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『春秋学入門』0-1

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

春秋学入門
―春秋学に関する五つの論考―

宋・呂大圭

凡例
第一論文(春秋学の目的)
〔春秋の著作動機〕〔天子の事〕〔賞罰説の誤謬〕〔小結〕
第二論文(日月の例と称謂の例)
〔問題の所在〕〔日月の例〕〔称謂の例〕〔日月称謂の意味〕〔事実の把握〕〔事実の把握〕(続)〔小結〕
第三論文(達例と特筆)
〔総論〕〔具体例〕〔特筆の大旨〕〔特筆の大旨〕(つづき)〔小結〕
第四論文(世変)
〔世変〕〔世変〕(つづき)〔春秋の世変〕〔その他の世変〕〔小結〕
第五論文(三伝の得失)
〔総論〕〔左氏の得失〕〔公穀二伝の得失〕〔何休と范の得失〕
附録
1:春秋或問跋(何夢申)
2:春秋五論序(納蘭性徳)
3:呂大圭伝(閩中理学淵源考所伝)
4:呂大圭伝(泉州府志所伝)
あとがき(ブログでの公開予定なし)

本書は宋代の春秋学を体系的に論述したもので、この種のものの中で白眉と言われています。春秋学は大きく三伝専門の学(春秋三伝の学)と経文本位の学に分けられますが、従来日本で紹介されてきたものは三伝専門の学がほとんどで、まま経文本位の春秋学に論及があっても、本格的なものはありませんでした。そこで経文本位の春秋学を説明するべく、この種のもので最も体系的な論述につとめた本書を翻訳してみました。


参考(公孫樹の資料庫内のテキスト)
四庫全書総目提要(経部春秋類)
四庫全書総目提要・存目(経部春秋類)
四庫全書未収書
四庫全書存目(明~清)


改訂:2009/05/06
再改訂:2009/05/09
再改訂:2009/05/24
再改訂:2009/11/01

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テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

待ち望まれた本

きょう書虫を見ていたら,『春秋大義』というのが売っていた。どうせまたしょーもない本だろうと思いはしたものの,目次が掲載されていたのでそれをちょいと拝見したところ......感動した。中国のことだからいずれこういう研究をしてくれるとは思っていたが,ようやくやってくれた。全くもって恐れ入る話だ。

春秋学は左氏伝をつかって経文をよむ学問だと思っている人がいる。もちろんそういう流儀の一派もあるのだが,あくまでもそれは一派であり,春秋学のすべてがそうなのではない。春秋学の本義は経文を直に読解するところから生まれるというのは,春秋学に於けるもっとも正統的な方法である。随って,春秋学を志すものは,当然ながら経文を軸に研究していく必要がある。

しかし経文を軸に研究するとはいっても,その研究過程はいざしらず,最終的な結論は当然ながら個々の経文に対する解釈として結実させることが望まれる。もし春秋の大義を現代の論文形式で発表するとなると,それはもう春秋学でもなんでもなく,春秋を利用しただけの別個の学問になってしまう。その典型的な学問が,春秋学の歴史の学とでも言うような,歴史学の一部としての春秋学史であることは論を待たない。

それはともかく,本書の目次を見たところ,筆者は経文一条ごと(もちろん連続する経文を一条に数える場合もあるであろう)に著者の考えを付しているようである。少しく羅列的な印象を受けないではないが,総論を書いただけで春秋が分かった気にでもなっている普通の学者よりはよほど気持ちいい研究方法である。随って形式面だけからいえば,著者は頗る春秋学の正統的研究者である。内容はまだ見ていないので知らないが,少なくとも学問は形式あってのものである。

人間にせよ学問にせよ,形式があってはじめて中身が伴うものである。換言すれば,外見的に引き締まることによって,はじめて内面が鍛えられる。外見がふやけていながら内面が引き締まった人間などいない。(*1)その意味から言えば,もし本書の内容に満足のいかぬところがあったとしても,研究方法の第一歩が正しい以上,自ずから研究の進展につれて正しい解釈に落ち着くはずであり,まったく気にする必要はないであろう。

(*1)その意味で私は『大学章句』八条目の配列は極めて正しいと思っている。日本人にこれを疑う人がいるのには頗る不満を持っている。

以上,本書を見て少しく感動と興奮を覚えたので書き付けておいた。(あー,でもいちおー言っておくと,私は本書を推薦しているわけじゃないので。本書を読んでつまらなかったとか文句を言われても困る。こういう現代では荒唐無稽として退けられた研究方法を敢えて選んだところに,感動を覚え,また正しさを感じたというだけだから。お間違えなきよう。)

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四庫未収書(春秋類)10

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)にまとめ直しました。

劉絢の春秋著作

四庫未収書(春秋類)シリーズは今回で終わりの予定。

さて劉絢の春秋著作だが,これには少しやっかいな問題がある。以下,基本事項からさきに説明しておこう。
『読書志』

『劉質夫春秋』五巻
皇朝の劉絢質夫の撰。絢は二程の門に学んだ。伯淳はかつてこう言った。――「門人の中には機敏なものはいるが,それを持続できるものはなかなかいない。この人だけは全く心配するところがない。」正叔もこう言った。――「わが門に学ぶものは多いが,信じること篤く、得ること多く、行うこと果断で、守ること堅固なもので、質夫君のようなものはほとんどいない。」李参の序文が附されている。

『春秋伝』十二巻
劉絢質夫の撰。二程の門人。その師(二程)はしばしば褒め称えた。本書の解釈は簡明適切である。


ここに一つ不明の刊本が存在する。それは浙江にあるとされる『劉質夫先生春秋通義』12巻(存巻3至巻12)である。未見につきこの本の詳細は不明だが,目録にこの書物は確かに存在する。なお『四庫全書』所収の『春秋通義』1巻はこれと異なるとされている(四庫提要を参照)。

とまあ,普通はこれで終わりだが,劉絢の春秋学について調べたことがあるので,以下にそれを書いておこう。


まず『春秋通義』を実見できないことから,手元にある史料から劉絢の著書と学説を可能な限り再現する必要がある。そのためまず(1)劉絢の春秋著作の種類,(2)著作の動機・内容・性格,(3)佚文の蒐集の3つを抑える必要があるが,以下に述べる通り,劉絢の場合はこの3つをほぼ推測し得るため,『春秋通義』を実見するまでもなく,私の手元の史料でほぼ劉絢の春秋学説を想像し得ることになる。

ちなみにこの作業は『春秋通義』の真贋を見定める試金石にもなり得る。仮に首尾よく『春秋通義』を実見できたとしても,そのまま『通義』を劉絢の著作と認めてよいか否かは別である。突如出現した書物には常に偽作の可能性がつきまとう。随ってまずは可能な限り劉絢の春秋著作の特徴と佚文を蒐集を行い,それを以て現存文献と比較する必要が生じるからである。

(1)劉絢春秋著作の種類

管見の限り,劉絢の春秋著作を探索するに有益な史料は下の7種である。

Ⅰ)『読書志』の『劉質夫春秋』五巻
Ⅱ)『書録解題』の『春秋伝』十二巻
Ⅲ)『程氏外書』引用書目の『程氏学』十巻(中五巻)
Ⅳ)劉絢墓誌銘の「平時有遺藁未就」(未完成)
Ⅴ)『外書』第12の「伊川没後方見之今世『伝』解至閔公者」(閔公まで)
Ⅵ)李明復『集義』諸家姓氏事略の「惟〔謝〕有全書,〔劉〕絢之書則『程氏雜説』及李參所録『程氏學』載焉,間亦有頤語也。(謝は程頤の弟子。『程氏雑説』『程氏学』)
Ⅶ)同上の『十三家春秋集解』

この中,Ⅳの墓誌銘(『伊洛淵源録』所収)は李籲(端伯)の手になる。李籲は劉絢と同じく程頤の門人で,また劉絢とも交友が深いばかりでなく,外兄弟であり,劉絢の没後半年あまりで歿した人物である。そして李籲の弟が『読書志』に見えた李参である。随って,李籲の手になる墓誌銘の記述は極めて信憑性が高い。

墓誌銘にはこうある:

君自幼治春秋、其学祖于程氏、専以孔孟之言断経。将没之時、尚以類例質于大夫君。平時有遺藁未就。


ここから判断して,劉絢の春秋著作は未完成であるが,遺稿は残っていたと断じて間違いない。
この記述はⅤの指摘とも合致する。

昔劉質夫作春秋伝、未成。毎有人問伊川、必対曰:「已令劉絢作之。自不須某費工夫也。」劉伝既成、来呈伊川、門人請観。伊川曰:「却須著某親作。」竟不以劉伝示人。伊川没後、方見之今世『伝』解至閔公者。(『外書』第十二。『全書』39-18a。祁寛所記尹和靖語)


尹和靖は尹焞のことで,程頤晩年の弟子である。ちなみに劉絢は程頤初期の弟子であり,その死亡時には尹焞は程頤の門に入ったか否かの時期であり,その意味から言って上の尹焞の発言を盲信することはできない。特に劉絢の解釈を否定的に捉えたところは,同じく程頤の同門であり,また程門四先生の号を得た謝良佐の「其門人惟劉絢得先生旨意爲多」にも矛盾する。概して尹焞は程頤を美化し過ぎる傾向にあるため,劉絢の春秋学説の得失については少しく割り引いて考えておく必要があるだろう。

しかし劉絢の遺著についてはまた別である。著書はモノであって評価とはことなる。随って尹焞が劉絢の遺著を見たというのは嘘ではあるまい。その指摘によると,劉絢の春秋学説は「閔公」に止まっていたということになる。だいたい春秋の三分の一前後の分量である。

以上が劉絢没後の状況なのだが,ⅠとⅡの間を埋める史料はないだろうか。ここに最も参考になるのがⅢの『程氏学』である。そもそも『読書志』の「劉質夫『春秋』」という書名はまた奇っ怪である。あるいは『読書志』のミスであろうか。恐らくそうではなく,本書は『春秋』で正しいのだと推測される。その理由はこうである。

程頤の語録に『程氏外書』というものがある。これは朱熹が必ずしも出典明確でないも程子の言葉を蒐集したものだが,朱熹は自分の蒐集した史料の性格を目録に書き付けている。その蒐集書目の一つに『程氏学拾遺』なるものがあり,こう指摘する:

程氏學拾遺
李參録。參、端伯之弟、學於伊川先生。此書十巻、其巻五乃劉質夫『春秋解』、其五巻雜有端伯・質夫・入關諸篇。


朱熹の指摘によると,『程氏学』は李参の編集になり,全十巻。しかし半分の五巻は劉絢の春秋解が占め,残りの五巻が程氏の言葉(端伯・質夫・入関などの篇と類似のもの。端伯などは『程氏遺書』の篇名)だったという。『読書志』の『春秋』は全五巻,そして李参の序文付きであった。ならばそれは『程氏学』の五巻分を独立させたものか,半分が分離したものと見なし得る。随って『読書志』の『春秋』とは,『程氏学』の「春秋」という意味だと推測される。逆に言えばⅠとⅢは同一系統の板本ということにもなる。

既に触れたように,李参は李籲の弟であり,劉絢と極めて近い関係にある。広い意味での遺族であり,また同門の兄弟子でもある。その李参が序文を付して刊行したものが『程氏学』就中『劉質夫春秋(解)』であったならば,この五巻本は劉絢春秋学説の最初期のものの1つに数えられるだろう。

しかし気になるのは『読書志』に『劉質夫春秋』の未完成について言及のないところである。書物の完備すると否とは一見して明らかなので,ここに何等発言が見られないのは疑問を遺す。そこで次にⅥとⅦの史料が頼りとなる。

Ⅵには程頤の説明して次のようにいう。

〔程〕頤,之弟。終西京國子監教授。諡正。頤傳春秋,雖無全書,然論春秋大法,則一序盡之矣。其他見於門人記録,有果為頤之言者,有得其意而非其言者。其徒謝、劉絢,最得其意,亦各為傳。惟有全書,絢之書則『程氏雜説』及李參所録『程氏學』載焉,間亦有頤語也。頤於春秋,發明大有功。至胡安國,遂廣其説,而春秋之義明矣。(『集義』巻首,諸家姓氏事略)


Ⅶは劉絢について:

〔劉〕絢,字質夫,河南人。以通春秋召,為太學博士。有人問程頤春秋學,曰:「已令劉絢作傳。」絢傳成來呈頤曰:「却看頤親作據。」尹焞謂:「程傳竟不成書,劉傳亦不出。」然今世傳『程氏雜説』首卷所載皆絢傳,而李參所編『程氏學』自言:「併程子語録之。」今『十三家春秋集解』,皆目為程解誤矣。臣今亦不能別其孰為程,孰為劉。各按其書為標題,亦疑以傳疑焉。若其師友淵源之學,則昭若日星,無可疑也。若夫朱熹所定『程氏經説』,自有『春秋傳』二卷。胡安國毎援以為據,與今劉傳不同,是則為程傳。又何疑焉。(同上)


これによれば『程氏雑説』冒頭に劉絢の春秋伝が掲載され,さらに『程氏学』(劉質夫春秋)には程子の発言を併存させていたことが知られる。また『十三家春秋集解』所収劉絢学説は『程氏学』系統であろう。『十三家春秋集解』は何を指すのか不明であるが,呂祖謙『春秋集解』である可能性もある。(*1)

(*)呂祖謙『春秋集解』所引姓氏を,三伝,陸淳,孫復,劉敞,孫覺,蘇轍,程頤,劉絢,許翰,胡安國,呂本中と数えるならば十三家になるが,陸淳を啖助・趙匡・陸淳,三伝を三伝注疏に解体するなら,十五家~二十一家となる。ただし以下に論ずる通り,呂祖謙の『集解』である可能性もあるが,推測の域を超えない。

試みに李明復の『集義』から『程氏雑説』と『程氏学』を蒐集すると,『程氏学』は濃淡あるものの比較的全書に散見するが,『程氏雑説』は閔公で引用が止まっている。閔公というのは,既に見たⅤ尹焞の指摘に合致する。ならば『程氏雑説』所引の劉絢春秋学説は尹焞の見た「閔公まで」の本と同系統のものと推測される。以上から次のことが明らかになる。

まず劉絢春秋著作:

程氏学系統‐『読書志』の『劉質夫春秋』五巻(Ⅰ),『程氏学』五巻(全十巻)(Ⅲ・Ⅶ),未完成遺稿(Ⅳ),『十三家春秋集解』所収劉絢学説(Ⅶ)の系統。
閔公系統‐閔公以前の未完成著作(Ⅴ),『集義』所引『程氏雑説』(Ⅶ)
十二巻本‐『書録解題』の『春秋伝』十二巻(Ⅱ)
現行本‐『春秋通義』十二巻(存十巻)


この中,程氏学系統と閔公系統の関係は定かでないが,いずれも程門関係者から出たものである。ただ十二巻本は不明と言わざるを得ない。春秋学に於いて十二巻というのは意味があり,通常は十二公一巻の全巻完備の書物を指す。随って普通の意味からすれば,十二巻本は全巻完備の劉絢の学説とも推測できるのだが,果たしてその内実はどうであろうか。後述のごとく『程氏学』の佚文も一応は十二公満遍なく存在する。佚文にして然りとすれば,あるいはそこに程頤の学説を付加して分量を増やし,十二公一巻に編集しなおせば,『程氏学』系統のものも十二巻本にならないではない。しかしいずれにせよ推測の域を超えない。

(2)著作の動機・内容・性格

劉絢がなにゆえに春秋を研究したのかは不明だが,その重要な要因の1つに師の程頤が関わることは否定できない。

そもそも程頤は五経の注釈を志していたとされ,『周易』は自分が,他の経書は門人に各々注釈を任せていたとされる(尹焞『師説』)。劉絢はその中の一人として『春秋』を担当したらしい。

劉質夫作春秋伝、未就、毎有人問伊川、必対曰:「已令劉絢作。自不須頤費工夫也。」劉伝既成、門人斯観、伊川曰:「却須著頤親作。」竟不以人。伊川没後、方見之。(『伊洛淵源録』。但し『外書』所収文書には異同がある。何れも祁寛所記尹和靖語。)


とあるのがそれである。これがどの程度信頼できるか不明だが,既にみたように劉絢の遺著も決して完成したものではなかった。あるいは後々研鑽を積み続けた程頤から見れば,劉絢の学説にはまだまだ満足できなかったのかもしれない。しかしだからといって劉絢の学説が全く取るに足りないものであったとは考えられないことは,謝良佐の言葉について見た通りだが,それは2人の解釈文の類似からも推測できる。一例に劉絢の学説として知られる極めて特殊な解釈を引いておく。

紀侯大去其国

程頤語録。曰:「紀侯大去其國」、大名、責在紀也。非齊之罪也。齊侯陳侯鄭伯遇於垂、方謀伐之、紀侯遂去其國。齊師未加而已去。故非齊之罪也。(『遺書』巻17、179。張洽『集注』にも程氏曰として引かれる)

紀侯大去其國、自去也。大者、紀侯名也。生名之、著失也。按:元年齊師遷紀郱鄑郚、逼遷其邑、志固在於滅矣。然兵未始加乎其國、而紀遂不能守。故三年秋紀季以酅入於齊、至是而紀侯大去其國也。夫守天子之土、承先祖之祀、義莫重焉。雖天下無王、諸侯不道、借使齊以兵臨我、猶當率臣民、申固備禦、而爲之守、不幸而力不足者、則亦死之可也。惡有使弟以邑入齊、而已委國去之哉。先儒或擬以太王之事過矣。苟有太王之徳、民從之如歸市、則爲之可也。彼尚未能效死而勿去、何太王之足議哉。故曰紀侯大去其國、自去也。梁亡、自亡也。鄭棄其師、自棄也。齊人殱於遂、自殱也。四者皆自爲之也。(『程氏学』。呂祖謙『集解』も冒頭部分のみ引用する)


通常これは「紀侯,其の国を大去す」と訓む経文である。然るに程頤はこれを敢えて「紀侯大,其の国を去る」と訓んだ。「紀侯大去其国」の「大」を紀侯の名と解釈したのである。これは程頤にしてみれば合理的な解釈なのだが,春秋学上,極めて特殊な解釈に属する。もちろん劉絢もこの学説を踏襲し,「大」を「紀侯の名」としている。

劉絢に対して「胡氏伝文、大概本諸程氏。程氏門人李参所集程説、頗相出入、而胡氏多取之。」(『宋元学案』武夷学案)と評されるのも故ないことではない。仮に程頤が劉絢の学説に満足できなかったにせよ,尹焞の発言の如く,さも劉絢の解釈が程頤と相当乖離していたように捉えるのは間違いである。むしろ逆に,程頤が『春秋』の伝を任せるほどに,劉絢の春秋学説は師程頤と相当接近していたと見なすべきであり,極めて細かい部分,随って自己の注釈の一字一句に至るまで責任を持てるほどに摺り合わせていなかったものと理解される。もとより完全な納得を求めるならば,程頤本人が注釈を執筆するより外なかったであろうし,事実劉絢が死んだ後は程頤みずから執筆に乗り出すのである。

最後に劉絢の春秋学説の特徴について一言しておく。これは程頤の春秋学説が孫復と類似しているのと同様である(孫復ほどに鋭利とは思えないが)。左伝によって事柄を確認し,経文によってそれを検証し,経文と三伝とが矛盾する場合は経文を優先させた。そしてその根本には尊王の思想が横溢している。

元年、隠公之始年。春、天時。正月、王正。書「春王正月」、示人君當上奉天時、下承王正。明此義、則知王與天同大、人道立矣。周正月、非春也。假天時以立義爾。平王之時、王道絶矣、春秋假周以正王法。隠不書即位、明大法於始也。諸侯之立、必由王命、隠公自立、故不書即位、不與其爲君也。……(程頤『春秋伝』)

元年者、始年也。春者、天時也。月者、王之所建也。書春王正月者、若曰上奉天時、下正王朔云爾。董仲舒所謂「道之大原出于天、求端于天」是也。堯之大政、所先者欽若昊天、茲可見已。王者所行、必本於天、以正天下、而下之奉王政、乃所以事天也。春秋、天子之事。故先書曰春王正月、然後是非褒貶。二百四十二年之事、皆天理也。(『集義』所引程氏学)


ちなみに孫復の学説を引いておくと:

孔子之作春秋也,以天下無王而作也,非為隱公而作也。然則春秋之始於隱公者,非他,以平王之所終也。……平王庸暗,歴孝逾惠,莫能中興,播蕩陵遲,逮隱而死。夫生猶有可待也,死則何所為哉。……『春秋』自隱公而始者,天下無復有王也。夫欲治其末者,必先端其本;嚴其終者,必先正其始。元年書王,所以端本也。正月,所以正始也。其本既端,其始既正,然後以大中之法,從而誅賞之,故曰「元年春王正月」也。隱公曷為不書即位。正也。五等之制,雖曰繼世,而皆請於天子。隱公承惠,天子命也。故不書即位,以見正焉。(『尊王発微』巻1)


また紀侯大去其国でも見たように,北宋の春秋学説によく見られる新説の発表(当時の言葉では「経旨の発明」と言った)にも余念がなかった。

先ほどは紹介に止めたが,紀侯大去其国の大がなぜ人名と見なし得るかというと,滅国の君主は生きながら名を書されるというのが春秋の書法だからである。通常,春秋経文は国君の名を書くことがない。あくまでも某侯,某伯,某子と爵を書き,死亡時のみ国公某と名を書くのである。君主は死んだときにのみ名を書かれるのである。しかるに生きながら名を書かれる場合がある。それが滅国の君主である。国が滅ぼされたとき,君主はまだ死んでいないのに名が書かれるのである。(衞侯燬のような貶文とみなす場合もあるが,これは後段の衞侯燬卒が上に誤写されたと解釈される場合があって春秋学上の難解の1つになっている)

ならば紀侯は斉に国を滅ぼされたのだから,名を書かれるべきである。従来の学説では紀侯は賢君だったが,齊侯の暴虐の前にやむを得ず国を去った(紀は滅びた)ため,聖人はそれを惜しんで名を伏せ(経文に書かなかった/削った),「大去」の二字を加えたとされる。しかし程頤は一貫した書法を追求してか,「大去」を「大いに去る」ではなく,「大,去る」と訓んだのである。

書法の一貫性を求めすぎると自滅するというのが春秋学の不文律だが,北宋には書法(時に義例)の極端な一貫性を求める学者が登場する。程頤もその仲間の1人だったと言えるだろうし,逆にそう言えるのであれば,程頤の春秋学説,随って劉絢の春秋学説は極めて北宋的な学説であったとも言えるであろう。

(3)佚文の蒐集

最後に劉絢春秋学説の佚文を蒐集しておく必要がある。劉絢の佚文は南宋から元朝にかけて広く散見するが,その中心となるのは既にみた李明復『春秋集義』(程氏學および程氏雑説)と呂祖謙『春秋集解』であり,他に胡安国『春秋伝』,張洽『集注』,家鉉翁『詳説』,戴溪『講義』,程端學『本義』,陳深『読春秋編』,兪皐『釋義大成』,呉澄『纂言』,李廉『會通』,鄭玉『闕疑』,汪克寛『纂疏』(および『春秋大全』)がある。

以上から佚文を蒐集し,経文ごとにひとまとめにすると,劉絢の学説は佚文間で増減はあるものの,基本的に一致する。しかしごく稀に程頤の『春秋伝』と合致する場合がある。これはもともと程頤と劉絢の学説は類似しており,さらに両者の学説が混ざって世に出ていたことを考えると,単純な引用ミスと考えられる。

それ以外の特徴は,まず引用間の重複が多い。これは後行の書物が先行の書物から孫引きした可能性も充分考えらるが,同時に劉絢の学説として引用に足る部分は概ね諸学者の間で一致していたということでもある。ちなみに『程氏雑説』は重複引用文が少なく,本書が『程氏学』系統のものに対して特殊な史料であった可能性もある。

他に『程氏学』や『程氏雑説』『呂氏集解』未収に関わらず,張洽『集注』や程端學『本義』にのみ見える学説もある。これは劉絢の著作が何らかの形で南宋後半から元代まで現存していた可能性もあるが,逆に程頤の学説の誤認,引用姓氏の誤植なども充分考えられ,軽々しく判断できない。

(☆本来はここに佚文一覧を掲げるべきなのだが,分量が多いし,使う人もいないだろうから省略する)

以上が劉絢の春秋著作に対する調査結果(というほどでもないが)である。本来はここに現行本との比較を行い,現行本の得失なり,輯佚作業の得失を書いておくべきなのだが,残念ながら現行本未見につきそれは適わない。


いや~,むかし劉絢で論文でも書こうかと思って史料を蒐集したものの,現行本の存在に気がついて諦めたのを思い出した。懐かしい思い出だな~と言いたいところだが,苦々しい思い出だ。ちなみに個人的な所感を言わせていただくと,劉絢の春秋学に価値はない。確かに程門の春秋学の流れを調べる場合には,劉絢ははずせない人間である。程頤と楊時と胡安國の間に,劉絢と謝がおり,しかも謝の解釈は李明復『集義』にほぼ全文残っているのだから,劉絢や謝の学説を輯佚し,それらと楊時・胡安國らと比較したり,または程頤の佚文を蒐集して程頤の『春秋伝』の流伝過程を調べたりと,その他にも調べなければならないものは多い。

しかしそれはあくまでも程門の春秋学を調べるためであって,春秋学というものに正面からぶつかるつもりなら,劉絢の春秋学説など知っていようがいまいがほとんど価値はない。珍しいものは呂祖謙の『集解』に収録されているのでそれでこと足りる。

とまあ,その程度のものなわけだが,なくなった書物を復元したり推測するのは,研究価値とは別個におもしろさがあることも否定できない。


そうそう劉絢の史料が欲しい人はご連絡ください。完璧なものではないけど,まとめただけのものならExcelデータで持っているので。ただしこれを使って失敗しても知らないよ。

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会津の三部作

というのがあって,狭い世界では有名だったりする。

会津三部書は保科正之が編纂させた朱子学の教理書で,『玉山講義附録』『二程治教録』『伊洛三子伝心録』の3部作を指す。編集の任に山崎闇斎が当たったりしたので,その道でも重視されたらしい。特に『玉山講義附録』は朱熹の文集に見える「玉山講義」を軸に,それに関係する朱熹の発言を諸書から持ち寄ったもので,朱子学の理気論(という言葉も今は懐かしい)を手際よくまとめたものとして,つい最近までよく読まれていた。

万に一も朱子学の理気論を知りたいという人がいたならば,私は全力で反対したいところだが,それでもというならば,とりあえず「玉山講義」でも読まれるとよろしい(ということになっている)。とはいえ,中国古文が読めないと「玉山講義」は読めないし,普通の日本人にはテキストを手に入れることじたいが難しいので,「読め」とだけいうと不親切になってしまい,通常はここで諦めざるを得ない。ところが幸いなことに「玉山講義」は日本語訳と書き下しがあるので,興味のある人はまずはそちらを読んでみるといいと思う。

日本語訳は大昔に出版された「世界の名著」シリーズのひとつ『朱子・王陽明』の朱子の部分にあり,書き下し文は『朱子学大系』の『朱子文集』にある。後者は大きい図書館でないと収蔵していないかも知れないが,前者は比較的ポピュラーな本だし,その気になれば古本屋で安く売っている(と思う)。ちなみに『玉山講義附録』に現代語訳はないが,もともと日本人の編纂物だから,返り点がついている。こちらは和装本を当たるしかない......

と,ここからが本題。

実は私も『玉山講義附録』は和装本しかないと思っていたのだが(そもそも調べたこともなかったのだが),最近になって『神道大系』(続編,論説編,保科正之の五)に他の会津三部書とともに収録されているのを知った。しかも近くの図書館に収蔵しているらしいとの情報を得たので,早速しらべて見たところ,確かに入っていた。単なる影印かと思っていたが,普通の本よろしく全て活字で作っており,訓点・割注も再現されていた。本書冒頭に他の神道関係の文書ととも解説が付されているが,これはあまり詳しいものではなかったので,本書について全く知らない人が読んでも面白みがないかもしれない。

「いや~こんなところで『玉山講義附録』にお目にかかるとは思わなかった。それにしても綺麗な本だな~」などと一瞬感心したものの,綺麗なら読書欲がかき立てられるわけでもなく,そもそも綺麗なのは単純にだれも本を開いてないからなので,直ぐに興味がなくなってしまった。書庫から出してもらって直ぐに返すというのは職員にわるい気もしたが,ちょっと急ぎのようがあったので(なら借りるなと言われそうだが),それでその場を後にしたのだった。ただ『玉山講義附録』がこんな形で復活したことを知り得たのは収穫だった。


と,こういうどうでもいいことがちょっと前にあった。

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

あと一回だが

寝違えたのか昨日から腕が痛い。あと一人で四庫未収書も終わるのだが,痛くて書く気になれない......というか,痛みが気になって書けない。

あと一人は劉絢だが,こいつは程頤の門人だ。程頤の時は頭を打つわ,弟子は弟子で腕が痛くなるわ,全く程頤とその仲間たちには辟易させられるな。

ほんと相性が悪い......

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ジャンル : 日記

四庫未収書(春秋類)09

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)にまとめ直しました。

許翰『襄陵春秋集伝』

許翰は南北両宋の際に生きた政治家・学者で,主戦派の李綱とともに対金強硬路線をとった人物として知られている。南宋の主戦派,随って在野の学者には高い評価を受けた人物である。

許翰の春秋学説を別個論ずるものは少ないが,南宋から元朝にかけて,許氏の学説はなかなか勢力(?)があった。管見の限り,許翰の学説はその原著から引かれたというよりは,呂祖謙の『集解』から抄されたようであるが,少なくとも,師協の学説とは比べものにならないほど,許翰の学説に影響を受けたものはいたのである。しかし残念なことに許翰の『春秋集伝』は散佚し,既にそれがどのような書物であったのか,原著について知る術はない。

そこで次善の方法として許翰の学説を知る人物から原著の情報を得るとともに,佚文を蒐集してその経解の主旨を尋ねる必要が生まれる。幸いなことに許翰の著書はその友人・李綱が後序を遺しており,またその学説は比較的体系性があるので,少なくとも許翰の春秋学説の一端は説明できるだろう。

まず李綱の後序:

書襄陵春秋集伝後

......襄陵の許老は『春秋集伝』を作ったが,それは三家の説の中で聖人に悖らぬものを集めて春秋の各篇に付し,次に聖人の旨と思われぬ部分を削除し,さらに自得の意見――それは三伝の未だ発明し得なかったものだが――を付したものだった。私は本書を読み,廓然たること雲霧を払いのけて天日の清明を見るが如く,燦然たること沙石を淘汰して金玉の精粹を見るが如くであった。かくして後,三伝は確かに春秋に功績のあったこと,そして『集伝』もまた三伝に功績のあることを知った。まして〔許氏の〕自得の意見に至っては,かの三家と同等の価値あるものであった。本書が学者に与える功は決して小さいものではない。......

(李綱『梁谿集』巻163。日付は建炎己酉(1129)歲正月五日)


李綱によると,許翰の『集伝』は南北両宋に一般的であった研究方法,つまり三伝を批判的に読解し,まま自己の見解を付すというものだったようである。随って『集伝』の「伝」は三伝を指すことになる。ただ残念なことに,李綱の文章に許翰の具体的意見は記されていない。そこで次に許翰の佚文を集め,その傾向的なものを探ってみよう。

許翰の春秋学説は南宋から元朝にかけて頻繁に目にするが,実際は呂祖謙の『春秋集解』所引許氏曰とほぼ重複する。随って,現在許翰の学説を集める場合,まずもって呂祖謙の『集解』から許氏曰を蒐集することから始めなければならない。ちなみに呂祖謙は南宋初期から中期にかけて生きた学者であり,対する許翰は南北両宋の境目に生きた政治家なので,呂祖謙の引用は原著からのものか,もしくは原著に相当近い書物からのものと推測され,ある程度の信用を置いてよいであろう。

さて呂氏『集解』所引許氏曰を調べると一つの顕著な傾向を見つけることができる。例えば最初の引用文を三条ほど引用してみよう。

春秋の書法。〔春秋の初期,〕外国の卿が軍を率いた場合は,経文に「人」と書く。外国の卿が軍を率いたにも関わらず,経文に〔「人」ではなく〕卿を書くようになるのは,晉の襄公からである。このことから,中世以降,外国の軍について,軍を率いたものが卿であるのに,経文に「人」と書いてある場合,それは聖人に貶されたと判断できるのである。(隠公二年夏五月莒人入向条)

天子に爵命を受けていない大夫は,経文に氏を書かない。春秋の初期はなおこのやり方に忠実であった。無駭・翬・俠・柔・溺そして宛〔という氏を書かれぬ大夫〕が隠桓荘の篇に見えるのがこれである。斉の桓公以後,列国は勝手に大夫の任命を行い,夷狄でもなければ族を書かぬものはなくなった。蓋しもはや周に命令を仰がなくなったのであろう。(同無駭帥師入極条)

隠桓の時代,全部で六たび経文に「遇」を書いている。まだ古代に近い時代だったからである。閔公以後,経文に「会」が書かれることはあっても,「遇」が書かれることはなくなった。誠実さがだんだん不足し,逆に上っ面だけが華美になっていったからである。(隠公四年夏公及宋公遇于清条)


南宋期の春秋学説を学んだものは直ぐ気づくだろうが,これは後に陳傅良によって世変説として集約されるものである。陳傅良の『後伝』やその序文を書いた樓鑰が許翰について特に言及せず,むしろ世変の発見を陳傅良の独創のような書き方をしているところを見ると,あるいは許翰の学説はそれほど整備されたものではなく,まま後の世変説を思わせる発言があっただけで,それらを呂祖謙が拾い出して自己の『集解』に収めたとも考えられる。

許翰がどれほど周到に自己の学説を準備していたかは,既にその原著の失われた現在知る術もないが,しかし少なくとも世変説に類似する学説を提唱していたことは評価されてよいだろう。その意味で王褘の次の発言は許翰の学説を正しく理解しているといって差し支えない(恐らく王褘その人は呂氏『集解』から判断したのだろうが)。

泰山孫氏(復)は専ら書法から褒貶を論じ,襄陵許氏(翰)と永嘉陳氏(傅良)は専ら書法から世変を論じた。

『経義考』(*1)


つまり許翰の春秋学説は,北宋以来の正統的研究方法である三伝折衷/三伝批判の上に成り立ち,そこに自己の新解釈=世変説を導入したものと言い得る。少なくとも,許翰の著書『襄陵春秋集解』はそのような学説を含むものであったとは言い得るだろう。

(*1)コピーが見あたらなかったので,とりあえず『経義考』から引用しておいた。機会があれば後で差し替える。

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四庫未収書(春秋類)08

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)にまとめ直しました。

師協『春秋解』

宋代の春秋学を語るとき,敢えて師協に触れる人間はまずいないだろうが,元朝の経解類にままその名を見るので一応説明しておこう。

『読書志』巻3に次のような記述がある。

『四家春秋集解』二十五巻
これは何人かが皇朝の師協・石季長・王棐・景先之の解釈を集めた書物で,詳細に本文を載せている。


師協の著作について知り得るのはたったこれだけである。本記事では仮に書名を『春秋解』としたが,これは『四課春秋集解』の「解」の一つに師協の春秋学説があるというので,仮に『春秋解』と名付けるに過ぎない。実際のところ師協の著書が『春秋解』であったのか,それとも全く別の書名だったのか,もはや分からないのである。

師協の学説は程公説の『分記』(3条),張洽の『集注』(5条),陳深の『読春秋篇』(11条),黄震の『日抄』(5条),兪皐の『釈義大成』(1条),呉澄の『纂言』(7条),程端学の『本義』(9条)『或問』(9条)『辨疑』(3条),汪克寛の『纂疏』(7条),石光霽の『書法鉤元』(1条)などに散見するが(*1),鄭玉の『経伝闕疑』に90条と最も多く収められている。これらの中には師協の学説を孫引きしたものもあるだろうが,恐らく鄭玉は師協の原著か『四家集解』を見たのだろう。師協の春秋学を考える人は(いないと思うが),まずもって第一に利用しなければならない本である。

なお鄭玉は比較的多く師協の学説を引用するのに,春秋冒頭の隠公には全く引用を見ない。これは少しく不可解なことだが,あるいは鄭玉の見た書物に隠公篇がなかったのかも知れない。書物の冒頭が欠落していることはよくあることである。

ちなみに師協の生没年は全く不明である。しかし佚文から判断すると,『伝説彙纂』も指摘するように,劉敞や孫覚の前後,胡安國や葉夢得までには存在したと推測される。これは学説の積み重ねを通例とする宋代の春秋学の特徴による判断だが,なにぶん年限を断定できるだけの佚文はほとんどないので,もし師協が全く他の学説と無関係に春秋を研究していた人物だったりすると,生没年の推測は極めて曖昧になる。最も安全に本書成立年(随って師協の没年ではなく)を定めるなら,師協学説の引用が見られる以前の時代,即ち程公説や張洽の前,つまり南宋前半以前ということになる。

つぎに師協の春秋学説の特徴を説明したいところだが,なにぶん佚文で断定するのも難しいので,差し障りのないことだけ言っておくと,師協の春秋学は他の同時代の諸学者と同じく,経文を軸に三伝を批判的に読み込み,新学説を提出したものと考えられる。

ちなみに兪皐の『釈義大成』には有名な郭公を解釈して次のように指摘する。

胡氏伝は師氏の学説を用い,郭亡と梁亡は書法も均しく主旨も相通ずると指摘している。


郭亡は莊公24年経に見える郭公のことで,梁亡は僖公19年の経文を指す。宋代には郭公を郭亡の誤りと考える学説が誕生し,一部の学者の間ではそれが当然視されていた。ただこの郭亡説を最初に提唱したのは劉敞だとされている。私自身は少しくこの劉敞提唱説に疑問を持っているが,確かに明確に郭公を郭亡と絡めて有意義な論述を展開したのは劉敞であった。以後,この劉敞の学説に類似した学説が盛行し,胡安國もその学説を採用したとされている。つまり胡安國の郭亡説は,劉敞のそれを受けて展開したものだと考えられているのである(汪克寛『纂疏』)。

しかし兪皐によると,胡安國は師協(師氏)を受けたものだという。兪皐は元朝の朱子学系統の学者で,それなりに学力を保持した人物だから,全く根拠のない発言とは思われない。郭亡説の提唱が仮に劉敞かそれ以前にあったとしても,胡安國が直接依拠したのは師協だったとも考えられる。胡安國の春秋学には,息子が記した『通旨』とか『問答』が付属しており,そこに解釈の根拠や疑問点を列挙していたとされている。これらは既に散佚したが,元朝にはまだ現存しており(汪克寛『纂疏』にも引用を見る),あるいはそこに師協学説への言及があったのかも知れない。しかしそれならば逆に『通旨』『問答』の存在した元朝で,しかも『胡氏伝』の解釈を施した汪克寛がこれに言及せず,却って胡安國の郭亡説を劉敞に繋げるのは不可解である(『纂疏』莊公24年)。

随って,単純に兪皐の勘違いであったり,あるいは兪皐の『釈義大成』そのものの誤植だったりする可能性も充分あるのだが,もし兪皐の発言になんらかの信憑性があるとすれば,師協の著書の成立年限は更に遡り,胡安國以前,随って劉敞より少し後,孫覺か蘇轍前後と見なし得る。また師協が郭亡説を唱えていたというなら,師協の春秋学説は当時最先端の流行を襲ったものだったと見なせるだろう。

いずれにせよ佚文からの判断であり,しかも佚文にそれほど体系性がないものだから,師協の春秋学はそれとなく新しく,それとなく良いところのあった学説だったという程度に理解しておくのが妥当のように思う。


(*1)条数は引用部分と言及部分の両方を含んでいる。
(*2)春秋経文の難読箇所で,夏五郭公などと呼ばれる。夏五も郭公も普通は経の闕文として処理されるが,そこに孔子の筆削を見たい人もいる。

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四庫未収書(春秋類)07

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)にまとめ直しました。

胡瑗『春秋口義』
孫覚『春秋経社要義』

(A)『書録解題』巻3(殿版)
『春秋口義』五巻
胡翼之(*1)の撰。〔本書の解釈は〕宣公十二年で終わっている。戴岷隠(*2)が湖州の学校で本書の続編を作ったが広まらなかった。



(*1)胡翼之は胡瑗のこと。翼之は胡瑗の字。
(*2)戴岷隠は戴溪のこと。

(A)『読書志』巻3(王先謙校補本)
『春秋経社』六巻
皇朝(*1)の孫覚の撰。覚の学問も啖助・趙匡から生まれ出たものである(*2)。〔本書は〕およそ四十余門。議論は頗る厳格である。

(B)『書録解題』巻3(殿版)
『春秋経社要義』六巻
龍図閣学士の高郵の孫覚莘老(*3)の撰。覚は胡安定(*4)に学問を受けた。〔瑗の〕門人は千をもって数え,門人の中でも老成のものを経社(*5)に集め〔て学問を施してい〕た。覚は最年少ながら,厳粛な態度でその中におり,人々を感服させた。本書はおそらくその時に作ったものだろう。



(*1)皇朝はここでは宋朝のこと。
(*2)啖助・趙匡と同系列の学問という意味。
(*3)莘老は孫覚の字。
(*4)胡安定は胡瑗のこと。安定は胡瑗の号。
(*5)経社はクラスの名前。胡瑗は自己の教授する学校を経義斎と治事斎の二組に分け,学徳ともに優れた人を経義に,役に立つ知識を求める人を治事に入れ,各々の性格に相応しい学問を授けていたとされる。ここでいう経社は経義斎のことと思われる。


両書とも胡瑗の学説を収めたものなので,便宜上一括して記すことにした。

胡瑗は北宋中頃の学者で,孫復と並び称せられる。思想史の教科書には,この二人に石介(孫復の弟子)を加えて「宋初の三先生」とか書かれている。この胡瑗と孫復は仲が悪く,性能も反対だったので,むかしから人柄の胡瑗,学問の孫復などと呼ばれている。

胡瑗はとかく教育や人格で聞こえた人なので,その学説はあまり貴ばれないが,それでも彼が程頤の先生であり,後々には朱熹が褒め称えたとあって,それなりに知名度がある。随って知名度につられて胡瑗の学説を引く学者もないではない。胡瑗の春秋関連の著書は散佚したが,まとまったものは杜諤の『会義』に発見できる。胡瑗の学説を知るには,『会義』や南宋元朝の経解類を繙くしかない。

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四庫未収書(春秋類)06

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)にまとめ直しました。

陳岳『春秋折衷論』

(A)『文献通考』巻182
『春秋折衷論』三十巻
『崇文総目』に云う,唐の陳岳の撰。〔左氏・公羊・穀梁〕三家の異同三百四条を比較し,各々の長所を選んで春秋の義を疎通させたものである。

(B)『読書志』巻3(王先謙校補本)
『春秋折衷論』三十巻
唐の陳岳の撰。本書は左氏伝を上とし,公羊伝を中とし,穀梁伝を下とし(*1),その異同を比べて折衷したものである。唐代末期に〔十たび春官に登ったが,晩年は〕(*2)鐘伝の招集に応じて江西従事となった。



(*1)上中下は価値の上中下で,配列の順番ではない。
(*2)〔〕内は『文献通考』によって補う。


本書も盧仝『摘微』と並び宋元時代の経解類に散見する学説である。従来は章如愚の『群書考索』から佚文を集めていたが,杜諤の『会義』により以上の佚文が収められているので,現在は両書によって佚文を蒐集する必要がある。

本書は左氏伝に重きを置きつつも,三伝折衷を志した研究として,宋代以後の春秋学の先蹤とされる。宋代中頃までは重視されたようだが,孫復・劉敞らの学説が提出されるに及んで急速に影響力を失った(と想像されている)。

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四庫未収書(春秋類)05

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)にまとめ直しました。

盧仝『春秋摘微』

(A)『読書志』巻3(王先謙校補本)
『春秋摘微』四巻
唐の盧仝の撰。本書は経文の解釈に三伝を用いないながらも,経文の大略はしっかり捉えている。韓愈は〔本書に対して〕「春秋三伝を高閣に束ね,ひとり遺経を抱えて終始を究む」と言ったが,確かにその通りである。祖無択が金陵で入手したものである。『崇文総目』(*1)には未掲載である。

(B)『文献通考』巻182
『春秋摘微』四巻
巽巌李氏(*2)曰く,仝の春秋学は三伝によって経旨を害なわず,最も韓愈の推奨するところとなった。しかし本書を見たところ,諸学者の見識を遠く越えたものとは思われない。愈が何故にあのような発言をしたのか分からぬ。言い伝えによると,仝は「恵公仲子」(*3)を解釈して「聖人の文字遣いだ」と云ったというのだが,この板本には存在しない。あるいは散佚した部分が多いのであろうか。



(*1)『崇文総目』は北宋中頃の宮廷図書目録。散佚。
(*2)巽巌李氏は『続資治通鑑長編』で有名な李のこと。
(*3)惠公仲子は隠公元年に見える経文。「惠公と仲子」と訓むか「惠公の仲子」と訓むかで意見が分かれる。


本書は宋元時代の経解にまま発見する。韓愈の春秋三伝を高閣に束ね云々は非常に有名な句で,中唐以後の春秋学の特徴を現したものとされている。即ち春秋の解釈に三伝を用いず,経文のみでその義を明らかにしようとしたことを指す。所謂棄伝従経である。

本書には輯佚本がある。しかしこれは杜諤の『会義』から輯佚したものなので,『会義』が現存する以上,『摘微』佚文は『会義』から確認する必要がある。なお本書佚文から判断するかぎり,その内容は,李ではないが,概して偏った論評が目立つ。

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四庫未収書(春秋類)04

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)にまとめ直しました。

杜諤『春秋会義』

(A)『読書志』巻3(王先謙校補本)
『春秋会義』二十六巻
皇祐年間に進士の杜諤が『繁露』,『規過』,『膏肓』,先儒異同篇,『指掌』砕玉,『折衷』,『指掌』議,『纂例』,『辨疑』,『微旨』,『摘微』,『通例』,『胡氏論』,『箋義』,『総論』,『尊王発微』,『本旨』,『辨要』,『集義』,『索隠』,『新義』,『経社』といった三十余家の学説を一つにまとめたもので,最後に自己の論評を付している。本書の学説の全てが聖人の旨を得たものとは思われないが,しかし後学のものに〔本書に収められた〕古今の学説の異同を広く考えさせるならば,聖人の旨についても得るものがあろう。

(B)『書録解題』巻3(殿版)
『春秋会義』二十六巻
郷貢進士の江陽の杜諤献可の撰。本書は三伝および〔唐代の〕啖助・趙匡らの諸学者から〔宋代の〕孫氏〔復の『総論』『発微』〕や『経社要義』に至るまで,三十余家の学説を集めたもので,まま自己の意見を述べている。任貫の序文がある。嘉祐年間の人。



本書の性格は両書誌に指摘の通り,諸家の学説を経文の下に集めて自己の論断を加えたものである。北宋中頃に生きた学者の著書としては,かなり手広く学説を集めている。引用書目については,『読書志』『書録解題』ともに少しずつ情報が不足しており分かり難い。しかしこれについては論文(日本語)があるので省略する。要するに,本書は三伝注疏以来,唐の啖助らを経由し,北宋の孫復・王沿(箋義)・胡瑗(経社)らの学説を集めたもので,その直ぐあとに登場する劉敞・孫覚(経解)・蘇轍らの学説は含んでいない。ちなみに『読書志』は書目を列挙しているが,まま書名以外のもの(先儒異同篇など)を並列しているので困る。

現在のところ本書は2種類存在する。1つは12巻本で『永楽大典』から直接引き写したもの(を借りて写したもの),もう1つは26巻本で,12巻本をさらに補正して欠落部分(永楽大典本には必ず欠落がある)を増補したものである。下の写真は26巻本の本文冒頭部分(筆者所蔵)。

春秋会義

あまり利用されることのない書物だが,北宋中頃までの学説を手広く集めているので,専門的な研究には便利である。特に本書引用の学説のほとんどは原本が散佚しているので,事実上,それらの学説は本書を通してのみしか理解し得ない。

しかし南宋から元朝にかけて,本書の収録学説はあまり利用されなくなる。そのため宋から元,元から明へという重層的な流れで春秋学を理解したい人には,あまり意味のない書物といえるかも知れない。ただし元朝にもまれに本書の引用学説を見るので,そのときにはやはり必要となる。なかなか悩ましい書物だ。

ちなみに本書は『四庫全書』に収録予定だったらしいが,なぜか収録されなかった。本書は夷狄夷狄と叫んでもいないので,正目からはずされる理由もないし,だいいち存目にも言及がないとはどういうことであろうか。今のところ理由は定かでないが,一説には,単なる四庫官のミスではないかとも謂われる。まあ根拠がなくていいなら,なんとでも言えるわな。

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四庫未収書(春秋類)03

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

程頤『春秋伝』

○『二程全書』『程氏経説』等所収

『春秋伝』2巻

程頤の撰。大義のあらましを述べたもので,全書にわたる注釈書ではない。襄公・昭公以降は特に省略が甚だしい。序文に崇寧二年の作とあれば,晩年の作であろう。

『書録解題』巻3(殿版)



『書録解題』の程頤『春秋伝』がどのようなものであったか既に詳らかにし難い。現行本『春秋伝』は単行されておらず,現在では程頤の『春秋伝』というと,『二程全書』『程氏経説』などに収められた「春秋伝」(『経説』巻4)を指すことになっている。

現行本は桓公九年に注記があり,「先生(程頤)は『春秋伝』をお作りになったが,ここまでで筆を擱かれた。そこでかつて先生が解説されたものを集めて以後に付した」とある。これによれば,程頤は桓公九年まで注釈を完成させ,それ以後は文字を置かなかった如くであり,随って桓公十年以後は程頤の完成した注釈ではなく,折に触れて程頤が発言した言葉を,後学が関係経文に付したものということになる。

これらについて1,2問題点を挙げておくと,まず現行本の注記によると,桓公九年以前は完成していた如く指摘するが,仮にこの指摘が正しくとも,あくまでも程頤が完成させたのは解釈文のみであり,完全な注釈ではなかったとしなければならない。理由は簡単で,現行本の桓公九年以前について見ても,経文の引用をみない部分を発見できるからである。

経文の引用を欠く部分は,桓公九年の夏四月や秋七月といった,恐らく程頤が解釈の必要を認めなかったところである。経学や春秋学になじみがない人には,解釈の必要ない経文の引用を見なくとも問題ないように思うかも知れない。しかしそれは程頤の語録などを読んで程頤の思想を理解することに慣れた人の考えることである。経学の中心はあくまでも経文であり,その経文に注釈者が臨んで注文を付すものである。もし注釈の必要を認めた経文のみを自己の注釈書に遺すというのであれば,それは経文に注釈したのではなく,経文の気に入った箇所だけ論評しもの,例えば春秋論とよばれる論評形式の文章か,箚記の如きものになってしまう。しかしこれらは経解とはよべないのである。経解はあくまでも経文が中心なのである。随って現行本の桓公九年以前に於いても,これが程頤の完成させた原稿そのものでないのは明白である。

つぎに『書録解題』によると襄公昭公以降は特に省略がひどいというが,現行の『春秋伝』について見る限り,桓公十年以降,襄公以降の解釈が特別少ないようには思えない。確かに襄公と昭公は各々三十年を超える在位期間があるに比べると,佚文は極度に少ないが,しかし昭公の後の定公と哀公を見る限り,文公宣公成公の三篇の分量とさして変わらない。随って『書録解題』の指摘には賛同しかねる。

それにしても不思議なのは,『書録解題』が上に見た現行本の注記に何等言及しないことである。知っていたが敢えて発言しなかったとも考えられ,いい加減に書物を斜め読みしたので気づかなかったのかも知れず,あるいは人から聞いたものを書いただけかも知れず,可能性はいくらでも考えられる。しかし仮に『書録解題』のものが現行本と同質のものであるとすれば,『書録解題』の解説はすこぶる杜撰なものと言わねばならず,逆に『書録解題』所収のものと現行本が異なるのであれば(つまり桓公十年以後の記述がない本であれば),それはそれで考えものである。

程頤の『春秋伝』の流伝を調べる方法はいくつかあり,私もかつて調べたことはあるが,詳細は述べるに及ぶまい。結果だけ言っておくと,南宋から元朝にかけての学者にとって,程頤の春秋学説というものは,現行本春秋伝とほぼ重複するものであった。随って,とりあえず現行本の程頤『春秋伝』を確認すれば,南宋から元朝にかけて知られていた程頤の春秋学説は了解できるのである。


どうでもいいが,これを訳してる最中に『文献通考』の表紙がはずれた。久しぶりに部屋の奥から『二程集』を取り出すと,その拍子に頭をぶつけた。......ほんと程頤とは相性が悪いな。

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四庫未収書(春秋類)02

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

張洽『春秋集伝』19巻

○『宛委別蔵』所収

宋の張洽の撰。洽には『春秋集注』および「綱領」(*1)があり,既に『四庫全書』に収録されている。洽は朱子の門人で,『宋史』道学伝に立伝された。

『四庫全書総目提要』を拝読すると,「『集注』の遺本がわずかに伝わるのみで,その所謂『集伝』は散佚した」とある。本書は原二十六巻,元の延祐年間に李教授万敵が臨江路学に刊行し,洽の曾孫庭堅が校正したものである。巻首に宋の端平二年の繳省投進状が付されている。『経義考』には庭堅の後序があり,「副使の臧公は本路総府に通達し,『集伝』『沿革』(*2)の二書を学校にて刊行させた。しかし『集伝』は完成したものの,乱丁が激しく,文字の誤植もあった。癸丑の歳,江南諸道の行御史台は各路に通達し,春秋〔の解釈書に〕張主一の伝(*3)を用いさせた。延祐庚寅の歳,科挙復活の詔が下ったため,遠方の士大夫からも〔洽の書を〕求めるものが多く出てきた。そこで李広文が〔原刊本を〕補正して出版し,ようやく『集伝』は完全なものとなった」とある。惜しむべきは,この〔『宛委別蔵』の〕板本は巻十八から巻二十まで,巻二十三から巻二十六までの全七巻が欠落している。しかし全書の梗概を窺い知ることはまだ可能である。

例えば,魯公は王室に朝聘の礼を行わなかったと指摘し(*4),衆仲が楽について論じたことの失当については,劉氏の説に依拠しなければならず(*5),聖人が「初」を書したことについては,公羊伝と程氏の説を正当としなければならぬと指摘し(*6),また文公は〔みずから〕伯主に会礼を行わなかったために,晉の怒りを買ったと言い(*7),諸侯は国境を越えて親迎(*8)してはならぬと言って,穀梁が〔親迎を〕常事とすることの間違いを辨正している(*9)。ここからもよく諸家の長所を集めてこれを研究し,至当の解釈に落ち着けていることが分かる。もとより春秋を学ぶものが廃してはならぬものである。

『揅経室外集』巻2(四庫未収書提要)



(*1)「綱領」は『集注』(通志堂本)冒頭に付されている。
(*2)『沿革』は『歴代群県地理沿革表』のこと。佚書。
(*3)張主一は張洽のこと。「伝」は経典の注釈書を指す一般的な言葉で,その意味であれば『集注』か『集伝』のどちらかを指すことになる。しかし『集伝』の「伝」という意味にとれないこともないので,その意味だと『集伝』を指すことになる。
(*4)隠公3年武氏子来求賻条の張洽の論述。
(*5)隠公5年考仲子之宮初献六羽条の張洽の論述。劉氏は劉敞のこと。
(*6)同上。程氏は程頤のこと。
(*7)文公16年季孫行父会斉于陽穀斉侯弗及盟条の張洽の論述。
(*8)親迎とは,諸侯がみずから他の国に嫁さんをもらいに出かけること。宋代の理屈では,嫁さんをもらうために,自分の国を大臣に任せて,国君みずから他の国に出かけることなどあり得ない,とされる。ただしこの理屈を通すためには毛詩などとの整合性をはかる必要があり,苦労を強いられる。
(*9)荘公24年公如斉逆女条の張洽の論述。『集伝』によると,穀梁伝と胡氏伝ともに親迎を認めており,張洽は両者ともに批判している。

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四庫未収書(春秋類)01

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

胡元質『左氏摘奇』12巻

○『宛委別蔵』所収

宋の胡元質の撰。元質,字は長文,呉郡の人。給事中になった。『宋史』芸文志によると,史部に『西漢字類』をあげて胡元質の撰と記しながら,経部春秋類に『左氏摘奇』十二巻をあげて撰者不詳としている。恐らく伝承者が間違えたのであろう。陳振孫の『直斎書録解題』には本書に対して少しく詳しい解説を施しており,姓名・爵録や郷里について,今本の指摘と合致している。この〔宛委別蔵の〕板本は呉郡の蔵書家の影宋本を鈔録したものである。書末に元質の自記が一条あり,「『左氏摘奇』はすべて自らまとめたもので,当涂道院にて刊行し,同好の士と共にするものである。乾道己巳元日に書す」とある。原刊本にあったものであろう。本書は経文と伝文の一二句を摘録したものだが,杜預の『集解』も必ず採録している。その厳密なところは林鉞の『漢雋』や蘇易簡の『文選双字類要』に比べても勝っており,『宋史』芸文志が経部に入れたのも間違いとは言えず,むしろ『文献通考』が類書の中に入れたのは,本書の真価を理解したものと言えないだろう。

『揅経室外集』巻1(四庫未収書提要)



一般に四庫未収書提要と呼ばれる。阮元の『揅経室外集』に収められたもの。ちなみにタイトルに「四庫未収書」と書いたのは『四庫提要』以外のものという意味で,阮元の「四庫未収書提要」を指すわけではない。

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四庫提要未所収のもの

前回分でようやく唐代中期から元朝までの『四庫提要』春秋類を読み終えた。通して読んだのは久しぶりだが,改めて読み直すと,昔の読み間違いとか勘違いが浮き彫りになって,我ながら学のなさを痛感してしまった。もし私が今後ともこの手の作業を続けるとすれば,恐らくやそのときも今回の翻訳を思い出し,イイ赤っ恥をやらかしたと思うに違いない。

学問は年とともに進歩するという人もいるが,私はそう思わない。できる人間はやはり若くから出来るのだ。継続すれば少しは上達するだろうが,私の現在の成果が,あるいは過去の私の成果が私の能力の全てだと,私は考えている。その程度が私の能力というところなのだろう。嫌なことだが,冷静に鑑みればそうとしか思いようがない。しかも面白いことに,中途半端なわりに,いや中途半端だからこそ,やたらこうして発言してみたくなる。困った性分ではある。

どうでもいいことを書いてしまったが,実は唐代中期から元朝(明朝初期の大全)までの経部春秋類の書籍群で,あらかじめ説明しておくべきものはまだ少し存在する。これは性格的に2種類に分けることができる。第1のものは現存する著作。第2は散佚したが,この時代の書物にしばしば引用を見る学説。これである。

第1のものは,林堯叟の『左伝句讀直解』,胡元質の『左氏摘奇』,程頤の『春秋伝』,劉絢の『春秋通義』,杜諤の『春秋会義』,胡銓の『春秋集善』,楊簡の『慈湖春秋伝』,張洽の『春秋集傳』,李厚の『春秋總要』の9種類。

この中,林堯叟の『直解』は有名ながら未見につき説明できない。胡元質と張洽は阮元に「四庫未収書提要」がある。程頤の『春秋伝』は単行本でないだけで,ふつうに現存する。その弟子劉絢の『通義』は真偽が判断できない。杜諤は別個説明を要する。胡銓と楊簡は中国に現存するらしいが未見につき不詳。李厚は無視してもいいだろう。

第2のものは,盧仝の『摘微』,陳岳の『折衷論』,胡瑗の『口義』(孫覚の『経社要義』),黎の『経解』,陸佃の『後伝』,洪興祖の『本旨』,鄭樵の『春秋伝』,薛季宣の『経解』くらいだろうか。その他,著述の形態は不明だが,石介の『春秋説』,師協の『春秋解』,許翰の『集解』を挙げられる。この中で盧仝の『摘微』,陳岳の『折衷論』は清朝の輯佚書がある。

なぜ第2のものとして上の書目を挙げたかというと,これらは頻度こそ異なるが,いずれも南宋末から明朝初期の学者に利用されたからである。例えば黄震の『黄氏日抄』は30種あまりの学説を引用するが,その中には胡瑗の『口義』(もしくは孫覚の『経社要義』)を引く場合がある。しかし既に『口義』はないのだから,直に学説を確認することはできない。随ってそれらの引用学説(佚文という)は各々引用の形態に即して理解していくことになる。しかし,もし前もってその佚文がどのような性格のものであったか,つまりどのような書物に記されていた学説であったのかを知り得るならば,孤立した佚文の解釈に数段の精確さを与えることになりはしないか。そこに佚書の性格を調べる意味が生まれるのである。

とはいえ,上にあげた全てを説明する必要もなく,また説明するにはあまりに煩瑣なので,次回からは全く私の個人的な判断で,第1の中から胡元質の『左氏摘奇』,程頤の『春秋伝』,杜諤の『春秋会義』,張洽の『春秋集傳』を,第2の中から盧仝の『摘微』,陳岳の『折衷論』,胡瑗の『口義』(孫覚の『経社要義』),師協の『春秋解』,許翰の『集解』を,そして劉絢の春秋著作について説明する。

理由らしきほどのものはないが,現存するもので説明可能なものはしておくべきだろうし,散佚した書物の中,頻繁に佚文が存在し,しかもある程度説明しておく必要を感じるのは上の範囲のもののような気がするからである。

というわけで,今しばらく経部春秋類の解題が続く。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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