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変易して止まず

ちょっと思うところがあり読み直してみた。三宅尚斎が皇統の断絶を説いたものとして,まま引かれる一節。『黙識録』巻四(日本倫理彙編)。

変易止まざる者は天地の常。一陰一陽,一昼一夜,一闔一闢,節拍将て去り,変革せざるを得ず。人事も亦然り。堯舜の禅譲,湯武の放伐の如き,是れ其の大なる者なり。但だ其の間に変革し得て,而して善と不善との別有るのみ。我が邦の神者曰く,「皇統綿々,万々歳変ぜず。以て堯舜湯武の上に坐す」と。殊に知らず,其の百代の間に正統既に絶え,一姓を以て革命し了るを。斯に知る,変革は天地の常,自ずから変革せざるを得ず。我が国の若き,秦漢以後の若きは,則ち変じ得て而も善ならざる者なり。(戊午歳)



変易して止まず(変化無窮の謂)について最近思うところがあったが,遺憾なことにうまく言葉にできそうにない。ただなんとなく尚斎の言葉が思い浮かんだので,日記がてら書き付けておくことにした。

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更新記録

久しぶりの更新記録。といっても別に新しい項目が増えたわけではなく,この前まで連載(?)していた『春秋学入門』が終わったので,そのリンクを張っただけだったりする。いちおう書いておくと,このページを更新した。

例の『春秋学入門』についてのちょっとややこしい話しですが,ある程度整理はつきましたが,まだ細かいところが残っているので断定はさけるべく,ここには書かないで置きます。まあ結論が出るには1年くらいかかりそうだし,あれが呂大圭の学説と一致していることに変わりはないし,そもそも書物の価値は全く不動なので,(読もうと思う人は)あまり気にしないでください。

あれの解題を書くべきか否か迷ったんですが,最近はどうも頭の回転が鈍いので止めにしました。書いてくれ!というよく分からんエールでもあれば書きますが,誰も気にしてないものを力んで書くというのは精神衛生上よくないのです。

最後に更新ページの春秋事始と春秋経文の項目について。後者はいずれ誰もが望まない経文を公開する予定ですが,前者はやろうと思って即あきたので,いずれ項目そのものが消えると思います。今はなんとなく未練があるので,そのままにしておきます。

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増補点校本『春秋会要』

春秋会要』(リンクは書虫)を購入した。本ブログを時系列でご覧になった奇特な人は,私はぽこぽこ気楽に本を購入しているように見えるかも知れないが,購入時期はすごく離れております。ただブログを書く気になったとき,まとめて書いているだけです。

それはともかく,この『春秋会要』は清朝に発売されたそれではなく,現代人の手で大幅リニューアルを遂げた立派な新本で,書物全体の構成も旧版に比べて大幅に改善されている。責任編集者には王貴民の名があがっている。本書の特徴を挙げると以下の通り。
  • 大幅な資料の増補
  • 発掘資料の増補
  • 資料の補正等
  • 伝統的体系をある程度保持したこと
  • 理解の難しいところに注釈を加えたこと
  • 印刷が綺麗なこと
  • 紙が良質になったこと
要するに,旧版の『春秋会要』があまりにふがいないので,全面的な刷新を図ったのが本作だということになる(ついでに紙質も)。また発掘資料を釈文つきで引用したのも利点に便利である。なにせ発掘資料の写真版は値段が高く,本も大きく場所をとる。本書によって発掘資料が容易に閲読できる利便性は大きい。しかしこれらは最近の中国の出版物に通有するものなので,なにも本書だけに限ったものではない。本書の特徴は伝統的な春秋学の体系と現代的なものを混ぜたところにある。

本書は会要であり,春秋学の体系的書物ではない。随って本書の構成は一般的な会要スタイルを取っている。つまり冒頭に世系(諸侯の系譜)を置き,順次官職・刑法・軍制・礼・宮室・区域・食貨・民俗・天文・災異を設けている。もちろん食貨の中に生産経済などの現代的項目があるなど,随所に現代的な様相を呈してはいるが,全体的に古風な会要体を守ったようである。

また本書は経文と伝文を年代順に雑引し,経伝の区別を設けていない。これは伝統的にはあり得ない,現代的な方法である。しかし記事が多量に存在するもの,例えば諸侯の卒などは,魯公と周および他の諸侯に区分して経伝を引用している。春秋学では内外の別といって,魯公(および周室)と他の諸侯を区別する考えがある。

内外の別は春秋学の思想であるが,同時に資料編纂において妥当な方法でもある。春秋は魯を中心に書いた史書(経書)なので,どうしても記述の方法が魯中心になる。随って内外の別を設けず,春秋の諸侯を一律に記述してしまうと,資料の多寡に頗る偏りが生まれ,結果的に読者の理解を妨げることになる(*)。

あらゆる経文に内外の別を設ける必要があるか否かは難しい問題だが,本書は多量に存在する資料には内外の別を設け,少数の資料に対しては内外を混ぜて経伝を引用したようである。これはある程度見識ある態度である。その他,項目によっては,全く経学的な項目もあり,そうかと思えば現代的な立て方もある。ただこうした新旧の折衷は,利用者によって評価の判断が分かれるだろう。

会要のスタイルはもともと年代順に資料を排列する。随って,本書も項目ごとに年代順に資料を排列している。しかし春秋経伝を時間順に排列した場合,排列可能な資料の大半は経文と左伝になる。確かに項目の多くは経文と左氏伝の混合のような形態になるが,一方で伝文の引用が一条もなく,単純な経文の排列(随って伝統的な春秋学の排列そのもの)になっている箇所もある(左伝ばかりというのもある)。

これは非常に微妙な作りである。例えば本書を歴史学的に利用しようとする場合,経文を軸にした本書はかえって利用に便が悪いだろう。なぜなら時系列に排列し切れない多くの伝文(主として左氏伝)が削除されるか,別配置になるからである。逆に,私のように経学として春秋を読む人間にも利用が難しい。なぜなら内外の別,華夷の別の混雑もさることながら,経伝が雑引されているので,利用が面倒なのである。春秋学にとって経と伝は全く別物だからである。

なお本書は難解な文章に注釈を加えている。注釈の採用範囲は,三伝注以来,宋代から清代まで幅広く取られている。ところが,三伝注などの著名なものを除き,凡例に注釈方が書かれていなかったので不信に思っていたところ,148頁に「按,此引自上海古籍出版社一九八六年影印的世界書局版春秋三伝,以下凡引「某某曰」,均出此」とあった。某某曰という言い方に疑問はあるが,それ以上に『春秋三伝』からの引用とは驚いた。確かに便利な本ではあるが,ああいう便利本から直接引用するのは珍しい。

注釈の問題はともかく(便利なことには変わりない),本書の評価は難しい。全体的によくまとまっている反面,新旧折衷のため利用に制約が生まれ,利用者を選ぶ本になっている。まあ一番いい使い方かと思うのは,軽~い気持ちで都合のいい資料を探したり,関係する経伝を調べることだろうか。属辞比事の奥義を本書で極めようと思っても,それは無理な相談である。


(*)これ以外にも,経文と三伝では書法(文法・語法)が異なるため,通読に不便が生じるなどの短所もある。

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(感想)『宋集伝播考論』

宋集伝播考論』(リンクは書虫)を読んだ。宋集というのは,宋代の集部のことで,いわゆる文集とか総集とかいうそれの謂。鞏本棟氏の著書らしい。

本のタイトルだけを見て,私はてっきり宋代の板本の流伝径路を研究したものだと思っていたのだが............まあ確かにそんなことが書かれてはあったのだが,なんというか,予定外の本だった。

個人的な所感で恐縮だが,本書は研究書というより解説書兼資料集といった方が適切だと思う。はっきり言えば,修士課程を普通に了えれば身につくような基本的な事項を概説風に説明しただけで,特に目新しい発見はなかった。せいぜい明代の解説に反感を持ったくらいだが,これは後の述べることにする。

本書は大きく綜論篇と域外篇の2篇に分けられる。綜論篇は宋代・明代・清代に分かれ,域外篇は日本と朝鮮の宋集,朝鮮の宋人詩文,李璧の王安石詩注,そして高麗朝以下の朝鮮の宋代文献の解題集(文献解題のようなもの)に分かれる。ちなみに分量的には,綜論篇は全体の1/4程度,最後の朝鮮の文献は1/3程度を占める。随って,本書最大の価値は,朝鮮の解題集であるといっても差し支えないだろう。なお巻末には珍しいことに人名と書名の索引が付いている。これは大いに評価できる。

綜論に見える論述は,宋代にも本がそれなりに出版されていた,文集の型もあった(よく見かける文集とか全集とかいうあれの説明),明代はいろいろ文句を言われるが,現在まで宋代の書物が残ったのは明人の功績も少なからずある,清代の宋集整理は重要で,特に『永楽大典』から輯佚した『四庫全書』は特筆すべき事業だ,しかし四庫本には幾多の美点とともに,改竄などがあるので,清代以来補正がたくさん出ていて参考にすべきである云々,というものである。

まあ,まともに研究したことのある人間なら誰でも知っている内容が書かれてある。しかも具体例を列挙......というか,書名と人名を挙げて,某々もそう,あれこれもそう,それそれもそう,と延々と書いてくれるので,お陰でハイスピードで読み終えることができる。特別に細かく説明してくれる板本もあるが,それは蘇軾などの超有名人=特殊な例外なので,これだけあげて宋代一般を語られても困るというのが正直な感想だ。

域外篇は中国の人が中国の人に向けて書いた本だから仕方ないのだが,日本にも善本があるという類の話で,日本人には当たり前すぎてどうとも感想の書きようがない。

というわけで,本書は常識的なことを総合的に論じた本なので,別に批判する必要もないし,絶賛する必要も感じない。ただし明代について論じたところだけは,少しく疑問がある。

著者は明代の出版に相当問題あることを認め,特に「明人が本を出すと本が消える」という有名な言葉を引用し,一応は是認する。しかし全体的に見れば,明人の出版に対する功績は没してならないというのである。

全体的に,というのは都合のいい言葉だが,一般論からいえば,そもそも明に価値がないはずはない。そしてその意味で明に価値があるというなら,一々研究しないでも,あらゆる時代に価値はある。それは言わずもがなだろう。

宋集は唐以前に比べればそうとう多いが,明末以下に比べるとそうとう少ない。随って,現実的な問題から論ずれば,宋集は個別に論じられるべきもので,全体的に論じても意味がない。そして個別に論じた場合,著者の認めるように,明代の板本は,あらゆる点で相当に問題があるのである。とても褒められたものではない。もちろんここで問題にしている明版は明代中期以後のそれである。

そもそも著者の認めるように,宋集のかなりの部分は永楽大典本である。永楽大典は明朝初期のものだから,明人のものには変わりないが,一般に言われる明版とは意味が違う。だから明版に意味があろうとなかろうと,宋集のかなりの部分は大典輯佚本を作った清人の功績で,明人とは何の関係もない。だから明人になんの功績もない。

一般的に極めて評判の悪い明版に対して,色眼鏡を棄てて公平な判断を下そうとする著者の態度は立派だが,著者の指摘ですら,明に対して好意的過ぎると思われてならない。宋集に対する明人の功績は,蘇軾をはじめとするごく例外的な書物を除き,ほとんどない。むしろ『永楽大典』から輯佚した清人にこそ,その功績は譲られるべきである。

なお「明人が本を出すと本がなくなる」というのは,『水経注』に関係する発言であり,集部に関係しない。経部や史部はもともと神経質な作業を要求されるので,明人のようながさつな連中が手を出すと滅茶苦茶になるのは当然といえば当然である。しかし集部は,極端に言えば,一文字二文字の誤植があっても,文意の理解に困難を生じない場合が多い。だからこの手の発言を集部に流用するのはいかがかと思う。

とまあ,最後に明代を叩いたわけだが,本書全体を通読すれば,大味ではあるが,既存の知識を満遍なくとりこみ,丁寧に説明してくれている。細かいところは各々の研究書を読んで研鑽につとめてほしいと言うことだろう。だからこれから宋代の研究をしようと思う学生には,いい本ではないかと思う。ただ実際に宋板を手にした人は当然にして,四庫本とか永楽大典本とか,やっぱり明版は駄目だな~という会話をしている人には,少し物足りなく感じるように思う。

そうそう私は朝鮮関係のことを知らないので,その点の価値は分からない。よそを当たってください。

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無駄話

このまえ学会に出席した。出席したといっても,会場に出向いただけで,他人の研究を無関心に聞き流していただけだったりする。私は近頃の人間に似合わず,全然興味のない話しは聞く気になれないし,他人に対しても私の話を無理に聞いて欲しいと思わない。だからかなりの時間を専門書店の人とのおしゃべりで費やした。念のため言っておくが,私は自腹で学会に出ているので,公費で交通費なり学会参加の経験値を積んでいるプロの学者と同じように思われては困る。

それはともかく,そのとき『鬼谷子集校集注』(許富宏撰,中華書局,2008年)という本を買った。出版されたのは知っていたが,面倒くさいので放っていた。でも手許にいい本がなかったので試しに買ってみた。学会での購入は割り引きも大きいしね。

鬼谷子というのは権謀術数家の親玉(とされている)人間で,中国では知名度が高い。日本でも戦前までなら漢文の影響もあってそれなりに知られていたと思うが,現在ではその名さえ忘れられかけている(専門家を除く)。まあ鬼谷子を知っていても銭にはならないので,普通の人は知らないままでいいと思う。私も一々鬼谷子の説明をする気はない(準備もないが)。

本書は「集校集注」とあるように,鬼谷子本文に数十倍する校勘と注釈をくっつけたもので,「気楽に」鬼谷子を読もうと思う素人には便利な本である。少しく注釈が多すぎて辟易するが,そこらは素人の気軽さで,私など都合の悪い解釈はジャンジャン棄てて読んだりする。もちろんこれは著者の希望を大きく裏切るが,それはお互い様だ。

まあ鬼谷子の中身はどうでもいい。実は開閉の話しに興味はない。本書を流し読みして一番面白かったのは,序言(趙逵夫という別人が書いている)だった。

本を売るためには本を褒める必要がある。嘘でも本当でも,そうするのが売文の原則である。あえてそれを外す人もいるし,私はそういう人間が好きだが,まあそれはそれ,少数派の意見である。で,本書も例にもれず,いかに鬼谷子が価値ある存在かを吹聴してくれるが,その引き合いに孔子と孟子を出していた。

序文子が言うに,孔子や孟子は世間で偉そうに言われるが,実際政治ではたいした活躍をしていない。が,鬼谷子は違う!という,ありがちな展開で鬼谷子が褒められる。しかし孔子と孟子に対するフォローも忘れない。序文子は続けてこう言うのだ。――孔子は諸国を歴訪してうまくいかず,後進の教育に当たった云々,そこが孔子の孔子たる所以,卓然と思想史・教育史に価値ある所以だ云々。

一昔前の序文なら,おそらく孔子ではなく,孔丘と書かれていただろう。まして一々孔子や孟子のフォローなどしなかっただろうし,直に鬼谷子を唯物的だとかいって褒め称えたはずである。こう言うところは実に中国らしい。

まあ政治の変化によって学問的主張がころころ変わるのは中国の特徴なので,田舎者らしく一々批判するに及ばない。むしろあまりにも中国的で好感すら持てる。しかし最も好感を持てないのは,それを快からぬ風に思っている日本の学者だ。

なんでもちょっと前まで批孔批林とか言っていた中国が,時代がかわるとコロッと変わり,孔子や儒学を絶賛するのは恐るべき論理矛盾で,驚くべき暴挙であると思っている人がいるらしい。私が直接見聞したわけでないので信を置きがたい話しだが,なんとなく日本(の学者)にそんなことを言う人がいても不思議でないので,うわさ話が本当でも驚きはしない。そういう人は若い頃中国に妙な共感を勝手に抱いていたのだろう。それに対する裏切り,もしくは自分の価値観とのズレに,怒りを感じているのだろう。しかし私はそういう人に言いたい。まずもってすべきことは,その程度の見識しかなかった自己に対する批判だ,と。平たく言えばこうである。――人のせいにするな。

自己の理想に都合よくつきあってくれる他者などいないという,世の中誰でも知っている常識に到達すれば,中国の「裏切り」など問題とするに足らない。当たり前だからだ。まず反省すべきは自分の常識のなさ(これを非常識といふ),見識の足らなさ(これを無見識,ご都合主義といふ)でなければならない。もうひとつ,民主主義でも資本主義でも君主主義でも共産主義でもなんでもいいが,自分の信念が絶対だと思うから,他人に対する変な批判が生まれるのだ。

中国の学者の発言がコロコロ変わるのは珍しいことではない。そして,それは日本においても珍しいことではない。欧米でも同じだ。そんな当たり前の人間通有の現象に,一々構っていられるほど,普通の人々は暇な生活を送っていない。学者は学者だから普通の人間になる必要はないが,あまりにおめでたいと辟易してしまう。

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無題

師走先生のところで紹介されていたのを,巡回先ブログでも紹介していたので,私もちょっとやってみた。SM診断というやつ。この手のものに無縁だったが,それなりに楽しめた。

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谷真潮の伝記

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

谷真潮の手頃な伝記がないので,『日本教育史資料』五(旧高知県)の伝記を挙げてみたい。これは1890-1892年に文部省総務局が編纂したもので,各伝記の執筆者は明記されていない。随って117年前の成立の本書は著作権が切れている(なにか問題があればすぐ削除しますのでご連絡ください)。

☆原文旧漢字。一部送り仮名を増補す。丸括弧内は原注。

谷真潮。初めの名は挙準,通称は丹内。北渓と号す。垣守の長子。少より慷慨にして世の風俗頽廃を嘆き,之を匡済するの志有り。数々上書して政事の得失を論ず。初めて教授役と為り(宮地春樹・戸部良煕と同時に之に任ず。是れ本藩教授役を置くの始めなり),転じて浦奉行と為り,禄百五十石を賜ふ。真潮,頴敏にして果断,最も政に従ふに長ず。安芸郡室戸港は元と野中良継の開鑿する所なり。而るに港口中岩と云う有り,頗る船舶の出入を碍く。真潮,浦奉行たるに及び,之を藩主に稟し,役を興して之を除き去る。藩主其の功を賞し,白銀若干を賜ふ。職に在ること数年,病を以て辞して罷む。

天明七年,藩主山内豊雍大いに国政を改革し,群才を登用し,百度を一新す。真潮を擢んでて郡奉行兼普請奉行と為し,物頭格に進め,官禄五十石を加給す。尋で大目付役と為り,前に給する所の官禄を以て世禄に併せ,別に官禄五十石を給す。真潮,辞するに年老多病,且つ性素と麁暴にして重任に堪へざるを以てす。藩主許さず,優旨慰藉して勉めて事を執らしむ。而して藩制未だ曾て儒者を以て枢要の職に充つるの例有らず。是を以て譏制百出,或は戯書して真潮の門扉に貼するに至る。真潮之を見て和歌一首を作り,亦其の側に貼して曰く,「言はば言へ,言ふ甲斐も無き,老の身の,言はるるも亦,老の華かな」と。此の時に当たり,藩主精を励まし治を図り,言路を開き,費用を省き,信賞必罰,恩威並び行はれ,上下相和し,以て中興の偉業を致す者,真潮の力居多なりと云ふ。既にして藩主卒す。真潮も亦尋で病を謝して職を辞す。乃復た教授役と為る。

真潮の学,洛閩を本とし,雑るに諸家の説を以てし,兼ねて意を韜に用ひ,尤も孫子を好み,神道も亦家伝に依らず,自ら一家の風を成す。故を以て父垣守と合はず,垣守嘆じて我家悪魔を生ずと言ふに至る。而して遂に亦之を禁ずること能はず,乃ち曰く「汝が所見も亦善し。然れども我家伝の書は汝善く之を蔵して散佚せしむること勿かれ」と。吉本虫雄晩に真潮を評して曰く「初め吾れ北渓を以て其の父に及ばずと為す。今にして之を思ふに,某人物父に過ぐること数等。吾輩梯するも能く及ぶ所に非ず」と。世人称して谷氏の三丹と曰ふ(祖丹三郎,父丹四郎,丹内を加へて三と為す)。

其の憲台に在るや,吾川郡柚の木村僧頓蔵主と云ふ者あり。私に歓化して一寺を剏建せんと欲す。村長之を拒み,其の事成らず。僧怒り,直に村長の宅に詣り,刀を抜き之を脅かす。村長即ち之を訴ふ。監司召して訊ふ。僧肯えて服せず,詞鋒太だ鋭し。吏之を奈何ともすること能はず。真潮乃ち自ら之を諭す。僧仍固く執りて服せず。真潮問ふて曰く,「汝,寺を剏めんと欲す。抑々何の為めぞ。」僧対て曰く,「寺を建れば,其の功徳無量却なり。」真潮笑ひて曰く,「汝が称する所の語は,元と梁の武帝の語なり。爾時汝が祖達磨は却て之を無功徳と曰ひしならずや。今汝自家の事だも知ること能はず。偏に己を是とするは,愚に非ずして何ぞと。」僧対ふること能はず。真潮又声を励まして曰く,「汝は是れ臨済派の所謂繋驢橛と云ふ者なり。汝蓋し之を知らず。我今汝をして之を聞かしめん。汝強ひて物欲を去り,道の為に身命を惜しまざらんことを欲して,反て非道に陥るを知らざるは,猶彼の驢の強ひて繋を脱せんと欲して,数々橛を廻り,愈絆縄を纏ふが如し。汝且少しく汝が禅心に反りて之を省みよ」と。僧此に於いて大いに屈し,遂に其の罪に伏す。是れ細事と雖も亦以て真潮の才学を観るべし。

寛政八年,藩主特に禄五十石を加賜す。翌年十月十八日,病みて没す。年七十一。三子あり。皆夭す。弟好井(万六と称す)を養ひて家を嗣がしむ。著す所,『神道本論』『論聖』『論仏』『旧事記偽撰考』『御国の学び』『孫子秘解』『北渓雑集』『北渓文集』『案内独見書辨』『流沢遺事』等あり。

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谷真潮の春秋論(2)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

前回の谷真潮の春秋論(1)で『北渓集』所収春秋を読んだので,今回はその短評をしてみようと思う。特に気の利いたことは言わないので,期待されても困る。まあ誰も期待していないだろうけど。

こういうと真潮に失礼だが,真潮の春秋論は基本的に朱熹の春秋学説の焼き直しなので,ほとんど見るべき所がない。朱熹よりも進歩していると思われるのは,真潮が渋川春海の天文研究を利用して,周正を天文学的に立証している箇所だが,真潮その人はあまりその点を強調していない。むしろ真潮が強調するのは,「春秋に一字褒貶説は存在しない」という理屈を,道義的に説明するところにある。そしてこの道義的説明による一字褒貶説批判は,宋代春秋学の帰結とでも言うべき理論である。随って真潮の学説は焼き直しになる。強いて評価するとすれば,宋代の春秋学説を理解できるまでに,真潮は研究を進めていたということだろうか。

では真潮はなぜ一字褒貶説を批判したのだろうか。これは彼が祖父秦山以来の朱子学者であることを考えれば,当たり前とも言い得る。では別の角度から,真潮の一字褒貶説に意味はあったのだろうか。もともと門外漢なのではっきりとは分からないが,この「意味」に関しては,少しく疑わしい気がする。

そもそも朱熹の一字褒貶説批判に意味があるのは,中国に於いて春秋学=一字褒貶説という地盤があるからである。春秋学=一字褒貶説であるにも関わらず,春秋学を語りながら一字褒貶説を否定した。ここに朱熹の学説の意味があったし,周囲の人間は衝撃を受けもしたのである。ところが日本に於いて春秋学といえば,ほとんど左氏伝の学問であり,一字褒貶説とは無縁の存在であった。もちろん知識として一字褒貶説はよく知られていただろう。現代の我々に於いてすら,春秋の筆法などといって一字褒貶説が知られているのであるから,江戸の当時は推して測るべしである。

しかし胡安国伝こそあるていど読まれはしたが,一字褒貶説の大元である公羊伝や穀梁伝については,わずかに羅山の訓点が残るのみで,他は絶えて存在しなかった。左氏伝の流行に比べて,日本に於いて如何に一字褒貶説的な春秋学が軽視されていたか,これだけからでも了解できる。

もちろん一字褒貶説的な春秋学を語るということは,取りも直さずそれは中国中心思想(中華思想)を是認することに他ならない。それも春秋学はあらゆる経学の中で最も中華思想を鼓舞する学問である。そして日本人は中華の人ではない。ならばそのような中華思想を鼓舞する一字褒貶説を好んで読まなかったのも当然といえば当然である。朱子学を熱烈に信奉した崎門の連中にして,春秋はあまり省みられなかった。春秋には朱熹の注解こそないが,新注系列のものに胡安国の伝があるのにである。彼らは春秋よりも,あらゆる歴史に適応可能な,朱熹の『通鑑綱目』の書法を取り入れ,『本朝通鑑』的なものを量産する。秦山にも『保健大記打聞』というのが存在する。

しかし中国で通鑑綱目』が編纂され,書法が提示されたのは,長い春秋学の研究成果である。そもそも書法とは,春秋の筆法に他ならない。ところが一旦その成果(書法)が生まれたとき,それを受容する人間は,春秋学的積み重ねなど問題とせず,ただその成果だけを他の歴史書に向けて利用する。要するに,日本では一字褒貶説的な春秋学的研究は無視されて,単純な歴史理論として『通鑑綱目』の書法が取り入れられるのである(歴史理論と書法とがどう結びつくのか,春秋学をご存じない人には分からないだろうが,結びつくのである。というか書法=歴史理論と言っても差し支えない)。

ならば真潮が春秋学の一字褒貶説を日本で否定してみせて,果たしてどれほど意味があっただろうか。極めて高踏的学際的な意味に於いては,これにも価値があっただろう。しかしそれが果たして日本の一般の学者に衝撃を与えるものであったかどうか,頗る疑問としなければならない。納得され,感心され,賛同され,称賛されることはあっても,恐らく宋代の春秋学で一字褒貶説が否定されたときの衝撃に比べるなら,真潮のそれはほとんど問題とするに足らないような衝撃しか与えられなかっただろう。

真潮の経学的な著作は,他にも詩と書に対するものがあり,特に書に対するものには神道を宗旨とした真潮らしい意見が窺える。客観的というわけではないが,日本と中国を相対的に捉えた論法が見い出せるのである。その真潮にして,春秋学に対しては,結局朱熹の亜流,中国春秋学の焼き直しに止まらざるを得なかった。もちろんこれは中国の春秋学が永久不変で,日本に於いてなんらの修正も必要としなかったから,そうなったわけではない。むしろ春秋学の牙城は神道をもってしても破れなかった,換言すれば,それほどに春秋は日本人の手におえぬ異質の存在だったのである。

もし真潮が春秋学を消化すればどうなっただろうか。それは真潮が中国の偉大さを追求し,日本の夷狄性を曝露するため,必死に書法を考究し,それを証明することになっただろう。真潮が神道を宗旨とせず,中華信者であっても,これは驚くべきむなしい作業である。春秋学には,中華人になるべき努力もなければ,可能性もない。それはただ中華の人間が己が中華の人間であることを確認するだけの作業だからである。

このような些細なところからも,日本人が春秋学を理解せねばならぬ理由が発見できる。自己にないものを理解しなければ,他者は理解できない。その理解がどのような理由によるものであっても。

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谷真潮の春秋論(1)

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

谷真潮の『北渓集』に「春秋」という一篇があった。日本の研究は紹介しない,というのが本ブログの基本方針だが(なんどか破ったが),真潮は江戸時代の人なので紹介しても問題ないだろう。以下は谷真潮「春秋」の書き下しと若干の校注である。原文は『土佐國群書類従』第10巻本文に即いて見られたい。書き下し文の中,(*)数字は原文の校訂および内容上の補注を意味する。なお底本の返り点および句読には従わず,随時私見をもって改めた。『土佐國群書類従』第10巻は高知県立図書館で販売中だそうです。

或ひと問ふ,春秋は何の為に作れるか。

曰く,聖人 世の衰乱を傷みて作るなり。而して其の傷むこと最も魯に在り。魯は隠公 弑せられ,桓公 立つより,三家は漸く基を創り,年を逐ふごとに彊大となり,公室は年を逐ふごとに卑微となる。孔子の時に至りて,其の衰 極まれり。孔子 天縦の聖を以て周公の典を講明し,其の初めは諸を一国に行ひ,兼ねて天下を正さんと欲す。其の魯に相たるに及び,教化 大いに行はる。三都を堕ち,甲兵を収め,将に漸く三家の権を収め,而して公室を張らんとす。而るに機縁 熟さず,遂行に事無く,四方十有三国を周游して遇わず,晩に及び魯に帰れば,事勢益々去り,着手すべき者無く,徒に大夫の後に従ひ,日暮 道窮まり,志も亦た熸べり。故に曰く「甚だしいかな,吾の衰えたるや。久しいかな,我れ復た夢に周公を見ず」と。蓋し魯は衰弊すと雖も,周公の規画 猶存す。聖人を得て因て以て政を行はば(*1),則ち当に一変して道に至り,兼ねて以て天下を正すべき者,定算在る有り。而るに三家根蟠し,着手すべからざるに終わるなり。是に於いて魯史に因り隠公より下二百四十二年の事を叙し,以て感慨を寓す。夫れ周道 衰へて王は王たらず,三家 矯僭して公は公たらず。之を列国に観るも,亦た皆な彼の如くにして,文武の道 已む。其れ時事に感慨すること,豈に窮まること有らんや。其の筆削の若き,蓋し亦た三家の矯僭より,策書の載する所の事 多く旧章に違へば,聖人 其れ之を正すのみ。故に曰く「我を知る者は其れ惟だ春秋か。我を罪する者も其れ惟だ春秋か」と。蓋し言ふこころは,賢人君子 聖人の心を知る所以の者 斯に於いてし,三家が輩 聖人を罪する所以の者も斯に於いてすればなり。其れ此の如ければ,則ち孔門諸子の知る者は言はず,言ふ者は知らずして教ふ。後世 紛々の説を致す者,亦た宜(うべ)ならざらんや。

然らば則ち春王正月,義に於いて如何。

曰く,王は周王なり。周人は建子を以て歳首と為す。今の十二月(*2)は是なり。王者 命を革むれば,前代を損益し,以て一代の典を立つ。故に夏・商・周・秦,正朔は因らず。而して夏正は惟だ時と月と応じ,而して天時 正しく,人事 順なり。是を以て商・周の世,民間 猶夏正を用ふるを禁ずる能はず,遂に時王の正と並び行ふ。故に春秋 書すに王正月を以てする者は,夏正に別つなり。蓋し旧史 然り。

曰く,何を以て果たして周正たるを知る。

曰く,春秋の伝注三伝,尤も古し。作る者,皆な周末の人にして明解して周正建子の月と為さざる者は,蓋し当時に在りて疑ひ無ければなり。其れ左氏の若き,「春王周の正月」と謂ふなり。公羊氏は「王は文王を謂ふ」と謂ふ者は,皆な王の字の為に発するのみ。而して亦た周 別に正月有り,而して前代と同じからざるを見せり。孔安国曰く,「古より皆な建寅を以て正と為す。唯だ殷 夏の命を革めて建丑を用ひ,周は殷の命を革めて建子を用ふ」(*3)と。是れ蓋し受くる所有りと云ふ。他の孔氏が疏の「月 改むれば則ち春移る」(*4)と云ふ者,詳らかと為す。而して三統の説も亦た或いは本づく所有り。宋の程子に至りて曰く「春正月,春に非ざるなり。天時に仮り以て義を立つるのみ」と。而して胡氏も亦た謂ふ,「夫子 夏時を以て周月に冠すなり」と。朱子 之を議して謂ふ,「胡氏の説の若ければ,月と時事と常に両月を差ふ。恐らくは聖人の作経,又 是の若く紛更ならざるなり」と。然れども其の自ら説を為すに及びては,亦た皆な疑辞を為すのみにして,敢えては之を明断せず。是れより後,儒者 往々にして之を論じ,互いに経史を引きて証と為し,率ね合するに架説を以てし,左支(*5)右梧し,紛糾して決せず。引いて皇朝近世の渋川春海に及びては,授時食算の法を以て春秋に有る所の日食を推して暦を作述す。其の食 往々にして建子の月に合す。而して又 左氏に「僖公の春王正月辛丑朔,日 南至す」と曰ふこと,漢志に「魯の成公十二年正月庚寅朔且(*6)冬至」と曰ふを挙げ,以て〔証〕(*7)と為す。明白簡当,千古の疑を断ずべきなり。且つ其れ「聖人 周正を改め夏時を用ふ」と謂ふ者,理に於いて決して然らざる者有るなり。其れ春秋は魯の春秋なるのみ。魯は周公の国にして,周の礼 尽く魯に在り。孔子 大聖と雖も,時に魯の大夫と為る。魯の大夫として魯の春秋を修め,而して周正を改めて夏正を用ふ。之を礼義に度り,之を事体に参じ,之を書体に考ふるも,一として可なる者無きなり。其れ聖人なる者は礼義の宗なり。礼義は分を慎むに在り。故に季子 八佾を舞ひ,三家 雍を用て徹せしとき,聖人 之を痛譏す。而るに反て一書を作り,時王の正なる者を改む。其れ是れ何の謂ぞや。大抵 春秋 聖人の晩年に成るを以て,諸儒 之を見て以為へらく,聖〔人〕(*8) 経天緯地,高大精微の旨,此の書に在り,と。而るに其の書 唯だ事を紀すのみにして理義の言ふべき無く,又 旧史 亡び,筆削の跡 見るべからざるを以て,乃ち穿鑿して以て其の義を求め,傍らに経史を取りて之に附会し,鍛錬して以て其の説を成す。所謂一字褒誅なる者,微を探り隠を鉤(さぐ)り,弁詰深刻,人をして解脱すべからざらしむる〔者〕(*9)なり。大類ね後世 法吏の舞文,罪囚を死生する者の為す所,是れ豈に(*10)聖人公平正大 為さざること甚だしの心胸の写し出す所の事ならんや(*11)。又豈に乱臣賊子の能く其の義の懼るる所を覚らんや。今や聖人を去ること二千年,而るに伝注の説を廃し,聖人の微意の在る所を言ひ,人豈に之を信ぜんや。然りと雖も,朱子 嘗て言ふ,「春秋は只だ当時の事を載せ,治乱興廃を見さんと要するのみ。一字の上に於いて褒貶を定むるに非ず。」「疑ごうらくは,聖心の正大(*12),決して伝註の穿鑿に類せず」と。則ち今 言ふ所の者,豈に尽く然らざずと言はんや(*13)。縦し或いは然らずと云へば,亦た各々見る所有るなり。


(*1)「聖人 因て以て政を行を得れば」とも訓める。
(*2)山内本は「十一月」に作る。当に山内本に従ふべし。
(*3)『春秋正義』隠公経元年疏引。
(*4)同上。
(*5)山内本は「左枝」に作る。
(*6)山内本 は「旦」に作る。『漢書』律暦志(世経)に拠り,旦に作るを是とす。
(*7)山内本に拠り証の字を補ふ。
(*8)山内本に拠り人の字を補ふ。
(*9)山内本に拠り者の字を補ふ。
(*10)山内本に拠り豈の字を補ふ。
(*11)原文は「是聖人公平正大不為甚矣之心胸所写出之事乎哉」に作る。山内本は是の下に豈の字あり。義は同じ。訓み難いが,通常は「是聖人公平正大不為甚」で切れる。ただ下に「之」があるので,原文に錯誤が無ければ,「是『聖人公平正大不為甚矣』之心胸所写出之事乎哉」となる。聖人公平正大不為と類似の表現が程端学の『春秋或問』に見えるが,谷真潮が何をふまえて発言したかは不詳。
(*12)原文は聖心人之正大に作る。山内本は人の字なし。朱子行状に拠り,人の字を削る。
(*13)山内本に拠り哉の字を補ふ。

引き続き真潮「春秋」の特徴を書くつもりだったが,長くなったので次回に持ち越す。

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『素晴らしい新世界ふたたび(素晴らしい新世界再訪)』

素晴らしい新世界ふたたび素晴らしい新世界ふたたび
(2009/04)
オールダス ハックレー

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オールダス・ハックスレーの『すばらしい新世界』をご存じの人は多いと思うが,彼はその30年後に『素晴らしい新世界再訪(素晴らしい新世界再訪記)』を書いた。中学生の頃だっただろうか,ちょっと『素晴らしい新世界』に関心をもった私は,この『再訪記』も読みたいと思いつつ,訳本がなかったので読まず終いだった。英語なんだから原書で読めよと言われそうだが,原書で読もうと思うほどには興味を持っていなかったのだろう。(訂正:2009/05/12:『文明の危機―すばらしい新世界再訪』が発売されていたらしい。近くの本屋にも図書館にもなかったから,訳本がなかったと思い込んでいたらしい。まあ当時のことだからね)

で,GWのちょっと前になぜかそれを思い出し,ネットでちょこちょこ調べてみたところ,上の本,『素晴らしい新世界ふたたび』というのが出版されていた。通常の書名と異なるので少し分かり難いが,件の『再訪』と同じ本である。訳者は高橋衞右氏で,高校の教師をしていたそうである(訳者プロフィールによる)。訳者がなぜ本書を訳出しようとしたのか,あとがきにはなにも書かれていなかったが,おかげで私の大昔の念願を達成することができたのだから,理由はともかく,訳者には感謝したい。

内容の紹介は営業妨害になるのでしない。ただ『再訪』は評論集であって,小説ではない。『素晴らしい新世界』に登場した人間が活躍するわけでも,その世界の裏設定を細かく説明するわけでもない(当たり前だが)。要するに,『素晴らしい新世界』で描いた世界が,著者の予想を超えて現実化しそうなので,その処方箋を書こうとしたもののようである。

この手の評論集は時代が経つとどうしても色あせてしまう。専門家(特に歴史家)の目から見ればいろいろな評価もあり得るだろうが,無関係の単なる好事家からすれば,すでにハクスレーの感じた諸々の問題は既に過去のものである。ハクスレーの力説する「人口過剰」にしても,それがハクスレーの主張する管理社会に繋がるようなものとも思えない。その他,ハクスレーは自由主義の崩壊を憂えているが,その根拠はナチスや共産主義国家である。既に考察の対象が過去のものなのである。

それとハクスレーには申し訳ないが,私はハクスレーの信じて止まない自由主義が嫌いだ。彼は実に自由主義者らしく,自由主義そのものには懐疑的でないらしい。私は自由主義に懐疑的どころか,否定的ですらある。もちろん私は自由主義に強い魅力を感じている。しかし自由主義は結局のところ一つの虚偽だと思っている。

だからハクスレーが自由主義を尺度に道徳や社会(私は社会という言葉すら使いたくないほど嫌いだ)を云々しても,私にはピンぼけして見える。これは好みの問題だから,どうこう言うつもりはないが,自由主義ありきで話しを進めるものだから,それにコミットできない人間には,頗る退屈だった。

むかし興味を持っていた本がこんな調子だったので,ちょっと残念な結果に終わってしまったが,しかしそんなものだろう。結果はどうあろうと,どんな内容かが分かっただけでも大きい収穫だった。先にも書いたが,訳者には感謝に堪えない。

ちなみに私は『素晴らしい新世界』を読んで,額面通り「素晴らしい世界」だと思った。ハクスリーには悪いが,私は困難に打ち勝って自由を勝ち取ることに価値を感じない。何の苦痛をも感じず,悦楽をのみ抱いて生きていける世界。私には「素晴らしい世界」にしか見えない。

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記念にコメント

春秋学入門』もあと第一論文1/3の補正のみとなった。ただ一つ気になることがあるので,まだ完結させるわけにはいかない。ことによるとちょっと厄介な感じなのだが,遅くとも再来週までには片付ける予定である。もっとも予定は未定だから,怪しい話しと言えばそれまでなんだが。そうそう長らく捨て置いていた『春秋学入門』の冒頭の2頁は最近訂正を加えておいた。

それにしても暑くなってきた。嫌なことだ。ほんと嫌なことだ。ほんと~に嫌なことだ。

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『春秋学入門』附-4

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

泉州府志所伝

呂大奎、字は圭叔、同安の人。若くして陳北渓の門人の王昭に学び、すっかり詞章の学を棄て、理学(*1)にのみ力を注いだ。淳祐七年の進士に合格し、昇進を重ねて吏部侍郎になった。地方に出て興化軍知事になり、漳州知事に移った。赴任のため家を過ぎったとき、蒲壽庚が元に降伏し、大圭を脅迫して降伏書に署名するよう強要した。拒否したため、殺された。その著書は全て賊に焼き捨てられた。ただ『学易管見』『春秋或問』『易経集解』のみ世に伝わった。

万暦重修『泉州府志』巻十七

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『春秋学入門』附-3

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侍郎呂樸郷先生大圭

呂大圭、字は圭叔、南安の人。若くして郷里の先生の潜軒王昭に学んだ。昭の師は陳北溪安卿であり、安卿は朱文公(*1)に師事した。世々温陵截派と言われた。

大圭は出仕する前、生徒数百人に学問を授けていた。淳祐七年の進士に合格し、潮州教授を授けられた。簡討(*2)に遷り、崇政殿説書、吏部侍郎になった。南方の方言ができるというので、地方に出て興化軍知事になった。中産以下の税金滞納を肩代わりした。『莆陽拙政録』を著した。

徳祐の初年、知漳州軍節制左翼屯戌軍馬に移った。任地に赴く前、たまたま蒲壽庚が州知事の田子真とともに元に降伏した。壽庚は大圭を捕らえ、降伏書に署名するよう強要した。大圭が拒否したので、殺そうとした。たまたま管軍総管の中に弟子がおり、圭叔を抱えて脱出した。大圭は家に着くと、日頃認めていた著書を泥封した一室にしまい、服を変えて海島に逃げた。壽庚は兵を遣わして追跡し、官を餌に投降を誘った。大圭はこれを拒否したため、殺された。享年四十九。部屋に泥封しておいた書物は、賊のために全て焼き捨てられた。ただ門人が伝えた『易経集解』、『春秋或問』二十巻、『春秋五論』一巻、『論語孟子集解』、『学易管見』だけは世に残った。

大圭は樸兜に住んでいたので、地元の人々は樸郷先生と呼んでいた。元の孔公俊が大同書院を建て、朱文公を祀ったとき、大圭をその門人として配享した。丘葵の賛(*3)に曰く、「泉南の名賢、紫陽の高弟、造詣すでに深く、踐履また至り、身を致して君に仕え、生を捨て義を取る。学ぶところ守るところ、公に於いて奚にか愧ずるところあらん。」

按語。黄氏の『道南統緒辨正』には「呂氏大圭は祐間の進士、歴官して侍郎となり、出でて興化軍となった」とある。『南安邑志』『旧郡志』『同安志』『莆陽志』も同じである。ただ『新郡志』だけは『閩書』に基づき、少しく異なっている。この度は黄氏の本に従って改正した。『南安邑志』、『旧郡志』、『道南統緒』、朱氏『経義考』、『閩書』、『泉郡新志藁』。(*4)

李清馥『閩中理学淵源考』巻三十三

〔訳者注〕
(*1)朱文公は朱熹を指す。
(*2)簡討は検討に同じ。ここでは実録検討官を指す。
(*3)丘葵は呂大圭の弟子、賛は文体の一種。
(*4)『南安邑志』以下は、李清馥が本記事を執筆するのに用いた資料を列挙したもの。

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『春秋学入門』附-2

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春秋五論序

『春秋論』五篇全一巻。一に曰く、夫子の春秋を作るを論ず。二に曰く、日月褒貶の例を弁ず。三に曰く、特筆。四に曰く、三伝の長短を論ず。五に曰く、世変(*1)。宋の吏部侍郎・興化軍知事(*2)、武栄の呂大圭圭叔の著したものである。『五論』は文藻豊富にして厳正、春秋の大旨は本書に完備している。

圭叔は淳祐七年(*3)の進士。まず潮州教授を授けられ、のち贛州提挙司幹官に改められた。任期満了で袁州・福州の通判に遷り、朝散大夫に昇格。行尚書吏部員外郎、兼国子編修・実録検討官(*4)、兼崇政殿説書を経由した後、地方に出て興化軍の知事になった。同地では、いつも中下層民の税金滞納を肩代わりしていた。

徳祐の初年、知漳州軍節制左翼屯戌軍馬に移った。任地に赴く前、たまたま元の兵が到着した。沿海都制置の蒲壽庚は州を挙げて投降し、圭叔にも降伏の署名を求めた。圭叔が拒否すると、殺そうとした。たまたま管軍総管の中に圭叔の弟子がおり、圭叔を抱えて脱出した。圭叔は服を変えて海島に逃げたが、壽庚は官職を餌に投降を誘い、〔人を遣って圭叔を〕追跡させた。〔壽庚の使者が〕姓名を尋ねても返答しなかったので、圭叔は殺された。これ以前、圭叔は著書を一室に隠していたが、このとき焼き捨てられた。『五論』と『読易管見』『論語孟子解』(*5)は、学者の間に広まっていたため、幸いにも世に残った。しかし惜しむらく、『管見』などの書物は既に散佚し、現存するのはわずかに本書のみである。

圭叔は若くから学問を好み、郷里の先生である潜軒王昭に師事した。昭は北溪陳淳の弟子であり、淳は学問を晦菴(*6)に受け、その高弟と称された。その来歴から、人は彼らを温陵截派と言った。ああ、当時にあって道学を批判した人々は、いつも道学を迂闊無用の学だと非難した。しかし宋の社稷が滅亡せんとするとき、人は争って北に向かったが(*7)、圭叔のみは姑息な投降を求めず、甘んじて海島に遁れ、己の命を捨てることさえ憚らなかった。まことに大節凛然と言わねばならぬ。ここに鑑みれば、道学が人に背き国に叛かぬこと明白である。なんと感嘆すべきことではないか。武栄は現在の泉郡南安県に当たる。唐の嗣聖年間(*8)、県を武栄州に改めたことがあったので、こう言うのである。圭叔は県の樸兜郷大豊山の麓に住んでいた。そこで学者は圭叔を樸郷先生と言った。

康熙丁巳の年(*9)、納蘭性徳容若が序文を識す。

〔訳者注〕
(*1)『通志堂経解』本文に徴する限り、四と五は順番が逆である。以下、納蘭性徳は現存資料を持ち寄り呂大圭の伝記を巧みに組み立てているが、意味不鮮明の箇所も少なくない。伝記資料としては附録3の『閩中理學淵源考』所伝の方が正確である。
(*2)曖昧な記述だが、他の資料に徴する限り、呂大圭が吏部侍郎と興化軍知事を兼任したことはない。
(*3)西暦1247年。
(*4)原文は「兼国子編修・実録検討官」。恐らく「国史編修官・実録検討官」のことと思われるが、国子監関係の部署につき、さらに国史編修官・実録検討官(もしくは国史編修官になり、さらに実録検討官)になった可能性もある。
(*5)正確には『読易管見』『春秋或問』『春秋五論』『論語孟子解』であるが、『閩中理学淵源考』巻三十三はこれに『易経集解』七巻を加える。『読易管見』については『経義考』巻三十八所引胡一桂の評に大綱が説明され、『易経集解』の名は『閩書』呂大圭伝にも見える。
(*6)晦庵は朱熹の号。
(*7)元(モンゴル)に帰順したという意味。
(*8)武則天の聖暦二年(西暦699年)を指す。『旧唐書』地理志(泉州中)に「聖暦二年、分泉州之南安・莆田・龍溪三県、置武栄州(聖暦二年、泉州の南安・莆田・龍溪三県を分け、武栄州を置く)」とある。
(*9)康熙十六年(西暦1677年)。

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『春秋学入門』附-1

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春秋或問跋

春秋を伝えるものは幾百家、それらの学説のほとんどは褒貶賞罰(*1)を主としたものである。三伝がこれを提唱して以来、多くの学者が賛同したからであろう。しかし朱文公(*2)だけはそう考えなかった。今でも門人の記録によって、その概略を窺い知ることはできるが、残念なことに、まとまった書物にはならなかった。

潮州学官の呂先生(*3)は同地の生徒に学恩を垂れられたが、そのとき春秋について質問するものがいた。先生は『五論』を示されたが、聞き知らぬ学説とて、みな驚愕するばかりだった。そこで成説を尋ねたところ、先生はまた『集伝』『或問』の二書を出された。それらは文公の説に基づきつつ、さらに発展させたものだった。『五論』によって端緒を開き、『集説』(*4)によって議論を尽くし、さらに『或問』によって難点の解明に務めたもので、こうして春秋の旨は明白になったのである。ああ、孔先生の心は文公によって明らかとなり、文公の論は先生によって完備した。ならば先生もまた世教に功あるものである。

夢申は先生に教示を受けたものである。あえて本書を秘蔵することなく、朋友と相談の上、出版することにした。本書が広く読まれることを願う次第である。時に宝祐甲寅の正陽の月(*5)、門人元公書院堂長の何夢申が敬しんで跋文を書す。

〔訳者注〕
(*1)褒貶賞罰説については第一論文を参照。
(*2)朱熹のこと。朱熹の春秋学説は『朱子文集』『朱子語類』に散見するが専著はない。
(*3)呂大圭を指す。呂大圭は科挙合格後すぐに潮州の学官(教授)になった。
(*4)すぐ上の『集伝』を指すと思われるが、あまりに露骨な誤植なので、別著の可能性も否定できない。
(*5)宝祐二年(西暦1254年)四月のこと。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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