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第623回のテーマは「大切な言葉」らしい

むだに四庫提要の翻訳ばかりやっているが,検索に便利が悪くなってきたので,前に作った目録にリンクを張ってみた。だからどーだという感じもするが,個人的にこの方が便利なので作ってみただけで他意はない。

もし首尾よく春秋大全まで終われたなら,もういちど翻訳を見直して(これはいい加減にだが),宋史紀事本末のサイトの附録にくっつける予定です。これこそだからどーしたという感じだが。

ちなみに明日は宮成楽さんの『晴れのちシンデレラ』第1巻の記念すべき発売日だ。でも私が買えるのは早くとも土曜日だったりする。Amazonなどにまだ表紙絵は出ていないが,竹書房のサイトには表紙が出ている。ここ。もう予約は済ませてあるが,どうせ日曜日以降にしか届かないので,土曜日に書店に繰り出してみる予定だったりする。これはどーてもよくない大変重要な話だ。

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四庫提要(春秋類3)051

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

陳則通『春秋提綱』10巻

○両江総督採進本

伝来の板本には「鉄山先生陳則通の撰」とある。身分や郷里を記さず,その時代も著していない。則通なる人物の詳細は不明であるが,朱彝尊の『経義考』は劉荘孫の後,王申子の前に配置している。(*1)ならば元人ということになる。

本書は春秋の主旨を概論したもので,征伐・朝聘・盟会・雑例の四項目に分けている。各項目の中,さらに事柄ごとに区別を加え,関係する事柄をあつめて例と名付けている。しかしそれは事件の〔関係経文を〕時系列に順次配列し,その結末や正否の理由を考究したものである。例と名付けられてはいるが,実際には他の春秋学者のように,書法を例とみなしたものではない。そのため本書の解釈は好き勝手に話を広げたもので,史論の体裁に等しい。経学家でも別個の一派とみなすべきものである。

本書の〔項目の一つである〕雑例門の中,春秋は夏正を用いたことを述べているが,これは胡安国の学説を固く守ったものである。(*2)しかし安国は文公十四年の「星 孛して北斗に入る有り(星が北斗にかかった)」と昭公十七年の「星 大辰に孛する有り(星が大辰(星座の名)にかかった)」を解釈したとき,全面的に董仲舒と劉向の学説を襲った。しかし則通は災異例の中で漢代の学者の事応説(*3)の誤謬を批判している。ならば則通の見識は確かに安国よりも上にある。

『四庫全書総目提要』巻28



(*1)『経義考』巻194の配列について言ったもの。
(*2)夏正説については,張洽『春秋集注』のところで述べた。
(*3)事応というのは,人事が一対一の関係で自然界に影響を及ぼすという考えを指す。つまり,ある人間が悪事を働くと,それに対応して天が災害を下す(悪い自然現象が起こる)という考えである。随って,天の下した災害には,必ずそれに対応する人事があることになる。

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四庫提要(春秋類3)050

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

呉澄『春秋纂言』12巻『総例』7巻

○両淮塩政採進本

元の呉澄の撰。澄には『易纂言』があり,既に登録してある。本書は諸学者の解釈を掻い摘み,まま自身の意見を加え,その是非を論断したものである。冒頭に『総例』があり,経文を七綱八十一目に分類している。その中の天道と人紀は澄の創建である。他の吉・凶・軍・賓・嘉の五例は,宋の張大亨の『春秋五礼例宗』と類似しており,これを踏襲したものの如くである。しかし澄は前人の書を襲う人間ではない。そもそも澄の学問は金鶏と新安を兼ねているが(*1),大亨の学問は蘇氏を宗としている。澄は他学派ゆえに大亨の書を見ておらず,そのため〔大亨に〕暗合しながら,それを知らなかったのであろう。しかし分析は大亨に比べてより厳密になっている。

〔本書は〕経文の様式を勝手に改め,経の闕文についても方空の記号を補っており(*2),経解の体裁として適切とは言えない。しかし澄は他の経書に対してもみな改訂の手を加えており,春秋だけのことではない。本書の読者は長所を取って短所を棄てればよいのである。

〔本書は〕明の嘉靖年間に嘉興府知府の蔣若愚が刊行したことがあり,そのときは湛若水が序文を書いた。しかし歳月久しくして散佚し,世上に出回ることもほとんどなくなった。王士禎の『居易録』には「その書を見たことがない」といい,また「朱検討(*4)が呉郡の陸医士其清(*5)の家で見たことがある」とある。このため朱彝尊の『経義考』には〔本書を〕現存とみなしているが,これでも一度見たきりである。この刊本は両淮地区から探し出されたものだが,恐らくは陸氏の本を写したものであろう。久しく世に出回らなかったものが現れたのである。宝とすべき書物であることは言うまでもない。

『四庫全書総目提要』巻28



(*1)金鶏は陸九淵の,新安は朱熹の学派を指す。蘇氏は蘇軾のこと。
(*2)闕文とおぼしき箇所に□の記号を書き込むことを指す。
(*3)『居易録』巻13に「呉草廬于諸經皆有『纂言』,詩獨無之。『禮纂言』予家舊有刊本,『易纂言』康熙丙辰得之京師,亦刊本也。『書纂言』寫本,己巳冬初入都,借之黄虞稷兪邰。獨未見春秋耳。朱檢討云:曾從呉郡陸醫其清家藏書見之。」とある。
(*4)朱彝尊のこと。
(*5)清の蔵書家である陸其清のこと。

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四庫提要(春秋類3)049

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

兪皐『春秋集伝釈義大成』12巻

○内府蔵本

元の兪皐の撰。皐,字は心遠,新安の人。むかし郷里に趙良鈞なるものがおり,宋末に進士に合格して修職郎・広徳軍教授を授けられたものの,宋が滅んでからは〔元に〕仕えず,郷里で春秋を教授していた。皐は良鈞に学問を受け,その学説を奉じて本書を著した。

〔本書は〕経文の下に三伝を配置したものだが,胡安国の『春秋伝』も同列においている。呉澄の序文には,胡氏のものを三伝と並置したのは,当今の好評によるものだと言っている。そもそも四伝(*1)の名称も澄の序文に始めて見えるもので,これも胡伝(*2)がようやく重視されるようになった証である。しかし皐は四伝を並列しているものの,胡伝の偏見や過激な部分については是正したところが多い。澄の序文に「経文の解釈を読めば,四伝の是非は言葉を費やすまでもなく明白であり,専門家の名のふさわしいものである」とあるのは,確かに公平な論評である。(*3)

皐の自序を読むと,「〔定例として〕十六例を決めたが,すべて程子の『春秋伝』を宗旨とした」とあり,また程子の指摘する「春秋の微細な文字遣いや隠された意図といったものは,各々にふさわしい書き方がされている。だから意図するところは異なるのに文字遣いが同じである場合もあれば,同じ事柄であるのに文字遣いが異なる場合もある。これらはよくよく調べて各々の意味するところを考えねばならず,定例にこだわってはならぬ」(*4)に言及し,さらに「春秋を学ぶものは,程子の『春秋伝』を熟読玩味しなければならぬ」とも言うが,絶えて一字も安国に言及がない。これはその師良鈞の学問が程子を宗旨としていたものの,程子の『春秋伝』は未完成であり,また胡伝は当代好評を博していたために,〔やむを得ず胡伝を〕三伝と並列したものであろう。本書全文から判断すれば,本書の宗旨は概ね明らかにし得るが,明代の学者のように胡伝を経文の如く重んじたものとは全く異なるものである。

『四庫全書総目提要』巻28



(*1)四伝:春秋三伝+胡安国『春秋伝』のこと。
(*2)胡伝:胡安国の『春秋伝』を略して胡伝とよぶ。左氏伝を左伝とよぶのと同じ。以下,適宜略称を用いる。
(*3)呉澄の序文は『呉文正文集』巻20春秋集傳釋義序に見えるが,通志堂本『釋義大成』には見えない。ただし『経義考』には兪皐の自序とともに引用されている。なお呉澄の序文,兪皐の自序ともに,四庫提要に引かれた文は原文の意訳。
(*4)程頤『春秋伝』の自序に見える言葉。義例をある程度重んじつつ,融通の利く春秋解釈を目指したもの。

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四庫提要(春秋類2)終わり

ようやく春秋類2が終わった。春秋類1は三伝注疏を省いたので短かったが,春秋類2は省略しなかったので時間がかかった。

次回からは春秋類3。時期的には元朝から明朝だが,春秋類2の最後の2つ――家鉉翁と陳深は実質的に元朝だから,春秋類2と3にほとんど区別はない。

四庫官の立場をあらかじめ言っておくと,元以前の春秋著作は来歴の古さから原則として四庫全書に収録し,明のものは大幅に省略し,清のものは適宜収録するということになっている。四庫全書の正目と存目の両者をつなぎ合わせ,時代ごとに分類すると,明にも宋・元・清に匹敵するだけの著述のあったことが分かる。

ただ,四庫官の肩を持つわけではないが,明の著述は,正目のものを含め,見るべきものがほとんどない。せいぜい『春秋大全』に触れる必要のある程度で,それ以外は宋元時代の春秋学の亜流の亜流程度のできなので,見なくてよい。その『春秋大全』にして,既に評価すべき点は著作の内容ではなく,単に有名だからというに止まるのである。

よく清の人が「明の春秋学は歴代王朝最低だ」というようなことを言うが,全くその通りだとしか言いようがない。私など,経学史の著述で,明の著作に対して他の時代と同程度の紙数をさいているのを見ると,却って見識のない本だと思うくらいだ。もちろん,歴代の経学著作を説明する必要上,一応は明の駄作も説明しておかなければならない,換言すれば,研究の空白を作るべきではないという義務感から研究する場合がある。これはやむを得ぬ事情でもあり,大いに理解できるが,その場合でも,明の説明は必要最低限度に止めるべきであり,貴重な紙数を明に浪費してはならない。

現在,まれに明の経学を褒める研究者がいる。この手の人間は,大抵,明が好きな人々なのだが,申し訳ないが個人的な好みで価値を判断されては困る。別段明が好きでもかまわないが(私は憎いが),それは個人の好みであって,他者に強要すべきものではない。

私などは劉敞の春秋研究を好んでいるくちだが,それはあくまでも私の個人的な好みの問題だ。学説史的に説明するなら,劉敞の春秋学は,当時にあって方法論的になんら新味はなく,むしろ陸淳等の焼き直しに過ぎない。もちろん個々の発言には鋭いものが多いとはいえ,これも敢えて劉敞でなければならないものではない。元の呉澄ではないが,時代的好みから言えば,劉敞の選択眼には往々にして過失(荒さ)があるのである。つまり劉敞は,大きくは主流的立場におりながら,より細かく見るならば,主流の傍系にいたのである。

もちろん,私が好きなのはその主流の傍系というところである。それは私の生活の一部であり,私の思考の一部でもあるが,あくまでも私が私個人の脳内で考えているだけのことで,それをもって学史的に無理矢理劉敞に価値を付与することはできない。公然と劉敞に価値を付与できるとすれば,それは春秋学の歴史に対してではなく,超歴史的なものとして,劉敞という人間(正確には劉敞の著作)に対して意味を与える場合である。この場合,劉敞はもはや宋代の人である必要はない。どの時代の人間であろうと問題ではない,問題なのは,劉敞と人間という関係だけである。

閑話休題。本当に明の経学に価値があると思っている人間はいる。しかしその場合,どの点が他の時代と比べて価値があるのか,換言すれば,他の時代のもっと優れた著作と代替可能ではないことを説明してもらいたい。正義とか宋の経解でこと足りるなら,敢えて粗悪な明の経解を利用する必要はない。

中国の全ての王朝に経学が盛んでなければならない理由があるわけでもあるまいに,ことさら明朝に春秋学の価値を認める必要は全くない。唐の中葉に発端を得た春秋の新潮流は,宋代で華開き,元朝にその亜流を見,そして明の最初期で終わったのである。その後,200年あまり暗黒の時代が続き,いや,暗黒の時代が続いたからこそ,次の時代には全く新しい気持ちで研究できたのだ。

先行研究の蓄積には善悪二面がある。蓄積があればこそ,詳細に研究できるが,蓄積があればこそ,研究視角が制約されるのである。先行研究の視角を批判的に克服するという,時間の手間をかけさせられるのである。清に斬新な研究が生まれた理由の一つに,明という無価値な時代があったことが――消極的な理由ではあるが――認められる。


とまあ,それはどうでもいいが,明朝の春秋学は価値がないということだけ言いたかったのである。次回からは春秋類3。はじめは兪皐の『釋義大成』。

そうそう,なぜ明の春秋学がダメかというと,宋元の春秋の焼き直しだから。宋元でやり尽くされたことを,数百年後にもう一度研究されてもねぇ。真面目だとは思うが,真面目なだけで歴史的に評価されると思うのは余りに甘い。

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総目提要(春秋類2)048

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

陳深『読春秋編』12巻

○内府蔵本

宋の陳深の撰。深,字は子微,平江の人。かつて住居に清全斎と名付けたにちなみ,それを号とした。朱彝尊の『経義考』には盧熊の『蘇州志』を引いて次のように言う。――「深は宋の時代に生まれた。宋が滅ぶと,古学に打ち込み,門を閉ざして著述に励んだ。天暦のとき,奎章閣の臣僚が能書家として朝廷に推薦したが,〔深は〕隠遁を決め込んで朝廷に出向かなかった。」鄭元祐の『僑呉集』には深の次子の植の墓誌がある。(*1)そこには,植は至正二十二年に享年七十で死んだとある。ならば植は至元三十年癸巳に生まれたことになる。また〔元祐〕自身の言うところによると,植より一歳年長で,深より三十数歳若い(*2)とある。ならば深の生年は開慶から景定のころに当たる。ならば〔深は〕宋が滅んだとき,まだ二十歳前後だったはずである。だから天暦になってもまだ生きていたのだ。〔深の〕著書には『読易編』『読詩編』があったというが,現在両書ともに不明である。本書だけが僅かに現存している。

深の学説は,概ね胡氏を宗旨とするが,左氏も参照している。恐らくは,左氏は魯の国史を基礎としており,その発言には必ずや根拠があり,公羊や穀梁の伝聞による疑わしいものとは違うのだ,というのであろう。これを喜んで空言を弄んで春秋を論評し,遂には事実までも疑い,〔三伝を〕高閣に捨て置くに至った他の宋代の学者に比べるならばどうであろう。〔本書に〕新味はないが,よく事実を研究し,浮つき気負った意見もなく,伝を蔑みして経のみで〔聖人の微旨を〕求めるような空論もなく,篤実な態度である。平凡だからといって忽せにしてはならない。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)以下,鄭元祐『僑呉集』巻12,慎獨陳君墓誌銘。
(*2)四庫本の慎獨陳君墓誌銘には「先生長予廿餘年」とあり,二十歳年長となっている。なお『宋人伝記資料索引』は1260―1344とするが,訳者未見の資料につき,是非は判断できない。

(*)年号を書いておく:
至正:1341年~1367年(元,順帝)
開慶:1259年(南宋,理宗)
景定:1260年~1264年(南宋,理宗)
南宋滅亡の時期は見方によって異なるが,だいたい1275年~1279年のころ。

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四庫提要(春秋類2)047

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

家鉉翁『春秋詳説』30巻

○両江総督採進本

宋の家鉉翁の撰。鉉翁,号は則堂,恩蔭によって官を授けられ,後に進士出身を与えられた。端明殿学士・簽書枢密院事にまでなった。生涯は『宋史』本伝にある。本書には龔璛の跋文があり,「至元丙子に宋が亡び,〔元兵は〕則堂先生を連行して帰還し,瀛州に抑留すること十年,本書が完成した。瀛州から宣州に遷り,友人の潘公従大に収蔵を依頼した」という。『宋史』の本伝には,「鉉翁は河間にいたとき,弟子に春秋を教授した」とある。河間は瀛州のことである。また鉉翁の『則堂集』には弟のために作った志堂説があり,「私は燕から瀛に来たり,年来の春秋の学業を卒え,『集伝』三十巻を完成させた」とある。篇末には「甲申正望」とある。(*1)甲申は至元二十一年である。上は宋の滅亡からおよそ十年,璛の跋文にいう十年と合致する。下は元貞元年に号を与えられ帰郷を許されたときまで,また十年(*2),璛の跋文にいう瀛に本書が完成したことに合致する。ただ鉉翁じしんは〔本書の書名を〕『集伝』とするが,この本は『詳説』という。後に書名を改めたのであろうか。

鉉翁の主旨はこうである。――春秋は王法を明らかにすることが目的であり,事柄を記すことは目的ではない。〔経文の中,〕詳略があったり,書いたり書かなかったりするのは(*3),原則として〔聖人が〕褒めたり貶したりしたところである(*4)。要するに,聖人が心法を寓したところを探りあて,その後に諸学説を研究し,その正しきを求めることにある,と。そのため鉉翁の議論は公正であり,道理にも明らかである。筆誅に目を眩まされた孫復や胡安国らの及ぶところではない。鉉翁は河間にいたとき,仮館詩を作り,「生涯の著作は決して多くないが,伝うべきものがあるとすれば春秋と周易だ」と言った。本書の結論を固く信じていたのであろう。現在,本書のみ存在し,周易については考える術がない。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)不詳。通志堂本にはない。
(*2)至元21年から貞元元年まで11年。
(*3)春秋経文は同じ事柄を書すのに,時に文字を費やし(詳・書),時に短く書くこと(略・不書)があるが,なぜこのような差異があるのか,というのが春秋学上の重要なテーマに数えられる。家鉉翁は記事の詳略に孔子の筆削を見たということ。
(*4)原文は「抑揚予奪」。ここでは褒貶とほぼ同じ意味。

(*)書前提要には少しく異同がある。大きい違いは,孫復らは家鉉翁に及ばぬ云々の後,「ましてや鉉翁の生き様は宋末の錚錚たるものである。その人によってその言葉を重んずるのであれば,本書は軽々しく廃してよいものではない」とある。

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四庫提要(春秋類2)046

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

呂大圭『春秋或問』20巻
(附『春秋五論』1巻)


○両江総督採進本

宋の呂大圭の撰。大圭,字は圭叔,号は樸卿,南安の人。淳祐七年の進士。朝散大夫・行尚書吏部員外兼國子編修実録検討官・崇政殿説書にまでなり,興化軍知事として地方に出た。かつて『春秋集伝』を著したが,現在既に散佚している。

この『或問』二十巻は『集伝』の主旨を解説したものである。主として三伝の中では左氏と穀梁に従うことが多く,公羊を厳しく批判し,何休の『解詁』に対しては最も強く排斥している。三伝の中,事績については左氏が最も備わり,義理については穀梁が最も深い。ところが公羊は多くの経師の手に成り,特に偏見が多い。何休の『解詁』は讖緯説(*1)に牽かれ,無用な詮議立てが最も多い。大圭の〔左氏・穀梁・公羊の〕三家に対する論評は確かに嘘ではない。〔宋代の〕諸家が三伝を捨てて経文のみに従っ〔て聖人の主旨を理解しようとし〕たことに比べれば,確かに全くの別物である。

もう一つの著書である『五論』は,第一に孔夫子が春秋を作った理由を論じ,第二に日月褒貶の例を批判し,第三に特筆を論じ,第四に三伝の長所と短所を論じ,第五に世変を論じている。(*2)程端学は「『五論』は明白正大であるが,証拠として引く春秋の事績に,まま経文の意図と合わぬところがある」と指摘した。(*3)現在,『或問』を調べてみると,これも経文の意図とかなりの相違がある。〔大圭は〕概ね議論に長じ,考証は不得手だったのであろう。

しかし大圭は後に徳祐のはじめ,興化軍知事から漳州知事に移ることになったが,まだ移転の前に元朝の軍隊が到着した。そこで沿海都制置の蒲壽庚が城ごと降伏すると,大圭は節義を守って〔降伏に反対して〕殺された。その生き様は千古に光り輝き,深く春秋の義を知ったものと言わねばならない。(*4)本書には「分義を明らかにし,名実を正し,機微を明らかにすることを聖人の特筆とする」と言うが(*5),その推論は忌憚なく,大義は凛然,確かに人倫や名教を護持したものである。章句の学などで律すことなどできないのである。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)讖緯は予言書のこと。正確には讖は予言書を指し,緯は経書の補助的解釈書を意味するが,ここではそれほど深い意味はない。讖緯に牽かれたとは,何休が讖緯の学説を利用して春秋を解釈したことを指す。讖緯説を利用するというのは,宋代以後では極めて評判が悪く,もっとも駄目なものの中の更に駄目なものという意味合いを持つ。いずれにせよ,腐されていると思ってもらえばいい。
(*2)第四と第五は逆。板本間の相違も考えられるが,呂大圭の論述方法からして,恐らく四庫官の過誤であろう。
(*3)程端学の緒論は『春秋本義』の通論第三条に見える。ただし程端学その人の解釈にも相当問題があるので,呂大圭に対する批判が正当か否かは別の問題である。ちなみに程端学氏は呂大圭の『五論』をまるまる『本義』綱領に引用するが,第三論文の特筆のみは大幅に手を加えて,呂大圭の論旨を滅茶苦茶にしている。
(*4)一応注釈を入れておくと,春秋は大義を最も重んずる。従って大義に殉じた呂大圭は,春秋を深く理解していたということ。春秋の大義を講じながら,敵兵を前に降伏する輩は,春秋を知らぬ人間である,という意味の裏返しでもある。
(*5)『五論』第三論文に見える。

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四庫提要(春秋類2)045

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

趙鵬飛『春秋經筌』16巻

○湖北巡撫採進本

宋の趙鵬飛の撰。鵬飛,字は企明,号は木訥,綿州の人。本書の主意はこうである。――春秋経を学ぶ人々は三伝に拘泥し,各々師説を護り,多くは聖人の本旨を理解しておらぬ。そのため本書は経によって経を解釈することにした,と。その自序には「春秋を学ぶものは,伝を用いずに経を明らかにすべきであって,伝によって経を求めてはならない。まだ伝のなかった時代,経の主旨はどこにあったというのだろう。心奥深くに於いて〔聖人の微旨を〕理解しなければならないのである」と言い,また「三伝は全く依拠するに足りないが,心を公平にしてこれを評すならば,まま聖人の心を得たものもある」とも言っている。(*1)

そもそも三伝は聖人の時代から遠く離れておらず,学問にも受け継ぐものがあったはずである。三伝が出来るまでの間,経師の解釈の中には,聖人の本旨から外れていったものも確かにあっただろう。しかしそれらを一概に除き去るならば,春秋経に載る人物を調べようにも,その人の関与した事柄を明らかにすることはできず,経文に記された事件を調べようにも,そこに関わった人間を明らかにすることはできない。開巻の一二のことでもってこれを論じてみよう。「元年春王正月」には即位が書かれていない。その過誤は夫婦嫡庶のあいだにあったのだが,もし三伝がなければ,いかに窮理格物の学者が畢生の力を振り絞り,経文に依拠して沈思してみても,声子と仲子のことは分かるまい。(*2)「鄭伯 段に鄢に克つ」には段が誰であるかを言わない。その過誤は母子兄弟のあいだにあったのだが,もし三伝がなければ,いかに窮理格物の学者が畢生の力を振り絞り,経文に依拠して沈思してみても,武姜子と荘公の弟について分かりはしまい。(*3)これでよいというなら,三伝を捨てて経を評釈することなど,なんと容易なことであろう。

啖助と趙匡が三伝を批判したのは,既に異説発生の萌芽であるが,孫復になると完全に伝来の学説を棄ててしまい,かくして春秋家に無窮の弊害が生じた。蔡絛の『鉄圍山叢談』には鹿溪生の黄沇の次のような話しを載せている。――「昨今,春秋を修めるものは,聖人の志を探らず,伝を襲うては魯の三桓や鄭の七穆を論じ,経を論じては甲子はどれだけ,「侵」や「伐」を書いてあるのはどれほど,などと計算している云々」と。(*4)沇は陳瓘や黄庭堅に学んだ人であり,その学問の授受にはまだ基づくところがある。それでいながらにしてその主張はすでにこうである。恐らくは復の学説を襲うたのであろう。鵬飛のこの書も復の亜流である。その最たる珍説は,「経文には成風とあるが,荘公の妾であるか,僖公の妾であるか分からない」(*5)といって,これを疑問のまま置いているところである。張尚瑗の『三伝折諸』は憶測で経文を論ずることを批判し,「左氏に『成風が季友と結んで僖公を託した』とあるのを知らぬ,譏るにも足らぬ」(*6)というが,まことに適切な発言である。

しかし孫復は好んで筆誅を主張するが,鵬飛は深く情実を求めている。その穏当なところは廃すべきではない。ほんの少しでも長所があるなら,一説としてこれを残しておいてよいのである。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)確かに趙鵬飛の序文にはこうあるが,これではその主張が正しく伝わらない。一節をぬくと,「世の学者らはみな伝がなければ経は分からぬという。嗚呼,聖人が経書を作ったとき,後世に三家が伝を作るなどと考えただろうか。もし三伝が作られねば,経は永遠に明らかにならぬであろうか。聖人は王道を偶して万世に示した。故意に不可解な意味を込め,後世の人々を眩ますようなことがあろうか。」とある。要するに,聖人は王道を示すために経書を作った。だから原則として経書を読めば聖人の意図は分かるはずである。ところが世の中の人間は,三伝がなければ経書の意味は分からないという。ならばもし三伝が作られなかったなら,経書の意味は永遠に不明のままなのだろうか。言葉を換えれば,易や尚書は伝がなくても意味は理解できる。それと同じように,春秋も伝がなくとも意味は分かるはずだ,ということになる。ちなみにこの論点は崔子方とほとんど同じ。ただし崔子方は義例を極度に重んじるが,趙鵬飛は例もあまり好まない。(例も三伝以来の学説と考えてのこと)
(*2)隠公になぜ即位が書されないかを論じたもの。隠公と桓公は兄弟だが,父の意向とか母親の身分とかで,跡目は桓公が継ぐことになっていた。しかし桓公がまだ子供だというので,兄の隠公が政務を執った。そこで経文には「公即位=隠公が魯侯の位に即いた」とは記さない,というような伝統的解釈がある。このような事情は三伝(特に左氏伝)にしか書かれていない。だからどれほど読者が心を潜めて経文だけを読んでみても,それだけでは上の事情は全く分からない。四庫官はこの点を指して趙鵬飛の説を批判した。なお隠公の母は声子,桓公の母は仲子。ただし異説もある。
(*3)鄭の荘公が弟の共叔段と戦ったことを論じたもの。理屈は上と同じ。ただこちらは兄弟ともに同じ母親だが,母親は弟を溺愛し,そこで兄弟間の確執が深まった。
(*4)『鉄圍山叢談』巻3鹿谿生黄沇欽人也条。なお三桓は魯の桓公の子孫の三家,七穆は鄭の穆公の子孫の七家を指す。
(*5)『経筌』文5年三月辛亥葬我小君成風王使毛伯來會葬条。趙鵬飛は僖公の妾と推論している。
(*6)『三伝折諸(穀梁)』巻1母以子氏条に見える。

(*)四庫官は本書に対して批判的だが,本書のファンは案外多い。本書は君主に対して頗る優しく,珍しい解釈が多い。『黄氏日抄』にも多く引かれている。それに蔡絛の話は趙鵬飛と全く無関係だし,第一,陳瓘や黄庭堅は真面目な学者だというだけで,古義を守った学者でもなんでもない。ここの四庫官の発言は全く見当違いで,趙鵬飛の学説の紹介にも批評にもなっていない。四庫官がこれほど無内容で長い文章を書くのも珍しい。

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四庫提要(春秋類2)044

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

洪咨夔『春秋説』30巻

○永楽大典本

宋の洪咨夔の撰。咨夔,字は舜兪,於潜の人。端明殿学士にまでなった。(*1)生涯は『宋史』本伝に記されている。本書には咨夔の自序があり,「考功を罷めて家に帰り,門を閉ざして深く内省し,『春秋説』を作った」と言っている。その本伝には,「理宗の初め,咨夔は考功員外であったとき,史彌遠に逆らい,さらに李全は必ずや国の禍になると批判し,李知孝と梁成大に弾劾された。そのため俸禄を削られ,家に引きこもること七年に及んだ」(*2)とある。本書は恐らくこの時に作られたものだろう。また本伝は「咨夔の著書に『両漢詔令擥抄』『春秋説』などがあった」というだけで,その巻数を記していない。朱彝尊の『経義考』は呉任臣の発言を引いて「三巻」としている。しかし『永楽大典』には呉潜の手になる咨夔の行状が残っており(*3),そこには『春秋説』は三十巻だったとある。本書は紙幅も多く,決して三巻にまとめられるものではない。潜は咨夔と同官で,互いに親密であった。咨夔の草稿を見たのだろう。任臣の発言は,後世の誤伝であろう。

本書は議論明白,事態の推移を見極め,事件の表裏を推論したもので,前人未踏の発言が多い。例えば,「公子友 陳に如く」に対しては,季氏が魯で専権を握った発端を記したのだと言い(*4),「晉侯 曹伯負芻を執う」に対しては,曹のために君を立てなかったのは,後日に負芻を帰国させようとの思惑からであると言い(*5),「昌間に大蒐す」に対しては,季氏がその権威を民衆に見せつけ,魯国の民を脅かしたのだと言う(*6)。これらはどれも筆削の微意を得たものである。しかし,慶父が出奔しことを,季友が故意に放免したのだと言い(*7),『劉子・単子 王猛を以て王城に入る』を君を蔑みしたものだと見なした(*8)のは大変な誤謬である。しかし短所を棄てて長所を取るならば,その卓然と後世に伝うべきところを消し去ることは出来ない。

現在,『両漢詔令』などの著書は散佚してしまい,本書も世上に流伝がない。ただ『永楽大典』にのみまだ遺文が残っている。そこで謹んで収集してまとめあげ,誤植を訂正し,三十巻に分けて本来の形にもどした。春秋経文は三伝に各々異同がある。現在,咨夔の原本の経文はすでに明らかにし得ないが,その所説から推測するならば,概ね左氏の経文を利用し,まま公羊と穀梁の経文を用いていたことが分かる。そこでこの度の編集に於いては,〔疑念のある場所には〕経文の下に「案」の字を記して識語を附すことにした。また僖公十四年秋から三十三年,襄公十六年夏から三十一年までは,『永楽大典』の原本が失われている。また他者の経解にも全く本書の引用がなく,佚文を集めるすべがない。そこでしばらくこれを欠いたままにしておいた。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)原文は「歴官端明殿學士」とあるが,端明殿学士は館職である。『宋史』本伝には「擢給事中,史嵩之入相,召赴闕下,進刑部尚書,拜翰林學士・知制誥。求去愈力,加端明殿學士,卒」とある。
(*2)『宋史』の言葉を括弧内に入れたが,原文は本伝を意訳したもの。『宋史』本伝には「還朝,為秘書郎,遷金部員外郎。會詔求直言,慨然曰……。史彌遠讀至『濟王之死,非陛下本心』,大恚,擲于地。轉考功員外郎。轉對,復言李全必為國患。於是臺諫李知孝・梁成大交論,鐫二秩。讀書故山,七年而彌遠死,帝親政五日,即以禮部員外郎召,入見,乞養英明之氣,及論君子小人之分」とある。
(*3)行状の所在は不明。『宋人伝記資料索引』には見えない。
(*4)莊25年冬公子友如陳条。
(*5)成15年晉侯執曹伯歸于京師条。
(*6)昭22年大蒐于昌間条。
(*7)閔2年公子慶父出奔莒条。四庫官は批判的だが,議論そのものは面白い。基本的なテーマは「慶父弑般而如齊,弑閔而奔莒。奔,窘于如矣。而不失其為公子,志逸賊也。天下之惡,無黨惡者,則惡不自動。天下之姦,無保姦者,則姦不自容。故討惡必討黨惡,誅姦必誅保姦」というもの。
(*8)昭22年劉子單子以王猛居于皇秋劉子單子以王猛入于王城冬十月王子猛卒条。

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四庫提要(春秋類2)043

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

黄仲炎『春秋通説』13巻

○両江総督採進本

宋の黄仲炎の撰。仲炎,字は若晦,永嘉の人。その進書表に「科挙に力を費やしたもののうまくいかず」とあり,李鳴復の奏挙状にも「科挙以外にも古代の聖賢を篤く信じるものがおり」とあれば,恐らくは〔仲炎は〕長く科挙に合格できないでいた士人なのであろう。本書は紹定三年に完成し,その上呈は端平三年である。(*1)

自序に云う――「春秋は聖人が天下を教戒するために作った書物であり,褒貶の書物ではない。〔では教戒とは何かというに,〕書法を教といい,事柄を戒というのである。三伝が褒貶説を立てて以来,春秋を専門とする師弟らはその誤りを受け継いできた。そして漢代以後になると,〔褒貶のための〕類例(義例)は複雑煩瑣になり,かえって春秋の大義は隠れてしまった。」つまり本書の主旨は,〔春秋は〕事柄を直書したもので,義理はおのずから明白であると言うことにある。そのため古代以来,春秋の経師が伝授してきた学説――王に天を書さぬ,桓公に王を書さぬ,といった類例(*2)は,一切排除されている。朱子の『語録』には,「聖人は事実によって書いたのである。是非や得失について言外の意があるとはいえ,〔経文の〕一字一辞について褒貶の所在を求めるというのは,恐らくは正しくあるまい」とある。(*3)仲炎の表書に「朱熹の意見を酌んで」とあるが,恐らくはこの発言にもとづいたものだろう。何夢申が呂大圭の『春秋或問』に序文(*4)を書き,「春秋を伝えたものは幾百家あるが,大抵は褒貶賞罰を中心としている。ただ『或問』だけは朱子にもとづき,それらの褒貶賞罰説を全て排斥している」と言っている。仲炎が既に論じていたのを知らなかったのである。(*5)

書中,南季の来聘について,〔仲炎は〕三伝と『礼記』を根拠に,「天子に諸侯を聘問する礼制はない。『周礼』時聘の一節は信ずるに足らない」(*6)と言い,滕侯と薛侯が来朝したことについて,「諸侯間に私に相朝する礼はない。三伝はいずれも間違っている」(*7)と言うが,これらは過度に古代以来の学説を疑ったものである。また首止の盟に対して,王の世子(世継ぎ)が党派を立てて父〔である周王〕を牽制した(*8)と言うが,これは深読みのし過ぎである。「子同 生まる」に対して,左氏伝の文字が経文に混入したものだと言い(*9),「蔡の桓侯を葬る」に対して,〔侯の字は〕公の字の誤植だと言い(*10),「同に斉を圍む」に対して,圍の字は〔同の字の〕重写の際の誤字だと言う。(*11)これらは疑惑の目が経文にまで及んだもので,憶測推論〔の害〕を免れない。しかし「季友は巨悪。後宮と結託していた」(*12)と言う。〔その根拠とする〕成風の私事は左氏伝に明文がある。〔これに対する仲炎の〕文字遣いは厳正で,論旨は正しく,千古の戒めとするに足るものと言えよう。

また胡安国の『春秋伝』を論評しては,「孔子は顏淵の質問に応じて,『夏時(夏王朝の暦)を用いる』と仰った。しかし春秋を修められたとき,躊躇なく〔周の暦から夏の暦に〕改定されたとは考えられない。胡安国氏は『春秋は夏正を周月にかぶせている』(*13)と言い,朱熹氏はこれを批判しているが,恐らくは〔朱熹氏の批判は〕当たっていよう。孔子が春秋で述べられたのは古来の礼制についてである。そのため諸侯の強者を憎んで〔殊更に〕天子に論及したり,大夫の専横を厭うて諸侯に論及したり,呉楚の暴虐に憤って中国を持ち上げたりすることは,臣下として為し得ることである。しかし当時の制度を改め,天子の賞罰を盗むことなど(*14),孔子が望まれるとは考えられない。そもそも孔子が春秋を修められたのは,これによって当時の専横を律しようとしたためである。それをどうしてみずから専横な振る舞いをしようか」(*15)と指摘している。論旨は明白正大,深く聖人の意を得たものである。安国の遠く及ぶところではあるまい。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)年月日の推定は進書表および序文によると思われる。
(*2)春秋は天子を天王と書くが,まれに「王」と書かれることがある。一説に,天王が余りにふざけた行いをしたので,孔子が「天王」の天の字を削って,「王」だけにしたというものがある。また桓公に王を書さぬ云々は,春秋各年のはじめは王を書すのを書法とするのに,桓公だけは王が書されておらぬことが多いが,これは孔子が王の字を削ったのだ,ということを指す。いずれも有名な学説。
(*3)『朱子語類』巻83,春秋綱領に見える。
(*4)正しくは跋文。呂大圭『春秋或問』巻末に見える。
(*5)四庫官には悪いが,黄仲炎の『春秋通説』は南宋から明朝初期にそれほど参照されていない。また厳密に言えば,何氏は世の学者は「概ね」褒貶賞罰説を採っているというのであり,必ずしも「全て」が褒貶賞罰説だというのではない。もう一つ付け加えておくと,褒貶賞罰説の否定は北宋末ごろから既に始まっているので,なにも朱熹の手柄というものでもない。
(*6)隠公九年春天王使南季來聘条。
(*7)隠公十一年春滕侯薛侯來朝。『通説』巻1該当条には「古者諸侯有因相見,無私相朝」とある。
(*8)僖公五年の首止の盟。
(*9)桓公六年九月丁卯子同生条。
(*10)桓公十七年癸巳葬蔡桓侯条。
(*11)襄公十八年同圍齊条。
(*12)閔公元年季子來歸条。
(*13)以夏時冠周月:張洽『春秋集注』のところで説明した。
(*14)天子の賞罰を盗むとは,天子に成り代わって,天下の諸侯や卿大夫に筆誅を加えることを意味する。具体的には経文上で爵や身分を上下することを指す。
(*15)隠公元年の春条に見える。献上書とはいえ,胡安國氏とか朱熹氏という文字遣いが愉快。

(*)以上は四庫全書総目提要の訳文であるが,書前提要にはかなり出入りがある。書前提要の大旨は総目提要と同じだが,引用条文に変化があり,胡安國云々の議論も見えない。また本書の論述の仕方(後代の史事に論が及ぶなど)についても一言を残し,「釈経の正体に非ず」と批評している。本書のそのものの解説としては,むしろ書前提要の方が役に立つだろう。

宋の黄仲炎の撰。端平の初め,尚書の李鳴復が本書を朝廷に献上した。仲炎,字は若晦,温州の布衣。本書の大意は「春秋には教と戒がある。そして教は書法にあり,戒は事実にある。褒貶はない」というにある。義例にこだわらず,毅然と直に己の心情によったものである。例えば……(中略)……これらは一つや二つのことではないが,どの発言も好んで異説を発したものである。また類に触れて議論を広げ,往々にして後代の史事に言及し,その得失を論断しているが,これも経文を解釈する適切なやり方ではない。ただ文辞は流暢で議論も厳正であり,いい加減に作ったものではない。そもそも春秋は史事によって経文を作ったものである。だから史を論ずるものは,必ず春秋を基準とした。仲炎は史によって春秋を証明し,同時に春秋によって史を断じてもいる。道理として本来相通ずるものがあるのである。正当な議論もあることとて,本書の全てを譏るべきではない。

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四庫提要(春秋類2)042

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

李『春秋王霸列国世紀編』3巻

○浙江范懋柱家天一閣蔵本

宋の李の撰。,字は伯開,呉郡の人。国子司業になった。本書は嘉定辛未に完成した。〔春秋時代の〕諸国を大綱とし,春秋の事績を分類し,それを細目としている。〔各大綱の〕前には序文があり,その後には論評がある。

第一巻は,〔周〕王朝と霸国(*1)についてである。しかし霸国から秦の穆公と楚の荘王を除き,宋の襄公を残している。また晉の文公以下,襄公から定公に至る十人の君主を列挙し,特に魯を附している。二巻は,周の同姓の国についてであるが,特別に三恪(*2)を附している。三巻はすべて周の異姓の国についてであるが,秦楚呉越を小国の後に並べている。(*3)

〔本書の〕論評は為に発するものが多い。例えば,晉の文公が秦の助けを借りて楚に立ち向かったことや,晉の悼公が呉と結んで楚を苦境に陥れたことを批判しているが,これなどは徽宗が金と通じて遼を滅ぼしたことを念頭に発言したものである。また紀侯は仇敵(斉)と隣国でありながら,自国を増強し得なかったと批判しているが,これなどはm高宗の和議を念頭に発言したものである。しかしこれなどはまだ鑑戒を意図したものと言えるだろう。しかし魯は滅亡した後,秦や漢になっても,まだ礼義の国であったと言うに至っては,宋朝南渡の弱勢を弁解したものである。(*)霸国の中から楚の荘王と秦の穆公を除き,却って宋の襄公を残しているが,これなどは北狩の恥(*4)を弁解したものである。また秦楚呉越〔などの強国を〕を小国の後に置いているが,これは宋を金の上に置こうとの意を隠しているのである。恐らくは春秋に時事を託けたもので,胡安国の『春秋伝』と同じ類のものである。それでも安国は復讐の主張を堅持していたが,はただ空言を飾り立てるのみである。

〔本書の〕来歴は古いので,しばらく記録に留めて一家の学に備えるとともに,南宋の国勢が日々退廃した由来――領土を失った後,士大夫はまだ経や伝に仮託して空論を吐き,弁解に骨を折っていたこと――を示すことにもなろう。本書を残すこともまた鑑戒に足るものがある。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)覇国:覇者の国の意味だが,ここでは覇者そのものも意味している。
(*2)三恪:帝舜の末裔である陳国,夏朝の末裔である杞国,商朝の末裔である宋国の三国を指す。
(*3)巻三は,齊,許,莒,薛,邾,小邾,鄒,紀,庶爵微国,楚,呉,秦,越,戎,狄,夷狄微国,附夷微国の順に並んでいる。
(*4)徽宗と欽宗が金に連行されたこと。宋の襄公も楚に連行された。

(*)以下,書前提要に異同あり。
春秋を借りて議を発したもので,必ずしも一々経義に適合したものではない。しかし胡安国の『春秋伝』も春秋に借りて議を発したものである。安国の書を廃さなかった以上,本書も残さねばなるまい。

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四庫提要(春秋類2)041

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

張洽『春秋集注』11巻『綱領』1巻

○江西巡撫採進本

宋の張洽の撰。洽,字は元徳,〔臨江軍〕清江の人。嘉定年間に進士となり,著作佐にまでなった。端平元年,洽が家に籠もって著作に励んでいることを知った朝廷は,臨江軍の守臣に命じて礼遇の意を示し,紙札を与えて書き写させ,書物を献上させた。(*1)かくして上呈に及び,洽に知宝章閣(*2)を授けた。たまたま洽が死んだので,文憲なる諡を授け,その書を秘閣に蔵した。

本書の冒頭には洽の進書状があり,みずから「漢唐以来の諸学者のあらゆる議論を調査研究し,それらの中で聖人の意を明らかにするに足るものは毎条の左に附し,これを『春秋集伝』と名付けた。既にほぼ『集伝』が完成したにちなみ,先師文公の『論語』『孟子』の書(*3)にまね,諸学者の確論を集め,それらを撰述して『集注』を作った云々」と言っている。

朱子の『語録』によると,胡安国の「夏時を周月に冠した」なる学説(*4)を厳しく批判している。〔朱子の弟子である〕洽の本書も〔春秋に見える春王正月の〕春を建子の月(*5)としている。これは『左氏伝』の王周正月の所説と合致しており,支離滅裂の害を破るに足るものがある。車若水の『脚気集』には,洽が〔胡安国の学説を〕改めて〔旧来のまま〕周正に従ったのは間違いだと厳しく批判しているが(*6),これは門戸の見であり,全く依拠するに足りない。しかし若水の発言(*7)――「春秋の一書は事実が判断できない。孔子が甦ることでもなければ,〔春秋の〕当時の事柄と〔春秋経文に示された孔子の〕褒貶・取捨の意味合いなど分かりはしない。〔張氏は〕『集注』を作って事実を判断しているが,これに『論語』『孟子』のやり方をまねるのは無理である。『論語』『孟子』は道理を説いたものだが,春秋は事柄を記したものだからだ。例えば〔春秋の〕冒頭部分にも不明なところがある。〔隠公元年の経文に〕「恵公仲子」とあるが,これは「恵公の仲子」だろうか,それとも「恵公と仲子」だろうか。(*8)〔同じように〕「尹氏卒」とあるが,これは一説に婦人だと言い,一説に天子の世卿だと言う。(*9)学者らが〔世卿だとみなし,〕これは世卿を譏ったものだと言うのは,確かに立派な意見である。しかし恐らくは郢書燕説の類(*10)で,道理としては正しくても,事柄としては間違いである云々」は,洽の〔本書の〕欠点を適切に論評したものである。(*11)要するに優れところを残せばよいのである。

明の洪武年間に本書は胡安国の『春秋伝』とともに学官に立てられた。しかし永楽年間に胡広らは汪克寛の『纂疏』を剽窃して『大全』を作ったが,それは胡安国の『春秋伝』を中心としたものだった。これは科挙の教科書に採用され,かくして洽の本書は用いられなくなった。現在,本書の遺本がわずかに伝わるのみで,その所謂『集伝』は失われた。(*12)

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)この文句は本書冒頭に附された張洽の状を参照して綴ったもの。
(*2)『宋史』本伝(道学伝)には「卒後一日,有旨除直寶章閣」とある。そもそも知宝章閣などという館職は存在しない。なお秘閣蔵書の記事は本書冒頭の臨江軍牒や省箚に依る。
(*3)朱熹の『論語集註』『孟子集註』を指す。朱熹は『論語精義』『孟子精義』を作って程門諸家の学説を集め,その確論を集めて論述を加え,『論語集註』『孟子集註』を作った。(本当はこれに『論語或問』と『孟子或問』が加わるが,ややこしくなるので省略する)
(*4)夏時を以て周月に冠するの説。一般に夏時説と呼ばれるもの。夏時は旧暦の四時(四季)を指し,正月・二月・三月を春,四月・五月・六月を夏,七月・八月・九月を秋,十月・十一月・十二月を冬とする。周月は周代の暦の月のことで,夏代の暦の十二ヶ月から二ヶ月づれた十二ヶ月を指し,夏暦の正月の二ヶ月前の十一月が周暦の正月となり,夏暦の二月は周暦の十二月,三月は一月......となる。ちなみに夏暦はだいたい旧暦と同じ。胡安國の夏時を以て周月に冠するの説は,春秋は周暦の月に夏時をかぶせたものである,との説を意味する。この学説には大きい矛盾が存在し,説明すると却って混乱するので省略する。知りたい人は『三正考』でも読んでください。いずれにせよ胡安國の学説を認めるか否かで,南宋から明朝初期の春秋学界は真っ二つに分かれた。
(*5)春を建子の月云々は,春秋に書される春王正月の「春」は建子の月=周暦の正月(夏暦の正月の二ヶ月前)の上に冠したものという意味で,普通の春秋学説を採ったことを意味する。
(*6)『脚気集』程子春秋傳春王正月正月条を指すと思われる。四庫提要は『脚気集』提要でも「其論詩攻小序,論春秋主夏正,論禮記掊擊漢儒,皆堅持門戸之見」と指摘する。ちなみに四庫官にとって,この胡安國の以夏時冠周月説を認めたか否かが,その学者の価値を計る重要な試金石となっている。
(*7)『脚気集』張主一有春秋集註集傳条に見える。
(*8)惠公仲子:左氏伝と公羊傳は「惠公と仲子」と訓むが,穀梁傳は「惠公の仲子」と訓む。
(*9)尹氏卒:公羊傳と穀梁傳は尹氏を天子の大夫とする。公羊傳は「尹氏とは何ぞや。天子の大夫なり。其の尹氏と称うは何ぞや。貶するなり。曷為れぞ貶す。世卿を譏るなり。世卿は禮に非ざればなり」とある。左氏伝の経文は「尹氏卒」ではなく「君氏卒」で,左氏伝はこれに対して「聲子也」とする。声子は隠公の夫人で,隠公が正君の位に即かなかったため,夫人も正君の夫人として葬らなかったことにちなみ,経文は「君氏」と書したとする。
(*10)原文は舉燭尚明之論。郢書燕説(こじつけ)のこと。
(*11)要するに,張洽が春秋を説くのに論語孟子をまねたことを譏ったもの。論語孟子は道理の書であるが故に,道理の正当を推し極めればそれで正しい解答を得られはする。しかし春秋は事柄を記した書物である。間違った事柄に依拠しても,立派な意見は言える。逆に言えば,立派な意見だからといって,依拠した事柄が正しいとは限らない。春秋の事柄と孔子の筆削が明らかにし得ない以上,どれほど立派な意見でも,その正当性は保証できず,往々にして穿鑿やこじつけに陥る。よく言えばそうも読み得るというだけで,そのように読むことが正しいとは言えない。張洽がああだこうだと道理を議論しても,春秋の事柄は分からず,事柄が分からない以上,張洽の説く道理も結局は空論に陥るというのであろう。......まあ,原文よりも長い注釈になるのは,著者よりも私の頭が悪いからだろうな。
(*12)『春秋集傳』は一部現存しており,阮元の『四庫未収書提要』に提要がある。『続修四庫全書』などに収録。

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四庫提要(春秋類2)040

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

李明復『春秋集義』50巻『綱領』3巻

○江蘇巡撫採進本

宋の李明復の撰。明復,またの名を兪という。字は伯勇。その生涯は不明で,魏了翁の序文によっても,合陽の人であり,嘉定年間に太学生であったことが分かるに過ぎない。

本書の第一行目には「校正李上舎経進『春秋集義』」とあり,第二行目には「後学の巴川の王夢応」とある。朱彝尊の『経義考』には,「『宋史』芸文志は李明復の『春秋集義』五十巻を載せ,さらに王夢応の『春秋集義』五十巻を載せている。かつて見た宋代の板本は,李氏の原本で,王氏の刊行したものだった。〔宋志のいうように〕王氏に『集義』なる別著があったわけではない」とある。本書は無錫の鄒儀蕉の緑草堂蔵本であるが,その署名を見る限り,彝尊の見た板本と合致している。『経義考』の所説には根拠がある。宋志は間違えて二書に分けたのである。

張萱の『内閣蔵書目』には,「本書は周程張の三子(*1)が文書の中で春秋を明らかにしたものや,他の経書を論じた際に春秋に及んだもの,論説の中で春秋に合うところのあるものを広く集めたものである」とある。しかし本書に採用されたものの中,楊時・謝・胡安国・朱子・呂祖謙の学説は一つや二つではなく,謝は特に多い。萱は深く調査しなかったのだろう。

『経義考』は本書の前に『綱領』二巻があり,さらに魏了翁の序文があるという。この板本にはどちらも存在しない。恐らく原本を書写する中で失われたのであろう。しかし春王正月条の下には,〔明復が〕みずから注を施して,「自余は『綱領』上巻と中巻に示した」とあるからには,『綱領』は三巻なければならず,随って〔『綱領』の巻に〕上中下の区分が生じたのである。『経義考』が二巻とするのには瑕疵がある。このたび『永楽大典』を調べたところ,明復の手になる『綱領』がなお存在した。そこで謹んで〔『永楽大典』から〕写し取ってこれを補い,三巻にまとめ上げ,本来の形にもどした。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)周程張三子:恐らく周敦頤・程頤・張載の三人を指すと思われるが,程子は程も含まれ,厳密には四人になる。
(*)本書については以前に書いたことがある。

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四庫提要(春秋類2)039

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

戴溪『春秋講義』4巻

○永楽大典本

宋の戴溪の撰。溪には『続呂氏家塾読詩記』があり,既に〔四庫全書に〕収録している。(*1)〔南宋の〕開禧年間,溪は資善堂説書から太子事にまでなった。当時,景献太子(*2)は〔自己の学問のため,溪に命じて〕易・詩・書・春秋・論語・孟子・通鑑の論説を作らせ,それを献上させた。(*3)本書はその春秋についての論説である。

本書には以下のような論説がある。例えば,斉の襄公が紀侯を脅迫して〔紀侯が〕国を去ったことについて(*4),〔斉の襄公は〕復讐に託けて諸侯を欺いたと講釈し,秦と楚とが庸国を滅ぼしたことについて(*5),〔秦と楚は遠く離れているのに,共同で庸国を討伐できたのは,〕巴国や蜀国が道を通したからであると講釈し,〔春秋経文に〕しばしば「公 晉に如き,河に至りて乃ち復る」と書くことについて(*6),晉人は季氏の君主追放の心を助長させたと講釈し,定公が〔正月朔日ではなく〕戊申の日に即位したことについて(*7),季氏には定公の即位を阻もうとする心があったと講釈している。これらの解釈は,当時,韓侘冑が北伐を起こして失敗し,再び〔金朝と〕和議を結んだことを受けたものである。だから国内を治めて外国に当たり,隣国と交友をもちつつ武事を修めることに対して,最も心を砕いているのである。

また〔本書は君主の〕死亡記事について一切解釈を施していない。宋代は喪礼について特に忌避するところがあった。例えば「何居(何ぞや)」の「居」の字は『礼記』檀弓に見えるが(*8),『礼部韻略』は〔典拠として檀弓を〕載せていない。他のことは推して測るべきであろう。溪が〔本書で君主の死亡記事を〕講釈しなかったのは,恐らく当時の経筵のやり方を反映したものであろう。

〔本書は〕嘉定癸未の五月,溪の長子の桷が金陵学舎にて印刷に付し,沈光が序文を書いた。宝慶丙戌,牛大年がまた泰州で印刷に付したが,その序文には「本書は君主に訴えるべく作られたもので,世の学者は見ることができなかった」とある。恐らく経学者や訓詁家の学説でなかったため,世間にあまり広がらなかったのだろう。陳氏の『書録解題』に本書を収録していないは,きっとこの理由によるものだろう。(*9)

『宋史』芸文志は十巻とし,王瓚の『温州志』は三巻とし,朱彝尊の『経義考』は散佚したと言っている。現在,世上に本書の流通は全くない。ただ『永楽大典』は〔本書を〕収録しており,なおも経文各条の下に〔本書の佚文が〕散見される。このたび謹んで佚文を集めて校正を加えた。僖公十四年秋から三十三年までと,襄公十六年三月から三十一年までは,『永楽大典』に欠落があるので,『黄震日抄』の引用によって増補した。かくして『宋史』の記述に従い,四巻本として編集しなおし,各巻を上下に分けた。溪の依拠する経文は左氏に従うことが多い。しかし敢えて公羊・穀梁に依る場合は,いずれも下方に案語を附すことにした。(*10)

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)『続呂氏家塾読詩記』の提要から戴溪の経歴を挙げておく。「溪,永嘉人。淳熙五年為別頭省試第一。歴官工部尚書・文華閣學士,卒贈端明殿學士,理宗紹定間賜諡文端。事蹟具『宋史』儒林傳。」
(*2)寧宗の皇太子。嘉定13年に29歳で薨じた。
(*3)『宋史』戴溪伝には「凡六轉為太子事,兼祕書監。景獻太子命溪講中庸、大學,溪辭以講讀非事職,懼侵官。太子曰:講退便服説書,非公禮毋嫌也。復命類易、詩、書、春秋、論語、孟子、資治通鑑,各為説以進。」とある。また『南宋館閣續録』巻9(同修國史)には「〔開禧〕元年五月以兵部侍郎兼,三年正月除太子事,四年四月為權工部尚書並兼」とある。ここからすると,戴溪が『春秋講義』を提出したのは,開禧三年正月以後ということになる。いずれにせよ開禧用兵の最中のこと。
(*4)莊4年の紀侯大去其國条。
(*5)文16年の楚人秦人巴人滅庸条。
(*6)昭公に頻発する条文。以下の季氏云々は,魯の季孫氏が君主の昭公を放逐した事件を指す。
(*7)定1年の条文。
(*8)檀弓の「何居」は喪礼の記事中に見える。
(*9)二回も刊本が作られて流伝が広くなかったはないだろう。南宋末から元朝にかけての春秋經解には本書の引用を多く見る。
(*10)簡単に説明すると:『永楽大典』は左氏の経文を用い,各解釈者の用いた経文を挙げないため,四庫官が新たに経文を附す場合,三伝中のどの経文を用いるか判断しなければならないため,それに対する処置としてこの言葉を加えたもの。長く説明すると:春秋経文は独立で存在せず,宋代以来,春秋三伝の中に引用される経文を用いてきた。しかし三伝に引用される経文は,時として異なる場合がある。そのため宋代や元代の春秋学者は,三伝引用の経文が異なる場合,自分の解釈に適した経文を選んで用いていた。ところが,このたび四庫官が編集した『永楽大典』は,春秋経解を収めるとき,一律に左氏伝の経文を挙げ,公羊穀梁の経文は割り注に落とした。そしてこの左氏の経文の後ろに,三伝以来,宋代や元代の解釈を列挙した。しかも左氏の経文を用いなかった宋元代の解釈に対しても,一切彼らの用いた経文を挙げなかった。そのため四庫官が宋元代の佚文を収集した場合,対象となる解釈書が三伝のどの経文を用いていたかを改めて判断しなければならなくなる。戴溪の場合は概ね左氏伝の経文を用いたようだが,まれに公羊傳や穀梁傳の経文を用いていたと考えられるため,その場合は特別に四庫官みずから割り注を附して読者に注意を喚起した,ということ。

(*)四庫官はさらっと書いているが,本書は宋元時代の有名な注釈書の一つなので,この時代の春秋学を理解するには必読のもの。ただ大典輯佚本なので通志堂経解には収録されておらず,四庫本でしかお目にかかれないのが残念なところである。春秋經筌と並んで黄氏日抄によく引かれているので,そちらで目にした人も多いと思う。

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