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四庫提要(春秋類2)036

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

劉朔『春秋比事』20巻
(沈棐『春秋比事』20巻)

○浙江呉玉墀家蔵本

本書は宋の沈棐の撰述と言われてきた。棐の生涯は不明である。ただ本書の前に陳亮の序文があり,「棐の字は文伯,湖州の人。婺州の校官になった」とある。陳振孫の『書録解題』には,「湖州に沈文伯というものがおり,名を長卿いい,審斎居士と号していた。常州副知事となったが,秦檜に刃向かって化州に左遷された。しかし棐という名ではない。同父(陳亮のこと)が何を根拠に〔本書を棐の撰述と〕言ったのか不明である。しかし名を棐,字を文伯という別人などいるだろうか。ならば湖州の人間ではないのだ。云々」という。これでは亮のいうところと隔たりが大きい。また別に都穆の『聴雨紀談』(*1)は,嘉定辛未の廬陵の譚月卿の序文を根拠に,〔本書を〕莆陽の劉朔の手になるものと,「月卿じしんが劉氏の家本を見た」とも指摘する。しかしこの本に月卿の序はなく,穆の根拠もまた不明である。疑念あるままに伝えられ,是正すべき根拠もない。この度は棐と時代が近いことから,しばらく陳亮の序文により,棐の名を附しておきたい。(*2)

本書前半は諸国のことを分類したもので,後半は朝聘・征伐・会盟などの関係記事を集めて論評を加えたものである。論評は実に穏当である。

本書はもともと『春秋総論』と名付けられていたが,亮が現在の書名に改めた。元の至正年間に金華で刊行されたが,板本は長らく捨て置かれ,世間に伝本もなかった。そのため朱彝尊の『経義考』も「散佚」と注を加えている。この本は前に中興路儒学教授の王顕仁の序文がある。恐らく元の刊本を写したものであろう。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)『續知不足齋叢書』や『和刻本漢籍隨筆集』に収録されているらしいが,未見につき不詳。なお都穆は明人。
(*2)『四庫提要辨證』を参照。現在では劉朔の撰述とされている。

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四庫提要(春秋類2)035

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

呂祖謙『詳註東莱左氏博議』25巻

○浙江巡撫採進本

宋の呂祖謙の撰。本書は祖謙が新妻を迎えた際,一ヶ月の間に成し遂げたものだと言われている。しかし本書の自序には「東陽の武川に半年ほど隠居し,郷里にあってあばら屋を開き,子弟らと勉学に勤しんでいたが,ふと科挙のことに話が及んだ。そこで左氏の記す治乱得失の跡を集め,それを下に書き出した。十日経ち一月が過ぎ,ようやく書物にまとまった」とある。

さらに祖謙の『年譜』を調べると,まず祖謙がはじめて韓元吉の娘を妻に迎えたのは,紹興二十七年のことで,〔そのときは〕信州におり,〔自序にある〕東陽にはいなかった。後,乾道三年五月に母の喪に服して明招山に籠もっていたが,〔その地に〕来学するものがいた。同四年,『左氏博議』が完成した。同五年二月,母の喪が終わった。五月,後妻として韓氏の娘で〔先妻の〕妹を妻に迎えたとある。(*1)ならば本書の成立は確実に〔母の〕喪中にある。新妻を娶った云々などは世俗の誤伝に過ぎない。

本書は全一百六十八篇。『通考』は二十巻とし,この本(テキスト)と〔巻数に〕異同がある。蓋しこの本は題目の下に左氏の伝文を付記し,まま典故を引用しており,また注釈を加えたところもある。そのため〔分量の関係で〕二十五巻に分けたのだろう。注が誰の手になるかは不明である。標題の板式から〔本書は〕恐らく麻沙の刊本(*2)と思われるが,『宋史』芸文志によると,祖謙の門人の張成招に『標注左氏博議綱目』一巻がある。当時の書肆が成招の標注を原書各篇に補入したものであろうか。〔本書について〕楊士奇は別に十五巻本があり,『精選』なる書名であったと云い(*3),黄虞稷も明の正徳年間に二十巻本があったというが(*4),いずれも現存しない。現在,書肆が扱うのは十二巻本のみであり,しかもそれは篇目が不完全なだけでなく,多くの字句が勝手に削除されている。世上久しく完全な書物が存在しなかったのである。この本は董其昌の名字を記した二つの印があり,また朱彝尊の収蔵にかかる印もある。ならば本書は貴重書と言い得よう。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)原文「其初娶韓元吉女,乃紹興二十七年在信州,不在東陽。後,乾道三年五月,持母喪居明招山,學者有來講習者。四年,已成『左氏博議』。五年二月,除母服。五月,乃繼娶韓氏女弟」。訳文は『呂祖謙年譜』を利用して少しく手を加えた。なお最初の妻は紹興32年6月23日に亡くなり,母は乾道2年11月1日に亡くなっている。
(*2)麻沙:宋代の有名書店の名前。いい加減な本を出版していたことでも知られている。
(*3)『経義考』巻187,左氏博議条に見える。
(*4)同上。

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四庫提要(春秋類2)034

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

呂祖謙『春秋左氏伝続説』12巻

○永楽大典本

宋の呂祖謙の撰。本書は『左氏伝説』の続編で,その不足を増補したものである。だから『続説』というのである。伝本は久しく途絶えていたが,現在『永楽大典』に散見する。ただ僖公十四年秋八月から三十三年まで,および襄公十六年夏から三十一年までは,原本の引用が欠落しており,佚文を集められない。それ以外は首尾完具している。左氏伝の順序に従って佚文を配列すれば,まだ完全な書物にまとめることができる。

本書中,臾駢送狐射姑之孥と孟献子愛公孫敖二子の二条はどちらも『博議』の所説を否定している。ならば本書は晩年の作ということになろう。本書の論述は左氏伝の叙述にそったものであるため,議論は『伝説』の規模宏大であるのには及ばない。

さて本書は左氏伝の記載に対し,その意味を明らかにすると同時に,その短所も指摘している。例えば,左氏伝には三つの病弊がある。――君臣の大義に明らかでないのがその一つ,好んで災異や祥瑞に附会して人事を説くのがその二つ,管仲や晏嬰を論述してはその精力を尽くしながら,聖人を論じては却って風格がないのがその三つ云々(*1)などである。これらは宋代の学者の好んで先学を批判する風を襲ったものであるが,確かにその病弊を射貫いたものである。その他,朝祭・軍旅・官制・賦役の法典,および晉楚の興亡盛衰と列国向背の事機については,頗る明白に論述している。ただ子服景伯は桓公の出であるのに,襄公から出たとするのは(*2),少しく過失を免れない。

蓋し祖謙は歴史に詳しく,空談によって経書を論ずることの不可を知っていた。だから左氏伝を研究し,その終始を解明し,それによって得失を明らめており,三伝排除の空論などは主唱しなかった。これを孫復らに比べるなら,その学問は多く根拠がある。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)『左氏傳續説』綱領に見える。
(*2)子服景伯は孟孫氏の出。孟孫氏は公子慶父の出で,公子慶父は桓公の息子。呂祖謙の指摘は『左氏傳續説』巻12に見える。

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四庫提要(春秋類2)033

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

呂祖謙『春秋伝説』20巻

○両江総督採進本

宋の呂祖謙の撰。祖謙には『古周易』があり,既に〔『四庫全書』に〕収録した。祖謙生涯の『左伝』研究は三つある。一つは『左伝類編』,一つは『左伝博議』,そしてもう一つは本書である。

『類編』は左氏の文章を十九の項目に分類したもので,久しく散佚している。〔現在,〕『永楽大典』中に散見するが,ほとんど見るべきものはない。(*1)『博議』は〔左伝の〕各種事件の意味を解明し,その得失を論評したものである。本書の主張は『博議』とほぼ同じだが,より詳細に論述されている。陳振孫の『書録解題』には,「祖謙は『左氏』に対して多くの研究を行ったが,文章に残さなかった。本書は祖謙の講義であり,それを門人が抄録したものだろう」とある。確かにその通りであろう。

朱子の『語録』には「祖謙は極めて博識だ。しかし文字の選択や心の用い方には巧妙に過ぎるところがある」とある。祖謙の作った『大事記』について見ても,朱子はまた「繊巧の処あり(細やかな心遣いがなされている)」と言い,「祖謙は公孫弘や張湯の狡賢さを指摘するが,それらはどれも人に羞恥の心を起こさせるものだ云云」と言っている。ならば朱子のいう「巧みだ」とは,筆鋒鋭利,事実の露見に余蘊なきことを指したものであり,単に言葉巧みなだけで,ときに是非を転倒させる類のものではない。

『書録解題』は本書を三十巻とするが,この本はわずか二十巻である。明の張萱の『内閣書目』には,『伝説』四冊を載せる外,別に『続説』四冊を載せている。陳氏の指摘する三十巻は,〔『伝説』二十巻に〕『続説』十巻をあわせて言ったのであろう。現在,『続説』は新たに『永楽大典』から編集し直したが,それは形式的に首尾完具していた。そこで〔『四庫全書』には〕別の書物として収録することにした。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)現在『四部叢刊』続編に収録されている外,『呂祖謙全集』にも収められている。

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四庫提要(春秋類2)032

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

陳傅良『春秋後伝』12巻

○両江総督採進本

宋の陳傅良の撰。傅良,字は君挙(傅良を傳良とする場合があり,版本の間で異同がある。しかし傅良の字を君挙という以上,それは「傅説は版築に挙げらる」(*1)から取ったものだろう。そのためここでは「傅」の字を正しいと認めたい),号は止斎,温州瑞安の人。乾道八年の進士。官は中書舍人・宝謨閣待制になった。諡を文節という。生涯は『宋史』本伝に詳しい。

本書について,門人の周勉の跋文には「傅良は本書を認め,脱稿まぎわになって病に倒れた。学者らはその書物を少しでも速く目にしようと,人を雇って書き写させた。しかし傅良が既に削除した部分を編中に留めたり,増訂した部分を削除してしまっていた」とある。ならば現在伝わるものは,既に傅良の完本ではない。

趙汸は『春秋集伝』自序で,宋代の春秋学者の中で陳傅良を最も推奨してこう言った。――「君挙は公羊と穀梁の学説に左氏の学説を加え,経文に記述のない事柄を左氏の記述によって充たし,左氏に記述ある事柄によって経文に記述のない意味を明らかにした。(*2)これこそ春秋を学ぶものの要点であり,三伝以後では卓然と名家たるを失わぬ。しかし惜しむらくは,左氏の記録を魯史の旧文だと勘違いし,策書に書式あることを悟らなかった。夫子(孔子)が筆削を加わえた部分は左氏も分からなかった。左氏はまず不書の例(*3)を載せているが,これらはすべて史書の書法(*4)である。筆削の旨ではない。公羊と穀梁は〔経文に〕理解できない所があれば,いつも「不書」によって解決しようとするが,これは確実に左氏と違う一派なのである。陳氏はそれら〔公羊・穀梁と左氏の異なる学説〕をない交ぜにして〔聖人の微旨を〕求めているが,これは根本的に間違っている。そのため左氏の記録する事柄で経文に記述のものに対して,すべて夫子が筆削を加えたところだと言っている。しかしそれらは聖人〔の微旨に〕に合致しないものが多い云々」。(*5)

しかし左氏は春秋のために伝(*6)を作ったのであり,策書(*7)のために伝を作ったのではない。『左氏伝』にある「某々のために経文に記述がない」は,経文の本旨を理解できていないところがあるにはある。しかしこれを「必ずや史書の書法を解明するために〔左氏が〕書いたのだ」というなら,それは事実といえまい。ましてや不修春秋の二条は公羊伝になおも伝文がある。左氏が見ていないことなどあり得ない。恐らくはいずれも傅良の病弊というに当たるまい。ただ公羊と穀梁を左氏に混ぜたという指摘だけは,傅良の誤謬を鋭く衝いたものといえるだろう。

王弼が象数を排除して以後,易を論ずるものは日一日と増え,啖助が三伝を排除して以後,春秋を論ずるものは日々増大した。そのため五経の解釈の中,易と春秋の二つだけは著書が多い。〔春秋を解釈するに〕空論が容易であったこと,ここにおいても明白な根拠を見つけられるというものである。(*8)傅良は憶説が猖獗を極める時にあって,ひとり旧来の学説を基礎に聖人の微旨を研究した。樓鑰の序文には,「傅良は門弟の中で三伝に習熟したもの三人――蔡幼学・胡宗・周勉を選び,地方官として任地に赴くときは,いつもその中の一人を連れて行った。彼らは諮問に応ずること響きのようであった」とある。傅良の研究は詳細を究めたものと言うべきであろう。また本書は多くの新解釈を提起しているが,解釈の下には必ず「これは誰某の説によった。これは誰某の文である」と記しており,その引用も極めて博い。このようなやり方が広まれば,餓鬼のように褒貶を論ずる世間の口を止めることもできよう。

傅良には別に『左氏章指』三十巻がある。樓鑰の序文は〔『後伝』と『章指』の〕二書をあわせて言ったものであろう。(*9)朱彝尊の『経義考』は「未見」と記している。現在,『永楽大典』にはなおもその梗概を残しているが,既に欠落が多く一書にまとめることができない。だから〔四庫全書に〕収録しなかった。(*10)

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)『孟子』告子下。傅説は土木工事の人足から抜擢されたの意。
(*2)原文「以其所不書實其所書,以其所書推見其所不書」。「其」が何を指すのか難解だが,恐らくこれは樓鑰の序文にある「若左氏或以為非為經而作。惟公以為著其不書以見春秋之所書者,皆左氏之力」をもとにしたものであろう。
(*3)不書:(1)聖人が経文に記述しなかった事柄,もしくは(2)聖人によってある事柄が経文に記述されなかった理由,あるいは(3)それらの規則・不規則的表現を意味する。時にそれらの全てを含む漠然とした意味に用いられる。
(*4)史法:歴史書の書き方。中国古文の正式な歴史書を見たことのない人には分かり難いが,歴史書は書き手の思いを自由に表現するものではない。一定の格式があり,その格式に則って歴史事実を記述するものである。その格式のことを史法と呼ぶ。
(*5)ややこしいので趙汸『集解』の原文を載せておく。「至永嘉陳君舉,始用二家之説,參之左氏,以其所不書實其所書,以其所書推見其所不書,為得學春秋之要,在三傳後,卓然名家。然其所蔽,則遂以左氏所録為魯史舊文,而不知策書有體。夫子所據以加筆削者,左氏亦未之見也。左氏書首所載不書之例,皆史法也。非筆削之旨。公羊、穀梁毎難疑,以不書發義,實與左氏異師。陳氏合而求之,失其本矣。故於左氏所録而經不書者,皆以為夫子所削,則其不合於聖人者亦多矣」。簡単(?)に言うと,左氏と公羊・穀梁は両者ともに「不書」を解釈の根拠にしているが,左氏はそれによって策書の書法を解明しようとしたのであり,対して公羊・穀梁は経文の微旨を解明しようとしたものである。ところが陳傅良は左氏と公羊・穀梁が同じく「不書」を利用していることから,左氏の「不書」と公羊・穀梁の「不書」を同じものだと考え,三つをない交ぜにした,ということになる。
(*6)伝:春秋の解釈書のこと。
(*7)策書:国史編纂の基礎になった公文書・辞令書。春秋の場合でいえば,魯史のもとになった公文書を指す。ただし国史を指すこともあり,ここでは魯の国史を指すと思われる。
(*8)ここに‐は著書の数を指す。
(*9)樓鑰の序文が「春秋後傳左氏章指序」とあって,二書を繋げていることによる。
(*10)この四庫官の判断には疑問がのこる。恐らく四庫官の見た『左氏章指』は残闕本ではなく,完本に近いものであったろう。理由はいろいろあるが,またいずれ機会があればということで。

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四庫提要(春秋類2)031

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

高閌『春秋集注』40巻

○永楽大典本

宋の高閌の撰。閌,字は抑崇,鄞県の人。紹興元年,上舍から選出されて進士を授かり,礼部侍郎などを歴任した。生涯は『宋史』儒林伝に詳しい。本書は程子の『春秋伝』を根本に置いたものであり,そのため冒頭に程子の序文を冠している。その学説は唐宋の諸学者の学説を集め,それを自己の見解に融合させたものであるが,一々依拠した学者の姓名を挙げていない。(*1)『宋史』には「秦檜は閌が張九成を推薦したことに疑いをもち,筠州知事として地方に出ることになったが,任地に赴くことなく卒した」とあるが,樓鑰の手になる本書の序文には「剛直な性格のために時の宰相と対立し,一たび排斥されると復帰することはなかった。家居すること累年,欲望のために心を乱すことなく,日課を定め,どんなときも改めなかった」とある。蓋し閌は家居すること久しく,その晩年の精力は全て本書に注がれたのであろう。『宋史』の叙述は〔家居後の経緯を〕詳述していないのだ。(*2)

閌は程頤の『春秋伝』を宗旨とした。しかし,例えば程子は漢の薄昭が淮南王に与えた書簡中に「斉の桓公は弟を殺した」との言葉があることから(*3),子糾を弟とし,斉の桓公を兄としたが(*4),閌は三伝および『史記』『漢書』の文章から,「子糾と小白はどちらも〔斉の〕襄公の弟であるが,糾は年長なのだから〔斉侯として〕即位すべきである」(*5)というように,全く阿附迎合するところなく,門戸の見にとらわれたところがない。(*6)他にも「衛人 晉を立つ」を解釈したところ,「夫人氏の喪 斉より至る」を解釈したところ,「済西の田を取る」を解釈したところなど,どれも深く聖人の微旨を体得したものである。また「向戌と劉に盟す(及向戍盟于劉)」を解釈しては,「そもそも〔魯国に〕来聘して盟を行った場合,必ず〔魯の〕国内のことである。劉というは王畿の領地である。魯に来聘しておいて,遠く〔周の領地である〕劉で盟を行うものがあろうか。恐らく,下の経文に『劉夏』というのがあるので,伝を作ったものは,〔劉夏の夏を〕春夏の夏だと思い,また文公四年の経文の『夏,婦姜を斉に逆う(夏,逆婦姜于齊)』とも構文が同じだというので,間違って〔この経文に〕『于劉』の二字を書き加えたのだろう」といい(*7),また「州蒲」を「州満」の誤植であるとするなど(*8),どの発言も一説として備えるに十分である。

ただ隠公元年の「防に会す」の防は琅邪華県の東南にあり,十年の「防を取る」の防は高平昌邑県の西南にあり〔別の地名であり〕,また文公十二年の「諸及び鄆に城く」の鄆は城陽姑幕の南にあり,成公四年の「鄆に城く」は東郡廩邱県の東にあ〔り別の地名であ〕るが,閌はすべて同じ地名だとしている。これらは少しく考証に不備があるのを免れない。(*9)

原書は久しい以前に散佚したが,まだ佚文が『永楽大典』に散見する。そこで謹んで編集配列し,一書にまとめあげた。(*10)『永楽大典』にもともと欠落しているところは(*11),各書に引用された閌の学説を集めて増補した。〔できあがった書物の〕首尾は完具しており,再び完全な書物になった。陳振孫の『書録解題』は本書を十四巻とするが(*12),この度の編纂では紙数の煩雑を鑑みて四十巻に分けた。また『宋史』の本伝は閌に『春秋集解』があったとするが,『永楽大典』は確かに『集注』としているし,『書録解題』とも合致する。ならばこれが宋代の刊本の原題なのだろう。この度は〔『集注』の原題に〕従った。また本書記載の経文は多く左氏に従うが,まま公羊と穀梁の〔経文を引くこと〕もある。蓋し宋代の学者は往々にして三伝を兼ね取り,漢代専門の学とは異なるのだろう。(*13)

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)書前提要は「故其序直引伊川傳序,而無片語附益。其于唐宋諸家之説,亦多擇善而從,鎔以己意,不載各書之名,體例畧與胡安國『春秋傳』相似」とある。
(*2)書前提要は「故當時學者甚重之」とする。
(*3)『漢書』巻44(淮南王長伝)に見える。
(*4)程頤の子糾を弟とする考えは『河南程氏遺書』に散見するが,『漢書』淮南王長伝を直接の根拠とはしていない。例えば「齊侯死,公子皆出,小白長而當立,子糾少亦欲立。管仲奉子糾奔魯,小白入齊既立,仲納子糾以抗小白。以少犯長,又所不當立,義已不順。既而小白殺子糾。管仲以所事言之則可死,以義言之則未可死。故春秋書『齊小白入於齊』,以國繋齊,明當立也。又書『公伐齊納糾』(原注:二傳無子字),糾去子,明不當立也。至齊人取子糾殺之,此復繋子者,罪齊大夫既,盟而殺之也」(『遺書』巻2上,東見録,君實修資治通鑑云々条)とあるように,経文に「糾」とあるか「子糾」とあるかに依拠している。
(*5)荘9齊小白入于齊条。但し高閌の解釈は『史記』『荀子』に直接依拠した旨を記さない。(*6)の書前提要の方が正しい書き方である。
(*6)書前提要は「書中大旨,雖宗程傳,而亦間有異同者。如子糾、齊桓,長幼之次,三傳注疏,並以糾為兄,桓為弟,與『史記』『荀子』所載同。獨程子見漢薄昭與淮南王書有齊桓殺弟之文,遂謂糾為桓弟。不知當薄昭時,漢文于淮南為兄,其避兄言弟,特一時遷就之語,未可據依。閌則云:『子糾、小白皆襄公弟,糾於諸弟最長當立』。實足以正程傳之失」とする。
(*7)書前提要は「所見創闢而確鑿尤為,自來説春秋者所未及」とする。
(*8)書前提要は「又如以子般卒為善終,以州蒲為州滿之訛,考核精詳,亦非漫然立異者」とする。
(*9)書前提要は「然在宋代春秋詩家中,正大簡嚴,實可與張洽相匹,非孫復、崔子方輩所可幾及。故『欽定春秋傳節彙纂』採取最多」を加える。
(*10)書前提要は「特是有明以來,其書久佚,『彙纂』所録,祗就元以後諸書引用閌説者,隨條摘入,而海内究以未覩全書為憾。今幸直聖代右文,蒐羅秘籍,是書之散見『永樂大典』内者,復可薈萃成編,謹按次排比,是正訛舛」とする。
(*11)原文「其永樂大典原闕者」。四庫全書編纂当時の『永楽大典』の欠落部分という意味だと思われるが,『永楽大典』原本そのものに未引用の高閌の学説という意味にも取れる。いずれにせよ『永楽大典』は四庫全書編纂当時には僖公と襄公の後半が欠落していたので,その部分は他書(主として『欽定春秋伝説彙纂』)によって増補されている。
(*12)書前提要は「陳振孫『書録解題』,馬端臨『文獻通考』倶稱是書十四卷」とする。
(*13)原文「不盡如漢世專門之學也」。如は「しく」とも読めるが,書前提要に「蓋唐宋諸儒解經,大都兼采三家,固未可以漢世專門之學律之也」とあるのに従う。

*異様に書前提要と差異があった。立論の主旨はどちらも同じだが,総じて書前提要の方が読みやすく正確である。ただし長い。申し訳ないが(?),疲れるので書前提要の異同部分は翻訳しない。また提要引用の経文注記も煩瑣なので省略した。
*本書は春秋学の歴史に言及されること少ないが,宋末から明初にかけて非常に注目された学説だった。書前提要の「故當時學者甚重之」は重要な指摘だが,総目提要では当たり障りのない言葉に変えられている。

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四庫提要(春秋類2)030

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

胡安国『春秋伝』30巻

○通行本

宋の胡安国の撰。安国の生涯は『宋史』儒林伝に詳しい。さて『玉海』には「紹興五年四月,徽猷閣待制の胡安国に命じた。――〔安国は〕経筵の旧臣である。〔……〕その撰著せるところの『春秋伝』を編纂させ,その完成を俟って進呈させよ,と。十年三月,書物が完成し,書物を進呈した。詔を下して褒め称え,宝文閣直学士を授け,銀弊を与えた」(*1)とある。ならば安国のこの書物は長らく原稿であったが,勅命によって提出を求められ,さらに五年の訂正期間をおいてようやく完成したものである。兪文豹の『吹剣録』には「本書は起草から成書に至るまで,初稿の一文字も残らなかった」(*2)と言うが,その心遣いもまた勤勉である。ただ本書は南渡の後に作られたため,当時の状況に発憤するところがあり,往々にして己の考えを春秋に仮託しており,その学説のすべてが経文の主旨に合致しているわけではない。朱子の『語録』にも「胡氏の『春秋伝』には牽強付会のところがあるが,議論は精神を開閉させるものがある」といっている。これもまた千古の定評である。

明朝初期に科挙の制度を定めた際,概ね元朝の方式に依拠し,程子と朱子を宗旨とした。しかし程子の『春秋伝』はわずか二巻分が完成したのみで大半が欠落しおり,朱子にも完成した書物がなかった。そこで安国の学問が程氏から出たこと,張洽の学問が朱氏から出たことから(*3),春秋〔の注釈〕には〔胡氏と張氏の〕二家を用いることになった。これはその淵源を重んじたのであって,必ずしも彼らの書著を決定的だと思ったわけではない。これ以後,洽の書物は徐々に用いられなくなり,ただ安国の書物だけが用いられるようになり,徐々に経文も打ち捨てられて読まれなくなり,ただ安国の書物だけを宗旨とするようになった。当時経義といっていたのは,実際には安国の解釈だけだった。そのため明朝一代の春秋学は最も劣悪である。馮夢龍の『春秋大全』の凡例には,「諸学者の議論はどれも胡氏に勝るものがある。しかし科挙で既に胡氏を重んずる以上,おのずから〔他の解釈を〕同じく収録して人の耳目を乱すこともできまい」と言っておれば,その当時の風潮も分かるだろう。

かくして〔明朝から〕本朝になると,経学を貴ぶようになった。その『欽定春秋伝説彙纂』は安国の旧説に対し,始めて多くの反駁や訂正を加えた。それは過失を棄て,優れたところを採ったもので,本書の精粋を摘み取り,原書をまとめきったものである。〔随って本書はもはや不要であるが,〕ただ世に流行すること既に久しく,完全に廃止してしまうことはできない。そこで謹んで校正を加えてこれを〔『四庫全書』に〕収録し,一家の言に備えることにした。これ以外に言うべきものもあるが(*4),『欽定彙纂』において既に余すところなく〔本書の優れたところを〕摘み取り,天下に明示したのであるから,ここではもはや論弁しない。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)『玉海』巻40に見える。『建炎以來繋年要録』巻88紹興五年夏四月甲辰条にも見える。〔……〕は『要録』による。
(*2)不詳。『胡氏伝家録』に似た記述がある。
(*3)胡安國は程頤私淑の弟子,張洽は朱熹の弟子。
(*4)原文「若其中紕漏之處」。

*なお『春秋大全』以前で通行本を利用したのはこの胡安國の『春秋傳』のみである。

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

四庫提要(春秋類2)029

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

呂祖謙『春秋集解』30巻
(呂本中『春秋集解』30巻)

○内府蔵本

宋の呂本中の撰。伝来の版本には呂祖謙の撰とあるが,それは間違いである。本中は字を居仁といい,好問の息子である。『宋史』の本伝には,靖康初年に祠部員外となり,紹興六年に進士を賜り,起居舍人に抜擢され,八年に中書舍人兼侍講となり,権直学士院となり,世の学者は東萊先生と呼んだとある。そのため趙希弁の『読書附志』には「本書は東萊先生の著わしたものである」とある。

後世の人々は,呂祖謙が朱子と交遊を持ち,最も有名であり,それ故にまた東萊先生とも呼ばれている〔ため,東萊先生というとすぐに呂祖謙を思い浮かべる〕が,本中の方は詩擅に名が知られ,しかも詩を作る人々は〔東萊先生ではなく〕多く呂紫微と呼んでおり,徐々に東萊と呼ばれなくなったために,本書〔の撰者〕を祖謙に変えてしまったのである。(*1)陳振孫の『書録解題』に本書を「本中の撰」と明記してあることを知らぬのである。(*2)

朱彝尊の『経義考』は訂正を志しながらも,『宋史』芸文志が〔現行本の三十巻と違って〕十二巻としていることに疑問を挟んでいる。しかし巻数の分合は古来いつも異同があり,本書だけがそうなのではない。ましてや振孫は「本書は三伝以下,諸学者の学説を集めているが,それは陸氏・両孫氏・両劉氏・蘇氏・程氏・許氏・胡氏の数人(*3)に過ぎない。学説の選択はきわめて精確であるが,自己の学説は全くない」と言っており,本書を調べるとこれに合致している。以上から,伝来の版本の撰著者名が間違っていたことが分かるのである。

ただ『宋史』芸文志は,本書以外に祖謙の『春秋集解』三十巻を標出しており,少しく矛盾があるようである。恐らくは,宋代末期の刊本は既に原本〔十二巻〕の巻数を〔三十巻に〕分け,呂祖謙の撰と改題しており,さらにそれが間違ったまま世間に伝わり,『宋史』もそれによって〔呂本中と呂祖謙を〕二重に標出したのであろう。祖謙の『年譜』はその著述を詳しく記載し,製作年月まで残しているが,『春秋集解』だけは記載がない。(*4)これもその確証と言い得るもので,他のことで疑念を挟むに足らない。

本中は『江西宗派図』を著し,また『紫微詩話』もあり,どちらも世上盛んに流通している。そのため世間では文士として知られているが,経学に対する理解もこれほどに深いものがあったのである。林之奇は本中に学問を受け,また〔之奇は〕その学問を祖謙に授けた。その学問の淵源には由来するところがあったのである。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)直訳すると以下の通り:「後世の学者は,呂祖謙は朱子と交遊を持ち,また最も有名であり,それ故にまた東萊先生と呼ばれているが,しかし本中は詩壇で名を知られ,詩を作る人々は多く呂紫微と呼んでおり,東萊の号が徐々に消えていったことから,本書を祖謙に移したのである。」なお,「後世の学者」は「本書を祖謙に移した」にかかる。
(*2)ここでいう『書録解題』は『文献通考』所引の『書録解題』で,永楽大典から輯佚した現行本の『書録解題』(殿版など)ではない。現行本『書録解題』は「呂祖謙撰」とある。
(*3)陸氏・両孫氏・両劉氏・蘇氏・程氏・許氏・胡氏は,順番に陸淳・孫復・孫覺・劉敞・劉絢・蘇轍・程頤・許翰・胡安國を指す。
(*4)真っ赤な嘘で,『年譜』は呂祖謙の他の重要著作を落としている。

*近年『春秋集解』は呂祖謙の作で間違いなく,四庫官の鑑定は間違っていると論断された。

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四庫提要(春秋類2)028

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

葉夢得『春秋讞』22巻

○永楽大典本

宋の葉夢得の撰。本書は三伝の是非を指摘したもので,そのやり方は「経文の記載を信じ,三伝を信じていない」というものである。これはなおも啖助や孫復の余波を承けたものである。〔本書は〕公羊・穀梁を多く論難しているが,左氏に対してすら,左氏伝の最後に「韓と魏が裏切って智伯を滅ぼした」という言葉があることから,「智伯が滅びたとき,左氏はまだ在世していたのだから,〔左氏は〕戦国の人間だ」と断定するように(そもそも経に続経があるように,伝にも続伝がある。夢得はこれをよく考えなかったのだろう。これについては『左伝注疏』のところで詳しく論じておいた),語気荒く三伝を排撃してる。

例えば,諸侯どうしの謁見は衰世のことだとし(*1),宰孔が晉の献公に与えた助言,および魯の穆姜の悔過の言葉はすべて牽強付会だとし(*2),天の十二次を十二国に配当することの誤謬を論じ(*3),夾谷の会で孔子が斉の景公〔の野望を〕阻止したことも,後世の仮託によるものだとし(*4),〔季孫氏らの〕郈と費を取りつぶしたのは,孔子の本意ではないといい(*5),諸侯〔が亡命したとき経文〕に出・入が記されるのは,善い場合もあれば悪い場合もあると論じたり(*6),諸侯が卒したとき,日を書す場合と書さぬ場合とがあるが,その全てが褒貶に関わるわけではないといい(*7),魯侯について〔〕経文に〕至と書される場合と否とがあるが,それらは凡例にこだわってはならないという(*8)。〔夢得は〕言葉巧みに〔三伝を〕論難し,得意気でもあるのだが,口の軽すぎる嫌いがある。経文の主旨に照らしても,合致するところもあれば乖離したところもあり,その全てが精確というわけではない。しかし自分の思い通りに文章を作り上げている。要するに文を作るのがうまいのである。

しかし〔本書の書名についてであるが,〕昔から「春秋を用いて獄を決した」(*9)とは言っても,「決獄の法を用いて春秋を修めた」とは言わない。書名に〔決獄を意味する〕「讞」の字を用いるのは不穏当である。そもそも左氏・公羊・穀梁はみな前代の経師であり,その功績は典籍に残っている。それに対して罪を裁くかのような態度を取るのは,名実において最も不適切である。これこそ宋代の学者が前代の学者を軽視していた証拠であり,決してまねしてはならぬものである。

『宋史』芸文志は本書を三十巻としている。また夢得じしんも「左氏は四百四十二条,公羊は三百四十条,穀梁は四百四十条」(*10)と言っている。しかしこの度たび『永楽大典』所載の佚文を調べ,さらに程端学の『春秋三伝辨疑』を参照し,〔両書の佚文を〕通計したところ,左氏は九十条を欠き,公羊は六十五条を欠き,穀梁は八十四条を欠いている。既に完本ではないようだが,概ね夢得の主旨は出そろっているようなので,ここに謹んで〔佚文を〕収集編成し,『左伝讞』十巻,『公羊讞』『穀梁讞』各々六巻にまとめあげた。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)『左傳讞』巻3,文1公孫敖如齊条。
(*2)『左傳讞』巻3,僖9諸侯盟于葵丘条,及び同襄3葬我小君穆条。
(*3)『左傳讞』巻6,襄28春無冰条。
(*4)『左傳讞』巻9,定10夏公會齊侯于夾谷条。
(*5)『左傳讞』巻9,定12公圍成公至自圍成条。
(*6)『公羊傳讞』巻2,桓15鄭世子忽復歸于鄭条。その他多数。
(*7)『公羊傳讞』巻1,隠3葬宋繆公条。
(*8)諸処にあり。直接の典拠を断定できず。
(*9)決獄:裁判のことだが,現代の裁判とは全く違うので,「獄」の文字を残しておく。
(*10)不詳。

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

『通志堂経解』を比べてみる?

ここ一週間,諸般の事情で『通志堂経解』のページをめくっている。
ページをめくるといっても,通常このような時に用いられる意味での「めくる」=「読む」ではなく,文字通りめくっているだけ。

通志堂経解は康煕年間に発刊された原本と同治年間に出版された重刊本とがある。他にも新刊経解という名で同治本が通行していたりする。この中,影印出版されているのは同治本で,40冊のものと16冊のものがあるが,現在でも売られているのは全16冊の方である。

通志堂経解は十三経注疏,正続清経解(+清人十三経注疏)とならぶ経学の一大叢書なわけだが,他のものに比べてきわめて人気がない。理由はいろいろあるだろうが,経学の中心時代は漢と清ということになっているので,宋元時代の経解をあつめた通志堂経解はあまり価値がないというのが第一の理由だろうと思う。そして第二の理由が,宋元時代の主要経解書が収録されていないということだろうか。

第一の理由は研究のはやりによるものだから,時代とともに盛衰があるのは仕方ない。しかし主要著作が収録されていないのはいただけないと思われるだろう。しかしそれも仕方のないことで,通志堂経解が出版されたとき,ありふれた本は省略し,当時なんとか現存していた稀覯本で,しかも首尾完具したものを収録したのである。だから宋元(+明初)の有名な経解である蘇軾・蘇轍の経解とか,『大全』とかは当然省かれたのである。まぁ,『大全』を収録されても困るというのはあるが,それは言うまい。

ちなみに,通志堂経解は清朝の貴族・納蘭性徳が編集したことになっているが,実際はそのお師匠さんの徐乾學の手になるもので,徐さんの図書館(伝是楼)に集められていたものを出版したものである。徐さんの売名行為だとかいろいろいわれるが,功績のない君子より良いことをしているのは間違いあるまい。

と,話が脱線してしまったが,最近ひょんなことから40冊本と16冊本とを見比べる機会があったので,ここ一週間ほど時間のあるときに両方のページをめくって比べてみた。ちなみに40冊本は二つの出版社から発売されている。両方とも実物を見たことはあるが,残念ながら比べる機会がなかったので,二つに違いがあるかどうかは不明だ。


さて,調べる前は16冊本と40冊本は全く同じものだと思っていたが,どうやら全く無関係の本らしいことが分かった。なんで無関係かというと,印刷の状態とは別の次元で,文字の写りに差があるのが第一点,片方に全く欠落した部分が存在するのが第二点,最後に40冊本の目録は「新経解」だが,16冊本の目録は「経解」になっている。16冊本は同治本の通志堂経解を影印したのだろうが,40冊本は新刊経解でも影印したのだろうか?全部の版本を一堂に会して調べたわけではないので分からないが。

もちろん16冊も40冊も同じ通志堂経解だから基本的には同じなんだが,まれに......というか予想以上に頻繁に序跋類の異同が多い。例えば,16冊には黄仲炎の『春秋通説』の自序が入っているが,40冊ではなぜかカットされている。見せてもらった40冊本のミスかと思ったが,ページが連続していたのでもともとこうなっていたのだろう。もっとも大きい違いには,16冊本には附されている董楷の『周易傳義附録』の巻首が,40冊本は一括して省略されている。

こういうと40冊本の方が劣っているように思うかもしれないが,そう簡単には断定できない。40冊本にある序跋が16冊本にないというのがチラチラ存在するからである。他にも16冊本は欄外の注文を勝手に省略しているなどの問題点がある。

どちらにせよ両方ともむかしの本だから乱丁はおびただしく存在するが,乱丁はページが狂っているだけだから,通読に面倒なだけで致命的なものではない。問題なのは落丁で,これがあるとその部分が全く読めないので非常にこまる。

というわけで,案外比べてみると違うもんだというのが分かった。40冊も16冊も同治本の系統なので,あまり洋装本どうしを比べることもなかったが,今回は勉強になった。……ま,いまさらこんな勉強してもどうにもならん身分なのだが。


ちなみに,もし16冊本の購入を考えており,しかも16冊本を見たことがない人は,買う前に16冊本を見ておいた方がいい。たぶんこれを買うような人は学生さん以上だろうから,大学の相互利用とかを利用して,一冊だけ取り寄せてみるといい。どの冊でも似たようなものだが,個人的には11冊を勧める。ここには『春秋諸傳會通』と『春秋集傳釈義』が収録されており,割注がふんだんに掲載されている。これを見て十分活用できると思う人は,16冊本を使いこなせるだろう。

簡単に言うと,16冊本は,線装本から欄外と版心を削除し,本文を接続し,極度に縮小したもので,1頁3段の構成。一字あたり大きくて5ミリ,小さくて3ミリ。割注は推してはかるべし。ましてや全ページにわたって割注の場合どうなることか……ただ虫眼鏡で見れば何とか見えるのが面白い。予想以上に文字はつぶれていない。

ちなみに40冊本は普通の1/4縮刷。もともとの字体が字体なので,あまり見やすくないが,これは原本の責任だから仕方がない。ところどころ写りの悪いところあり。もう一つ,それほどではないが文字がつぶれているところもある。16冊本より読みやすいが,予想以上に読みにくいところも多い。

......誰に向かって書いてるんだか。

テーマ : ひとりごとのようなもの
ジャンル : 日記

四庫提要(春秋類2)027

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

葉夢得『春秋考』16巻

○永楽大典本

宋の葉夢得の撰。本書は寧宗の開禧年間に『春秋伝』『春秋讞』と同じく南剣州で印刷された。元の程端学は『春秋三伝弁疑』を著し,本書の学説を多く引いている。元の当時にはまだ伝本があったのだろう。明朝以来,どの蔵書家も本書を〔蔵書目録に〕記載していない。このため朱彝尊の『経義考』は「散佚」と注記している。ただ『永楽大典』には多数の本文が引用されており,順次調査したところ,なおも十に八九を発見できた。この度それらを編集按配し,再び書物としてまとめ上げた。

本書の主旨は,三伝排撃の根拠を明らかにすることにある。しかし〔その批判は〕確かに周の法制に基づいて判断しており,憶測を交えたところはない。随って,その発言も周の典籍を研究したもので,その成果を用いて春秋の宗旨を求めたものである。本書の文章は明晰博識,縦横無尽,発言には根拠があり,概ね典雅で精確である。陳振孫の『書録解題』には「本書の分析や討究はきわめて詳細精確である」と言うが,その通りであろう。

原書は冒頭に「統論」があり,その後に十二公を列挙し,条文ごとに詮索を加えている。また経文は記載していない。この度の編集は原書の構成に従った。ただ本書の巻数については,紙数をつづめ,「統論」は三巻とし,隠公以下は十三巻にまとめ直し,〔合計十六巻とし,〕『宋史』芸文志に載せる三十巻の巻数にはこだわらなかった。

〔夢得の『伝』『考』『讞』の関係について,〕夢得の自序によると,「『讞』によって私の訂正の正しさが分かれば,私の『考』を読むことができる。『考』によって私の選択の正しさが分かれば,私の『伝』を読むことができる」とある。しかし『書録解題』はまず『伝』を配し,次に『考』を置き,次に『讞』を置いている。恐らく『伝』は夢得の春秋学の大綱であり,『考』と『讞』はその主旨を解説したものなのであろう。この度は陳氏の順序に従い,〔本書を〕『伝』の後ろに配置した。

『四庫全書総目提要』巻27



テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

四庫提要(春秋類2)026

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

葉夢得『春秋伝』20巻

○浙江朱彝尊家曝書亭蔵本

宋の葉夢得の撰。夢得,字は少蘊,号は石林。呉県の人。紹聖四年の進士。南宋以後,崇信軍節度使にまでなった。生涯は『宋史』文苑伝に記されている。

夢得〔の著作目的〕はこうである。――孫復の『春秋尊王発微』は,三伝を排除して経文のみで春秋を理解しようとした。また蘇轍の『春秋集解』はもっぱら左氏に従い,公羊と穀梁を排除した。しかしこれらはいずれも弊害あるを免れない。そのため本書は三伝を参考にして経文を理解しようとした。そして事柄を知り得ない場合は義(春秋の意味)について考察し,義を知り得なければ事柄について考察し,〔義と事柄とを〕互いに考察することで経文の意味を明らかにしたもので(*1),きわめて精確である。開禧中,孫の筠が南剣州で刊行し,真徳秀がこれに跋文を書いたが,そこには「〔本書は〕邪説異端を退け,世教に補益すること浅からぬものがある」(*2)と賞賛している。

『宋史』芸文志には,夢得の本書とは別に,『春秋考』三十巻,『讞』三十巻,『指要』『総例』二巻,『石林春秋』八巻を載せている。現在,『春秋讞』と『春秋考』の二書は『永楽大典』に散見し,まだその梗概を知ることはできるが,それ以外はすべて散佚してしまった。ただこの『春秋伝』だけが完全な書物として残っている。

『南窻記事』には,「夢得は春秋の書物を作ったが,四つの区別があった。音義を解釈したものを『伝』といい,事実を訂正したものを『考』といい,三伝を排撃したものを『讞』といい,凡例を編集したものを『例』といった。あるとき〔夢得は〕徐惇済に語って,『私のこれらの書名は古来なかったものだ』。惇済,『呉程秉は三万余言の書を著したが,それらは『周易摘』『尚書駁』『論語弼』と言った。これに類似している云々』」(*3)とある。本書を調査したところ,もっぱら音義を解釈したものではなく,『南窻記事』の記事は既に間違っている。一字の書名についても,古くからよくあることで,春秋について考えれば,「伝」が通常の書名であることは論ずるに及ばない。『漢書』芸文志には鐸氏と張氏に『春秋微』があり,『公羊伝』の疏には閔因の『春秋序』があり,『後漢書』には鄭衆の『春秋刪』があり,『隋書』経籍志には何休の『春秋議』,崔霊恩の『春秋序』がある。孫炎には既に『春秋例』がある。夢得は博識であるのに,それらを知らぬはずがあるまい。古来この書名はないというが,決して事実ではないのである。また『宋史』芸文志に夢得の『春秋指要』『総例』はあるが,そこでも『春秋例』とは記されていない。まったく牽強付会の発言で,依拠するに足らない。

『四庫全書総目提要』巻27


(*1)「義」は「聖人が経文に託した意味」という程度のもの。
(*2)眞秀の跋文は『通志堂経解』所収の葉夢得『春秋傳』の末尾に付されている。
(*3)『南窻記事』(撰著者不詳)の葉石林問徐惇濟曰云々条に見える。

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

四庫提要(春秋類2)025

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

張大亨『春秋通訓』6巻

○永楽大典本

宋の張大亨の撰。本書の自序には,「若くして趙郡の和仲先生に春秋を習った」とある。宋の蘇軾の年譜を調査したところ,軾のもとの字は和仲だったとある。また蘇洵の『族譜』には,「唐の宰相の蘇頲の末裔で,趙郡の出身である」とある。今に伝えられる軾の「題烟江疊嶂図詩」にも,石刻の末尾に「趙郡の蘇氏」の印がある。ならば「趙郡の和仲先生」とは,軾のことである。

蘇籀の『雙溪集』には,「大亨が春秋の義を軾に問うたところ,軾は書簡にてこう答えた。――『春秋は学者の本務である。しかし春秋は非常に精緻に作られており,はっきり理解できる学者はほとんどいない。一定の規律でもって春秋を律しようとするものが多いが,これでは法家の流儀と同じになってしまう。わずかな誤差にこだわってみても,それでは何のやくにも立つまい。ただ左丘明だけは春秋の用法を心得ていたが,聖人の微言について言い尽くそうとしなかった。学ぶものみずからがそれを見つけよと言うのだろう云々』」とある。(*1)これは大亨の自序とも合致する。(*2)蓋し大亨の学問は蘇氏によるのであろう。だからその議論や主旨も蘇氏に近似しているのである。

陳振孫の『書録解題』と『宋史』芸文志は〔本書を〕十六巻とし,朱彝尊の『経義考』は「散佚」とする。本書は『永楽大典』に載せられているが,それは十二公ごとに巻を分け,さらに隠公・荘公・襄公・昭公は上下巻に分けており,〔振孫らの記す〕十六巻の数と一致する。しかし各巻の分量は少ない。そこで煩雑を厭い,この度の編纂では六巻に作り直し,閲覧の便に備えた。なお本文に欠落したところはない。

『四庫全書総目提要』巻27


(*1)蘇籀『欒城遺言』の公少年與坡公治春秋云々条に見える。
(*2)本書の後叙に蘇籀所引の言葉が見える。

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ジャンル : 本・雑誌

四庫提要(春秋類2)024

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

張大亨『春秋五礼例宗』7巻

○浙江呉玉墀家蔵本

宋の張大亨の撰。大亨,字は嘉父,湖州の人。元豊乙丑の乙科に合格した。何薳の『春渚紀聞』(*1)と王明清の『玉照新志』(*2)には,〔大亨は〕司勲員外郎になったとき,諸王府の侍読・侍講の官名が朝廷と同名なのは〔怪しからんといって,諸王府の侍読・侍講の〕官名を改正するよう要請したと記されてある。陳振孫の『書録解題』には「直秘閣で呉興の人,張大亨の撰」(*3)とある。これは最後の任官を挙げたものだろう。

そもそも左氏伝の凡例について,杜預は「〔左氏伝に『凡そ』とあるのは〕すべて周公の定められた礼の典籍を指している」と言い,韓起が〔魯の国で〕『易』象と『春秋』を見た際も,「周礼は魯に存在する」(*4)と言った。また孫復は『春秋尊王発微』を作ったが,葉夢得は「復の礼学理解は浅く,そのため自己矛盾に陥ったところが多い」と批判した。蓋し礼と春秋は本来表裏一体のものである。

大亨のこの書物は,次のような理由,即ち杜預の『釈例』は経文と矛盾しており,しかも一貫性がない。陸淳の手になる啖助・趙匡の『春秋纂例』も支離滅裂である――との理由から,春秋の事柄を吉・凶・軍・賓・嘉の五つの礼に分類し,その分類に従って別記し,各々に総論を作ったものである。本書の義例は一貫しており,他の春秋学者のように義例にこだわりすぎたところもない。振孫は本書に対して「詳細にして完備している」と称えているが,これは決して虚飾の言ではない。呉澄の『春秋纂言』も〔経文を〕五礼に分類したが,本書と一致する点が多い。

朱彝尊の『経義考』は本書を十巻と記述し,「現存」と注を入れている。しかし蔵書家らの抄本はどれも軍礼の三巻がない。また『永楽大典』は〔本書の〕全文を引用しているが,それらはすべて吉・凶・嘉・賓の四つの礼についてであり,軍礼は絶えて一文字も存在しない。つまり軍礼三巻は〔『永楽大典』編集より〕はるか以前に散佚していたのである。彝尊がたまたま見落としたものであろう。

『四庫全書総目提要』巻27


(*1)『春渚紀聞』巻1,丑年世科第条に張大亨の記事がある。ただ侍読侍講云々の話は見えない。
(*2)『玉照新志』巻1に見える。
(*3)直秘閣は館職名,呉興は湖州の郡名。
(*4)周礼が『周禮』を指すのか,それとも「周の礼」を指すのか,学説間に対立がある。

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

四庫提要(春秋類2)023

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

崔子方『春秋例要』1巻

○永楽大典本

宋の崔子方の撰。『宋史』芸文志には,「子方,『春秋経解』十二巻,『本例』『例要』二十巻」とあり,『本例』と『例要』を総じて巻数を掲げている。つまり子方の原著は,本書と『本例』を併せて一つの書物としていたのである。朱彝尊の『経義考』には,「『本例』『例要』二十巻。両者現存」とあり,ここでも二書に分けていない。現在,通志堂の刊行した『本例』は,目録だけを引き離して一巻に数え,二十巻という数に合わせているが,『例要』は欠落している。伝写の間に『例要』一巻が失われ,後世の人々は『本例』の目録を『例要』のことだと間違えるようになり,別にあった〔『例要』〕一篇の存在を忘れてしまったのだろう。彝尊が見たのも,おそらくは〔目録を一巻に数えた〕この本だったろう。だから「両者現存」と間違った注をつけたのである。

このたび『永楽大典』を調べたところ,〔『例要』の〕原文を多く引用していた。それらは数十百条にも分けられるが,関連する文字の下にまとめ,条文の連絡を探っていくと,まだ〔各条文を原本通りに〕つなぎ合わせることができた。そこで通志堂本掲載の目録と比べると,一字たりとも同じものがなかった。これで通志堂本が不完全だったことが明白になった。謹んで前後の条文をつなぎ合わせ,概ね『本例』の順序に依拠して配列し直し,かくして子方の三書を原本の形に復元した。

『四庫全書総目提要』巻27


(*)本書,四庫全書は『例要』を『経解』の付録に載せる。随って,書前提要もない。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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