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北渓先生行状

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

北渓先生行状............といっても陳淳の行状ではない(これ自体がマイナーだが)。谷垣守の息子(秦山の孫)・谷真潮の号を北渓といい,その行状を北渓先生行状という。『土佐國群書類従』巻71に収録されている。

むかし「行状」なる書名だけ見て,さぞや真潮の細かい事跡が列挙されているのだろうと思い,なんとか本文を読めないものかと考えていた。まあ結局のところ新版の『土佐國群書類従』で読めたのだが,実際に本物を目にしてびっくりした。

私は行状というからには,中国式の「姓は谷(大神か?),名は真潮,通称は丹内,号は北渓云々。祖父は秦山,父は垣守云々。何年何月に某々して云々」とあるのだと思っていた。ところがこれは年月日などお構いなしで,「一,~」「一,~」と真潮の逸話を列挙するだけだった。私は日本の史料に疎いので,こういうのも行状になるんだなあ,などと思っていた。

ところが最近例の国会図書館のデジタルライブラリーで寺石正路氏の『土佐人物伝』を見つけたのだが(リンクの場所が分からなかったのでリンクしない),谷真潮の項目の最後に「門人島崎半助持幸其言行を録し北渓先生遺事といふ徳永達助千規亦其付録を作る」(80頁)とあった。

寺石氏はいかにも古い人間なので,本文に句読点を施していない。今便宜的に句読点を振り,さらに送りがなや平仮名化を施すと,「門人島崎半助持幸,其の言行を録し,北渓先生遺事といふ。徳永達助千規もまた其の付録を作る」となるだろう。

北渓先生行状にも「島崎持幸の記す所」とあるので,寺石氏のいう「北渓先生遺事」はこれを指すのだろう。寺石氏がなにに基づいてこんな発言をしたのか知らないし,逆に行状がいつから行状と呼ばれるようになったのかも分からない。しかし内容から推せば,「行状」より「遺事」の方がふさわしい。(2009/06/05追記。松山白洋氏の土佐歌人群像によると両著は別という。)

まあそれだけなんだが,個人的にちょっとした発見だったので,記しておくことにした。

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谷垣守略年譜

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

谷真潮『北渓集』に父親の谷垣守および夫人の伝記が収録されている(『土佐國群書類従』巻123中。新編『土佐國群書類従』第10巻295-297頁)。比較的細かく記されているので,谷垣守の年譜を作ってみた。前に作った谷秦山略年譜の続編。

(追記:2009/05/05)谷垣守の年譜は既に吉崎久氏が「谷垣守年譜考」(『神道学論文集 谷省吾先生退職記念』,国書刊行会,1995年)を著している。同論文は垣守の動向を『北渓集』所収の伝記によりつつ,山内文庫(高知県立図書館所蔵)その他の垣守の跋文を利用し,垣守の著作時期とその交友関係を明らかにしたものの如くである。随って垣守の著作繋年を知るには吉崎氏の論文を用いるべきであるが,『北渓集』所載の垣守伝がその動向を示す基本資料であることに変わりないので,本ブログの記事はそのまま残すことにした。

『北渓集』所収の垣守伝は骨と筋だけの記述なので,ほぼ全文を繋年したが,若干の記事は省略し,垣守従学の記録は繋年の後に付した。また母親の池内氏の伝記は省いた。垣守の伝記中,真潮に繋る記事も存在するが,併せて記した。なお資料の返点には必ずしも従わなかった。


○元禄11年。1歳。
7月21日。高知城北秦泉寺村に誕生。母は土橋氏。小字は虎蔵という。
○同16年。6歳。
松尾氏を師とし,『小学』を読む。
○宝永6年。12歳。
秦山が始めて『小学』を講じた。以後,四子書・詩・大学衍義・唐鑑・神代紀を読んだ。
○正徳2年12月26日。15歳。
成人の礼を行い,甚助自直と称す。
○享保元年。19歳。
隅田氏を妾とする。
○同3年。21歳。
1月21日,安子を産む(隅田氏との間の娘)。
6月30日,秦山没す。古礼を考え,長岡郡山田村鍋山具比美谿上に葬る。
○同4年。22歳。
隅田氏を出す。
山田邑の居宅を斥売し,秦泉寺邑に寓す。出境の意あるも,朝議が聴さず。久万邑に寓す。
始めて書生に教授した。
○同5年。23歳。
6月26日,西野地村に移る。
○同6年。24歳。
8月15日,朝命にて五口俸を賜い,留守部に列した。
○同7年。25歳。
10月11日,池内氏を娶る。
○同9年。27歳。
3月23日,請を得て京に入る。神道を玉木葦斎に問い,伊勢神宮を拝し,南都を通過した。
9月4日,家に帰る。
○同12年。30歳。
1月3日,真潮が誕生。
○同13年。31歳。
冬,小高坂村に転居。門人益々多し。
○同18年。36歳。
8月13日,新小姓格にのぼり,俸十石を加えられた。
○元文元年。39歳。
2月13日,小姓格に転じた。
3月,はじめて君主にともない江戸に遊ぶ。
○同4年。42歳。
5月10日,帰郷。
○同5年。43歳。
1月9日,俸米十石を仮賜される。
3月6日,祇役(江戸に赴いたことを意味す。以下同じ)。
○寛保元年。44歳。
5月2日,帰郷。
○同2年。45歳。
3月6日,行役(江戸に赴いたことを意味す。以下同じ)。
○同3年。46歳。
閏4月6日,帰郷。
○延享元年。47歳。
3月1日,出発。
○2年。48歳。
5月13日,帰郷。
12月31日,真潮が立田氏を娶る。
○同3年。49歳。
1月9日,命が下り,仮俸米が真となった。
2月1日,出発。真潮も従う。
○4年。50歳。
5月11日,帰郷。
○寛延元年。51歳。
1月9日,真潮が別俸三口を賜る。
2月11日,祇役。
○同2年。52歳。
5月8日,帰郷。
○同3年。53歳。
1月9日,二口四石俸を加賜せらる。
6月1日,従駕。
○宝暦元年。54歳。
5月6日,帰郷。
6月1日,病に倒れる。7日,卒倒昏眩。8,再び倒れる。
8月19日,孫丹蔵が生まれる。
12月12日,早朝,再び病に倒れる。
○同2年。55歳。
3月30日,没す。
4月1日,秦山に葬る。


府君(垣守),温和良実,楽易真率。親に仕えて孝,秦山君の喪に居り,哀戚甚だし。人と交わりては偏党なし。貴賤長幼 皆歓心を尽くし,利害損益 心頭に上らず。終身 言 物価に及ばず。居常善謔 可すこと多きも,事に遇いては直言し苟合せず。仕禄の後,封事を上り,得失を論ず。其の言 激切に出ず。侍講に在るより,公家の事 知りて言わざるなし。大昌公も亦た(校勘に従い改訂する)能く虚心もて之を容る。元文中,陟黜の典あり。親から手書を下し,人才を問う。先君 乃ち執政以下数人を擬注し薦む。既に皆 擢用する所にして,其の人 皆一時の選なり。而るに平生 献納する所,其の稿を焼いて存せず。故に人に之を知るなし。風俗の頽敗,政治の闕失を聞くごとに,憂憤 色に見わる。

秦山君 晩年常に「神道・歌学・有職の三者 学ばざれば,則ち皇朝の人に非ず」と謂うなり。而るに身 僻境に在り,且つ〔罪〕籍に罹るを以て,師友なく,文献に乏しく,其の事 未だ精究せざるを恨みと為す。秦山君 没し,先父君 其の志を継ぐ。神は玉木葦斎を師とし,歌は高屋近文を師とし,傍らに諸家に問い,刻苦研尋,至らざる所なし。橘家の神道の若き,心を用いること尤も甚だし。後,東都に扈従し,岡田正利・友部安崇に内交し,討論すること年あり。いわゆる風水・風葉なる者を得るも,未だ以て自足せず。後,加茂真淵・荷田在満 古学を倡えるを聞き之に従学し,講究すること年あり。是に於いて昔年 講ずる所の神道なる者,真を失するあるを覚る。晩,神代紀を講じ,往々にして指摘する所あり。而して其の説 平易簡明,諸家を折衷し,大成に幾し。門人 之を録して『早別草』と曰う。

平居 手づから巻を廃さず,手づから謄写する所の皇朝の書数百部,著す所に『神代事跡考』『芳宮事跡考』『土佐国紀事』あり。其の他 稿に属す者 猶多きも,行役年々 寧居に遑あらず,天も亦 其の年を仮さず,其の成を見るに及ばず。嗟呼,恨むべきかな。



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更新記録

今回の更新。『宋史紀事本末』のみ。いわゆる元祐更化と紹述の時代が終わった。皇帝でいうとちょうど哲宗一代がすべて終わったことになる。予定では建中靖国まで終わる予定だったが,ちょっと時間がたらなかった。ちなみに孟后廃復の注釈付きバージョンも公開した。

更新した項目は以下の通り。

元祐更化
宣仁之誣
洛蜀党議
紹述
孟后廃復
注釈付巻11(孟后廃復)

テーマ : 日記
ジャンル : 日記

『秦山集』を読む(8)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

「秦山集を読む」シリーズも今回が最後。いつものことながら,張り切るつもりはないが........感慨もない。私は犬に追い回されても,面倒くさくなって途中で逃げるのを止めた人間だからね(もちろん犬にかまれたよ。本当に犬が襲ってたら,私は死んでいたと思う)。

『秦山集』の第2冊目は巻8~巻12の書簡と,巻13・14の雑著を収める。話しの都合上,まず雑著から紹介を始める。

『秦山集』は第3冊目の『甲乙録』以後,雑著と名付けられる膨大な講学語録が収められているが,この巻13と14の雑著は単文の集まりである。内容の説明には目次を挙げた方が便利だろう。

第13巻
洪範全書末巻説(庚申)
考定継体天皇本紀錯乱(乙丑)
朝倉神名辨
蓍卦考誤左数右策左右皆策説(庚午)
蓍卦考誤蓍図辨(辛未)
伊川涪州説
禫説
読李氏蔵書景泰諸君子伝
時点説(乙亥)
立子以長以徳辨
日本称倭辨(壬午)
谷氏大神姓説
底筒祭説(丁亥)

第14巻
譜法三篇
土佐国式社考
幼科新義三篇(丁亥。代筆)
私講牓諭(癸酉)
策問(全四篇。庚午。辛未。甲戌)



巻14の『幼科新義』は馬詰敬親の著作を漢文に書き直したもので,秦山自身の文章ではない。

全体的に雑駁な印象を受けるが,朝倉神名辨や土佐国式社考を代表とする神道理論・神社研究,谷氏大神姓説や譜法三篇(谷氏族譜に活かされたようである)の祖先研究,洪範全書末巻説や伊川涪州説の儒学的教養を発揮した著作が中心を占める。言うまでもなく,全篇漢文。

雑著の方はこれくらいにして,第2冊目前半の書簡の感想を書いておこう。

秦山の書簡は,後々に稲毛実が『秦山先生手簡』にまとめ(『土佐國群書類従』雑部所収),さらに増補を加えて同名の書物で青楓会から1939年に出版された。どれもこれも閲覧に不便な書物だが,研究する場合は『秦山集』のみならず『秦山手簡』も見なければならないようである。もちろん趣味で読む場合はなおのこと『秦山手簡』も見たいところである。

私は『秦山手簡』の原本未見につき正確なことは言えないが,青楓会編の『手簡』によると,原本は草書で書かれているらしい。そうだとすれば私には読めないから,やはり増補版の『手簡』を使わざるを得ないようである。

『秦山集』の書簡は,上長兄に始まり,闇斎,絅斎,春海などの先生方への書簡(巻8~巻9),富永成是らの畏友や上司に対する書簡(巻10~巻12)に分けられる。ちょっと気になったのは,三宅尚斎に与えた書簡が収録されていないことである。秦山と三宅尚斎との論争は主として神道をめぐるもので,秦山・尚斎ともにその神道理論を知るに重要な書簡とされているが,なぜか『秦山集』に未収録となっている。秦山が尚斎に与えた最後の書簡は秦山死亡の直前のものだから,論争未熟につき敢えて文集には収録しなかったのだろうか。それとも現代の人間が思うほど,この論争に両者は意味を感じていなかったのか。ただ尚斎の「そんなに神道が重要なら,儒学はすっぱり止めたらどうですか?」という批判(問いかけ)には笑ったけど,それが『秦山集』で読めないのは残念な話しだ。

『秦山集』には闇斎,絅斎,春海宛の書簡が収録されており,各々重要な内容を含んでいるが,敢えてここで取り上げるのは,野中継善に与えた書簡である。野中継善は野中兼山の息子で,兼山失脚後,40年にわたって幽閉され,そのまま死んだ人間である。後に秦山も12年にわたり幽閉され,そのまま死ぬのであるから,ある意味,この書簡は秦山の思想を考える重要な試金石たり得る。

書簡は長文だが,まず朱子の書物の永遠性を論じ,次いで野中兼山と闇斎(兼山の弟弟子)が朱子学を講じたことの不朽の功績を挙げ,次いで秦山もその遺沢を受け,是非とも兼山の子孫と講学したいこと,しかるに未だ幽閉の身分で,面と向かって話しもできない無念を告白する。次に人間として踏み行うべき道を論じ,その具体例として宋代士大夫の生き様を引き,最後に継善の幽閉中にあってなお温雅沖澹の詩を読み,その人間的高尚を称賛した上で,絅斎の『靖献遺言』を贈り,この道を実践すれば幽閉のまま死してなお怨みなく,「幸いに天日を見ること有るも」有益であることを述べ,文を結んでいる。

書簡の中心部分は下の言葉に尽きている。

蓋し之を聞く,朱子の道 大にして且つ博し。然して其の実 父子の親,君臣の義,二の者に過ぎざるのみ。此の二者は天の我に与ふる所以にして,我の得て以て性と為る所,人心の已む容からざるに根ざして,天地の間に逃るる所無し。是を以て子の親に事る,臣の君に事る,一に其の心を尽くし,死有りて弐無し。其れ或いは事変 斉しからず,放逐の悲しみ,竄殛の惨きに遭うこと有りと雖も,我の已む容からざる者,自ずから息むこと能はざれば,則ち慝を引き身を致し,敢えて一毫怨懟の私有ること莫し。或いは不幸にして君父亡没するや,此の心を施す所無きが若しと雖も,然れども此の身は即ち親の遺体,君の違黎なれば,則ち我の已む容からざる者も亦 依然として易うべからざるなり。故に葆嗇 節を守り,敢えて一毫解弛の念有ること莫し。此れ君父に徳とすること有るに非ず。蓋し必ず此の如くにして,然る後 本心に慊りて,天地の間に愧ること無きのみ。瞽叟は惨父なり。毎に舜を殺さんと欲して舜の知 其の惨を知らず,曰く惟だ父母に順いて,以て憂いを解く可しと。紂は忍君なり。文王を羑里に拘を,文王の聖,其の忍を知らず,曰く臣が罪 誅に当たる,天王は聖明と。父没す。曾子 一息尚存するの間に薄きを履み深きに臨めり。君亡ぶ。伯夷 仁を求め天下 周を宗とするの秋に仁を得たり。是れ舜の性なる所以,文王の至徳なる所以,曾子伯夷の魯を以て之を得 且つ聖の清と為る所以にして,之を要するに本分の外に於いて,毫末を加ふること有るに非ざるなり。若其し湯武の慚じて未だ尽くさざる所以,其も亦 此を謂うなるか。朱子 六経四子を羽翼し,小学・近思を蒐輯せる,其の用心精力 蓋し此に在りて,通鑑綱目は其の事実を挙げ,楚辞集註は其の実情を述ぶる者なり。世の放臣屏子 往往にして此に聞くこと有る能わず,其の抑鬱無聊の感に迫られ,勝えずして天年を夭する者有り,詩に遁れ,酒に遁れ,老釈に遁れ,琴棊書画の玩に遁れる者有り。此の如くなる者は皆 惑いなり。亦 罪有り。嗚呼,天の与うる所,夫れ奚ぞ避けんや。



少し前なら,驚くべき「封建道徳」「反動思想」として糾弾されるだろうが,残念なことに私はそう思わない。むしろ秦山の生き様に感動すら覚える。

それはねえ,不幸な罪にあわず,努力が報われるところに生きて居れる人は,こんな曲がった理論を持ってこないだろう。あるいは努力もなにも全く無意味な生き地獄に生きている人も,こんなことは考えないだろう。考える前に死んでしまうんだから。しかしみながみな,なんとかなるところに生きているわけではない。そこで自暴自棄にならず,世の正しき道(その時代のね)を生きようとすれば,勢い秦山の様な理屈も出て来る。これを批判してみても仕方がない。真面目な人間が,人間として正しく生きようとすれば(その時代のね),世の中を破壊するか自分を修養し切るかのどちからしかないのだから。そして世の中が破壊できそうにないなら,もう自分を修養するしかない。

自分に責任があろうがなかろうが,自分に降りかかるあらゆる問題をすべて自分に引き受け,自分の身の上から行いうる最大限の努力をする。その努力の成果に自己の利益や名声は一つも入らない。これらは自分が望んで得られるものではないからである。一人の人間として,一つの後悔も残らぬ行動をすること,否むしろ人間として満足のいく行動をすることが大事である。だから君主に理由なき罪名を被せられても(直接罪を犯していないのに,無関係の罪で処罰されても),それに甘んずるのではなく,積極的に自分の罪を自覚する必要がある。

文中の「其れ或いは事変 斉しからず,放逐の悲しみ,竄殛の惨きに遭うこと有りと雖も,我の已む容からざる者,自ずから息むこと能はざれば,則ち慝を引き身を致し,敢えて一毫怨懟の私有ること莫し。……此れ君父に徳とすること有るに非ず。蓋し必ず此の如くにして,然る後 本心に慊りて,天地の間に愧ること無きのみ」は,特に感動的な一節だといってもいい。「君父に徳とすること有るに非ず。蓋し必ず此の如くにして,然る後 本心に慊(あきた)りて,天地の間に愧ること無きのみ」は,朱子学のロジックをまねしつつも,あらゆる問題を自分に惹き付け,自分の立場からの克服を目指した真摯でひたむきな姿勢を感じ取れる。

この手紙を書いたのは秦山25歳のときらしいが,あえてこれらの言葉を選んだところに,秦山の学者としての偉大さが伝わってくるようである。その学問が息子や孫に受け継がれたのも理由なきことではない。

以上,思わず長きにわたった「『秦山集』を読む」は今日で終わり。

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『秦山集』を読む(7)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

つづいて『秦山集』1~7。ここには漢詩が収録されており,私の最も興味のない部分である。はっきりいって私は漢詩が読めないし,読みたいと思わない。

そもそも漢詩が読めないのだから,なにもコメントすることはないが,2つだけ書きとめておく。

第1。秦山はその生涯に一度だけ江戸に赴いているが,そのときの旅行記を『東遊記』として残している。この旅行記に付随する紀行詩(?)が,本書に収められた『秦山集』第4巻の東遊紀行である。実質的には,二月十二日発山田野から第7巻の六月朔日帰家までである。

詩の表題の通り,秦山は,宝永元年2月12日に山田野を出発し,同年6月1日に帰郷している。その間,京都・大阪・滋賀・名古屋・江戸・金沢等々を旅行したらしいが,この詩集にも日付を付しつつ名所名所で漢詩を綴っている。

それはそれとして,ちょっと笑ってしまったのは,私の故郷がこの漢詩の中に詠われていたことだ。しかもしょーもない地元名産を詠ったりしていて面白かった。故郷の地名は書かないけどね。

ちなみに私は『東遊記』を読んだことがない。噂によると事細かに当時の町の様子を書き記しているらしい。我が故郷のことも含めて,いちど機会があれば拝見したいが........日本の本は活字印刷でもされていないと,ほとんど閲覧不可だから,あきらめてはいる。

第2。秦山が晩年禁錮せられていたことは有名だが,漢詩にもそのことが記されている。しかも禁錮処分が下ってから,毎年のように正月に「罪籍未だ除かれず年○たび去る」と詠っている。

ちょっと迹を追ってみると:

丁亥歳除:罪籍未除年已去
戊子歳除:罪籍未除年再遷
己丑歳除:罪籍未除年三去
庚寅歳除:罪籍未除年四去
(中略)
丙申歳除:罪籍未除年十去
丁酉歳除:罪籍未除十一年
戊戌歳旦:十二年来罪籍中

なんだかんだ言いつつも罪籍にあることを相当気にしていたとしか思えないのだが,どうなんだろう。中国によくある偉人伝あたりだと,罪籍にあろうがなかろうが全くお構いなしという連中がうようよいるが,秦山は気にしていたらしい。気にするなという方が酷な話しだが,気にしないところが哲人の哲人たる証である。罪籍を気にする辺りに秦山の人間らしさを感じるが,そこらが秦山に平凡さを感じるところなのかも知れない。

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『秦山集』を読む(6)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

ちょっと間があいてしまった。『秦山集』を読むの第6回目。今回は『甲乙録』を取り上げる。

『甲乙録』1~12は,『秦山集』15~26に収録されており,1~8と9以下に大別される。まず『甲乙録』1~8は秦山が渋川春海らから聞き取った言葉を集めたもので,9以下は秦山独自の発見を収めている。

『甲乙録』1の第1条に:

重遠曰く,予 神道を渋川先生及び荒木田経晃神主に学ぶ。其の神代巻・中臣祓に関わること有る者は,既に之を二書に注す。其の他 書批の間,言 神道に及ぶ者,具に此に録す。其の姓氏を冠せざる者は,皆 渋川先生の言なり。



第6条の秦山自注に:

重遠謂う,渋川翁と講論する所 多端。其の神道に関わらざる者も亦 多し。今 悉く録し,『甲乙禄』に入る者は,蓋し其の講習の年月次第,記識に備へんと欲すればなり。他 皆 此に倣ふ。



『甲乙録』8の最終条の自注に:

以上,丙戌に聞く所。丁亥初夏,罪を以て籠居し,書問を絶つ。十月廿六日甲辰,以上数冊を録す。



とある。秦山が渋川春海に書問を送ったのが元禄7年32歳であり,罪を得て禁錮せられたのが宝永4年(丁亥)45歳であるから,秦山壮年のころの研究成果をまとめたものであることが分かる。

秦山自身が指摘するように,『甲乙録』1~8は渋川春海との神道及びその他もろもろの事項を論じたものである。ただし『神代巻塩土伝』『中臣祓塩土伝』の二書に注解を施した部分については,『甲乙録』から省いたようである。『甲乙録』1~8は『土佐國群書類従』に収録されており,その解説もあるので,ここでは内容に立ち入った紹介はしない。

次に『甲乙録』9以下であるが,これは同巻第1条自注に「此の冊以下,重遠の私考及び諸家に聞く所を雑記す」とある。内容は神道に関するものがほとんどで,神様の考証や神社の研究の占める比重が大きい。

2つほど例文を引くと:

成務天皇の時,建内宿禰 大臣と為り,大国小国の国造を定賜し,亦 国国の堺,及び大県小県の県主を定賜す。其の功 大なり。(『甲乙録』9)

足羽郡足羽神社,暦年史に曰く,継体天皇なり。(『甲乙録』11)



『甲乙録』9以下は秦山が「雑記」と書くように,本格的な議論はあまりない。そのためか『土佐國群書類従』所収『秦山集』はこの部分を省略している。

秦山は朱子学者としても知られているが,どちらかというと神道方面から言及されることが多い。秦山の朱子学理解は平凡で,突出したものがないため,どうしても神道に興味が向くのであろうし,また秦山の文集そのものが神道(および天文)を中心に組み立てられているのだから,秦山の思想を神道から捉えるのも無理ないことである。

ただ私は神道について無知なので,ここで秦山の神道理解をああだこうだと説明するのは差し控えることにしたい。

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更新記録

さきほど「王安石変法(3)」が終わった。いや,終わらせたといった方がいいか。

久しぶりに王安石の新法を読んだ。が,なんというか,改めて読んでみると,これでは変法も失敗するだろうなぁ。あれを成功させようと思えば,近代国家の官僚制度を導入しないと無理だろう。でも近代国家の官僚制は近代国家だから生まれたわけだから,近代国家でもない宋代にあるわけもなし,存在する必要もない。だったら新法もうまくいかないのは自明の理。

物事の成敗(成功と失敗)を考える場合,目的が明確でないといけない。目的もなく成敗は語れない。では王安石の新法の目的は何だったのだろうか。これは難しい問題だが,(1)人々が豊かな生活を送れる世の中を作ること,(2)富国強兵,(3)当面の財政難を救う,の3つくらいが思いつく。この中,(1)は未だかつて人類史上出現したことのない政治だから除外する。

では(2)はどうか。これも富国強兵の程度によって判断が分かれる。漢や唐や清のような強国を求めるなら,王安石の改革など笑い話に過ぎない。もう少しレベルを落としても,あまり芳しい話しは聞かない。せいぜい「がんばったで賞」がもらえる程度だろう。では(3)か?

王安石の改革というと,私などは財政難の救済しか思いつかない。それ以外は保甲法が思いも寄らぬ方向で発展したことくらいで(これも善かったのか悪かったのか甚だしく微妙な成果だが),その他の新法は軒並み失敗した。ただ民衆から税金を搾り取って,赤字だらけの国庫を潤沢な税金で埋めたことだけは,多くの人間の認めるところである。王安石の理想や理念なんてどうでもいい。結果として残ったのは,この豊かな国庫だった。そして神宗さんがこの金を使って戦争しまくり,土木工事をぼこぼこ起こしたのは周知の事実だ。

もちろん「王安石は正しかった,その一味が駄目だった,反対派が駄目だったのだ」とは言える。が,そもそも政治は成功するから意味があるのであって,「理念は高いが実際は失敗した」政治でいいなら,最近の日本の政治と同断。どんな政治家でも,自分の思い通りに世の中が動いてくれるなら,理想高い政治を行うものだ。

というわけで,もし王安石が(1)とか(2)を目的に法(ここでの法は国体のようなもの)を変えようと思ったなら,すべて失敗したというのが妥当だろう。(3)ならほぼ成功したというところか。

まあ私は宋代の人間が苦しもうが死のうが知ったことではない。すでに過去の話だからだ。900年近くも前に私の親戚や友人が暮らしていたわけでも,親戚や友人の子供や孫が生きていたわけでもない。悪いが私は歴史書の記述にいちいち憐憫の情を起こすほど暇人ではない。とはいえ今を生きる人間として過去を読むならば,つまり過去の事実をつかみ取ろうとするのではなく,自分に即して過去を読むならば,またおのずから別の赴きもある。

人間世界,強い者が勝ち,弱い者は虐げられる。これは自明の理で,とりたてて説明する必要のないものである。そしてこれがけしからんと思って,弱い者が強い者になろうとするのも自明の理ならば,万に一(よりも確率は低いと思うが)にも弱い者が強い者になれば,また昔日の強い者と同じように,かつての弱き者がいまの弱き者を虐げる。これもまた自明の理。考えても詮無きことだが,それでも別途幸福の道を考えるのもまた人間の姿。この無限の循環を断ち切ろうとするのもまた人間。

王安石の新法は北宋政治史最大の悲喜劇だが,悲しみと喜び以上にむなしさが漂っている気がしてならない。とはいえ,私はこのむなしさが好きで党争を調べているのだから,人の悪い話しではある。

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新刊が出たらしい

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

つい最近気づいたが,高知県立図書館の『土佐國群書類従』の新刊が出ていた。全13巻のなか今回11巻目だから,いよいよ終わりに近づいてきた。年1巻ペースなので,うまくいくと再来年には完成するかもしれない。

新刊の第11巻には谷秦山の『小学晩進録』や『元亨釈書王臣伝論』が収録されているらしい。新版の実物は未見ながら,目録上でも,高知県立図書館の説明からも,収録されているはずである。

高知県立図書館の説明を読む限り,『小学晩進録』は秦山25歳の講義録で,ずいぶん立派なものらしい。秦山はこの時期野中継善(継良とも)に書簡を送っていて,そこでも立派なこと言ってるから,多分嘘ではないだろう。さすがに土佐南学の中心人物だけのことはありますね。

ちなみに『土佐國群書類従』には秦山および谷氏の著作が多数収録されている。高知県立図書館の説明だけでは分かり難いところもあるので,知ってる範囲の収録著作を列挙しておく。著者名がないのは秦山の著。

新版第1巻:朝倉神名弁,式社考著述之記,土佐国式社考,土佐国小村社造替勧縁疏
新版第2巻:流沢遺事(真潮)
新版第6巻:土佐国鏡草(垣守),北渓先生行状(島崎持幸。北渓は真潮の号)
新版第9巻:北渓撰集(真潮),北渓先生龢歌(同上)
新版第10巻:秦山集(甲乙録の一部),北渓集(真潮)
新版第11巻:心的卑解(垣守),小学晩進録(秦山講,依光氏久記),元亨釈書王臣伝論,論仏(真潮)

旧版第145-146巻:半家義民録(垣守)
旧版第149-150:秦山随筆(丙丁録,戊癸録,庚辛録)
旧版第151-152:秦山手簡(稲毛実編),秦山門弟問目(秦山門人),北渓随筆(真潮)

真潮の論仏は『北渓集』に収録されている。新版第11巻に別個独立に収録されたか否かは定かでない。真潮にいは他に神道本論と論聖の二著があり,論仏とあわせて三教の旨を明らかにしたらしい。神道本論は同じく『北渓集』に見えるが,論聖の著の存否は不明。

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更新記録

ちょこっと更新。

リンクのページを追加。常用サイトのリンクだけだとさみしいので,すこし水増ししてみた。研究者および研究会等々のサイトは,私の方針で一切省略した。もっとも歴史・思想の研究者のサイトで役立つものがあるという話しは聞いたことがないが。もちろん日本でのこと。

次回の更新でなんとか「王安石変法(3)」までいけると思う。データとか飛んだら無理だけど。

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『秦山集』を読む(5)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

『秦山集』42以下には序跋などの雑文が集められている。もともと序文や跋文,記や銘などは,目的があって書かれるものである。だから歴史研究をするならいざ知らず,秦山の思想をうかがう適切な資料とは言い難い。随って以下には収録文章の目録を挙げることにする。

『秦山集』42/序
○炳丹録序
漢代から明代に至る忠臣義士の事跡をまとめたもの。貞享3年の作。秦山の名文として知られる。
○兵器図攷序
百百直廉の『兵器図攷』に与えた序文。書名の通り,兵器に関する書物だったらしい。元禄辛未(4年)の作。
○贈剣匠山口国益序
土佐国の剣匠の山口国益に贈った序文。元禄辛巳(14年)の作。「予(秦山) 窃かに神代の学に志すこと有り」とある。
○送竹内常成市原辰中序
竹内には「竹の内」と送りがなが振ってある。秦山の友人2人が参宮するのを送ったもの。元禄14年の作。神道関係の序文。
○海浜舟行図後序
摂津の隠士・衣斐玄水の『海浜舟行図』の後序。宝永4年の作。
○広恵簿序
宝永4年の土佐の大地震にまつわる話し。正徳3年の作。なんでもかんでも君臣関係の話に持ち込むのが面白い。
○俗説贅辨序
井沢長秀の『俗説辨』等に触発されてまとめたもの。末尾に贅言を加えたから「贅辨」というと云う。正徳4年の作。
○儒門事親序
「代馬詰敬親」とあり,代筆である。
○俗説贅辨続編引
先の『続説贅辨』の後に「帝皇・人倫・為学の談に関わる者数十条」を加えたもの。享保戊戌(3年)の作。

『秦山集』43/題跋
○跋文山泌園春(享保元年)
○跋谷氏族譜(貞享2年)
○跋名語記(貞享4年)
○跋安芸氏所撰後醍醐帝還幸京師属太子於新田義貞使帥諸衛北行当此時随駕赴京乎従太子北向乎之論
「恒実が論 之を得たり。文天祥 言あり。懐愍に従いて北する者 忠に非ず。元帝に従う者を忠と為す。徽欽に従いて北する者は忠に非ず。高宗に従う者を忠と為す。斯の語 以て千古の疑を破るべし。丁卯六月四日跋」が全文。丁卯は貞享4年。
○跋靖献遺言(貞享4年)
○跋私本朱子行状(貞享4年)
私本である理由は書かれていない。朱子行状を読んで感じることがあったので,跋文を書いたようである。
○跋美代重勝蔵竹渓院草書(貞享4年)
○跋美代重勝蔵湯浅治斎草書(元禄1年)
○跋朱易衍義(元禄4年)
○跋大学衍義補(元禄4年)
○跋拘幽操(元禄5年)
一節に「原るに夫れ本朝神皇の正統,君は則ち瓊瓊樽尊の神孫,臣は則ち天児屋命の公孫。相与に大神宮の神勅を崇守し,左を左とし,右を右とし,億万歳に亘りて一日の如し。豈に匈奴の父を殺し,漢国の君を殺すの俗と年を同じくして語るべけんや。此れ固より以て夫の天下に不是底の君無きの実を験すべきに足りて,凡そ外国の書 君臣を論じて其の邦の私言に出る者,皆 当に辨ぜずして明らかなるべし」とある。
○跋責沈箚記(元禄5年)
○跋氏族弁証
著作年がない。前後を推して,元禄5年から元禄9年までの作。
○書元亨釈書王臣伝後(元禄9年)
天文を交えて諸国を論じたもの。秦山尊王の精神を発揚したものとして名高い。
○跋幼科新義(宝永4年)
本文が『秦山集』14に見える。馬詰敬親の仮名文を秦山が漢文に直したもので,小児科に関する著作。
○跋丁亥七曜暦(宝永4年)
○書西山遺事後(宝永7年)
○跋越後騒動記(正徳4年)
天人相関説にかかわる話し。
○跋儒門事親(正徳6年=享保1年)
○跋幼科新義(正徳6年=享保1年)
以上の2つは馬詰敬親の著述に対するもの。下は代筆。
○跋園太暦(享保2年)
○跋古事談(享保2年)
○跋梅松論(享保3年)
『梅松論』を批判したもの。
○跋常陸国誌(享保3年)
○跋出雲風土記(享保3年)

『秦山集』44/記
○三谷暦景亭記(貞享3年)
○弄月記(元禄5年)
○筑波石記(宝永3年)
○土佐国安芸郡白浜五社明神社記(寛文9年)
代筆。

『秦山集』45/賛・銘・箴
○新田左中将画蔵賛(元禄5年)
○渾天儀銘(元禄8年)
○五箴
不息於誠・懲怒・窒慾・遷善・改過の5つに戒めを書いたもの。

『秦山集』46/墓誌
○先考谷処士壙記
父親の墓誌銘。
○夫人酒井氏墓誌銘(元禄15年)

『秦山集』47/祝詞
○奉告伊勢内外宮祝詞(元禄16年)
○又(宝永1年)
○土佐国高岡郡日下郷二宮小村大天神社造替勧縁疏(宝永2年)

『秦山集』48/祭文
○祭乾矩庸文(貞享1年)
○祭屋代元久文(元禄7年)
○祭野中継善文(元禄11年)
継善は野中兼山の子息。
○祭安東郷東文(宝永1年)
○祭傍士正直文(宝永2年)
○祭市原辰中文(宝永2年)
○祭高橋充良文(宝永6年)
○祭池敬之文(正徳1年)
○祭渋川昔尹文(正徳5年)
○祭渋川先生文(正徳5年)
最後の2つは渋川春海に対するもの。

『秦山集』49/譜
○谷氏族譜
谷氏の族譜を論じたもので,最後に表を付す。正徳2年の谷垣守元服の記述で終わる。

以上で『秦山集』は終わり。49の次に秦山の長男・垣守の「書家蔵秦山集後」(享保13年)を付し,明治時代の印刷本はさらに松本豊多の「秦山先生小伝」(明治43年)を加え,本書印刷の顛末を述べる。いずれも原漢文。

書家蔵秦山集後

秦山集四十九巻,序目と合緘すること,二十三冊。先大人 終身自ら集録したまふ所にして,手沢 猶 新たなり。末梢 将に櫻に鏤み以て諸を無窮に伝へんとするも,宿志 未だ遂げず,奄忽として世を即きたまふ。遺憾万万なり。児 不肖,未だ其の事を述ぶること能わず。姑く之を装束し,異日の成功を期す。文字の改削,格内に在る者は,浄写に及ばず。或いは総格の外に出ずる者も,亦 其の紙を反折し,旧に依りて之を存す。但 遺文に於いては,則ち已むを得ず補入す焉。蓋し先大人の筆跡,片言隻字と雖も,復た得べからず。故を以て尊崇愛護の余,之を損敗するに忍びず。蔵して以て貽厥の家珍と為す。且つ後世子孫 学を好む者の軌範に備ふとしか云う爾。

享保十三年戊申三月中澣

嗣子谷丹四郎垣守謹識


松本氏の識語の最後に,本書編纂の動機を記して次のようにいう。

蓋し先生(秦山)の志業は,当時に屈して,後世に伸ぶ。偉なりと謂うべし矣。著す所の書某某,皆 子爵干城君の家に蔵む。子爵の秦山集を刻するに,豊多に嘱して,之を謄写し,之を挍正し,且つ先生の小伝を為して其の後に繋げしむ。豊多 不敏不文,其の伝を為んこと素より其の人に非ず。然れども豊多 子爵の眷顧を蒙ること,此に三十余年,義 辞すべからざる者有り。謹みて其の梗概を叙べて上ると云ふ。


本書奥付は「明治四十三年十二月二十日印刷。同二十七日発行。著作者「故 秦山 谷重遠」,発行者「子孫 子爵 谷干城」。印刷者は沢村則辰,印刷所は成章堂。


なお「『秦山集』を読む」はあと2~3回続ける予定です。

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『秦山集』を読む(4)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

今回は『庚辛録』と『壬癸録』の2つ。『庚辛録』は『秦山集』31と32の2つで,『土佐國群書類従』の『秦山随筆』5と6に相当する。『壬癸録』は同33~41を占め,『甲乙録』に次ぐ大部の著述である。『壬癸録』は『秦山随筆』未収録である。

まず『庚辛録』。

執筆年代は判然としないが,2に次男を失った最晩年の記述が見えることから,秦山最末年の記録を含むものである。内容は経史子集にわたり幅広く論述した随筆的書物だが,分量的には史に関するものが多い。特に2は明代の歴史について論ずること多きに渡っている。

2の11条目(羅氏閑居之楽云々)に秦山の自叙伝的記述があり,ひときは興味を引く。紹介してもいいのだが,たしか『朱子学大系』の秦山の部に収録されていたように記憶するので,ここでは敢えて引用しない。興味のある人は『朱子学大系』で読んでいただきたい。専門家の筆になるはずだから,その方が安全だろう。その他,『庚辛録』に取り立てて興味を覚えるものはなかった。

秦山の歴史論にはあまり深みを感じられない。理由は簡単で,彼の判断根拠が明白過ぎるからである。秦山は歴史を論評するとき,往々にして「君臣関係は絶対」だから「死節を守ったのは立派」or「臣節を尽くせなかったのは間違い」と断定する。あるいは「天皇に随った」だから「正しい」or「刃向かった」だから「間違い」という二者択一的な判断が目立つ。だから一つ二つの議論を読めばもうそれで秦山の言い分は理解でき,それ以上のものを得られない。簡単に言うと,単調な感じを受ける。

もちろんこれは秦山の歴史論が一貫したものであった証拠でもあり得る。秦山の誠実な人柄を思うとき,その断定に力強さを感じもする。しかし歴史論というものは,一貫した価値観や視点による断定を必要とする反面,千変万化する事象そのものをも捉えなければならない。当時に於いて,当然こうあるべき視点からの断罪とともに,登場人物達のやむを得ざるところの軌跡を追う必要がある。低俗な言葉を使えば,普遍と具体の両面を備えて論じなければ,読み手が飽きてしまう。もちろんこれは「言うは易く行うは難し」というものだが,読み手(私)はそういう理不尽なものを求めるのである。だから秦山の場合はその性格が歴史論に災いしたように見える。

つぎに『壬癸録』。

『秦山集』の随筆的記述はこれで終わりになる。『甲乙録』が神道関係の記述,それ以下が経史子集にわたる全般的な随筆だとすると,この『壬癸録』は天文に関する記述のみを集めた特殊な塊である。

江戸の天文学が秦山の学問の重要な一部であることは明白だが,遺憾なことに私の天文に関する知識は絶無なので,ここでは表面的な感想だけ備忘録として残しておく。ちなみに秦山その人は自己の天文学に対して次のように述べている。

予 『壬癸録』を草し,暦術の浅き者を載す。窃かに読者の笑となることを羞ず。頃ごろ『輟耕録』を読む。亦 授時の暦術を載す。其の法 疎膚愈々甚だし。乃ち前輩も亦 此の好み有ることを知るなり。蓋し星暦の学,盤錯肯綮たり。其の万一を録して,以て諸を同嗜に貽すこと,必ずしも過ちと為さざるなり。(『庚辛録』2)


『壬癸録』各冊の編纂主旨。

(1)都翁(渋川春海)からの聞き書き。

以下,姓名を冠さざる者,皆 諸を都翁に聞く所。(第1条自注。都翁は春海のこと)


(2)秦山の天文暦数についての発言。「柳,赤積四十四度,黄道四十一下云々」など,度数が具体的に列挙されている。

重遠謂う,頒暦日月食は日用通行の算なり。布算繁多,悉く記すこと能わず。今 粗ぼ平時に用いざる者を左に録す。(第1条)


(3)特に総論めいたものは見あたらない。全体的に天文暦数の知見や故事を箇条書きにしたような印象を受ける。ただし(2)のような度数の列挙はない。

(4)渋川春海との貞享暦に関する問答をまとめたもの。

重遠謂う,以下 貞享暦の次第に就き,師伝を録す。浅きもの有り深きもの有るも,敢えては私に之を略さず。元禄丙子以来,此の書を筆談す。宝永甲申,面あたりに口訣を授かる。前後九年の問答を取会するも,必ずしも年に繋けざるなり。(第一条の自注)


(5)~(7)総論なし。(4)の続きと思われる。

(8)秦山の天文暦数に関する見解をまとめたもの。冒頭に「此の巻,皆 重遠の測考なり」と注記がある。星の運行を記したものだが,天人相関的な理論を展開するところもある。

(9)総論なし。『皇明通紀』『通鑑綱目』から天変に関する記述を集めたもの。最終条に貞享暦の冬至加時と黄道日度に関する議論がある。

秦山が天人相関説を説くのには驚いたが,なにぶん私に天文学の知識がないので,その得失について論ずることはできない。具体例を1つだけ挙げておく。

秦王猛伐燕。申胤歎曰:鄴必亡矣。然越得歳而呉伐之,卒受其禍。今福徳在燕。秦雖得志,而燕之復建,不過一紀耳。懲録載:萬暦壬辰春夏間,歳星守尾箕,乃燕分,而自古言我国与燕同分。時賊兵日逼,人心洶懼,不知所出。一日下教曰:「福星方在我国,賊不足畏。」蓋聖意欲仮此以鎮人心故也。然是後都城雖失,而卒能恢復旧物,旋軫旧京,賊酋秀吉又不能終逞凶逆而自斃。斯豈偶然哉。蓋莫非天也。重遠謂:此二占何其審也。史之有占,其不可誣如此乎。然晉安帝義五年,歳星在斉,而劉裕滅之。此占不応。如何。天豈可以一端談哉。(『壬癸録』8の第1条)


要するに,『壬癸録』は大きく分けると(1)秦山の師・渋川春海の言葉を残したもの,(2)秦山の天文学に関する知見,(3)貞享暦をめぐる春海と秦山の問答,(4)天変を歴史書からまとめたものの4つに分けられる。江戸の天文学から見れば面白い資料なのだろうが,私には使いこなせそうにない。

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『秦山集』を読む(3)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

引き続き『秦山集』28以降を読む。今回は28~30の『戊己録』のみ。『庚辛録』と『壬癸録』は次回以降に感想を書きたい。

『秦山集』28~30には『戊己録』が収められている。内容は前巻同様,講学雑記といった感じのものだが,前巻が日本に関することだったのに対して,『戊己録』は純然たる漢学に関するものである。薛敬軒や李退渓,歴代諸儒に対する論評が数多く見られ,殊に薛敬軒にはとりわけ高い評価を加えている。なお『戊己録』も『土佐國群書類従』所収『秦山随筆』2~4に収録されている。

『戊己録』は1~3まである。まず戊己録一(『秦山集』巻28)は二十代後半のものを,戊己録二(同巻29)は三十代前半のものを収めている。二には詩経や四書に関する議論のほか,文末に『朱子文集』『近思録』の抜粋が見られる。

戊己録三(『秦山集』巻30)は文章中に年代を断定できる記述が少なく,執筆時代を特定するのは難しいが,上の2巻から少し飛んで,四十代後半から五十代にかけての記録,つまり秦山最晩年の記録のようである。最後には次男の死亡記事があり,秦山の哀痛の様が感じ取れる。内容の特徴は,『朱子語類』からの引用が多く,師匠の闇斎や同門の絅斎・直方に対する批評も存在する。総じて他著の論評が多い。若干の考証もある。

秦山の講学記録は幽閉前のものが多い。そのため秦山幽閉後の精神的進展を知るにはやや不足気味である(これらは書簡に伺えるとはいえ)。その意味で戊己録三は面白い資料である。ただ分量的に決して多くなく,他書の引用が多く,秦山その人の感想が少ないため,期待するほどの収穫は得られなかった。しかし子供達を相ついで失った秦山が,「運命は前定されている」「人生の目的は義理の当然を尽くすことだ」といって納得しようとする姿勢には,朱子学者としてのある種の美しさが感じられる。

明道先生,至誠は神明に通ず。而るに九子を生み,六人 先に卒す。土津霊社,亦た近世の有徳君子。而るに十子を生み,八人 早世す。吉凶禍福,各々自ずから前定し,奈何すべからず。予 累りに子を喪い,悲哀 気を出す能わず。其れ命を知らざること甚だし。(乙未)

子孫の衆多を願うも得べからず,壽命の長久を願うも得べからず,爵禄の裕厚を願うも得べからず,身世の優閑を願うも得べからざるは,命なり。命に於いて知る有れば,凡そ為にする所有りて為る者は,皆な徒為のみ。豪髪も効を得る能わざるなり。然れば則ち人世一生,惟だ義理の当然を尽くすを,究竟の手段と為すのみ。『易』に曰く,君子は命を致して志しを遂ぐ,と。至れり。

死生はみな天命なり。花雲が子,百死の理あり。而るに竟に免かる。豈に人謀の能く及ぶ所ならんや。

周新 直臣,枉殺を免れず。此れ天命なり。吉凶禍福 善悪邪正と契勘せざるや,此の如し。命を知ること難からんや。

『秦山集』30(原漢文)


精神的に強靱な人間は,近しい者の死に対しても強い態度で臨む。その意味からすると,子供の死を嘆く秦山には一見すると人間的弱さを感じもする。しかし自分の心に潜む弱さ未熟さを率直に見つめ,さらなる人間的向上を目指すところに秦山の魅力を感じる。

今日は『庚辛録』まで進む予定だったが,時間がなかったので明日に回すことにした。

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『秦山集』を読む(2)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

引き続き『秦山集』を読む。本来はもっとも重要な『甲乙録』から始めるべきなんだが,少し長いので,短めのものから読んでいくことにした。まずは『丙丁録』(『秦山集』27)から。

本録は全112条。日本に関する発言をまとめたもので,前半には史実の考証が多く,後半には他者の著述に対する批評・抜書,および聞き取りが目立つ。途中,井沢長秀の『俗説弁』『続弁』『新弁』,および貝原益軒の『自娯集』からの抜書と批評がある。著述の年代ははっきりしないが,文中に「元禄乙亥」の紀年が見えるので,少なくとも秦山33歳以後,学問的に実り多い頃の記述を含む。

なお『土佐國群書類従』雑部にも『秦山随筆』1として同一文章を収める。『秦山集』の『丙丁録』は活字印刷,訓点付きであるが,『秦山随筆』は抄本で訓点ナシ。『随筆』にはまま誤植が存在し,欠落部分も存在する。

際立った発言はなかったが,強いて挙げれば次のようなものが目に付いた。

我国愛櫻花,西土愛牡丹。我国嗜鶴,西土嗜牛。両国習尚不同,多類此。

尾張大納言義直卿,所編神祇宝典十巻。予未閲之。以序文考之,可謂莫大之盛挙。

芝山会稿十二巻(十巻已印),土佐大高坂季明文集也。自称許大過,然文格生硬,字法差謬,不堪看。南学伝事実,極多妄誕。蓋亦不足論也。元禄乙亥十二月印。

隠者,蓋晨門荷蕢之属。憤世唾俗,往而不返者,雖不合乎聖人大中至正之道,然与希世取寵之流,豈可同日而語哉。要賢者之清也。予頃読遯史及隠逸伝,拾其真隠,以戒汚濁。其或専乎釈氏,或失意怨恨之人,皆所不取也。黒人,猿丸大夫,白箸翁,嵯峨隠君子,喜撰,清原深養父,蝉丸,藤原高光,西光法師,増叟,池田樵夫,武野老翁,葛城山男,平康頼,佐々木高綱,北条時村,資時,丹後国士藤原藤房,能因法師,翁和尚,大原三寂,頓阿,宗久,宗祇。凡二十有七人云。

又曰通鑑曰:司馬昭殺嵆康。康嘗詣隠者孫登。登曰:子才多識寡,難乎免於今之世。胡氏論唐劉文静曰:其材智雖高,而識量浅矣。篤信謂:「才与識不同。識即知識也。古来才力有余,而識量不足者多矣。蓋才与知自別。才是心之力,智是心之明也。不可不弁。世有才高而識暗者,有才鈍而識明者,可見才智之非一般也。」重遠謂:「免不免於今之世,天命也。非才識多寡之故。然才多識寡,材智高識量浅,若我郷野中良継,是也。此二言自不妨為名言也。蓋才天分也。識量之不足,是欠学問之功也。学者当監之。」


まだ『秦山集』と『秦山随筆』の校勘の最中なので,他に特記すべきことがあれば後で追記する予定。

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更新記録

今回の更新内容。

『宋史紀事本末』の王安石変法(1)(2)学校科挙之制元豊官制西夏用兵煕河之役濾夷の6つというか7つです。王安石変法は(3)で終わる予定です。時代が時代なので,神宗と王安石の話がほとんどをしめております。

王安石変法(3)は土日をかけて終わらせる予定でしたが,『秦山集』を読むという緊急事態が生じたので延期しました。来週更新できるかどうかは『秦山集』の進み具合によります。ちなみに予定通り進んでも,来週の更新は元祐時代どまりで,以前このブログでぶつぶつ言っていた紹聖以後の歴史は,早くとも再来週のことになると思います。

それでは毎度のことですが,ご意見・ご感想がありましたらよろしくお願いします。ただ私の学力から致しまして,ご期待ご叱正に答えられるとは限りませんので,その点はあしからず。

......ブログのテンプレートを変えたらちょっと重くなった気がするな。気がするだけかな?

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谷秦山略年譜

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

『秦山集』の最後に谷氏族譜が収録されており,そこに秦山の半生が書かれていた。おそらく秦山の研究書あたりを調べれば年譜も載っているだろうが,やはり自分で作った方が面白いので,谷氏族譜をもとに簡単な年譜を作ってみた。神道関係で記述のややこしいところは省略した。

○寛文3年。1歳。
3月11日,誕生
○同6年。4歳。
八幡を去り,高知に寓居する。
○同11年。9歳。
舅の島崎氏に従い,小学・四書を授読す。
○同12年。10歳。
常通寺に入る。守信法印を師とし,法華を読む。
○延宝2年。12歳。
寺を辞し,家に帰る。
○同7年。17歳。
2月,上京。6月1日,浅見絅斎に謁す。10月21日,山崎闇斎に謁す。
○同8年。18歳。
4月,帰郷。9月,俸禄を辞し,上京。
○天和1年。19歳。
2月,帰郷。
○同2年。20歳。
山崎闇斎の訃を聞き,上京する。12月,帰郷。
○同3年。21歳。
7月2日,高知の寓宅から秦山に移住する。9月,上京。11月23日,西宮に詣でる。12月,帰郷。
○貞享3年。24歳。
5月,蹉跎山および宿毛に遊ぶ。8月,帰郷。
○元禄1年。26歳。
父重元,卒す。
○同3年。28歳。
8月11日,出母の島崎氏卒す。
○同7年。32歳。
渋川春海に書簡を送り,天文暦策および神道を学ぶ。
○同8年。33歳。
8月1日,安倍泰福から貞享暦法の伝授の許状を賜わる。渋川春海から自筆の貞享暦書七巻を賜わる。
○同10年。35歳。
夏,渋川春海から暦術の印可を賜わる。4月23日,土橋氏を娶る。
○同11年。36歳。
7月21日,長男の自直が秦山で生まれる。
○同12年。37歳。
11月1日,渋川春海から中臣祓の印可を賜わる。
○同13年。38歳。
4月21日,香美郡山田野に移居す。7月11日,新造の宅が落成する。この年,安倍泰福からも十一曜の印可を賜わる。
○同14年。39歳。
3月1日,荒木田神主経晃に中臣祓の伝を授けられる。
○同15年。40歳。
1月5日,渋川春海から三種神器の故実を授けられる。3月13日,山内豊房の命で城下に移住する。5月1日,『日本書紀』神代巻を講義する。聴衆六十余人。11月,渋川春海から神道の印可および自筆の『瓊矛拾遺』3巻を賜わる。
○同16年。41歳。
11月27日,山田野にもどる。
○宝永1年。42歳。
2月12日,江戸に向かうため,山田野を出発する。3月,佐夜の中山に登り,富士山を望む。渋川春海父子に駿河台に謁す。4月3日,江戸を出発する。5月,浅見絅斎に謁す。6月1日,帰郷。『東遊紀行』2巻を著す。
○同3年。44歳。
国内二十一社についての研究を占部兼敬に訂す。4月16日,高知城を出発し,予・讃・備・播・津を歴訪する。26日,京都に到着。吉田に詣でる。5月4日,『土佐国式社考』1巻の跋文を賜わる。山内豊房が薨ず。
○同4年。45歳。
4月6日,罪を得て禁錮される。9月16日,『神代巻塩土伝』が完成する。10月6日,『中臣祓塩土伝』が完成する。
○正徳1年。49歳。
9月27日,始祖の神霊を鎮斎し,谷の社と号す。
○同3年。51歳。
6月28日,四男の久蔵が死亡する。
○同5年。53歳。
1月, 次男の古道が死亡する。
○享保3年。56歳。
6月,死亡。


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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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