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無題

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

『南狩録』の原本を見ることができたので,数日前に書き下した『南狩録』序文を改訂した。もっとも原本とはいっても,岡直養氏校訂本のことで,味池修居の直筆本やその系統のものを見たわけではもちろんない。

岡氏の校訂本は2回ほど出版されたようで,私の見たのは昭和6年刊行の合冊本(原本は上中下3巻3冊)。後に3巻2冊の本が出版された。

本書構成は,美嚢郡教育会頭前田敬助のはしがき,例言,本文,内田周平の跋,岡直養の附録(味池修居の生涯等)。本文は通鑑の例にまねて,経と伝からなり,経は漢文,伝は和文で記されている。伝文中,まま漢文体の引用文あり。

味池修居については,清貧に甘んじた生活をしていたのかと勝手に思いこんでいたが,附録の伝記資料を読む限り,「昔,味池氏 村に入り,他人の地を踏まず」などの文があった。......田舎の富豪だったようだ。感心して損した気分だ。

まあ尊大で残忍な金持ちよりはよっぽど立派だが。

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駮天皇機関説(岡直養)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

ちょっと珍しいのを思い出したので,これも紹介しておこう。以下は岡直養(次郎,また彪邨。-1949年*)氏の駮天皇機関説(天皇機関説を駮す)。天皇機関説が問題となった頃の作と思われるが,正確な執筆時期は不明。

*「黙斎を語る会」というサイトの『崎門学脈系譜』を参照。

天皇機関説を駮す

夫れ父を一家の機関と為すか。以て機関と為せば,則ち歪む者は以て正に改むべく,頑ななる者は以て賢に替うべし。然れども父は衆子の推す所に非ず。父有り 而る後に子有り。子有り 而る後に父有るに非ず。然れば則ち其の機関に非ざること明らかなり。蓋し我国の皇祖,天より降り,以て下土に君臨し,子孫 繁息し,遂に全土の民と為る。所謂大和民族は是なり。然れば則ち天皇 猶 家庭の父のごとし。天皇有り 而る後に国家有り。国家有り 而る後に天皇有るに非ず。是れ我の他邦と異なる所以なり。彼の舜なる者は聖と雖も,側陋の人。禹なる者は臣,湯武も亦 然り。秦漢以降 論ずる勿きのみ。是れ則ち土地と人民有り,而る後に天子有り。乃ち衆の推す所と為り,黄袍を得て衣る者なり。主権の人民に在ること,固り其の所なり。則ち之を機関と謂うも亦 可。今 外国 此の如きの故を以て,之を持ち来りて擬え,以て我国も亦 宜しく此の如かるべしと為す者,是れ徒だ異邦の制を知るのみ,而して我邦古来の史を知らざる者なり。制なる者は人の定むる所,史なる者は自然の迹。人の定むる所を以て,自然の迹を律さんと欲すは,譬うれば猶 趾を刖りて屨を適わしむがごとし。況んや皇国憲法,天皇を以て機関と為さざるをや。高岳親王 曰く「異朝の法を観て,吾神国の掟を守る者は,国の宝なり。外国の法を観て,我神国の掟を疏んずる者は,国の賊なり。」豈に信ならざらんや。豈に信ならざらんや。(『彪邨文集』巻一)



岡氏は楠本硯水(九州の儒学者)の弟子で,内田遠湖氏とともに,幕末から戦前にかけての儒学者あるいは道学者(朱子学者のようなもの)として知られている。ちなみに儒学者・道学者というのは,大学で儒学や朱子学の研究をしている人という意味ではない。江戸時代の儒学者と同じ意味の儒学者であり道学者である。

一々説明するのも煩わしいので,本文章の収められた『彪邨文集』巻1の目録を一部挙げておこう。巻1冒頭から:

理気論
論気
夏論
論禅
祭祀来格説
知識説
雑説
水喩
原悪
養生説
駮天皇機関説
義理辨
極論
(以下,略)



はじめの方に見える理とか気というのは,朱子学の基本用語で,これを江戸時代的に解釈したものである。文明開化の鐘が鳴るどころか,大正デモクラシーの時代に儒学者・道学者とは不思議な気のする人もいるだろうが,当時はこういう人もいたのである。しかしながら所謂国体をめぐる議論は,必ずしもここに見えるものとそう大差あるものではない。それをどう捉えるかは人によるだろうから,別にここで講釈する必要もないし,するだけの準備も能力もない。

駮天皇機関説
夫父為一家機関乎。以為機関,則歪者可以改正,頑者可以替賢。然父非衆子所推。有父而後有子。非有子而後有父。然則其非機関明矣。蓋我国皇祖,自天而降,以君臨下土,子孫繁息,遂為全土之民。所謂大和民族是也。然則天皇猶家庭之父。有天皇而後有国家,非有国家而後有天皇。是我之所以与他邦異也。彼舜者雖聖乎,側陋之人。禹者臣,湯武亦然。秦漢以降勿論耳。是則有土地人民,而後有天子。乃為衆所推,得黄袍而衣者。主権在人民,固其所也。則謂之機関亦可。今以外国如此之故,持之来擬,以為我国亦宜如此者,是徒知異邦之制,而不知我邦古来之史者矣。制者人之所定,史者自然之迹。欲以人之所定,律自然之迹,譬猶刖趾適屨。況皇国憲法,不以天皇為機関乎。高岳親王曰:観異朝之法,守吾神国掟者,国之宝也。観外国之法,疏我神国之掟者,国之賊也。豈不信哉。豈不信哉。(『彪邨文集』巻一)



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『南狩録』序文(味池修居)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

こちらも崎門関係の学者の発言。三宅尚斎の弟子・味池修居の著『南狩録』の序文。全体的に跡部氏の『南山編年録』よりも漢学者的な感じがしますね。特に正統観念をあっさり天下一統に持ってくるあたり,跡部氏のような日本的(?)な粘っこさがなくて好感が持てる。大義を重んずること跡部氏と同じとはいえ,こちらは帝系一尊の一姓のと云わないところ,さすがに正統派の朱子学者なのだろうか。本文を読んでいないのでなんとも云えないが......。なお底本は岡直養氏校訂の『南狩録』(文成社印刷所,昭和6年)。

*2009/01/30改訂

南狩録序(享保十九年,味池修居)

名分の学 明らかならざれば,則ち綱紀 壊れ,万事 廃れ,国 随って亡ぶ。昔日 衛国の乱るる,子路 之を治むる所以を問う。夫子 之に告げて曰く「必ずや名を正さんか」と。夫れ天下国家を治むる,大体の首務,綱紀を維持するより急なる莫し。而して綱紀の実,名分より重きは莫し。故に名分 正しければ則ち綱紀 張り,而して上下 治まる。名分 正しからざれば則ち綱紀 壊れ,而して簒奪 起こる。天下の治乱,此に由らざる莫きこと,歴歴 見るべし。

後醍醐天皇 文保年中より,後亀山天皇 中元の末に至る,凡そ六十余年,僭犯刧奪の賊,相尋で起こり,王子を挟みて帝と為し,遂に南北 統を分かち,乾綱解紐し,絶えざる綎の如く,国家の衰乱,生民の塗炭,殆んど斯に極まる。亦た名分の正しからず,綱紀 張らざるに由るのみ。夫子の言,万世に徴すべき,此に於いてか昭昭たり。

近世 伝うる所の王代編年,及び諸家の伝記,南北皇統を議する者,往往 帝室の衰弱,北主の強大なるを見,異論紛紛,或いは直ちに北朝を以て正統と為る者有り,或いは南北を以て両統と為し,仍て北朝を主とする者有り。此れ皆 大義を失い名分を紊るの甚だしき者なり。

蓋し衰替凋残,播越流離,一旅一成の微と雖も,伝授の命有り以て登極する者は,直ちに正統を以て之に帰し,位号を攘み自立する者は,淫威重勢,一時を傾動すと雖も,黜け書して以て賊と為す。而して其の天下を統一し,号令 四海に訖たり,所謂一旅一成の微なる者も,亦た漸尽(*1)して遺る無きに至りては,則ち正統を以て之に帰す。此れ春秋綱目の大法,万世に亘りて易らざる者なり。

南帝の如き,凋残衰弱,一旅一成の若かずと雖も,世世相承け,璽を奉じ命を伝うる,歴歴 此の如ければ,則ち帝系の本統と為る,大義明白,疑うべき者無し。而して後亀山天皇 神器を北主に伝え,北主 帝を尊び太上天皇と為るに及び,則ち天下一統,南北の分無く,北主を天地人神の主と為れば,則ち帝系の本統 茲に帰す。此れ春秋綱目の大法,亦た何ぞ疑んや。

頃日 議論 偶々此に及び,因りて伝記の載する所を抄録し,以て宝祚授受の序を明らかにし,且つ一時の君に忠し国に殉うの士を採りて,以て其の間に附し,題して南狩録と曰う。若夫れ朝廷興衰の幾,及び忠臣 節に死するの事,歴挙備載する能わずと雖も,然れども南北皇統真偽正潤の大義に於いては,則ち其の梗概を覩るべしとしか云うのみ。

享保甲寅夏五月十二日

味池修居 識す



(*)訓点の適否については詳細不詳ながら,底本附載の岡氏所蔵本(写真)にも返り点があるので,今回は原則として底本の訓点に随った。
(*1)「漸尽」は「澌尽」の誤。


南狩録序(享保十九年,味池修居)
名分之学不明,則綱紀壊,万事廃,国随而亡矣。昔日衛国之乱,子路問所以治之。夫子告之曰:必也正名乎。夫治天下国家,大体首務,莫急于維持綱紀。而綱紀之実,莫重乎名分矣。故名分正則綱紀張,而上下治。名分不正則綱紀壊,而簒奪起矣。天下之治乱,莫不由于此,歴歴可見矣。後醍醐天皇文保年中,至後亀山天皇中元之末,凡六十余年,僭犯刧奪之賊,相尋而起,挟王子為帝,遂南北分統,乾綱解紐,不絶如綎,国家之衰乱,生民之塗炭,殆極於斯焉。亦由於名分不正,綱紀不張而已矣。夫子之言,可徴乎万世,於此乎昭昭矣。近世所伝王代編年,及諸家伝記,議南北皇統者,往往見帝室之衰弱,北主之強大,異論紛紛,或有直以北朝為正統者,或有以南北為両統,仍主北朝者。此皆失大義紊名分之甚者也。蓋衰替凋残,播越流離,雖一旅一成之微,有伝授之命以登極者,直以正統帰之,攘位号自立者,雖淫威重勢傾動一時,黜書以為賊矣。而其至統一天下,号令訖四海,所謂一旅一成之微者,亦漸尽而無遺,則以正統帰之。此春秋綱目之大法,亘万世而不易者也。如南帝雖凋残衰弱,一旅一成之不若,世世相承,奉璽伝命,歴歴如此,則為帝系之本統,大義明白,無可疑者矣。而及後亀山天皇伝神器於北主,北主尊帝為太上天皇,則天下一統,無南北之分,北主為天地人神之主,則帝系之本統帰於茲焉。此春秋綱目之大法,亦何疑哉。頃日議論偶及乎此。因抄録伝記所載,以明宝祚授受之序,且採一時忠君殉国之士,以附其間,題曰南狩録。若夫朝廷興衰之幾,及忠臣死節之事,雖不能歴挙備載,然於南北皇統真偽正潤之大義,則可覩其梗概云爾。
享保甲寅夏五月十二日
味池修居識



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『南山編年録』序文(跡部良顕)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)


以下,『南山編年録』の序文を書き下したもの。ただし原本を確認できなかったので,『南北朝正閏論纂』附載の資料から転載した。同書は国会図書館のデジタルライブラリーで読むことが出来る。私は正閏論争に興味など全くないが,学者がどんな寝言を吐いているのか興味があったので読んでみただけなり。序文中,神様の記述(敬語法?)とか論争渦中の人々の立場とかをよく知らないため,しょーもない間違いをしているかも知れないが,それはご寛恕乞いたい。いや,勘弁ならねぇという人がいても知らない。そういう人は読まないでください。そこまでして読む価値のある記事ではないので。テキストは上に書いたデジタルライブラリーにあるが,念のため書き下しの下に原文を附しておくので,間違いを探す人はどうぞ。ただし原文のタイプミスがあっても知らないよ。

南山編年録序(正徳三年 跡部良顕)

天は上に位し,地は下に位し,人は其の中に生まれ,而して君臣の道 自ずから具われり。天地 一なれば,君臣の大義 私を以て論ずべからざるなり。孟子曰く「世衰え道微して邪説暴行 有 作り,臣の其の君を弑す者 之れ有り,子の其の父を弑す者 之れ有り。孔子懼れて春秋を作る。春秋なる者は天子の事なり。是の故に孔子曰く,我を知る者は其れ惟だ春秋か,我を罪する者も其れ惟だ春秋か。」又曰く「孔子 春秋を成し,而して乱臣賊子 懼る。」朱子も亦 春秋の筆法を以て『通鑑綱目』を著す。

夫れ我国の『旧事記』『古事記』なる者は,史の始めなり。然れども雑にして正ならず。故に一品舎人親王 『日本書紀』三十巻を著し以て正史と為し,神聖の道 自ずから具われり。之に加うるに,『続日本紀』『後紀』『三代実録』『文徳実録』を以て六史と為す。蓋し『日本紀』神代神武巻を稽うるに,天照大神 八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣の三種の神器を以て,皇孫瓊々杵尊に伝え,天位を譲る。故に饒速日尊を載せず,十種の瑞宝を除き,以て正統を露わせり。鵜草葺不合尊の治世の末より神武天皇に至るまで,此の間 東西相分かれ,一統と為らざる有り。天皇 乃ち兵を起こして東征し,神を祭り軍を励まし,竟に朝敵を誅し,再び天下を一統して之を治む。帝業 方めて起こり,政道 大いに正され,王沢 後世に垂るる。故に天子 一姓に相続ぎて正統 歴々たり。吾国を尊び異邦を卑しむ,其れ編集の神意 実に豊葦原中国の亀鏡なり。

林春斎 『本朝通鑑』を著すと雖も,世に行われざるは,則ち其の是非を知らざればなり。諸家の著す所の王代編年の書,未だ詳らかには春秋・通鑑の筆法を著す者を見ざるなり。後醍醐天皇 南山に幸し,而る後 南北に分け,北朝を以て正統と為し,南朝を軽んず。南朝は則ち正統にして,而して北朝なる者は正統にあらず。按ずるに正統を知る者有りと雖も,私に之を改正し憚る所有らんや。宜なるかな,南朝を以て正統と為すや,独り『神皇正統記』の存するを頼りとするのみ。故に予 微意を此に寓す。且つ林氏の『稽古続編』に曰く,「明年 吉野 春風 悪し。山櫻の落つる時 南帝 陟る。嗣王 位を践ぎ三器を抱く。畢竟に大物 得ること能わず。微弱を将つて偽号と称すること莫し。誰に憑りてか史筆の特なるを見るべし。本朝の権衡 此に在るべし。今に至るまで正統 人 識る無し。猶 楠氏の衛護を為す有り,新葉 歌を撰し古式を追う。」水戸源公 『参考太平記』を著し,其の後に書して曰く,「按ずるに南朝の後村上帝の正平二十三年(北朝の貞治七年,則ち応安元年)三月 崩ず。皇子寛成 嗣ぎて立つ。之を長慶院と謂う。文中二年(北朝の応安六年)八月二日,長慶院 位を皇弟成に伝う。後亀山院は是なり。北朝の後小松帝の明徳三年,南北 和を講ず。閏十月二日,南帝 洛に入る。五日,三種の神器を以て北主に伝う。南帝を尊び太上天皇と為す。是に於いて南北一統す。延元元年,後醍醐帝 吉野に幸するより,此に至るまで,凡そ五十七年たり。」此の両書 南朝を以て正統と為す。南北朝の号は則ち西土の例を以て之を号す。豈に之に准らんや。国 神代天皇よりの神胤一姓,而して他姓を以て継がず,且つ三種の神器を以て正統と為せば,則ち君臣の道 確然として万国に抽く。故に両朝と称すべからざるなり。

是に於いて予 窃かに一書を著さんと欲す。然れども短才にして疾に沈み,眼 翳りて筆を把り艱し。故に家僕をして鵜飼氏の『編年小史』を抄せしめ以て基と為し,諸書に考え,違えるを改め,誤れるを刊し,闕けたるを補い,略そ一書を作す。草稿 已に成る。題して『南山編年録』と号す。憚る所有れば,則ち他見を欲せず,唯だ子孫に示さんと欲するなり。南朝の実録 少なく,而して偶々家に蔵する者有りと雖も,之を秘して出さざれば,未だ見ざるの書有り。自今以往 亦 実録を求むれば,則ち宜しく之を補うべし。

正徳癸巳孟冬の日

光海良顕 識す


*割注は丸括弧に入れた。
*林春斎『本朝稽古編』は『南北朝正閏論纂』附載資料(注29)の返点を利用した。

南山編年録序(正徳三年 跡部良顕)
天位于上,地位于下,人生于其中,而君臣之道自具焉。天地一而君臣之大義不可以私論也。孟子曰:世衰道微,邪説暴行有作。臣弑其君者有之,子弑其父者有之。孔子懼作春秋。春秋者,天子之事也。是故孔子曰:知我者其惟春秋乎,罪我者其惟春秋乎。又曰:孔子成春秋,而乱臣賊子懼。朱子亦以春秋之筆法著通鑑綱目矣。夫吾国旧事記古事記者,史之始也。然雑而不正,故一品舎人親王著日本書紀三十巻以為正史,神聖之道自具焉。加之,以続日本紀・後紀・三代実録・文徳実録為録史矣。蓋稽日本紀神代神武巻,天照大神以八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣三種神器,伝于皇孫瓊々杵尊,譲天位。故不載饒速日尊,除十種瑞宝,以露正統焉。鵜草葺不合尊治世之末至神武天皇,而此間東西相分,有不為一統焉。天皇乃起兵而東征,祭神励軍竟誅朝敵,再一統天下而治之。帝業方起,政道大正,王沢垂于後世。故天子相続一姓而正統歴々焉。尊吾国卑異邦,其編集之神意,実豊葦原中国之亀鏡也。林春斎雖著本朝通鑑,不行于世,則不知其是非也。諸家所著王代編年之書,未詳見春秋通鑑之筆法者也。後醍醐天皇幸南山,而後分南北,以北朝為正統,軽南朝焉。南朝則正統而北朝不正統矣。按雖有知正統者,私改正之有所憚歟。宜也以南朝為正統独頼神皇正統記之存。故予寓微意于此。且林氏稽古続編曰:明年吉野春風悪。山櫻落時南帝陟。嗣王践位抱三器。畢竟大物不能得。莫将微弱称偽号。憑誰可見史筆特。本朝権衡可在此。至今正統無人識。猶有楠氏為衛護,新葉撰歌追古式。水戸源公著参考太平記書于其後曰:按南朝後村上帝正平二十三年(北朝貞治七年,即応安元年)三月崩。皇子寛成嗣立。謂之長慶院。文中二年(北朝慶安六年)八月二日,長慶院伝位皇弟成。後亀山院是也。北朝後小松帝明徳三年,南北講話。閏十月二日南帝入洛。五日以三種神器伝于北主。尊南帝為太上天皇。於是南北一統。自延元元年後醍醐帝幸吉野,至此,凡五十七年矣。此両書以南朝為正統,南朝北朝之号,則以西土之例号之,豈准之乎哉。国自神代天皇之神胤一姓,而不以他姓継,且以三種神器為正統,則君臣之道確然抽万国。故不可称南朝也。於是予窃欲著一書,然短才而沈疾,眼翳艱把筆。故命家僕抄鵜飼氏之編年小史以為基,考諸書改違刊誤補闕,略作一書。草稿已成焉。題号南山編年録。有所憚則不欲他見,唯欲示子孫也。南朝之実録少,而偶雖有蔵家者,秘之而不出,有未見之者。自今以往,亦求実録,則宜補之焉。
正徳癸巳孟冬日
光海良顕識



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味池修居の読み?

昨日の続きというわけでもないが,「味池修居」の呼び方について。

山崎闇斎の高弟・三宅尚斎の弟子に味池修居という人がいる。例の南北朝正閏論争で『南狩録』を書いて有名な人なのだが,この人の「味池」という名字は何と発音するのか,ということをここ最近考えていた。

私は普通に「あじいけ」とでも読むのかと思っていたし,国会図書館や他の蔵書目録にも「あじいけ」とあったので,別段気にしていなかった。ところが大昔に購入した古本の『味池修居先生小伝』(川嶋右次著,昭和11年。たしか『山崎闇斎と其門流』収録のものと大同小異だったと思う)に,もとの所有者の筆と思われるが,「あぢち」とふりがなが振ってあった。

「あぢち」......あり得ないではない。というか,何の根拠もなく如何にも正しそうな気のする発音ではある。それでここ最近「味池」にふりがなが振られていないものか調べていた。もちろん調べられる範囲も知れておれば,時間もほとんどないので,普通の人が調べられる範囲しか見ていないのだが,結局,収穫はなかった。それで,分からないなぁ~などと考えていた矢先,ふと『味池修居先生小伝』に目を通していないことに気がついた。

まあ,なんというか,この本は『日本道学淵源録』を写したような本だったので,読む気がしなかったのだ。しかし読まなかったのがいけなかったらしく,本文中に味池氏の子孫が名字の漢字を変えて,「味地」となったことが記されていた(お名前は差し障りがあるといけないので伏せておく)。昭和11年の本だから相当むかしのことに属するが,当時まで味池氏の子孫は存続し,その系譜も残っていたとのことである。

なるほど,「あぢち」だわな。

「あぢいけ」が「あぢち」になるとは考えにくいが,「あぢち(味池)」が「あぢち(味地)」になっても不思議じゃない。音を変えるのはおかしいが,漢字は音に当てたものだから,池が地になろうと大したこともあるまい。少なくとも今のところ最も正しそうな感じがする発音であることは否めない。

ただ,むかしの人は漢字の発音に結構いい加減なところもあったらしいことは諸書に散見する。私の好きな高畠素之にしても,「たかばたけ」とよばれもし,「たかはた」とよばれもしたらしい。だから味池さんも,知らない人から「あじいけ」さんと呼ばれていたかもしれず,またそれを許していたかもしれない。案外,現代の人間が神経質になって発音を探るほどには,気にしていなかったとも言い得,その場合は,正しい発音に固執する方がかえって間違っていると言えないでもない。

それはともかく,いかにも正しそうな発音に出会えたことは幸いだった。もっとも,手元にある本を先に読め,という教訓でもあったわけだが。

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ちょっと調べごと

この前,人と話していて気がついたのだが,国会図書館の近代デジタルライブラリーをご存じない人がいるらしい。確かに旬を過ぎた大昔の本(著作権保護の切れたもの)を探す人も多くなかろうから,宜なるかなという気もしないではない。が,たまにはいいこともあるので,日本国民として知っておいて損はないと思う。

このライブラリー,パソコンによっては,画面が小さく見にくく,pdfとして落としてもくそ重いという難点があるし,第一,著作権保護が切れた本のコピーだから,少なくとも著者の死後50年は経過しているので,ライブラリーのほとんどは読む必要のないものだったりする。が,たまに価値のある......というか,古本屋だと●万円する本を拝見できる場合もあるし,パソコン画面を前にして必要な本がまがいなりにも拝見できるのは何者にも代え難いありがたさを備えている。もちろんこれは私が古いもの好きだからであって,経済なんかを問題にする人には単なるゴミの山にしか見えないかも知れない。

それはそうと,最近所要で『南北朝正閏論纂』を見る必要(というほどでもないが)があったので,近くの図書館に蔵書がないか調べようと思ったのだが,その図書館が長期整理期間とかなんとかで入れないし,しかも蔵書検索までもストップしてくれていた。それで半ば諦めていたのだが,ネットでカチャカチャ調べていると国会のライブラリーが直ぐ見つかった。

この本は,「日本の南北朝,北朝と南朝のどっちが正しい?」というお茶目な議題を扱ったものなのだが,いかんせん古い本なので骨董的価値がついて古本ではかなり値が張る。そこで上のようなこともあって,久しぶりに国会のライブラリーのお世話になったわけなのだ。

ちなみに,なにを調べていたかというと,正親町公の影響を受けた跡部良顕という男の書いた『南山編年録』が現存しているかどうか知りたかったのだが,『南北正閏論纂』に序文が長々引かれていたので,なんというか,改めて『国書総目録』かなにかで調べなければならなくなってしまった。いや,「いけない」わけではないのだが,気になる性分なので,図書館の整理期間が終わったら調べに行こうと思っている。(ネット上で検索できるのを忘れていた。さっき調べたら,内閣文庫などに写本があるらしい。)

単にそれだけの話なわけだが,一度でも研究に足を踏み入れると,良識有る一般国民とは違う世界の人間になってしまうので,個人的にちょっと新鮮だったので書いてみたまでである。

以上。

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ふと思うこと

最近の中国の出版物(思想系だけど)は日本のむかしの研究のあとを追ったものが多い。こういうと中国人に怒られそうだが,「あとを追う」というのは,日本の後塵を拝しているという意味ではなく,むかし日本で行われていた研究と同傾向のものをよく見かけるという意味だ。単純に研究の広さや精確さ,専門性という意味では,数年前から中国の研究は日本を遙か追い越している。本場なのだから当たり前だが。

特に経学あたりは到底日本人に適うはずもなく,研究対象の広さは感心させられることが多い。もちろんこういうと,変に日本の研究に誇りを持った日本人がいかりそうだが,そういう人は相手の研究を批判する前に,自分がどれほど懐の深い研究をしているのか,結果を示してみなければならない。自分の心だけで分かっている(つもりの)ようなものは,分かった内に入らない。私には昨今出つつある中国の研究の中でも一流どころのものに対するほどのものを,日本の研究者の著作から読み取ることはできない。これも相手は本場だから当たり前だが。

それはそうと,確かに中国の研究は立派な研究技術を持っているが,私のような曲がった人間がそれを読むと,「懐かしい」感じがするのは否めない。一口に中国の研究といっても,研究者の数も著書の数も夥しいので,一概に論ずることができない。しかしある程度の水準を超えたものを読むと,なんでもかんでも「歴史」に還元する傾向を読み取ることができる。

この手の研究方法はむかし日本に存在し,いまでも猛威を振るっているが,私はもはや無意味だと思っている。技術的な理由はいろいろ言えるだろう。そのような歴史の研究は,結局は資料の操作の研究であり,そのような研究を深めるということは,結局は資料上の関係を極度に緊密ならしめるだけのことであり,そのような研究を続けても,結局は目的によって結論がいくらでも変化する。あるいは歴史など存在しない。あるいは歴史は現在に集約されるのだ。等々。

しかしなんでもかんでも歴史に還元してしまう研究に対する最も大きい不満は,そのような研究に意味を感じられなくなったという,感覚の問題だったりする。歴史に於いて現在を読み取っても,全く無意味だという感覚,知りたいことは現在から未来であって,過去から現時点ではないという感覚である。

とはいえ,ものは言い様考え様で,別段歴史に還元してならぬものでもなければ,逆にそうでなければならぬものでもない。ただそれが一般に意味を持ち得るかという一般性の問題に過ぎない。だから歴史を信じる人間はそれで突き進むしかないだろうし,それが学問の純粋性だと思うなら,首を括ることになっても後悔はないだろう。後悔するくらいなら,日本のような貧乏国に於いては,一流の学者ではない。

ならばそれとちょうど逆に,歴史に還元することに意味を感じられない人間は,そのような研究を行い得ないことになる。そしてそのような問題意識は,研究の目的にかかわるものだけに,そのような問題意識を持つ人と表面上に於いてしか同意し得ないことになる。

ただ,歴史はそんなに価値のあるものだろうか?各々信じるところに進むのは仕方のないことだら,己が信じているだけで価値があり,他人もそれを認めるべきだという意味不明な暴論を振りかざすのだけは止めてもらいたいものだ。中国がどうあろうと,とりあえず足下に感心されないようでは,その分野そのものが消滅する。まあ,滅びるものは滅びればいいというのが,日本的な考えなのかも知れないし,それならばそれでいいのかも知れないが。

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あれが新版でねえ

知りませんでしたが,年末に『ヒューマン・アクション』の新版が刊行されたらしいですね。いうまでもなくミーゼスの。むかし大学の出版部のようなところから発行されたのですが,あのときはレイアウト(フォントかな?)がいただけなかった。今回のはどうなんだろう。

ちなみにこんな表紙らしいです。

ヒューマン・アクション―人間行為の経済学ヒューマン・アクション―人間行為の経済学
(2008/12)
ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス

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1万2000円......相変わらず値は張るが,結構な大著なので,研究書の翻訳としてはやむを得ないところだろう。ちなみに旧版は古本屋で数万円の値がついていたので,1万2000円とはいえ,やはり新版が出てくれたよかったというべきなんだろうね。

ミーゼスといえば,私なんぞは方法論的個人主義しか出てこなかったりするが(不勉強もいいところだが),人によっては社会主義を叩いた話が出て来るらしい。多分そちらの方が有名なのだろう。ただたんに私が勉強をはじめたとき社会主義など既に死んでおり,論評すら値しなかった,だから自然とそちらには興味も向かず,方法論的個人主義の方に興味を示した,というだけのことなのだ。

むかし旧版を読んだときには能力も忍耐もさらに時間もなかったが,せっかく新版で出たのだから何とか挑戦してみたいような気もしないでもないこともないこともないこともないこともないこともない...............................................

ただ今からこれを読んで役に立つかどうかは知らない。なにせ私は経済の専門家でもなければ,そんな知識を使う身分でも,知っていればどうにかなるような生活もしていないもので。

ちなみにミーゼスの著作はネットで読めるが,私の語学力からいって,原書で読む勇気はとてもない。

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はとHAとWA

予定変更で急に忙しくなった......

さっき年末書いた『森田さんは無口』を書き直したのだが,それでちょっと思い出したことがある。

『森田さんは無口』のローマ字表記は「MORITA SAN HA MUKUCHI」なのだが,この場合の「は」は「HA」でいいのだろうか?それとも「WA」の方がいいのだろうか?

たまにこれを思い出して人に尋ねても,どちらの意見もあって一定しない。大昔の石川啄木の『ローマ字日記』(だったと思ふ)は「WA」派だったような気がするけども,正式にはどうなんだろうか?

もちろん「はは(母)」は「HA」だろうが,例の「ははははははとわらった」は「HAHA HA HAHAHA TO WARATTA」なのか「HAHA WA HAHAHA TO WARATTA」なのか。そういえば日本語をローマ字で書いた場合,名詞と助詞・助動詞の前は空白をあけるのかな?助詞はともかく,助動詞をあけるのはちょっと気持ち悪い......というかあけられるのか?「WARA TTA」?「WARAT TA」?

本来は調べてから書くべきところながら,ちょっと予定変更でそんな場合でもなくなった。年明けからほとんど記事を書いてませんが,来週中頃まで更新できませんのであしからず。

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元年春王正月

この前,台湾の中央研究院の検索に姚際恆の著作集が登録されていたのを思い出し,『春秋通論』を調べてみた。もちろんデータだからいろいろ問題はあるのだが,手近に姚際恆の本がなかったので,やむを得なかったわけである。

姚際恆は清代前半期の学者で,当時の主流から少し外れた学説を奉じていたため,四庫官からほとんど無視された不遇の人である。ところが民国に入ると,姚際恆が古い書物に疑問を持っていたというので,顧頡剛らの疑古派が注目して,ついに台湾で著作集まで刊行されるに至った。現在では研究論集まで出版されている。

この姚際恆の『春秋通論』には私の尊敬する劉敞に言及があり,「見るべきものがない」などと罵倒している。おかげで私は実に個人的理由から憤慨しているのだが,最近になってその姚際恆が「春王正月の王は孔子の手になるものだ」とか言っているらしいことを知った。有名な話なのだろうから,今まで知らなかったとは恥ずかしい限りだ。

「元年春王正月(公即位)」の「王」が孔子の手になるものだというのは,むかしから議論がある。大昔の三伝はしばらくおき,宋代以降にも頻繁に論及を見る。姚際恆の罵倒する劉敞もその学説を奉ずる1人である。

劉敞は「そもそも『元年春正月公即位』の八字は脈絡が一貫しており,史事の叙述に必須のもので,聖人の新意ではない。『王』の一字が『春』と『正』の間にあることこそ,聖人の新意である」(『權衡』巻8)といい,王の一字に聖人の微旨を読み取ろうとしている(『春秋劉氏傳』巻1の元年春王正月条も参照)。これと同じことは呂大圭の「『元年春正月』は魯の旧史の文章である。『王』の字を加えたのは,聖人が筆したものである」(『五論』第三論文。ただし『或問』巻1王正月には異説が見える)にも発見できる。

劉敞の主張には有力な根拠がない。劉敞はあまり根拠をくどくどしくあげる人ではないので,ここも彼一流の流儀に随ったのかもしれない。文面から察するに,「文章の流れからいって,王の一字は浮いており,逆に元年春正月公即位は文章の流れがいいので,王は孔子の新意だ」とでも言いたかったのだろう。ちなみに新意は原文のままで,孔子が新たに加えものという意味と思われる(新たな意味を附したとも取り得るが,意味を付すには新たな文字を加える必要があるので,結果的に孔子が字を加えたという意味になるだろう)。

一方,元の趙汸あたりは,「春秋は魯の旧史に手が加わることで経書になったとはいえ,旧史の基本骨格は残されたままである。(君主の)第一年を元年とすること,歳のはじめを春とすること,一月を正月とすること,王を正に加えたことなどは,どれも旧史の文章に随ったものである」(『補注』巻1)といって,元年春王正月を魯の旧史の文章と見なしている。これも特に根拠はなく,強いて理由を求めると,趙汸の前提と根拠とが堂々巡りになり,循環論証に陥ってしまう。

元年春王正月(公即位)が魯の旧史か聖人の筆になるものか,ここらは歴代の春秋学者の間でずいぶん喧しい議論がなされた。いまとなっては余り意味のない議論のようにも思えるが,当事者は必死であったはずで,いろいろと有力な学説も提出されている。その一つに金石文を根拠に「王」の新意を否定する学説がある。これは春秋時代の金石文に「惟王正月初吉丁亥」というのがあり(『積古斎鐘鼎彝隷識』巻3),春秋の他にも「王正月」の文字を用いるものがあるわけだから,「王」は孔子の発案ではない,という意見がある。

もう一つ,劉敞の議論に即して考えると,例えば劉敞は『權衡』巻7の最後で左氏伝を総括し,「哀公十四年以後は仲尼の手になるものではない」といって,獲麟以前の経文(春秋)とそれ以後の左氏伝の経文(いわゆる続経)とを比較し,獲麟以前の春秋に孔子の筆削のあることを説明している。ところが仲尼の手の加わっていない十五年以後の続経にも,「王正月」の文字が確認できる。ならば劉敞の学説は,劉敞自身の証明方法によって崩壊すると言わなければならない。

もちろん強弁しようと思えば,続経の作者は春秋経文をまねて王の一字を加えたが,その他の筆削については理解が不十分だったので,正経を完全にまねることはできなかった,と言えないではない。また金石文にしても批判しようと思えば批判できる。そもそも金石文のスタイルは尚書に似ており,春秋のような史書ではない。異なるスタイルのものを比較するのは間違っている。もしかすると孔子は伝来の尚書的スタイルを春秋に持ち込み,新たに王の字を加えたのかもしれない云々。

歴史の議論で白を黒と言いくるめることなどたやすいことで,専門家,それも腕のいい専門家であれば朝飯前のことである。結局,分からないものは分からないものとして置いておくしかない。誰でもが容易に首肯できることなら,そもそも疑問は生じず,疑問の生じるところに論弁を加えても,よほどのことがない限り,疑問は解けない。

世に天才的な著作は数少なく存在するが,それほどのものでもなければ,まじめに歴史の議論などしても無駄だと,私は常日頃から思っている。もちろん単に過去から栄養を得るという程度の,健全な思いから歴史を論ずるのであれば,それはそれで意味のあることだと思ってはいるが。専門家に限って,歴史に過度な期待を寄せるから困る。

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今年もよろしく

標題どおりですが,今年もよろしくお願いします。

今年と言っても,私は体をこわしてまでブログを書く気もないし,そもそも今年いっぱい生きようと思うか,あるいは生きておれるかどうかも分からないわけだから,いつまで続くか分からないものではあるものの,とりあえず今年最初の記事ということで,こう書いておくのが礼義のようなので,こう書いておくことにしよう。とはいえ,よろしくという気持ちに嘘はない。

それはそうと,ここ数年来思っているのだが,正月の季節は何だろうか?私の感覚では正月は冬なのだが,他のみなさんはどうだろう。

春秋学では「春王正月」とは書いても,「冬王正月」とは書かない。ここらが胡安國の夏時説が否定される理由の一つなのだ。冬に正月とは気持ち悪い,あり得ないだろう,というのが夏時説否定の第一段であり,つづいてああだこうだと考証に移る。

しかし時代は変わり,農耕から工業へうつり,さらに別の産業へと移っていくこのご時世になると,正月に冬がくっついても平気なわけで,全く気にならない。もちろんだからといって胡安國の学説が正しいことにはならないが,正月と冬がくっつくことなんて,現代の日本人からすると,ごくごく当たり前のことになっている。

ちなみに昔の考えでは:春=正月~3月,夏=4月~6月,秋=7月~9月,冬=10月~12月となる。もちろん月数は旧暦のものである。

私の感覚では,春は3月~5月,夏は6月~9月,秋は10月~11月,冬は12月~2月あたりで,夏が多くなってしまうが,果たして世のみなさまはどんなものだろうか。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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