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更新履歴

最近土日はこんなことばかりやってるな~と思いつつ,サイトの更新履歴を書いておきます。

『宋史紀事本末』の続きで,丁謂之姦明肅荘懿之事郭后之廃(温成事附),天聖災議,とんで英宗之立刺義勇濮議の7篇の更新になります。仁宗の二大事件である対西夏戦と慶暦改革を飛ばしてますので揃いが悪いですが,とりあえず下書きのある分では,英宗朝まで終わったことになります。以下,北宋の後半世,神宗朝以後のことになります。

それはともかく,ここ1ヶ月ほど夜中と週末のほぼ全ての時間をこの翻訳に割いてますが,なにやら急にばかばかしくなってきました。私は気持ちにむらのある人間なので,そういう風に思うのも当然なのですが,なんというか,翻訳してもしゃーねーしな,という当たり前の感情がふつふつ湧いてきました。実際問題,たしかにしゃーねーんですが,私は目標を立てたなら,間違った結果であることが明白でもやり遂げるべきではないか(個人的な場合に限る),という理屈で生活してますので,ぶーぶー不満を垂れながら1ヶ月ほどやってましたが,今回は1ヶ月で忍耐が切れたようです。

というわけで,次回の更新があるかどうか分かりませんが,あるとすれば次回は神宗朝の話しになると思います。

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『CCさくら』Blu-rayの発売日

カードキャプターさくら ―クロウカード編― BOX (期間限定生産) [Blu-ray]カードキャプターさくら ―クロウカード編― BOX (期間限定生産) [Blu-ray]
(2009/03/27)
丹下桜久川綾

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今日が発売日みたいですね。

みなさまは手に入れられたでしょうか。私はそもそもプレイヤーを持っていないし,私の家のテレビではDVDでもBlu-rayでも同じだろうというので,今回は諦めました。それに金銭的に厳しかったので。

知らなかったけど,Amazonに【お一人様1個まで】の表示がでてますね。ちょっと売れ筋ならよくでる表示だから,これがあったからといって本当に売れているとは限らないけど,一人一個なのね,一人三つじゃなくて。人気があるというべきか,Amazonは高く買いすぎだというべきか分からないけど,いずれにせよCCさくらが高評価なのは結構なことだ。

でもこの手の高額商品を複数買う人って,どんな目的なのかね?在庫切れになってから高く売るつもりなのかな。もうファンも出尽くしているだろうし,後では売れないと思うけど,どうなんだろう。私も四コマなら気に入ったのを3冊買ったりするけど,これだけ高くなるとちょっと手が出ないし,だいたい2つ目を欲しいと思わなんだが,まあ世の中は広いから,いろんな人がいるのかもね。

それにしても久しぶりにさくらちゃんの新しいイラストを見た気がする。あいかわらずかわいいなあ~などと思いつつ,さくらちゃんの記事を書けただけで,それだけでもうブログをやってよかったと思わずにいられない今日この頃。しばらくしたら購入者の感想でも調べてみるつもりです。

なにはともあれ『カードキャプターさくら』のBlu-ray登場おめでとうございます。

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雑感二則

『春秋学入門』も第三論文まで終わったので,あとは二論文を残すのみとなった。とはいえ,本書の山は第四論文にあるので,あと一論文はどうしても終わらせておきたい。誰も読んでいたいとは思うけど。

それはそうと最近ふとしたことから遊佐木斎の『神儒問答』を読んでいた。例の平泉氏の名前で戦前に出版された『日本学叢書』の1冊である。普通の人は『日本学叢書』で読まなくても,岩波の『日本思想大系』の室鳩巣の巻に附録として収録されているので,そちらをお読みになったら宜しいと思う。

『神儒問答』の内容は別に解説している人もいるだろうからそちらに譲るとして,要するにこの本は,遊佐木斎と室鳩巣が神道と朱子学をどのように捉えるべきかをめぐって争った三通の書簡である(遊佐氏側のみ。岩波のには室氏のも入っている)。

私がこれを読んでちょっと新鮮に感じたのは,遊佐氏の言葉遣いである。自身の信念や主張を曲げることなく,ハキハキと論じて一歩も譲らないが,その口調(言葉遣い)に粗暴なところはなく,室氏に対しても礼節を欠くところがない。当たり前だと思われるかも知れないが,実際問題,自己の所信を開陳する場合,このようなゆったりとした気象にはなかなか成れるものではない。もちろんこれは遊佐氏が学徳を積んだ人物であったがゆえに可能であったことであろう。

私も大学院で研究していたころには,思想研究の価値は,過去の思想家から深淵な哲理をつかみ取ることだと思っていたが,ほとんど研究から離れてしまった現在となっては,むしろ遊佐氏のゆったりした気象は素晴らしい,などというすこぶる卑近なものに価値を感じるようになった。あるいはこのような論争のやり方や気象を学び伝えることが,思想研究の研究の重要な役目ではないか,少なくともその役目の一つではないかと思うようになった。

わずか数年前の話なのに,やむを得ぬ環境に置かれると人間かわってしまうものなのかね。ただ歪んだ性格だけは変わらないので,たぶんこの歪みが私の本性なのだろう。


ちなみに遊佐氏の態度は立派だが思想は浅いというつもりはないので。念のため。私は,遊佐木斎というと,平重道氏の研究を思い出す。特に留守希斎(遊佐木斎と三宅尚斎の弟子)を論じた論文で,遊佐氏に言及したときの平氏の発言には心打たれるものがあった。いま論文であの手の書き方をすれば,逆に悪評を蒙りそうだが,いまの私はむしろそのような平氏の研究に,遊佐木斎と同じ感動を覚えている(どうでもいいが,平先生の本は値段が高くて買えん)。

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『春秋学入門』3-5

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

第三論文

(つづき)

〔小結〕

聖人の筆づかいは、まるで自ずから然るが如く、大きいものも微細なものも、高きものも低きものも、各々しかるべき所を得たもので、万物を生み出し行くその心は、止むことなくこの中に流れ続けている。春秋に記された事実は、魯の旧史を越えないとはいえ、その精神や風采はまるで別物である。春秋を学ぶものは、春秋の達例を知らねばならない。それを知ればこそ、日月と称謂が何であるか――後学の主張する穿鑿とは全くの別物であること――が分かるのである。また聖人の特筆を知らねばならない。それを知ればこそ、かの分義・名実・幾微の中、大義に関わるところに対しては、深くその意味を測らねばならぬことが分かるのである。もし「春秋はただ魯の旧史をつづめたもの、即ち文章を簡単にして、事件を正確に書いただけのもの」と考えるならば、それは人間ならだれでもできることである。それがなぜ春秋であり得ようか。

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『春秋学入門』3-4

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

第三論文

〔特筆の大旨〕(つづき)

名実を正すとは何か。――左氏伝は隠公を摂政だと言うが、聖人は「公」と書いている。ならば摂政ではない。左氏伝は許止〔が君父を死に追いやったの〕は薬を舐めなかったからだと言うが、聖人は「弑す」と書いている。ならば薬を舐めなかったのではない。卓は踰年の君ではないのに、聖人はその名を正して「君」と書いている。ならば里克は弑君の罪から逃れられなかった〔補8〕。夷皐が弑されたとき、〔趙盾は〕罪を趙穿になすり付けたが、聖人は〔弑君の賊として〕「盾」と書いた。趙盾はその本心を覆い隠すことができなかった〔補9〕。斉の無知や陳の佗は踰年の君主であるが、これを「殺」と書くことで、討賊の名を正した〔補10〕。陽虎は陪臣であるが、これを「盗」と書くことで、身分の低き者〔校2〕の罪を正した〔補11〕。これらは全て名実を正したものである。

機微を著らかにするとは何か。――「鄭伯 宛をして来たりて祊を帰らしむ」(隠8)を承けて、聖人は「入る」と書いている(*14)。「入る」とは、受け入れを拒まれたことを意味する言葉である〔補12〕。「天王 河陽に狩す。壬申、公 王所に朝す」(僖28)は、〔魯の僖公が〕狩にかこつけて王に朝覲したことを明らかにしたものである。「公 京師より、遂に諸侯(*15)に会し秦を伐つ」(成13)は、諸侯に会〔校3〕して秦を伐つついでに京師に赴いたことを明らかにしたものである。「公子結、〔陳人の〕婦〔を鄄〕に媵し、遂に斉侯・宋公と盟す」(荘19)は、公子結の専断を明らかにしたものである〔補13〕。「公 斉侯・鄭伯に中丘に会す。翬 師を帥ゐ斉人・鄭人に会し宋を伐つ」(隠10)は、公子翬の擅権を明らかにしたものである。葵丘の会は周公が参加した(僖9)。しかしすぐその後に「戊辰、諸侯 葵丘に盟す」とある。これは〔周の〕宰である周公が盟に参加しなかったことを明らかにしたものである (*16)。溴梁の会は諸侯が参加した(襄16)。しかしすぐその後に「戊寅、大夫 盟す」とある。これは大夫が勝手に盟したことを明らかにしたものである(*17)。これらは全て幾微を著らかにしたものである。

その他の書法(*18)については、一言にして尽くせるものではないが、その大旨はこの三者の外に出るものではない。

〔訳者注〕
(*14)隠公8年の左氏経文に「三月、鄭伯使宛來歸祊。庚寅、我入祊」とある。
(*15)正確には成公13年の左氏経文は「諸侯」を「晉侯・宋公・衞侯・鄭伯・曹伯・邾人・滕人」である。
(*16)僖公9年の経文には「夏、公會宰周公・齊侯・宋子・衛侯・鄭伯・許男・曹伯于葵丘。……九月、戊辰、諸侯盟于葵丘」とある。呂大圭の読み方では、葵丘の会は周王の宰が参加した周王主催の会であったが、その直後に行った盟は、周王のあずかり知らないところで、諸侯だけが行ったものだ、ということになる。
(*17)襄公16年の経文に「三月、公會晉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・薛伯・杞伯・小邾子于湨梁。戊寅、大夫盟」とあるのによる。解釈の方法は葵丘の盟に対するものと同じ。
(*18)書法は春秋学の用語の一つ。経文の書き方のこと。第二論文の補注1を参照。

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『春秋学入門』3-3

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○最終更新日:2009/11/01

第三論文

(つづき)

〔特筆の大旨〕

私はむかし春秋の義について思いをめぐらしてみたところ、その大旨は次の三つだと思われた。第一は分義を明らかにすること、第二は名実を正すこと、第三は幾微を著(あき)らかにすること、これである(*9)。

分義を明らかにするとは何か。――月ごとに「正」〔校1〕を書き、正朔(*10)の出自を明らかにすること(*11)、周王の使者は下賤の者でも必ず諸侯の上に序列すること(*12)、これらは全て君臣のあるべき序列を示したものである。斉を内と見なして楚を外とし、晉を内と見なして呉を外とすること(*13)、始めは荊と書き、後に楚と書くこと、始めは呉と書き、後には子爵として書くこと、これらは全て夷狄と中華の区分を重んじたものである。陳黄や衛縶に対する書き方は、兄弟のあり方を明らかにしたものである。晉の申生や許の止に対する書き方は、父子の恩を明らかにしたものである〔補7〕。曹羈や鄭忽に対する書き方は、長幼の序を明らかにしたものである。成風や仲子に対する書き方は、嫡子と庶子との区別を明らかにしたものである。これらは全て分義を明らかにしたものである。

〔訳者注〕
(*9)分義・名実・幾微の内容は以下に論述される。「分義を明らかにする」は秩序を経文に示すこと、「名実を正す」は事柄の実態を正確に記述すること、「幾微を著らかにする」は曖昧な事柄を適切に記述することを意味する。
(*10)正朔は暦(こよみ)のこと。例えば「春王正月(春、王の正月)」と書くことで、魯は周王の暦を使用する、つまり周王の支配下にあることを明示したという意味。
(*11)この部分の解釈は難しい。原文は「毎月書正、以明正朔之所自出」であるが、そもそも毎月正(正月)があるはずはなく、正月のない年も多く存在する。しかし仮に程端学のように「正」を「王」としても、毎月王が書かれるわけではない。強いて読むならば、「毎年の春の正月には王が書かれている」ということになる。
(*12)春秋は爵位の順序で諸侯を列べるが、身分の低い者が会盟に参加する場合、「某人」と書いて爵位を持つ君主の後に配置する。しかし王人(周王の使者で身分の低い者)だけは例外的に諸侯の上に置かれる。例えば僖公8年の「春、王正月、公會王人・齊侯・宋公・衛侯・許男・曹伯・陳世子款、盟于洮」などがそうである。以下、前段までに既出の部分は注釈を省いた。
(*13)内外は春秋学で用いられる概念の一つ。いくつかの意味で用いられる。一般的には魯の国内と魯の国外という意味であるが、これを拡大させ、魯の陣営(内)と敵対陣営(外)、さらには魯の属する中華(内)とその外の夷狄(外)に分けるときもある。

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更新履歴

サイトを更新しました。

『四庫提要』春秋類の誤字を発見したので,二箇所ほど直しました。次に,「その他」に残っていた『三益軒会語』を追加しました。さすがにミスが多かったので,これだけは公表に時間がかかりました。

最後に,久々に『宋史紀事本末』を新規追加しました。契丹盟好天書封祀,すこし飛んで儂智高王則の乱の4つです。契丹盟好と天書封祀は長文なので疲れました。疲れた分だけ精度も落ちていると思います。不備があればご指摘ください。ただ当面は先を急ぐつもりです。次回は丁謂之姦以下の4つ,飛んで英宗之立以下に進む予定です。その他の仁宗篇は下訳がないので,北宋末まで終わったあとで戻る予定です。

それと,前言を翻し,サイト名を変更しました。というか文字を付け足しました。当面は「公孫樹の資料庫」という名前にしておきます。意味はサイトに書いたとおりです。さすがに植物の名前だけというのも気持ち悪いので,資料置き場になり下がったことでもあるし,「資料庫」をくっつけることにした次第です。

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『春秋学入門』3-2

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第三論文

(つづき)

〔具体例〕

〔経文「元年春王正月」の〕「元年春正月」は旧史の文である。「王」の字は、聖人が筆したものである〔補1〕。中国の諸侯の中で、〔夷狄である〕呉や楚の君主の葬に参加したものがいる。しかし呉や楚の君主に対しては葬を書かない。これは聖人が〔旧史から〕削ったのである。晉侯が王をよびつけたことは左氏伝に記されているが、聖人はこれを「狩す」と書いている〔補2〕。こうすることで天下の大義を守ったのである。殖がその主君を放逐したことは諸侯の策書に記録がある。しかし聖人はこれを「衛侯、出奔す」と書いている〔補3〕。これによって君主の訓戒を示したのである。

ただ「仲子」とだけ書かずに「恵公仲子」(隠1)と書き、ただ「成風」とだけ書かずに「僖公成風」(文9)と書くこと〔補4〕、「陳黄」と書かずに「陳侯の弟黄」(襄20,23)と書き、「衛縶」と書かずに「衛侯の兄縶」(昭20)と書くこと(*3)、陽虎は陪臣であるから〔名を削って〕〕「盗」と書き直すこと(*4)、呉や楚の僭称していた王号は「子」と書き直すこと(*5)、糾には「斉」を書かずに小白には「斉」を書き、突には「鄭」を書かずに忽には「鄭」を書くこと〔補5〕、〔衛人が公子〕晉を立てたときには「衛人 立つ」と書き、王子朝に対しては尹氏〔立つ〕を書くこと〔補6〕等々。これらは全て聖人の特筆である。だから「その事は則ち斉桓晉文、その文は則ち史、その義は則ち丘 窃かに之を取る」(*6)と言うのである。

達例を用い、旧史に手を加えないこと――これが聖人の公心(*7)である。特筆を用い、是非を明らかにすること――これが聖人の精義(*8)である。達例を用いる部分は、聖人でなければできないものではなく、門人や高弟であっても可能である。しかし精義の係わるところは、たとえ門人や高弟であっても、決して一言も発することはできないだろう。聖人でなければできないのである。春秋を学ぶものは、どこが春秋の達例なのか、どこが聖人の特筆なのかを見極めなければ、春秋を理解できない。

〔訳者注〕
(*3)僖公成風と同様、特別な書式で所属を記したもの。本文の叙述からすれば、諸侯の兄弟が経文に書かれる場合は、「某国某」(衛縶)と書かれるのに、特別に「某爵之兄」「某爵之弟」と書く場合がある。これらには聖人の特別な意味が込められているのだ、という意味であろう。
(*4)定公8年の「盗竊寶玉、大弓」を指す。陽虎は『論語』にも登場する季孫氏の臣下で、魯の君主からすれば、臣下の臣下となる(これを陪臣という)。『或問』巻18盗殺衛縶条に「凡そ盗と書す者は、微者の名字、経に著さざればなり」とあるように、人物を書く場合、王・君主・大夫以下の身分の人間の名は、例え「盗」の具体的名字が分かっていても、経文に名をあげない。
(*5)呉や楚は王号を称していた。しかし呉や楚は、周の爵位では子爵にあたる。そこで孔子は、呉王や楚王の王号を削り、呉子や楚子というように周の爵位を書いた、という意味になる。
(*6)『孟子』離婁下の言葉。春秋に書かれたことは斉の桓公や晉の文公のこと、春秋の書き方は史書の方法による。しかしその大義は私(孔丘)が取り持った、という意味。
(*7)公心。分を越えない心遣いという程度の意味と思われる。
(*8)精義。細かな心遣いという程度の意味と思われる。

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『春秋学入門』3-1

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第三論文

達例と特筆

〔総論〕

「なるほど、春秋が日月・名称爵号でもって褒貶を発しないというのは、その通りだろう。しかし、だとすれば春秋に書かれたものは全て魯の旧史 (*1)なのだろうか。ならば『孔子の高弟といえども、一語も論評できなかった』(*2)と言われた、かの春秋の義はどこにあるのだろうか。」

春秋には達例があり、聖人の特筆がある。〔旧史に〕日があれば〔経文に〕日を書き、月があれば月を書き、名称は旧史の名称に従い、爵号は旧史の爵号に従うこと、そして盟があれば盟を書き、会があれば会を書き、卒があれば卒を書き、葬があれば葬を書き、戦があれば戦を書き、伐があれば伐を書き、弑があれば弑を書き、殺があれば殺を書くこと――これらはすべて事実に基づいて書いた部分であり、聖人はなんの手も加えていない。これが達例である。しかし史書にないところに筆して義を示し、史書にあるものを削って訓戒を示したところがある。これが特筆である。

〔訳者注〕
(*1)魯の旧史。単に旧史、国史、魯史ともよばれる。魯の歴史書『春秋』を指す。経書『春秋』は魯の歴史書『春秋』を基礎に作られたと言われている。
(*2)『史記』孔子世家に見える言葉。子夏(あるいは子遊・子夏)ほどの高弟でも、春秋についてはなに一つ論評できなかった、という意味。

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『春秋学入門』2-6

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第二論文

(つづき)

〔事実の把握〕(続)

かの名称爵号の異同については、事の大小によって、詳しく書いたり簡略に書く場合がある。また前の事に対しては「目」を記し、同じ事が後文に出たときは「凡」を記す場合もある(*43)〔校6〕。また上の文章を受けて辞を減らすこともある。もとより一例によって括るのは難しいが、これらによって時勢の変化や世道の盛衰を調べることはできる。

例えば、一つの楚に対して、始めは荊と書き、次に楚と書き、ほどなく楚子と書いている。一つの呉に対して、始めは呉と書き、次に人と書き、ほどなく呉子と書いている(*44)。これによって夷狄の強くなりゆく様子が分かる。魯の柔と溺〔校7〕、鄭の宛とに対して(*45)、始めは氏を書いた大夫などいなかった。しかし後には氏を書かない大夫がいなくなる(*46)。鄭の段、陳の佗、衞の州吁など〔の悪逆な臣下〕に対して、始めは名を書いていた。しかし後には弑君の賊であっても、氏を書くようになった(*47)。これによって大夫の強くなりゆく様子が分かる。始めは曹と莒に大夫はいなかった。しかし後には曹と莒ともに大夫が登場するようになる。これによって小国の大夫が政権を握る様子が分かる。始めは、呉と楚は君も大夫もみな「人」と書いていた。しかし後には呉と楚の臣下にまで名が書かれるようになる(*48)。ここから夷狄の大夫が中国と関係を持つようになった様子が分かる。

先君の喪にある諸侯は「子」と書く。そして「子」と書かれながら、会や伐に参加するものがいる(*49)。これによって、喪中の身でありながら会や伐に参加した非礼が分かる。杞は公爵である。それにも関わらず杞伯と書いている。滕は侯爵である。それにも関わらず滕子と書いている。これによって当時の諸侯が周の爵を用いず、国の大小によって強弱を決めていたことが分かる(*50)。曹の会では蔡を衛の前に書き、鄭の伐では衛を蔡の前に書いている。これによって、当時の諸侯は目前の利害のために、周の班列を用いなかったことが分かる〔補3〕。幽の盟では男爵が伯爵の前に置かれ (*51)、淮の会では男爵が侯爵の前に置かれ(*52)、戚の会では子爵が伯爵の前に置かれ(*53)、蕭魚の会では世子が小国の君主の前に置かれている(*54)。これらによって、伯者の政治は私意でもって諸侯の軽重を決め、周の礼制を無視していたことが分かる。垂隴の盟では、国内に於いて、魯の公孫敖が諸侯と会している(*55)。諸侯が召陵に会して楚討伐の軍を起こしたときには、国外に於いて、斉の国夏が伯主と会している(*56)。これらによって、大夫が諸侯のごとく振る舞いながら、しかもその過ちに気づかなかったことが分かる。

およそこれらはどれも名称はその名称に従い、爵号はその爵号に従ったものである。これらによってその是非善悪は明らかである。しかし聖人が名称爵号によって褒貶を発したと考えてはならない。聖人の褒貶を名称爵号の間に求める学者は、必ず解きがたい矛盾に陥る。そして矛盾に陥ると、強いて意見を通すべく、新説や妙論を忌憚なく生み出すことになる。それらは聖人の明白正大な心からかけ離れたものである。

〔小結〕

春秋を修める後学の徒は、まず日月を例とする学説と名称爵号に褒貶を見る学説の二つを論破しなければならない。これが論破できて、ようやく春秋の主旨を論ずることができるのである。

〔訳者注〕
(*43)「凡」と「目」は春秋経の書き方を説明するとき用いられる用語。目は小目の意味で、事を詳細に記述すること。凡は大凡の意味で、事のあらましを記述すること。
(*44)呉の初出は成公7年、呉人の初出は襄公5年、呉子の初出は襄公12年(ないし29年)。
(*45)柔、溺、宛、ともに大夫の名。
(*46)春秋の初期は「柔會宋公、陳侯、蔡叔、盟于折」(桓11)や「溺會齊師伐衞」(荘3)などのように、「柔」「溺」の名だけが経文に書かれている。しかし後になると「季孫行父如齊」(文18)などのように氏が書かれるようになる。
(*47)隠春秋の初期は「鄭伯克段于鄢」(隠1)のように、悪逆の人は「段」と名のみが書かれ、氏は書かれなかった。しかし後になると「晉趙盾弑其君夷皐」(宣2)のように氏が書かれるようになる。
(*48)呉と楚は、君主と臣下とを問わず「呉人」「楚人」と書かれあったものが、後になると楚の「楚公子結帥師伐陳」(哀10)や呉の「閽弑呉子餘祭」(襄29)と書かれるようになる。
(*49)僖公9年の左氏経文に「夏、公會宰周公、齊侯・宋子・衞侯・鄭伯・許男・曹伯于葵丘」とあるのを指す。宋子は後の宋の襄公で、当時は喪に服していた。
(*50)杞伯の爵位は諸説ある。桓公3年の左氏経文(三伝同じ)には「六月、公會杞侯于郕」と記され、杞侯になっている。しかしそれ以外は杞伯と記されている。滕侯は隠公10年の「十有一年、春、滕侯・薛侯來朝」(左氏経文)を最後に、滕子と記される。
(*51)荘公16年の左氏経文に「冬、十有二月、會齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・滑伯・滕子同盟于幽」とあり、男爵の許男が伯爵の曹伯・滑伯の前に置かれている。
(*52)僖公16年の左氏経文に「冬、十有二月、公會齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・邢侯・曹伯于淮」とあり、許男が邢侯の前に置かれている。
(*53)襄公5年の左氏経文に「公會晉侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・齊世子光・呉人・人于戚」とあり、薛伯の前に子爵の君主が置かれている。
(*54)襄公11年の左氏経文に「公會晉侯・宋公・衞侯・曹伯・齊世子光・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子伐鄭、會于蕭魚」とあり、斉世子光が子爵や伯爵の君主の前に置かれている。
(*55)文公2年の左氏経文に「夏六月、公孫敖會宋公・陳侯・鄭伯・晉士穀、盟于垂隴」とあり、公孫敖が諸侯と会盟している。
(*56)定公4年の左氏経文に「三月、公會劉子・晉侯・宋公・蔡侯・衞侯・陳子・鄭伯・許男・曹伯・莒子・邾子・頓子・胡子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子・齊國夏于召陵、侵楚」とあり、斉の大夫である国夏が伯者・晉侯と会している。

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『春秋学入門』2-5

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○最終更新日:2009/11/01

第二論文

(つづき)

〔事実の把握〕

しかし経文に書かれた月日の前後で、その是非を知ることや、名称爵号の異同によって、その事実を知ることは、あり得ることである。しかし聖人はそれらによって褒貶を発したわけではない。

例えば、荘公三十一年の「春、台を郎に築く」、「夏、台を薛に築く」、「秋、台を秦に築く」、三十二年の「春、小穀に城く」を見れば、わずか三時の間に大規模な土木工事を何度も起こしたことが分かる。また宣十五年の「秋、螽あり」、「冬、蝝 生ず」を見れば、二時にわたって災害が起こったことが分かる。また荘公八年の「春、師 郎に次す」、「夏、師 斉師と郕を圍む」、「秋、師 還る」を見れば、三時にわたって国外に派兵していたことが分かる。これらは時が書かれているために分かることである。

また桓公二年の「秋、七月、杞侯 来朝す」、「九月、杞に入る」を見れば、〔杞侯が〕来朝して一ヶ月ばかりで、杞に派兵したことが分かる。昭公七年の「三月、公 楚に如く」、「九月、公 楚より至る」を見れば、夷狄の国に朝したとき、七ヶ月もの久しきにわたり労苦を強いられたことが分かる。僖公二年の「冬十月、雨ふらず」、三年の「春、王正月、雨ふらず」、「夏、四月、雨ふらず」、「六月、雨ふる」を見れば、九ヶ月にしてようやく雨が降ったことが分かる。これらは月が書かれてあるために分かることである。

〔隠公九年の三月〕「癸酉、大雨あり、震電す」、「庚辰、大いに雪ふる」を見れば、八日の間に二度も天変のあったことが分かる。〔隠公十年の六月〕「辛未、郜を取る。辛巳、防を取る」を見れば、わずか十日あまりで二つの邑を取ったことが分かる。〔桓公十四年の秋八月〕「壬申、御廩に災あり」、「乙亥、嘗す」を見れば、災のさめやらぬ間に嘗の祭りを行った不敬を知ることができる。〔宣公八年の冬十月〕「己丑、敬嬴を葬る」、「庚寅にして克く葬る」を見れば、翌日(*42)にしてようやく葬っており、ここから葬儀の備えのなかったことが分かる。〔成公三年の冬十一月〕「丙午、荀庚と盟し」、「丁未、孫良夫と盟す」を見れば、魯の人が晉を先にし、衛を後回しにしたことが分かる。〔襄公三年の六月〕「己未、雞澤に同盟し」、「戊寅、陳の袁僑と盟す」を見れば、晉の人は諸侯と盟を行った後で、大夫と盟を行ったことが分かる。これらは日が書かれてあるために分かることである。しかしここから聖人は日月の有無に褒貶を寓したと考えるのは誤りである。

〔訳者注〕
(*42)己丑の翌日は庚寅になる。

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『春秋学入門』2-4

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第二論文

(つづき)

〔日月称謂の意味〕

一般に春秋は事を日につなげ、日を月につなげ、月を時につなげている。一日で終わる事は日につなげ、一ヶ月で終わる事は月につなげ、一時で終わる事は時につなげている。だから朝・覲・蒐・狩・城・築・作・毀(*37)などは〔経文に時が書かれているが、それは〕すべて一時で終わるものだからである (*38)。会・遇・平・如・来・至・侵・伐・圍・取・救・次・遷・戌〔校2〕・襲・奔・叛・執・放・水・旱・雨・雹・氷(*39)・雪・彗孛(*40)・螽・螟などは〔経文に時や月が書かれているが、それは〕一ヶ月で終わるものもあれば、一時〔校3〕で終わるものもあるからである。崩・薨・卒・弑・葬、郊廟の祭り、盟・戦〔校4〕・敗・入・滅・獲・日食・星変・山崩・地震・火〔校5〕・災などは〔経文に日が書かれているが、それは〕一日で終わるものだからである。

なるほど経文には月を書くべきところに月が書かれず、日を書くべきところに日が書かれていない場合がある。これらはいずれも魯史に記録がなかったからである。たとえば某事に対して月を書くべきなのに、魯史に時だけが書かれていた場合、また某事に対して日を書くべきなのに、魯史に月だけが書かれていた場合、聖人は勝手に日を書き加えるだろうか。これこそ春秋が日月を例としない証拠である(*41)。

春秋は事を直書するだけで、その善悪はおのずと明らかになっている。名称爵号はその名称爵号に従うだけで、その是非善悪は経文に現れている。名を書くものすべてが貶されているわけでも、字を書かくものすべてが褒められたわけでもない。もし某と某とに褒めるべきことがあるのに、魯史に名前しか残っていなかった場合、あるいは某と某とに貶すべきところがあるのに、魯史に字しか残っていなかった場合、聖人は列国を走り回り、彼らの名と字を探し出してから、経文に書いたというのだろうか。これこそ春秋が名称爵号によって褒貶を示さない証拠である。

〔訳者注〕
(*37)いずれも経文に見える事柄。
(*38)経文に照らして考えると、月を書くものが多く、学説に矛盾がある。
(*39)「氷」は経文に存在しない。恐らく「冰」のことであろう。
(*40)「彗孛」は経文に存在しない。恐らく「星孛」のことであろう。
(*41)「日月を例としない」とは、上文の「日月によって褒貶を示す」と同義。詳しくは〔補注1〕を参照。

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『春秋学入門』2-3

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第二論文

(つづき)

〔称謂の例〕

〔天王が宰咺を派遣して〕仲子の葬儀に賵(*24)を贈ったことに対して(*25)、「宰」に〔咺という〕名が書かれているのは、貶したからであるという(*26)。一方、〔王が〕栄叔を派遣して成風の葬儀に含(*27)と賵を贈ったことに対して、「王」に「天」の字が書かれていないのは、貶したからであるという(*28)。仲子の賵を贈った罪は、宰にあって天王にはないというのだろうか。成風の含と賵を贈った罪は、天王にあって栄叔にはないというのだろうか。そもそも春秋に「王」が書かれているのは、周王治下の秩序を正すためである。それにも関わらず、夫子じしんが周王を貶し、その「天」の字を削るという。これでいて秩序を正すことができるというのだろうか。

穀伯と侯には名が書かれている(*29)。これに対して、「弑逆の人に朝したから貶したのだ」という学者がいる(*30)。しかし滕子や杞侯も弑逆の人に朝したのではないのか(*31)。また滕侯と薛侯の来朝に際し、経文に「侯」と書くことに対して(*32)、「滕と薛は微弱な国であるが、先んじて隠公に朝したので、これを褒め〔て侯爵と書い〕たのである」という学者もいる(*33)。しかし隠公に朝すことのどこに褒める理由であるのだろうか。もし隠公を始めて天命を受けた君主と見なすというなら、それは甚だしき誤謬と言わなければならない。

また「滕はもともと侯爵だった。弑逆の人に朝したので、貶して子爵に降したのである」という学者がいる(*34)。なるほど魯の桓公に朝したのことは貶すべきことである。しかし〔滕侯は〕春秋の最後まで、もはや侯爵と書かれなくなるのである。はたしてこれで「桓公に朝したから貶された」と言えるだろうか。また「当時の周王が〔滕侯の〕爵位を降したのだ」という学者もいる(*35)。しかし、もし当時の周王に諸侯の爵位を上下する力があるなら、まだ天王じしんが礼楽賞罰の権を握っていたことになる。それでいて春秋と言えるだろうか。

〔楚の記述法を見ると、経文は〕まず「荊」と書き、次に「楚」と書き、ほどなくして「楚子」と書いている。これに対して、「夷狄を昇進させたのだ」という学者がいる(*36)。中国の諸侯でありながら夷狄の振る舞いをしたものに対して、これを夷狄とみなすことは、あり得ることである。しかし夷狄でありながら中国のように振る舞ったからといって、これを中国とみなしてよいだろうか。聖人が春秋を作ったのは、もともと夷狄と中華をきっちり区分するためである。それにも関わらず、夷狄を進め、中国を退けるようなことがあるだろうか。

これらの矛盾は一つや二つではない。しかし、これを要するに、どれもこれも経文の解釈に困難を生じさせるものばかりである。それにも関わらず、春秋は名称爵号によって褒貶を示したなどと言えるだろうか。

〔訳者注〕
(*24)車馬。葬儀を助けるために贈られる物品の一つ。以下は胡安国『春秋伝』の学説を反駁したもの。
(*25)隠公元年の左氏経文「天王使宰咺來歸惠公仲子之賵」を指す。胡安国の解釈に従うならば、天王は周王(天子)、恵公は隠公の先代。仲子は恵公の妾。宰咺の「宰」は官名で、冢宰(六卿の長)。「咺」はその名。ただし仲子と宰咺については諸説ある。
(*26)胡安国は「王朝の公卿は官を書き、大夫は字を書き、上士と中士は名を書き、下士は人と書く」との規定を加え、恵公の妾の仲子に装具を贈るのは人倫を乱したものだから、筆誅を加えて冢宰の名を書いた、とする(胡安国『春秋伝』巻1)。
(*27)「含」は含玉のこと。死者の口に含ませる葬具。
(*28)文公5年の左氏経文に「王使榮叔歸含且賵」とある。一般に春秋経は周王を天王と書く。しかるにここでは「天王」ではなく「王」と書かれている。これに対して胡安国は、宰咺のときと同様に人倫を乱した罪を指摘し、天王が天の道を踏み行えなかったので、天の字を削ったと解釈する(胡安国『春秋伝』巻 14)。
(*29)桓公七年の左氏経文に「夏、穀伯綏來朝。侯吾離來朝」とある。綏と吾離はおのおの穀伯と侯の名。いくつかの例外を除き、一般に生きながら名を記される諸侯はいない。
(*30)何休の学説。「弑逆の人」は魯の桓公を指す。桓公は、先君であり、かつ自身の兄にあたる隠公を弑して魯の君主になった。弑は臣下・子供が君主・親を殺したときに用いる言葉。弑逆も同じ。「朝す」は謁見の意。聘との区別もあるので、訳語は充てない。
(*31)滕子と杞侯の来朝は桓公2年に見える。なお公羊伝と穀梁伝は杞侯を紀侯に作る。
(*32)隠公11年に「十有一年、春、滕侯・薛侯來朝」とある。
(*33)何休の学説。「侯という理由。春秋は隠公を始めて天命を受けた王とみなしている。滕と薛は先んじてその隠公に朝した。だから褒めたのである」とある。隠公を受命の王とみなす考えは公羊伝特注のもので、宋代では完全に否定され、むしろ公羊伝(何休)の誤謬を証明する有力な根拠となった。
(*34)胡安国の学説。ただし類似の学説は他にも多い。以下、三伝以外の学説は、比較的有名なものの姓名を挙げるに止める。
(*35)杜預と范の学説。
(*36)公羊学にこの種の解釈がある。なお荊の初出は荘公10年、楚人の初出は僖公元年、楚子の初出は僖公21年にあたる。

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『春秋学入門』2-2

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第二論文

(つづき)

〔日月の例〕

蔑の盟(隠1)には日が書かれていない(*7)〔補2〕。この理由を求めて、〔穀梁伝は〕「盟約が守られなかったからだ」という。ところが柯の盟(荘13)に日が書かれていない(*8)ことに対して、〔同じ穀梁伝は〕「盟約が守られたからだ」という。果たして「守られなかった」から日が書かれなかったのだろうか、それとも「守った」から日が書かれたのであろうか。また〔公羊伝と穀梁伝はともに〕「桓公の盟には日が書かない」と言いう(*9)。しかし〔桓公の盟の一つである〕葵丘の盟(僖9)には日が書かれている(*10)。これに対して、片方は「危ぶんだのだ」と言うが、もう片方は「褒め称えたのだ」と言っている(*11)。果たして「危ぶんだ」〔から日が書かれた〕のだろうか、それとも「褒め称えた」からなのだろうか。

公子益師の卒(隠1)には日が書かれていない。これに対して左氏伝は「公(*12)が〔公子益師の〕小斂に参加しなかったからである」という。しかし公孫敖が国外で卒したとき、公は国内にいた(*13)。また叔孫婼が国内で卒したとき、公は国外にいた(*14)。ならば両者ともに公が小斂に参加できなかったのは明白である。それなのになぜ日が書かれているのだろうか。公羊伝は「公子益師〔の卒〕に日が書かれていないのは、遠い時代のことだからだ」という。しかし公子彄も遠い時代の人間である。それなのになぜ〔公子彄の卒には〕日が書かれているのだろうか(*15)。穀梁伝は「〔公子益師の卒に〕日を書かないのは、〔公子益師が〕悪人だからである」(*16)という。しかし公子牙(*17)や季孫意如(*18)も悪人である。それなのになぜこの二人に対しては日が書かれているのだろうか。

「葬」には月と日が書かれるはずなのに、月と日が書かれていない場合がある。これに対して、「期日に先立つ葬儀に対して、日が書かれているのは (*19)、〔嗣子が〕葬儀を望んでいたことを示したのである。期日に先立つ葬儀に対して、日が書かれていないのは、礼制に沿った葬儀を実施しなかったことを示したのである。期日に後れた葬儀に対して、経文に日が書かれているのは、〔葬儀の遅れを〕痛ましく思ってのことである。期日に後れた葬儀に対して、日が書かれていないのは、期日通りに葬儀を実施できなかったことを示したのである。期日通りの葬儀であり、経文に日が書かれていないのは、〔礼制に沿った〕正しい葬儀だったからである。期日通りの葬儀であったのに、経文に日が書かれているのは、葬儀が実施できないことを危ぶんでのことである」という (*20)。しかし「期日に後れた葬儀に対して、経文に日が書かれている」というのは、具体的には斉の桓公を指してのことである(*21)。当時、〔斉の国では〕公子たちが国君の地位を争っていた。だから葬儀ができないことを危ぶみ、これを痛んだとは言えるだろう。しかし衛の穆公や宋の文公は斉の桓公ほどの賢君ではなく、国内紛争の憂いもなかった。それなのに期日に後れた葬儀に対して、経文には日が書かれている(*22)。なにを痛むことがあるのだろうか。宋の穆公の葬に日を書くのは(*23)、なにを危ぶむことがあるのだろうか。およそこれらは経文解釈に困難を生じさせるものばかりである。それにも関わらず、春秋は日月によって褒貶を示したなどと言えるだろうか。

〔訳者注〕
(*7)隠公元年の左氏経文に「三月、公及邾儀父盟于蔑」とある。「蔑」は地名。公羊伝と穀梁伝の経文は「蔑」を「眛」に作る。「日が書かれていない」とは、「三月、○○、公及邾儀父盟于蔑」の○○の箇所に干支(甲子、乙丑など)が記されていないことを指す。
(*8)左氏経文に「冬、公會齊侯盟于柯」とある。
(*9)斉の桓公の主導下で行われた盟は経文に日を書かない、という意味。
(*10)左氏経文に「九月、戊辰、諸侯盟于葵丘」とある。
(*11)「危ぶんだ」のが公羊伝の解釈で、「褒め称えた」のが穀梁伝の解釈。
(*12)公は魯公のこと。魯の国の君主。ここでは魯の隠公を指す。
(*13)文公14年の左氏経文に「九月、甲申、公孫敖卒于齊(九月、甲申、公孫敖 齊に卒す)」とあり、「九月」の下に日(甲申)が書かれている。
(*14)昭公25年の左氏経文に「冬、十月、戊辰、叔孫婼卒」とあり、「冬十月」の下に日が書かれている。昭公は同年九月に季孫氏との抗争に敗れ国外逃亡を謀った。また左氏伝によると十月戊申に叔孫婼は魯の正殿で死んだとある。したがって国外にいる昭公が叔孫婼の小斂(葬儀の一)に参加できたはずはなく、左氏伝の解釈を推せば、「冬、十月、叔孫婼卒」と書かれるべきだということになる。
(*15)「遠い時代」とは、春秋の執筆された孔子の時代から遠く離れた過去の時代を意味する。隠公元年に死んだ公子益師は遠い時代に属す。しかし隠公5 年という同じく遠い時代に死んだはずの公子彄に対しても、公羊経文には「冬、十有二月、辛巳、公子彄卒」とある。呂大圭はこの矛盾を指摘したのである。
(*16)公子益師の悪行については経伝に明文がない。穀梁疏は「益師の悪行は経伝に明文がない。春秋より前にあったのだろう」とし、さらに「益師は忍び寄る邪謀を阻止し得ず、桓公に隠公を弑逆させた云々」(麋信の説)を引いて、「この学説には根拠がない」と退けている。
(*17)荘公32年の経文に「秋、七月、癸巳、公子牙卒」とある。公子牙は荘公の後継者をめぐって姦計を張りめぐらせたと言われている。
(*18)定公5年の左氏経文に「六月、丙申、季孫意如卒」とある。季孫意如は魯の君主(定公の先代)の昭公を追放した人物で、善悪を論ずれば、国君に刃向かった悪人の側に入る。
(*19)礼において、諸侯が死んだ場合、その後継者は、先君死亡から五ヶ月後に葬ることになっている。以下はこの規定を前提とした発言。
(*20)以上の規定は隠公3年の公羊伝に見える。
(*21)何休の解釈をふまえたもの。「賢君(桓公)が礼制に定められた日時に葬られなかったことを痛んでのことである。〔経文の〕『丁亥、斉の桓公を葬る』は、これである」とある。
(*22)成公3年の公羊経文に「辛亥、葬衞繆公」とあり、同年の公羊経文に「乙亥、葬宋文公」とあり、両君とも葬に日が書かれている。
(*23)隠公3年の公羊経文に「癸未、葬宋繆公」とある。なお左氏経文は「繆」を「穆」とする。

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『春秋学入門』2-1

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第二論文

日月の例と称謂の例


〔問題の所在〕

六経の真意が伝わらないのは、学者が無理な学説を立てるからである。そして春秋学は特にそれが甚だしい。その無理な学説は三伝から生まれたものだが、後世の学者はさらに無理をかさね、いかにも尤もらしく論じたてている。しかしその実、一つの事柄に対して、あるときは「これは聖人が褒めたのだ」と言いながら、別のところでは「これは聖人が貶したのだ」と言うなど、相互に矛盾するものがある。また同じ事柄に対して、前の経文には聖人が褒めたのだと言いながら、後ろの経文では聖人が貶したのだと言うなど、前後に矛盾するものがある。このような紛々たる議論のために、聖人の真意はますます分からなくなっている。しかし問題の本質は次の二点につきる。一つ目は日月によって褒貶を示したとする学説、二つ目は名称爵号によって褒貶を示したとする学説、これである〔補1〕。

彼らはこう言う。――同じ「盟」(*1)に対して、日を書く場合と書かない場合がある。「葬」〔校1〕は日を書くはずなのに、時(*2)を書く場合がある。「入」(*3)は日を書くはずなのに、月を書く場合がある等々。このような異なる書き方を見て、日月によって褒貶を示したとする学説が生まれるのである。またこう考える人もいる。――同じ国君に対して、「子」(*4)と書く場合もあれば、「侯」と書く場合もあり、「伯」と書く場合すらある。同じ夷狄(*5)に対しても、州名によって書く場合もあれば、国名を書く場合もあり、「人」と書く場合すらある(*6)。また同じ人間に対しても、前の経文では氏を書くのに、後ろの経文では名を書くなどの違いがある。これら経文の異なる書き方を見て、名称爵号によって褒貶を示したとする学説が生まれるのである。私はこの二つの学説を論駁したいと思う。

〔訳者注〕
(*1)盟・葬・入など鉤括弧内の言葉はいずれも春秋経文の言葉を指す。春秋学は経文の文字(意味・種類・数など)が議論の対象となるため、おおよその意味を察知できる漢字に対しては訳語を充てず、難読の部分のみ注釈に意味を添えた。
(*2)「時」は、春夏秋冬の四季のこと。一時と言えば、春夏秋冬のどれか一つを指す。二時と言えば、連続する二つの季節を指す。四時と言えば、四季の全てを指す。
(*3)君主が国外から国内に入ること。春秋経は、君主の入出国に対し、「帰」「復帰」「入」「復入」の特殊用語が用いる場合がある。経文に「入」が書かれるときは日を書く、という決まりがあるとする学説がある。
(*4)「子」は踰年改元前の君主に対して用いられる名称。一般に君主が死ぬと、後継者はすぐに改元せず、翌年をまって改元する。春秋経には、この改元前の後継者を「子」と書く規則があるとされる。
(*5)具体的には楚と呉と於越(越)を指す。
(*6)楚について論及したもの。楚の国ははじめ「荊(荊州)」なる文字で経文に現れ、ついで「楚(国名)」になり、最後に爵位(楚子。楚の子爵)が現れる。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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