく面白い。だから次々とページをめくることになるし,そうすれば長い本文もあっというま……とはでは行かずとも,それなりに読み進めることができる。しかし左氏伝は流れるような叙述どころか,むしろその正反対で,ぶちぶちに着られた細切れの文章が断片的に並んでいるだけである。しかも記事と記事の間に経文が挟まってあったりして,とてもぎこちない。そんな細切れ文章が大量に存在するとあっては,通読するのも困難で,ここに左氏伝は長くて読みにくくめんどくさいというレッテルが貼られることになる。(面白くないというレッテルが貼られないところがこの本の偉大なところではある)

ではどうすればこれを克服できるか。まず最も正統的な方法は,左氏伝を覚えるくらいに読み抜くことだとされている。語句に不明なところがあるなんてのは論外で,全ての文章を暗誦できるくらいに読み込むのである。そして「この事件はあそこにあったな」,「あの事件はこれだな」という具合に,文章を読みながら左氏伝の記事を連想できるくらいにする。そうすれば自然と細切れの文章を読んでも楽しいし,またその妙味を味わうことができる云々……私は左氏伝を読んでそこまで感心できないが,とにかくそういうことらしい。

しかしこれは専門家のやり方なので入門者には適さない。そこでむかしから色々と考えられた結果,宋代ころになると入門者用の本や特殊な用途のものが登場した。左氏伝を紀事本末体に編輯した章沖の『左傳事類始末』や,『史記』になぞらえて編修しなおした程公説の『春秋分記』,はたまた無名氏の『春秋年表』のように『史記』年表のようなものを作って,各国間の並行時間を一目瞭然たらしめたものまで生れた。

こういう便利な方法はいわゆる春秋学の正統的注釈である「春秋○○氏伝」のような書物にも採り入れられ,例えば宋代で最も有名な(有名というだけだが)胡安国の『春秋伝』に注釈を施した汪克寛の『胡傳附録纂疏』(『春秋大全』の種本)には,各年の上に主要国家の時代を挿入している。

もっともこれは単に春秋学の問題ではなく,宋代の歴史書編纂方法とも深く関連することである。欧陽修の『五代史記』や『新唐書』本紀,司馬光の『資治通鑑』が春秋をまねて作ったのは有名だが,これを単に春秋学という思想的なエネルギーがそうさせたとみるべきか,それとも歴史編纂の現実がそうさせたと見るべきかは中々判断に難しい。歴史書編纂と春秋学が巧い具合に折り合ったというのが実情である。

閑話休題。左氏伝の三つ目の難点に人名の複雑さがある。左氏伝を繙いた人は誰でも分ることだが(訳本でも可),左氏伝は同じ人間を,ある時には本名で,ある時には字で,ある時には通称で,ある時には諡で......etcと複雑怪奇な書き方をするのである。だからよほど左氏伝に通じていないと,一見して誰のことを指しているのか判断に迷うことになる。有名な晉の士会は,士季とも隋会とも范会とも記される。士会クラスの大物であればまだよいが,これが左氏伝に二三回しか登場しない人間となると,誰のことだったか一々頭を悩ませることになる。

このような悩みは現代の日本人から漢文教養がなくなったからかと思いきや,実はそうではなく,本場中国の,しかも儒学的世界観が厳然と存在していた王朝時代でも同じであった。だからこのような複雑怪奇な人間呼称を理解するため,当然ながら便利本が生れたのである。それが『春秋帰一図』と呼ばれるものである。成立は宋よりも前の偽蜀(宋からすればだが)の馮継先の手になるものである。

簡単に言うと,『春秋帰一図』は,周・魯・斉・晉・・・と人間を国別に分け,さらに姓名を軸に別称を下に加えていく方法が採られている。これで人名が一目瞭然になるというのである。例えば先ほどの士会でいうと,彼は四番目の晉国の中に取られているが,「士会」の項目には次のようにある。(ややこしいので割注は省略)

士会:士季,随季,随会,季氏,随武子,范武子,范会。

各別称の下には割注で登場箇所が記されている。士季の下には「文七」(文公七年の謂い)とあり,随武子の下には「僖二十八,宣十二。武,諡也」(僖公二十八年,宣公十二年。随武子の武は諡である)とある。

要するに,春秋左氏伝を読むものは,不明な名称に出会ったならば,その人物の属する国のページを開き,人名を探せばよいわけである。そうすれば不明な人称の本名や他の別称もあわせて知ることが出来る。人名の配列は初出順になっているので,自分の読んでいる場所から判断すれば,場所の見当は容易に見つけられる。

この便利本『春秋帰一図』にはいくつかのミスがあり,それは代々補正されてきたのだが,近代になって程発軔氏に『春秋人譜』というものが発刊され,全面的な校正が加えられた。ちなみに程氏の『人譜』は『帰一図』だけでなく,異名を中心にその本名を記したもの(要するに人名の総合索引のようなもの)も加えられており,人名の検索がますます便利になった。

あまり楽をし過ぎるのもなんだが,左氏伝は人名の引用があまりに滅茶苦茶なので(もしかすると編纂者には意味があったのかも知れないが,一見すれば滅茶苦茶にしか見えない),人名の確認くらいはスムーズに進めたいものである。春秋学者にでもなろうというなら別として。

『春秋名号帰一図』は通志堂経解の他,いくつかの種類がある。『春秋人譜』が現在まだ手にはいるかどうかは知らない。

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宋代の春秋学

春秋学の歴史は長く,上は孔子から,下は民国の今文学派まで諸種の学説が雑多に入り乱れている。この中,宋代の春秋学は漢代・清代今文学と並び春秋学の主要学説を占めているが,これを統一的に理解することは中々難しい。

宋代の春秋学は劉敞・葉夢得・胡安国のように「春秋伝」を作ることに目的がある以上(毛奇齡も春秋伝を作ったが),宋代に生れた諸種の学説を何等かの規準の下に統一させようとすること自体が,一種の自己矛盾と言えるからである。春秋伝とはみずから春秋の正当解釈を示すことであり,強いて言えばみずから穀梁伝や公羊伝を作ることを目的とする行為(著述)である。春秋三伝の統一的理解を行ってみても,現実にはあまり意味のない作業であるのと同じく,宋代の春秋学は個人的な正当観に基く学説が沢山存在するというに止まらざるを得ないのである。

とはいえ,宋代,より厳密には中唐の啖助から明初の大全成立まで(*)の春秋学にはそれなりにまとまりもある。まとまりといっても,別段思想的な統一性という類のものではないが,なにかしら研究方法とか方向などが似ているのである。これは上に漢代以来の正義を受け,これを克服するために学問的努力を惜しまなかったこの時代の学者ゆえの避けられない傾向の類似と考えられる。ただしこれはあくまでも傾向であって,中には全く宋代らしからぬ研究をしている宋代の学者もいる。例えば穀梁伝の専門家とか。

(*)明朝注記以後,その最末期までの250年あまりのゴミのような作文を春秋学の中に加えるなら,中唐の啖助から明末清初までが宋代の春秋学になるが,ゴミは所詮ゴミであり,学問の名に相応しくないばかりか,それを汚すものですらある。ここは明朝の学者をのさばらせないためにも,この無価値な時代の作文は無視すべきであろう。

それはそうと,この宋代的な研究方法とか方向とは何であろうか。これが実は厄介な問題で,現存する数十種類の経解書を読めば朧気ながらに想像できるものの――つまりその概念に目が触れれば,「ああ,また言ってる」と思えるのだが――,これであると明白に指摘する段になるとたちまち困惑させられる。特徴は少なすぎてもいけないが,多すぎても駄目で,多くの人間が問題としたものを適度な分量で説明してみせなければならないからである。

私としては,宋代の春秋学者で屈指の理論家といえば呂大圭を推したいが,その呂大圭は春秋に五つの重大節目を認めている。所謂『春秋五論』の中で展開される理論である。第一は孔子が春秋を作った理由,第二は義例批判,第三は経文の達例と特筆,第四は世変,第五は三伝の得失である。いずれも宋代に主として論じられた問題で,さすがは呂大圭と思わせる見事な論点の整理である。しかし呂大圭の方法は,宋代の春秋学説を網羅的且つ整合的に捉えるには好都合であるが,少し問題感心が大きすぎ,また体系的すぎる。

そこでもう一つ,宋代春秋学の重要項目をしるには,呂大圭ほどの一貫性はないが,却って重要な問題点だけを列挙してる王の『春秋皇綱論』が便利である。同書の目はそのまま内容縮図となっているので,次に目だけを挙げておこう。

孔子脩春秋
始隱
尊王上
尊王下(以上,第一巻)

公即位
卿書名氏
稱人(以上,第二巻)

朝會盟
會盟異例
侵伐
取滅
紀師
戰上
戰下(以上,第三巻)

歸入
會及
書遂
公至
郊禘(以上,第四巻)

災異
罪弑
殺大夫
日月例
傳釋異同(以上,第五巻)

第1巻は春秋総論,第2巻は所謂称謂の例,第3巻と第4巻は会盟・戦・帰入などの重要措辞で,義例の中枢部分,第5巻は特殊な義例問題から説き起こし,最後の日月の例で義例が終わり,経と三伝の異同で本書全体が終わる。更らに大きく区分すれば,第1巻が春秋總論,第2巻~第5巻までが義例,第5巻最後が三伝の問題を扱ったことになり,呂大圭の五論と酷似したものになる。三伝の問題を敢えて最後に持ってきたのも,宋代らしい配慮であると言える。

宋代の注釈で往々にして問題となるのが,春秋の著作理由と義例,そして経と三伝との関係である。そして実際の経文解釈上で最も複雑怪奇な動きを示すのが義例であるため,春秋の総論的研究を行った場合,必ず義例に触れられる。ちなみに「春秋に義例は存在しない」と定義する鄭樵のような人間もいるが,この場合でも実質的には義例と変わりない解釈方法を経文解釈に導入するので,現実的には義例(この場合は書法と呼ばれる)が重要な問題となる。

呂大圭にせよ王にせよ,生れた時代も違い,その春秋学説も異なるが,宋代の春秋学で主として扱われた問題を(1)春秋の著作動機,(2)義例,(3)経と三伝の三つに分けた点は同じであり,またこれは他の宋代の学者とも同じである。

宋代の春秋学の出した主張は何であるかは人によってことなる。ただ,(1)春秋が何の為に作られたのかという問題を追求すること,(2)春秋の実地解釈に不可欠な義例とは何であるかを追求すること,そして(3)経文と三伝とをいかに捉えたらよいかを追求すること,以上の三点を「追求」することが,宋代春秋学によく見られる傾向上の類似なのである。

これを一歩踏みだし,宋代の人間は(1)春秋が何のために作られたと考えたのか,(2)義例とは何だったのか,また義例各々はどのような意味を持っているのか,(3)経と三伝はどう理解されたのか,を現代人が解明しようとすれば,錯雑してまとまりのない解答に陥る。せいぜい春秋は孔子と深い関係があり,微言大義が込められており,人倫が説かれているなどという,別段宋代でなくてもかまわないような,春秋学なら通時代的に見られる結論が得られるに過ぎない。

宋代の春秋学の成果を現代に生かし得るとすれば,それは彼らの出した結論を知ることにはない。彼らの結論が導かれたその理由と困難を理解することになければならないだろう。

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『論語匯校集釈』未見記

ここ二ヶ月ほど時間があれば部屋の掃除をしている。十年来のゴミを処理しているのだ。……ゴミといっても本当のゴミじゃないよ,比喩表現だからね。

その途中で諸星大二郎氏の『孔子暗黒伝』を発見してしまった。

私は小学生のころに『論語』を読んで,これクソ本?と思った人間だし,その後やや大きくなって高校生のころの愛読書が『韓非子』だった人間だから,もちろん孔子に興味があって読んだわけではない。面白いと勧められたので読んだに過ぎない。

それはそうと,『孔子暗黒伝』はともかく(ごめんね),最近,書虫で『論語匯校集釈』というのを発見した。編者の一人の高氏は他にも『大戴礼記匯校集注』『逸周書匯校集注』『小爾雅匯校集釈』などの匯校を手がけており,その手の製作を商売にしている人間だというのはすぐわかる。

匯校シリーズは,『大戴礼』や『逸周書』に対して,(1)諸々のテキストを利用して正文を確定し,(2)諸種の解釈を持ち寄って正文の意味を明らかにする。この(1)と(2)の両方で膨大な先行学説を引用するので,「匯校」と呼ぶのである。もちろん必要に応じて最後に編者が断案を示しており,単なる資料集ではない。

このシリーズ,逐一解釈や注釈が示されるので,本の分量は厚くなるし,通読にそうとう難がある。しかしまとめて多くの学説を知りたいときには頗る重宝する。編者の断案には武断に過ぎるところもあるが,編者の判断はあくまで判断として残し,編者の判断と異なる解釈もちゃんと残してあるので,別段編者の武断な解釈があるからといって困ることはない。むしろ思い切りがよくて,本文の理解に妙な説得力を与えてくれる。善いか悪いかは別として。

しかしこの匯校シリーズの新版が『論語』だったというのは正直意外だった。『大戴礼』や『逸周書』は注釈書の数も多くなく,諸解釈をまとめたり新たな解釈を提示するには意味もあるが,『論語』はどうなんだろう。

『論語』には古いものから新しいものまで様々な注釈書がある。定番では劉寶楠の『正義』が有名だ。現代語訳(現代中国語訳)もめずらしくない。それをなぜ新たに「匯校」を作るのだろうか。作ってもいいが,別段新たに注釈を作る必要があるようにも思われないのだ。

それともう一つ,『論語』は『逸周書』などと異なり,新注系統(朱子学一派の注釈)の注釈も無視できない。これは『論語』だけでなく,所謂十三経はいずれも宋代経学に注釈が存在し,歴史的な意味からいうとこれを外すことはできない。しかしその中で最も重要なものが『論語』なのだ。

宋代の『論語』注釈は問題が多い。宋代というか朱子学系統の注釈は「新注」などと呼ばれて,漢代と唐代の古注(現在一般的に利用される注釈)と対比され,中国思想史上では大きい山の一つになった。その中には先秦時代の古典の解釈として妥当な部分も存在する。しかしそれはごく僅かの部分についてのことで,通常は『論語』の解釈――正確には『論語』が編纂された当時の思想を勘案して『論語』を解釈した場合に得られる(と近現代人が思いこんでいる)ものからすれば,間違いが相当多い。要するに,『集註』は宋代の『論語』理解の一つにすぎない。

今回の匯校では,編集方針の書きぶりによると古注のみを取ったように受け取れるが,朱熹の『集註』にはたとえ『論語』の解釈として不当であっても,意味がある場合もある。『論語』を離れて,注釈の文章に意味が生まれるのである。例えば冒頭の仁のところでは,「愛の理,心の徳」と有名な定義が下されるが,これは朱子学の基本定義であるばかりでなく,ものの考え方としても面白いものを含んでいる。だから新注系統のものを残さないとなると,それはそれで片手落ちになってしまうのである。

『論語』のような幾重にもわたって注釈が加えられた書物は,単に書かれた時代の考えを知るためばかりでなく,長い年月にわたって絞られてきた学者の智恵を読むことにも意味が生まれる。単に読みにくい古い文献である『大戴礼』や『逸周書』とは異なるのである。

しかし,もし『論語』の匯校に『論語』の本文から逸脱する注釈を残すとなると,そもそも匯校とは何かという問題にもつながりかねない。『論語』本文よりも注釈に価値が生まれてしまうからである。もちろん『論語』本文と朱熹の注釈を「正文」に掲げ,各々に対する注釈を施すということも不可能ではないが,無理だろう。道理として通らないのだから。

だから匯校シリーズの一つに『論語』が選ばれたと知って,私はやや意外の感を受けたのだ。同じ経書でもこれが『尚書』とか『儀礼』ならまだ問題が少なかったと思うのだが。

と,見てもいない本をあれこれ論評してみたが,私はこの本を買う気はない。それは学問的な問題ではなく,最初に書いたように『論語』を読みたいと思わないからだ。ただ『孔子暗黒伝彙校集注』なら買ってもいい。見ないでも分るとはいえ。

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辞典三種

今回も本館サイトの話し。

ようやく辞典が終わった。しょーもない辞典だが,整理をするだけで途方もなく時間を食ってしまった。内容についてはここで喋々する必要もないほどどーでもいいことなので,ちょっとATOKのことで感動した記録でも。

私が最近まで使っていたのは,大昔のATOK15だったのだが,最近,この外れの時期になぜか2008に更新した。例の辞典のおかげで,このPCは15のまま止めているのだが,別のPCには2008が入っている。(ライセンスには抵触していないと思う。たしか同時起動しなければ複数台のインストールは可能だったはずだ)

ATOK15を使いながら,いつもバージョンアップしたいなとは思っていたのだ。理由は簡単で,文言モードが使いたかったからだ。15の時期はまだ文言モードなんてもものはなく,せいぜいハ行四段の登録ができるくらいだったが,いつのころだったか,文言が当然のように利用できるようになり,単語登録でも品詞で下二段とかが使えるようになった。

日常生活を健全に歩んでいる諸賢にとって見れば,文言モードだの品詞の古代文法の登録だのは一体何に利用するのかと思われるだろうが,私のように大正時代の文章が好きな人間には案外重宝する。もちろん,戦前の文章と現在とでは語彙が相当異なっているので,単純に動詞形容詞の活用型が標準で動くというだけでは,実際にはあまり意味がない。語幹そのものが登録されていないのだから。

とはいえ,そこまでATOK先生に要求する気はさらさらない。そんなものは使い手が勝手に登録すればいいだけのことだ。ただその時,単語登録で古代文法の登録が出来ないと,一つ「言ふ」だけにしても,「言ふ」とか「言は」とか一々登録する必要があり,「ふ」とか「は」の後に続けて利用する助詞も考慮すれば膨大な登録量になってしまうのだ。だから勢い,「げん(言)」+「ふ」とか打ち込むことになる。(ただし最も利用頻度の高いハ行四段はATOK15でも登録できた)だから古代文法が登録できるというだけでも,こちらとしては有り難いわけである。ありがたやありがたや。

ちなみにこの文言モード,書き下し文の作製にはほとんど役に立たない。語幹は自分で登録するとエラソーに言ったが,ものには限度がある。大半の語彙を自分で登録するとなると,これでは辟易を通り越して役に立たない。それにたまに勘違いしている人もいるが,書き下し文なんてものは日本語じゃないんだから,日本語のIMEで使おうというのが間違いなのだ。だいたい書き下しは日本語訳ではない。ただたんに語順を暗記するための方便だ。(もっとも日本語に訳すために書き下しにする酔狂な人も江戸時代にはいたらしい)

書き下し……それは日本語ちっくな黴の生えた無所属言語,ただし表記は日本語と古代中国語に類似している。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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