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三宅尚斎の谷秦山宛書簡

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

本当に単なる読書メモ。

谷秦山と三宅尚斎が神道をめぐって争ったのは有名な話しだが,秦山の尚斎宛書簡は現在『秦山先生手簡』に見えるのに対し,尚斎の秦山宛書簡は原本の所在は不明らしい。ところが関田駒吉氏の「宮地静軒伝」(『土佐史談』58・59・60連載。現在は『関田駒吉歴史論文集』下巻に収録されている)に宮地静軒の筆写に係る尚斎の書簡を掲載していた。

以下,書簡の内容。これは尚斎宛の第1書簡に対応する尚斎の書簡。ほとんど『秦山手簡』の引用部分と同じだが,少しだけ文意が分かりやすくなっている。

一、神道之義ニ付、前来申進候義ニ付委細被仰聞忝存候。尚又得心難仕、面会不仕候事遺恨ニ存計ニ候。左様程ニ我国にはへ付タル正道御座候ハヽ、儒学一向ニ御ヤメ候而御申被成候へかしと存候。先生へも其不審晴レ不申候。若又我国ニはへ付タレハ、是非其国ニ而ハ其道ガ正道と申事ニも候ハヽ、天竺ニ而ハ仏教を正道と可仕哉と存候。我国ノ道ニ違候得ハ、孔孟ノ道も御取不被成候由、愈以孔孟沙汰向後御無用ニ被成候様ニ被存候。我国上代洪荒質朴ノ世、天然自然ノ道ナリシガ行レ居可申候。天地ニ無二候得ハ、道も無二候。唐ノ道天地ニ本キタレハ、我国ノ道も正道ならハ合可申候。同一ノ道ニも候ハヽ、拙者なと天地自然ノ道ヲ学候得ハ、神道稽古仕ルト同事と存候。されとケ様ニ申候得ハ、唐人ノ合点と被仰候。拙者なと神道ハ秘事々々と申候故哉、又ハはつきとしたる教もなき故哉、幼年より儒ヲ学候而、今更此外ニ又道アルベクモ不存候得ハ、神道是ニ叶候ヘハ珍重と存斗ニ御座候。只々我国ノ歴代故事ニうとくテ唐ノ故事等ヲ情出し第一ニ学ヒ候ハ、是ハ尊喩ノことく御尤至極と是のみハ存事ニ候。先生ノ風水とや風葉とや申ス書も世上出不申候へハ、承可申様もなく、神道ノ教ハケ様ノ事哉。是レモ一向ニ合点不参候。貴丈御病気中なから講書も被成候由、其程ノ御精力珍重ニ存候。しかし右申候通ニ候ヘハ、儒学ヲスル人ノ老荘ノ書なとなやみ候合点ニ而御覧被成候哉と存候。

十月十七日夜(享保二年)
三宅丹次


(*)合字は二字に分解した。
(*)下付け文字の区別はしなかった。

ちなみに宮地静軒は秦山の弟子で,後に尚斎に学んだ人物。宮地家は谷家・箕浦家とならび高知藩の学者の家として知られる。静軒は秦山の弟子で,子供の春樹は秦山の孫の真潮の友人,春樹の子供の仲枝は真潮の弟子というので,谷家と宮地家は代々つきあいがあったらしい。この辺りは同じ関田氏の「隈山幽居中の宮地仲枝」(同所収)に詳しい。

なぜ静軒が秦山の尚斎宛書簡と関係あるかというと,秦山が弟子の教育のため,尚斎宛書簡の模範分を弟子達に執筆させたらしく,静軒はそのとき尚斎の書簡を筆写したらしいとのことだった。もちろん『秦山手簡』に遺る秦山の尚斎宛書簡は,弟子等の意見を汲みつつも,最終的に秦山が書いた文章である。

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テーマ : 読書メモ
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暑くなってきた(ちなみに記事内容はタイトルと一切関係なし)

最近めっきり更新しなくなったが,私の運営するサイトに偏曲観測所というのがある。高畠素之という大正から昭和初期に活躍した思想家(?)の文章を集めたものだが,ぼちぼち4年を終えようというときになって,案の定,更新が止まってしまった。

かなり前の話だが,個人サイト4年寿命説という「学説」が唱えられた。読んで字の如く個人のサイトは4年くらいが存廃のメドになるというもので,サイト運営期間半年分を人生の10年に配当したものだが,私の場合も時間だけはこの「学説」の指し示す運命をたどったようである。ただ運命の中身を見ると,かなり違うところもあった(寿命説の詳細は上のリンク先で確認してください)。

0~半年:
私の場合,終始一貫とまでは言わないが,ほぼ相互リンクはなかった。随って竹馬の友もいなかった。
半年~1年:
オフ会無し。大手サイトに対抗するもなにも,対抗すべき王手が存在しなかった。随って唯我独尊だった。方向性はサイト運営開始以前から決定していた。
1年~1.5年:
日記はつけていなかったし,それ自体は目的ではなかった。これは最初から現在まで一貫している。転職は自分の意志の力でねじ伏せた。
1.5~2年:
日記社会から始めから外れていた。受け入れられようとも思っていなかった。
2~2.5年:
若者の反発もなにも,大手もなければ若手もいなかった。むしろやる気に湧いていたのがこの頃。
2.5~3年:
おおむねその通り。
3~3.5年:
別のサイトに重点が移動したのは確かだが,縮小する必要は皆無。縮小するなら閉鎖する。
3.5~4年:
まだ閉鎖の決断には至っていない。
4~:
未知。

偏曲観測所はもともと「高畠素之の文章を後世に遺したい」という変な動機から出発した。これは「高畠素之をみんなに知って欲しい」というのと微妙に違っていた。かなり大げさに言うと,現在の他人の反応のために行動するのではなく,絶対の真理のために研究する態度に近い(あくまでも大げさに言えばのことだが)。だから「分からない人には分かってもらわなくてもいい」というスタンスだった。たしかに私も人間なので,褒められれば気持ちはいい。しかし全体から見ると,他者の評価はサイト運営の浮沈に影響しなかった。

これには私の性格が反映しているのだろう思う。私は高畠素之が好きだが,高畠素之の主張を否定するのに吝かではない。高畠素之を褒めるサイトを構築する気もない。物事には表があれば裏もあるのだ。だからどうしても魅力に乏しくなる。

気持ちは人に伝播する。思い込んだ人間の発言は,一瞬賛同しそうになる。「この素晴らしい(と自分が思い込んでるだけの)高畠素之をなんとか他の人にも知ってもらいたい(お節介なことこの上ない)」と思うような気持ちになれない私に,そもそも魅力があるはずがないのだ。4年になろうというサイトが,いまだカウンター7600程度なのは,高畠素之そのものの魅力以前に,私のこの活力のなさが原因であることは間違いない。

しかしここが難しいところで,仮に私の努力で訪問者数を増やせたとしても,それが私の目的と合致するかというと,それはまた別のはなしである。個人のサイト運営というのは,それで金儲けでもしないかぎり,なかなかうまくいかない。なにせ自分の都合の良いように評価されないと気にくわないのだから。

まあ結局なにが言いたかったかというと,私は人から相手にもされないことを4年間もねちねちやってきた反社会的人間だった,というだけのことだったりする。

暑いとろくなことを考えないなあ............

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新刊書目録

北九州中国書店から《中国近着書速報》 2009年28号が届いた。懐具合が寒いばかりか,読む必要を感じる本(古典を除く)のないこの頃,すっかり研究書の購入から遠ざかっていたのだが,何気なくメールを見ていると「春秋学研究(全2册)」というのが目に付いた。収録内容はここにある。

未見の本とはいえ,収録内容が分かれば価値は判断できる。民国期刊資料分類彙編の名の通り,本書は清朝最末期=民国最初期以来の春秋学関係の論文を収録したようで,康有為や劉師培・章炳麟から,顧頡剛らを経由して比較的最近(?)の著作に及んでいる。普通の人の感覚だと,康有為や劉師培の著作は古典のようなものかも知れないが,研究史的には一応民国の著作になっている。

残念ながら私にはこの手の研究書を縦横無尽に使いこなす力はないが,極めて個人的な興味の関心から,注目論文をあげると:

1.《春秋穀梁傳》條指 江慎中
52.《春秋公羊疏》作者考 潘重規

の2つが目にとまった。他にも有名な論文はあるが,単行書に入っていたり,序文だけの収録だったりするので,とりあえず改めて/新しく読みたいとすればこの2つになる。

江慎中の穀梁伝研究は,たしか『国粋学報』に掲載された論文で,社会進化論で春秋を解釈した変わりものだったと記憶する。もともと春秋学就中公羊伝には三科九旨などの「段階発展論」的な歴史観がある。宋代になるとこれが世変説のような学説に生まれ変わり,歴史一般を説明する概念に変貌するが,江氏はこれを穀梁伝にも適用し,社会進化論のような「進化説」で春秋を読み解こうとした(正確には無意識の内に清代の春秋学に流れ込んでいた宋代の思考方法が,公羊伝の研究によってより洗練され,それを穀梁伝に輸入して解釈しなおした,というのが正しい)。

これについては江氏と同時代の廖平にも似たような見解がある。廖平になるとひどいもので,春秋の諸国を世界の列強に当てはめ,日本を魯に当てるという学説を発表している。我々からすれば,なんで日本が中国の文化を守らねばならぬのか理解不能だし,当時の中国人からしても疑問があったろうが,それはともかく,古典的世界を直接現実の世界に適応させようという考えが,当時の民国にはあったのである(春秋学一般の傾向か否かは難しい問題なので判断を保留する)。

とはいえ私はおおむかし『国粋学報』でざっと目を通しただけなので,江氏の細かい論点などはほとんど覚えていない。興味を持った人は自分で調べてください。間違っていても責任はもてません。

次に潘重規の研究は,趙伯勇氏の『春秋学研究』に引用されていたので,論文の傾向だけは分かっている。しかし雑誌が近くになかったので,残念ながら未見のままになっていた。

潘氏の研究は公羊疏の成立年代を扱ったもので,日本の重澤俊郎氏の「公羊伝疏作者時代攷」(『支那学』6-4)とほぼ同じ結論に至ったらしい。世に言う春秋三伝には各々権威ある注がある。公羊伝には何休の解詁(かいこ),左氏伝には杜預の集解(しっかい),穀梁伝には范らの集解がある。そして三伝および注にはさらに疏(注の注)がある。杜預の集解には孔穎達らの正義,范等の集解には楊士の疏,そして何休の解詁には誰某の疏がある。

表示すると:

  • 左氏伝-杜預の『集解』-孔穎達らの『正義』(五経正義の1つ)
  • 公羊伝-何休の『解詁』-著者不明の『疏』(十三経注疏の1つ)
  • 穀梁伝-范らの『集解』-楊士の『疏』(十三経注疏の1つ)

公羊伝・何休解詁の疏を公羊疏と俗称するが,この公羊疏の作者はよく分かっていない。一伝には徐彦とあるものの,徐彦その人の生涯も生存年代も分からない。そこで「公羊疏の成立はいつか?」をめぐって宋代あたりから研究が始まるが,結局は六朝から唐五代までのどこか,という当たり前の結論になっている(下限が唐五代になるのは,宋代の人が同時代の著作と見なしていないので,その前の時代,つまり唐五代以前の成立となる)。

これに対して重澤氏は,公羊疏の文言を詳細に調べ,南北朝時代の成立であることを説明された。これは日本で極めて有名な学説で,半ば通説のような扱いになっている。ただ六朝から唐五代は現存文献が少なく,あらゆる考証は極めて零細な資料を根拠に用いねばならず,どうしても断定的な結論が出せない。そこで多くの可能性を想定しておく必要が生まれる。

この潘氏の研究は,重澤氏とほぼ同じ結論のようだが,研究者が異なれば着眼点や証明方法も異なるので,是非とも潘氏の著書を研究し,公羊疏成立年代の可能性を確認したいものである。

この2つ以外の論文にも有名なものは多いが,本叢書の傾向なのか,著名な単行書がいくつか収録されていない。論文を軸に収録内容を選んだのだろう。

前の李源澄の著作集でも触れたが,民国時期の経学研究は,研究対象として頗る価値がある。いわゆる西欧の衝撃によって打ち砕かれた中国の古典世界の限界と挑戦を,そこに見ることが出来るからである。経学とよばれるものの意味,および経学が今後存続するのか,あるいは存続/復活させるにはどうすればいいか,この辺りを考える上で最も価値ある時代である。

ちなみに私は経学が生き延びるには,経学につきまとう中夏中心主義を脱却しなければならず,脱却するには春秋学をどうにか片付けなければならないと思っている。最近中国でも日本の「漢学」が研究されているが,儒学や経学を中国・日本・朝鮮・ベトナムあたりまで広げてしまうと,中夏の存在価値はどうなるものか。この辺りは日本の朱子学者の間でもいろいろ問題になっている。

経学や儒学などは過去のものだと思う向きもあるだろうが,それは少し甘い。思想はそれほど分かりやすい形で迫ってこない。分かりやすい形で迫ってくるときは,受け入れるか玉砕するかの二択を迫られる段階まで来ている場合だ(専門家はもちろん別だが)。だから儒学や経学という,我々に分かりやすい形ですぐに迫ってくるわけではない。ふつうは「孔子は素晴らしいですよね」とか,「中国にも西洋の思想に匹敵するほど深いものがあるよね」とか,そういうソフトな感じで迫ってくる。

そして中国の思想=まあまあ素晴らしいから,中国の思想=素晴らしいになると,何が素晴らしいのか,どう素晴らしいのかが問題になり,いよいよ中国の思想の中心に儒学があり,儒学の根本思想は経学にある。では経学は何か?が問題となる。そして経学は中夏中心主義なので,中心になれない人となれる人の間で思想的な葛藤が生まれる。しかも中国以外の世界が大きいので,なおのこと厄介な問題となる。

もちろんこれは思想だから,広告が中国語になるとか,やたらあちこちに孔子の像が建つとか(これはありうるが)とか,軍事的な問題とかではない。人間の発想として,経学が問題になるということである。これらは歴史学の問題ではなく,思想の問題である。それも極めて現代的な思想の問題である。だから歴史的に思想を語る人々には,とても手に負えない問題といえるだろう。


と,めずらしく春秋学の大部の本が出版されるようなので,ちょっと興奮してしまった。わざわざ読んでくれた人ありがとう。でも値段が税込みで35700円というのがネックだよね。でもこれ大陸・台湾のどちらの本だろうか?論文名が簡体字なので大陸かな?

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句読点なし

句読点なしの文章を書きたいらしい人がこの日本にはいる。私は面白い試みだと思うが,残念なことに江戸時代ほとんど用いられなかった句読点が,明治以後に用いられ始めるや瞬く間に普及したことを思うと,やはり句読点は便利なのだろう。ならば句読点抜きの日本語を書いても,現代人には苦痛なだけだと思う。

これは中国でも同じで,句読どころか改行すらしなかった中国語が,近代化するや否やあっという間に句読点を取り入れ,挙げ句の果てに漢字は簡体化するわ,書式は横書きになるわ,驚くべき変貌を遂げている(現代の中国語は横書きだよ。ただし台湾は縦書きで,日本のいわゆる旧字体を用いている)。

とは言いつつ,少し前に私が読んでいた本は,ふと気づくと句読点のない本だった。著作権が切れているので少し引用してみよう。

以下,寺石正路氏の『南学史』(冨山房,昭和9年)の第五十一章谷秦山の冒頭。ただし完全な旧字体表記は断念した。もちろん原書は縦書き。なお寺石氏についてはこちらのページ土佐の歴史散歩のサイト内)に詳しい解説がある。ただし没年は逆算して昭和24年だと思うが,もしかしたら卒年が混乱しているのかも知れない。どちらにせよ著作権の保護期間は切れている。

野中兼山廃黜後南學一時四散の際土佐に在りては兼山の又弟子大谷養正を抜擢し伊藤仁齋の妻弟緒方宗哲を招聘し以て藩學の缺陷を補ひしも素より曩時の隆盛に比すべくもあらず只僅かに學問の餘喘を保つに過ぎざりしが此に土佐の國に偶然一箇の豪傑生れ出で忽ち前緒を紹ぎ後業を興こし已に絶へんとする南學を復興し人材輩出の端緒を啟き天下の氣運に關係する一大偉勳を建てたるものあり其の人は誰ぞ谷秦山名は重遠是なり

谷秦山は祖先長宗我部氏の臣下に屬し代々岡豐城八幡宮の神官なり秦山山内氏の代に生れ天資聰明にして幼より童の譽あり苦學力行一日も怠らず京に上り山崎闇齋淺見絅齋に就き儒學を學び後更に度會延佳につき道を質し澁川春海に從ひ天文を窮む博學洽聞海内比少なし且つ識見超邁に議論亦允當に著書等身人仰ぎて文學の泰斗となす其子垣守亦儒の道に通じ孫眞潮亦學問あり藩の樞機に參す秦山通稱は丹三郎、垣守丹四郎、眞潮丹内依て谷の三丹と稱す眞潮弟好井といふ高山彥九郎と交篤し其子景井儒醫を業とす其子は卽ち子爵隈山干城なり一門皆豪傑有爲の材に富み人材輩出世に稀なりとす

秦山儒學を以て自ら樹立す南學四散後土佐に鴻儒の無き二十餘年忽ち秦山出づるに及び藩學再び振ひ弟子雲集其の門に集まり奧宮正明、入江正雄、安養寺禾麿等各一科を以て其の名を成し文學鬱然として海南に興こり元祿正の盛は古の永正保に讓らず其の文化の普及は恐くは此の時代を以て土佐の黃金時代と稱すべし然して垣守眞潮の子孫に於ても門下に幾多の俊材を出し其の後昆延びて皆明治の維新志士となり千載一時の氣運に際會し國家の爲め偉勳を建つ其の由來一朝一夕の事にあらず蓋南學は之を遠ふして兼山闇齋の鼓舞に本づくと雖も中頃秦山の極力鼓吹に由つて土佐一藩に流布し遂に國民的の基礎となり克く維新の大業を成就せしは兼山闇齋の志も秦山に至り始めて達成されたる者と謂ふべし今左に秦山の學統竝に學流とその概傳を述べん(476-467頁)



なかなか感動的な文章ですが,みなさんは果たして読めたでしょうか?慣れもあるでしょうが,根本的に固有名詞が分からないと読みにくて仕方ないですよねえ。でも案外句読点がなくても,句や文の切れ目に「其の」とか「然して」とか「素(もと)より」とか入ってあるので,読めないものではなく,人名が連続する場合は読点が入っていたりと,手加減はされているようです。ちなみにこの本,漢文には読点と返り点が付いてます。

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更新記録

サイトの更新記録です。今回はサイトの整理が中心で,特に目新しいものはありません。以下,毎度のことながら更新部分の記録を書いておきます。

○春秋学:春秋経文総合のページを改題新設。
春秋12公の経文と隱公篇の伝(注釈)を加えました。隱公篇の伝は前回の哀公を削除し(不備が目立つため),春秋学でもっとも重要な隱公の部分に差し替えました。データは前回の更新時に言っていた新しいものを用いました。

○宋代史:『宋史紀事本末』関係のページを整理。
いままで宋代史のトップページに書いていた『宋史紀事本末』関係の記事を『宋史紀事本末』総合ページに移動。内容上の更新はありません。ただブログ掲載の訳文はリンクしておきました(復燕雲以下の数篇)。

○背景色を変更。
模様画像を消しました。私はデザインに詳しくないので,もともと凝った作りのサイトにするつもりはありませんでしたが,どのような色をつかえば文字が読みやすくなるのか,いまだによく分かりません。読みにくければご一報ください。

春秋の重要な注釈は,今回公開したものを除き,三伝の注(何休・杜預・范ら),陸淳(纂例と辨疑),蘇轍,胡安国,呂本中,張洽,戴溪,趙鵬飛,黄震,呂大圭,趙汸etcと多くあります。しかし私が必要と思う人は,今回公開した人々を除き,三伝の注,陸淳,蘇轍,呂本中,黄震くらいです。

呂大圭の『或問』は注釈形態の本ではないし,張洽は今回公開した人々の学説を集めたような本であり,戴溪と趙鵬飛の重要部分(珍しい解釈)は黄震の『日抄』に引用されている等々というわけです。まあそれでも蘇轍とか一部の人はまだ未掲載なので,今後もできればタラタラ引用注釈書を増やしていきたいと思います。なお桓公以下は時間がかかりすぎることと,私に手持ちのデータがないことと,隱公ほど重要な意味がないこととを鑑みて,今のところ作る気はありません。

ちなみにこの春秋経文と隱公篇の注釈集成は,以前このブログで掲載していた『四庫提要』春秋部(正目/存目など)および『春秋学入門(春秋学綱要)』とセットで,春秋学の基本文献を公開する目的のもと制作した(つもりの)ものです。本当はこれに『黄氏日抄』(春秋部)が加わり,もうひとつ春秋学事始を執筆してほぼ完成というところですが,なかなか道は遠いですね。多分完成しないでしょう。期待しないで而かも待たないでください。

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『李源澄著作集』全4冊

それにしてもこういう形で李源澄の本を読むことになるとは思わなかった。李源澄(1909-1958)は,清末から人民共和国初期まで生きた四川の学者で,廖平や蒙文通の弟子として知られている(蒙文通を先生とするかどうかは不明)。いわゆる晩清経学から民国時代の経学・歴史学の一齣を飾る人物で,当時(の四川)にあってはそれなりの名声をもっていたが,不幸にも大陸で「反動分子」扱いされた。最近になってようやく四川で再評価され始めた。著書に『経学通論』『秦漢史』『諸子概説』『李源澄学術論著初編』などがある。

かつて私は廖平の学問に興味を持ったことから,廖平思想の顛末を知るべく,その弟子達の著作を読みたいと思っていた。廖平の弟子の中,最も有名な蒙文通は全集も出版されており,著作を読むには苦労しなかったが,当時四川で活躍していたらしいこの李源澄は,名前こそ出るものの,著作については残念ながら読めなかった(日本でも一部の大学には所蔵していたが,ツテがなかったので諦めていた)。それがこのような形で読めるとは,予想外の出来事であり,また感動だった。人間長生きするものだ。

この著作集の構成は以下の通り。
  • 第1冊:『経学通論』『秦漢史』『諸子概説』
  • 第2冊:『李源澄学術論著初編』,経学及経学史
  • 第3冊:哲学思想,政治及政治制度史
  • 第4冊:社会史,経済史,雑著,附録(伝記一覧)
この『李源澄著作集』(リンクは東方書店)は李源澄の著書と学術誌掲載論文を網羅し,かつ第4冊に豊富な伝記資料を付したものである。なお第4冊は附録が半分以上を占めている。本文の文字はやや大きめでゆとりあるレイアウトだが,眉をひそめたくなるような「ゆとり」加減ではない。大陸の理学叢書より少し余裕がある程度だろうか。だから四冊なのも「ぼったくり」ではないと思う。2008年11月,林慶彰・蒋秋華主編で,中央研究院中國文哲研究所から「民国以来経学研究計画」研究成果の1つとして発刊された。

一通り説明しておくと,民国時期の中国は晩清経学と近代的学問との間にあって複雑な学問を生み出した。例えば李源澄の四川関係でいうと,晩清経学の代表的経学者の廖平は最後まで経学者ではあったが,経学世界から歴史学的な視点を導くことに成功した。そしてその成果は弟子の蒙文通に受け継がれ,風土と進歩史観・民族学を加えた近代的な歴史学に結実した。つまりこの時期の経学・歴史学は,王朝時代の学問から現代の歴史学に向かうための一過程として捉えられるのである。ただしこの学問は大陸では長続きせず,例の如くマルクス主義の台頭によってああいう結果に了った。

しかしこの民国時期の学問は,現代の歴史学を生み出したという歴史的な所にのみ存在するわけではない。この時代に生きた人間は,伝来の経学世界と歴史学の両者に脚を踏み込んだ人間である。特に顧頡剛のような疑古派にならなかった四川の学者は,穏当ゆえに保守的であり,歴史学を基調としつつも,その一部に経学世界を保持したような学問を展開した。それ故に彼らは単なる歴史学者でもなく,もちろん経学者でもなかった。少し大げさに言うと,彼らは歴史学とは何であるかを,常に研究し続けていた/続けざるを得なかった人間たちであった。ならば歴史学の無価値が叫ばれる昨今,蒙文通らの学問は,歴史学の本来的意味を探る上でも,あるいは歴史学を否定する意味に於いても,極めて価値ある研究テーマと言えるのである。

まあそれはともかく,今の私にはそのような大きな問題を解明する実力はないので,とりあえず以前から読みたかった『経学通論』を読むことにした。『経学通論』,新装版の本書でわずか71ページの小著であるが,少なからず価値ある発言があった。

『経学通論』は,自序,1論経学之範囲性質及治経之途径,2論経文,3論経学流変,4論今古学,5論唐修五経正義以前之経学,6論宋元明経学,7論清代経学,8論読易,9論読尚書,10論読詩,11論読三礼,12論読三伝の12篇から成っている。晩清経学の影響を受けつつも,ある程度それとは距離を置きつつ論じたものだが,宋明の理学にはあまりページは割かれていない。推して著者の意を察すべきものがある。

各篇を簡単に説明すると,1は論題の通り,2は経文の発生由来,3は漢代から清代までの経学史,4は今古学の説明だが,廖平の学説を容れて,今文・古文と今学・古学を区分しているのは李源澄の学の淵源を察するに余りある。5は六朝以前の経学,6は唐代中期以後のそれ,7は清代のそれ,8~12は各経書を時代的特徴を混ぜながら説明したもの。3以後は経学史に属すテーマで,まま「清人の所謂徴実は,故書に徴しただけで,事実に徴したものではない」などの立派な視点も垣間見えるが,紙数の制限からか,ダイジェストの感をぬぐえない。これなら元明以前の経学は皮錫瑞で,清は梁啓超や銭穆の本を読んだ方が勉強になる。2(および3・4)にしても,それこそ『周予同経学史論著選集』の今古学の説明を読んだ方が詳しい。要するに,本書は経学史の流れを知った人間が,新しい知識を得るためではなく,別の視角を得るために読むべき本と思われる。

なお本書には多くの引用文が見えるが,特に廖平と蒙文通,龔道耕(後述)の引用が多い。また廖平には「師」(師匠の意。日本語の「先生」の語感に近い)を,蒙文通などの自身の関係者には「先生」(日本語の「さん」に近い)を記し,他は敬称が略されている。これらからも李源澄の学統の重きを知ることができる。私は最近この手のかき分けに好意的だったりする。以前は見ただけで嫌悪感を覚えていたのだが,人間の考えは変わるものだ。

さて本書の価値は言うまでもなく1にある。李源澄は経学を史学(歴史学)の下に置くことに反対し,独立の別分野とすべきことを主張している。この点は蒙文通と異なる。李源澄によると,経学は哲学であると同時に宗教(神学)である,換言すると史学であると同時に子学(諸子百家の)である。経学が単なる歴史学でない以上,歴史学の下に置くのは間違いだという。ただし李源澄は,経学が現在に生き続けるには,漢学や宋学の糟粕を嘗めても意味はなく,新たに生まれ変わる必要を説いている。その方法として,治経,治経説,経学の各時代の中国文化に対する影響の3点を研究する必要を説く。治経は経文(歴史学としてではなく経学としての)の意味の解明を,経説は重要な経学説それ自体の意味の解明を意味する。

李源澄の論述は,経学の独立性を重んじつつも,全体的に歴史学的な傾向を感じさせる。あるいは所謂歴史的には,経学を歴史学の一分野として扱った当時の風潮があったにも拘わらず,あえて経学の独立性を主張したところに価値があったというべきなのかもしれない。経学が歴史学と異なることは言うまでもないことだが,経学がなくなった現在となっては,過去の遺物を探る意味で経学を扱うので,経学は歴史学の一部となる。しかし李源澄のように経学を現在のものにしようとすれば,当然ながら歴史学の外に出さなければならなくなるだろう。李源澄の発言は自明のものであるが,経学(経学史ではなく)の復活を企図する場合,あるいは私のように経学を歴史学から脱却させる方法を考える場合,無視できない重みをもっている。この明白な主張を改めて確認できたことだけでも,本書を読む価値はあった。


ちなみに本書には「龔先生」なる人物が頻出する。はじめは龔自珍かなと思っていたが,章太炎の後の人間なので,そのはずはない。では誰か。断定はできないが,恐らく龔道耕なる四川の学者ではないかと思う。同氏は夥しい経学著作があったらしいが,李源澄が多く引くのは恐らくその『経学通論』(同名)だと思われる。刊本があるらしいが未見。そもそも日本に輸入されたのかさへ不明である。龔道耕ついては,舒大剛氏に詳細な論文(一位不該被遺忘的経学家-略論龔道耕先生的生平与学术-/忘れてはならぬ経学家-龔道耕先生の生涯と学術-)がある。舒氏は四川で活躍されている著名な学者である。

以上。久しぶりに良い本を読んだ。

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四コマ

店長の憂鬱1(バンブーコミックス) (バンブー・コミックス)店長の憂鬱1(バンブーコミックス) (バンブー・コミックス)
(2009/05/16)
碓井 尻尾

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そういえば碓井尻尾氏の『店長の憂鬱』という四コマを読んだ。発売から時間が経ったが,面白かったので記念に感想でも書いてみたい。

本書は書名のとおり回転寿司屋の店長の日々の憂鬱を笑いに仕立てたもので,内容的には真面目で素直だが今一つ頼りない部下・エビハラ君,無口だがラブリーな趣味のある鮫島さん,やることなすこと滅茶苦茶という本書の紅一点・アユカワさんとのやりとりがほとんどを占めている。

舞台が回転寿司屋だけに,寿司に関する話しが圧倒的に多いが,回転寿司屋ならではの話しは思ったほどに多くなく,どちらかというと回転寿司屋を利用した日常的な笑いを追求した作品のように感じた。

ちなみに本書は最近よく見かける萌え系四コマではない。たしかにヒロイン(?)のアユカワさんはなかなか可愛いく,仕草もハチャメチャだが,真面目人間の店長が主人公に居座っているせいか,全体的に日常的な笑いが多い(もちろん漫画のそれだが)。絵柄についても,むりに萌え絵に仕立てることなく,各々の表情や仕草が端的に描かれており,本書の雰囲気にあっている。特にハプニングに見舞われたときの店長の目は,それだけで笑いがこみ上げてくる。

というわけで,久しぶりに普通の面白い四コマに出会えた。本書には雑誌既刊分のほとんどが収録されているので,本書ではじめて興味をもった人も滞りなく雑誌に移行できる。

なお碓井氏は『MOMO』でも青春甘辛煮という四コマを書いている。これは新撰組をモチーフにした剣道部の物語だが,相変わらず「目」は笑える。こちらも私のお薦め。

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ジャンル : 本・雑誌

分野説

『秦山集』を読んでこのかた,少しずつながら関係論文やら何やらを読んではいるが,時間がないのはともかくとして,資料の閲覧が難しいのと私自身に研究蓄積がないのと相俟って,よく分からない点が多い。

その1つに分野説,やや広くして天人相関説がある。分野説は天体観測の必要上設けられた二十八宿(二十八の区分)を地上に当てはめ,天体二十八宿の性質によって該当する地上の運命(のようなもの)を決定しようとする考えである。つまり某々の地は天体の某々の宿に該当する,某々の宿は吉だ,では某々の地も吉だ,という考え方である。平たい話し,星座占いの地域版だと思ってもらえばいい。天人相関説は読んで字の如く,天と人とか相関しているという考えである。

この種の考えは,中国において,通念としては清朝まで残存したが,現実的には宋代以降あまり相手にされなくなり,分野説を直接根拠とした施政や軍事は,正常な政治状態のもとではなくなった。現代の日本人にしても,星座占いを強固に信ずる人はそう多くない。少なくとも国会議員が星座占いで政治や戦争をするとなると,ほとんどの日本人は反対するだろう。だから分野説の否定は,現代の日本人からすると頗る分かり易く,また受け入れやすい考えである。

ところが秦山はなぜかこの分野説・天人相関説をやたらと推している。彼は渋川春海からこの考えを得たらしいのだが,なぜ秦山は分野説をこうも簡単に信じられたのだろう。秦山は朱子学を修めた人物で,少なくとも朱熹に関するさまざまな学説(当時の日本に於いてだが)を研究している。秦山の論理構造や発想のかなりの部分は典型的朱子学者としてのそれである。しかもその朱熹は分野説などの天変もどきの学説には否定的である。

もちろん秦山にも言い分はあるらしく,彼によれば中国を中心に分野説を述べると間違いだが,日本を中心にすると,窮めて正しく,歴史的に見ても妥当なところが多い(つまり矛盾が少ない)という。渋川春海は貞享暦を作った人間であり,秦山もその天文学を受けた人間である。秦山はその詳しい天文観測技術を用いて,この分野説の正当性が立証されたと考えたらしいのである(『壬癸録』には天人相関説の矛盾も多く載せているが,全体的に分野説や天人相関説を信用していた節が見られる)。

まあ人間の常識というのはいい加減なものだから,もしかすると神様から見れば天文と人事は相関関係があるのかもしれない。しかしそれはともかく,中国思想の常識では,宋代前後で天文技術が高度化し,それにともない思想上でも分野説などの天人相関説が否定され,なんとなく通念だけ残り,近代に至り消滅する,ということになっている。ところが秦山の場合は,朱子学を受け入れ,さらに宋代よりも高度な天文技術を手にいれ,分野説を認めるという,逆転した結果に行き着いている。

秦山の研究書や論文には,秦山の分野説を激賞する向きもあるようだが(そもそも秦山の思想を研究している人間自体が珍しいが),私には秦山の分野説是認がどうにも気持ち悪いものに映った。当時に於いて最も「進歩的」な知識と思想をもつ人間が,それ故に最も「古代的」な知識と思想の正しさを確信するに至ったように見えて仕方がなかった。

恐らくこれは私の理解が足らないことから来るのであろうが,秦山についてはもう少し調べて見るつもりなので,なにか知見があればまた書いてみたい。


............どうでもいいがATOKは変換ミスが多すぎる。何回変換ミスすれば気が済むんだ。単語登録のせいもあるが,日常会話・ビジネス用語以外の言葉を使う人間には年々使いづらくなっている。高性能すぎるのも問題だなぁ。

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四コマとか知見とか

いろいろあってこの週末はゆっくりできる。久しぶりのことなので春秋学のあれこれでも書こうかと思ったが,やはりやめた。やりだすとかなり時間がかかるし,苦労する割に評判がよくないので。ということで最近気づいたことども。

私は何度か住所を変えているが,いま住んでいる場所にラーメン屋があまりないような気がしていた。そこで試しにネットで住所近辺のラーメン屋を調べたところ,あるにはあるが目立った店がないという風評が広まっているらしかった。でも2~3の有名店はあるらしく,評判もそこそこだった。

で,さっそくその住所を調べて見たところ,ちょっとびっくりする店が1つあった(ちなみに他の1つは廃店,もう1つはチェーン店)。

店の名前は出せないが,あそこのラーメン屋は開店してしばらく後に友人と2人で行ったのだ。そのときは2人して同じものを注文したのに,2人とも麺の硬さが違って苦笑い。それから数年後,別の友人と2人で行って,そのときは不衛生な印象を受けて苦笑い。という感じの店だった。あれから何年かするから,もしかしたら改善したのかも知れないけど,あの店が評判だとはちょっと驚いた。............人の好みはいろいろだけど,まさかあそこがねぇ。

話変わって,いまさらながら今月の『ジャンボ』(四コマ誌)。

同誌には後藤羽矢子氏の『コミカプ』が連載されている。幼なじみの男女が漫画家を目指すという,今風の設定を合わせたような内容の四コマなのだが,それはともかく,先月号の最後で,スタートダッシュでアニメ化までこぎ着けた男の子の連載が終了するという(衝撃の)展開があった。で,今月号。連載終了の原因は,不人気な話を出して云々ということだったらしい。まあ,それはいい。しかしその不人気シリーズの名はなんと「異界編」だった。

異界編......私はこの名を聞くとこれしか思いつかない。異界編で不人気に。もう知らない人の方が多いかも知れないけど(終わった途端,文庫本が発売されたのには笑った)。

ちなみに『ジャンボ』というと,以前酷評した田川氏の『ひかるファンファーレ』が載っている。酷評した手前,毎月拝読して「研究」しているのだが,最近は絵もますます読みやすく,表情や仕草にもわざとらしさが消えていったように感じる。ただ,あまりにシナリオの教科書通りの展開にちょっと残念な気持ちが抑えきれない。でも結衣の自称ライバル・亮子が活躍(?)する話しは結構好きだなあ。ああいうさわやかで嫌味な性格で,しかも失敗する人間には,ひどく親近感を感じる。第2巻が発売されたら買いますので(生きていたらだけど)。

もう一つ,久しぶりに『きらら』を読んだ。こちらのブログを見て,「マイヨ」というキャラが気になっていたのだ。この「マイヨ」氏,残念ながら今月号ではあまり活躍しなかったが,これ異識氏の『あっちこっち』だったのね。たしかにブログにもそう書いてあるが,キャラ名だけが私の頭に残っていたらしい。

『きらら』は『ちるみさん』が連載されていたころ講読していたが,それが『スペシャル』に移動したので,私もそちらに移動してしまった。たしか『ちるみさん』連載の最後の頃に『あっちこっち』が始まり,連載開始当時から人気があったように記憶する。が,私は『ちるみさん』の移籍だのなんだので気を取られており,ほとんど記憶に残っていない。でも当時は「異識」ではなく「魔王陛下」とかいうペンネームだったような気がするが,どうだったかな?

最後に。これも漫画の話しで恐縮だが,おおむかし私がゲームの四コマやら何やらが好きだった頃,都波みなとという人のものをよく読んでいた。上から読んでも下から読んでもというペンネームで,それ自体にセンスを感じていたが,ゲーム四コマで活躍した幾人かが一般紙の四コマで活躍する中,一押しだった都波さんの名がついぞ見えなかったのには惜しい気がしていた。

時も流れ興味も移り,ゲームもせず,従ってそれ系の四コマも久しく読まなくなった去年。友人と本屋に行ったとき,その友人が都波さんの四コマが掲載されていることを教えてくれた。全く知らないゲームの四コマだったので,内容こそよく分からなかったが,都波さんの健在振りを知り得ただけでなにやら嬉しくなった。

で,その都波さん。サイトを運営されていたらしい。何年か前に何度か調べたのだが,そのときは見あたらなかった。だからサイトは運営しない人なのかと勝手に思っていたが,そうでもなかったのね。

いちど都波さんの四コマを集めて本にしてくれないかな,という無謀なことを考えつつ,まだまだご健在の都波さんに妙な感謝と感動の気持ちが生まれた。

以上。

そうそう『秦山先生手簡』に掲載されている谷秦山と三宅尚斎との論争だけど(儒学止めたらのアレ),この1番目の尚斎の書簡が残っていたことを知った。ということで,さっそく秦山の引用する尚斎の文字と比較したところ,秦山は尚斎書簡のほぼ全文を引用していた。考えてみれば重要部分を全部抜き出すのは当たり前だよね。

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後編の画像も出てたのね

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(2009/06/26)
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知らなかったけど,BD版『カードキャプターさくら』のさくらカード編の表紙(?)が出てたのね。なんとなく表紙のさくらちゃんは悲しげですね。たぶん「慈愛溢れるまなざし」なんだと思うが,さくらちゃんは小学生だからなぁ,そんなものを求める気にはなれないねぇ。それとも買ってくれ~と訴えてるのかね。残念だがおじさんお金がないんだよ。

他にも書きたいものがあったが,ちょっと疲れているのでこの辺で止めておく。

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谷真潮略年譜

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

前に谷秦山垣守の略年譜を作ったので,真潮のそれもと思っていたが,年月日の分かる史料が見あたらなかったので年譜は断念し,そのあらましを写すに止めていた。ところが最近松山秀美氏の「土佐歌人群像」の真潮の篇を見ることが出来た。

松山氏の論文は真潮の生涯を詳細に組み立てており,真潮の生涯を探るべくまず読まねばならぬ論文だが,亡失した史料を多く引くため,現在では「単なる詳細な論文」以上の価値をもっている。今回はこの論文を利用して,真潮の年譜を作ってみた。言うまでもないが,詳細は松山論文を直接参照のこと。なお真潮には吉崎久氏に『谷秦山・垣守・真潮関係書目録』があり,松山論文を利用しての詳細な研究がある。以下はあくまでも私的な略年譜に過ぎない。附録として北渓行状から逸事二三条を引いた。

以下,2009/08/09追加。

○享保12年。1歳。
1月3日,誕生。
○元文1年。10歳。
2月23日,惣領御目見。
○寛保2年。16歳。
7月28日,弟の銀六(万六好井)誕生。
○同3年。17歳。
1月28日,垣守の宅が類焼。
○延享2年。19歳。
12月29日,立田道庵の娘と結婚。
○同3年。20歳。
3月,父垣守に随い江戸出府。御宮仕役。橘恒樹と交友を結ぶ。
○同4年。21歳。
5月11日,父垣守に随い帰国。
○寛延1年。22歳。
1月9日,三人扶持を賜い,学問相励むべき旨仰付られる。
9月22日,長女誕生。
○宝暦1年。25歳。
8月18日,長男氏太郎丹蔵誕生。
○同2年。26歳。
2月18日,大谷直昭の代わりに宮地春樹と御屋敷講釈代講を拝命。
3月30日,父垣守が病死。
7月22日,父の跡目を嗣ぐ。
○同3年。27歳。
9月1日,宮地静軒(80)が病死。
○同4年。28歳。
3月3日,江戸出府のため浦戸出港。
○同5年。29歳。
4月17日,帰郷のため江戸出発。
5月4日,帰郷。
○同6年。30歳。
3月3日,江戸出府。
○同7年。31歳。
6月10日,帰郷。
7月26日,大風雨により家が倒壊。
○同8年。32歳。
7月17日,次男三次郎誕生。
○同9年。33歳。
12月22日,教授館落成。
○同10年。34歳。
1月16日,宮地為斎(春樹)・箕浦立斎・戸部愿山と教授役に就く。儒者となる。教授役中に暗闘が盛んになる。
○同11年。35歳。
6月28日,江戸出府。
7月3日,若殿(豊雍)御師範役を拝命。浦戸出港。
9月4日,嫡子氏太郎(丹蔵)が御目見。
○同12年。36歳。
江戸出府。
○同13年。 37歳。
弟万六を従えて江戸出府。縣居門人録(賀茂真淵)に載る。
○明和1年。38歳。
6月16日,帰郷。
11月24日,秦山妻が病死(86)。
○同2年。39歳。
2月13日,北山通りで江戸出府。
6月27日,母池内氏が急逝(58)。
○同3年。40歳。
6月10日,帰郷。
11月9日,二男三次郎が死亡(9)。
○同4年。41歳。
4月13日,長子丹蔵とともに江戸出府。
11月19日, 豊敷薨御,豊雍襲封。
○安永1年。46歳。
1月9日,切符四石加増。
25日,江戸出府。
5月11日,妻(立田道庵娘)が死亡。
○同2年。47歳。
5月21日,帰郷。
○同3年。48歳。
11月17日, 別府伝之丞の娘と再婚。
○同4年。49歳。
4月8日,丹蔵が病死(25)。
○同5年。50歳。
4月1日,万六好井を養子とし御目見。
11月12日, 娘が死亡。
17日,丹蔵の遺腹の男子万三郎が誕生。
○同7年。52歳。
1月9日,新知百五十石を拝領。
2月末日,浦奉行を拝命。教授役免除。儒学は好井を取立。
4月1日,東灘を巡回する。
○同8年。53歳。
4月3日,室津湾の暗礁を取り除く。
○同9年。54歳。
3月19日,日本紀会で雄略紀を講了。
○天明1年。55歳。
7月28日,三男楠八宅守が誕生。
○同2年。56歳。
6月1日,関東御用船が甲浦へ漂着。
5日,安芸郡甲浦へ出張。
7月27日,漂着船の始末滞りなく勤める。
○同3年。57歳。
7月5日,役領知三十石を下賜。
○同5年。59歳。
4月11日,宮地為斎(春樹)が病死(58)。
5月28日,浦奉行を退職。教授役にもどる。
○同6年。60歳。
2月3日,大火事。
○同7年。61歳。
1月,万六が帰宅。
8月4日,郡奉行・普請奉行・物頭格を拝命。役領知五十石を拝領。
○同8年。62歳。
1月23日,大目付切支丹役柄弦御差物となる。
2月26日,諸臣を会して緊縮省略を議す。天明の改革開始。
6月14日,弟の大吾垣雄が病死(57)。
7月17日,江戸出府(仕置役場を相兼)。
○寛政1年。63歳。
4月22日,仲枝を従えて江戸を立つ。
5月18日,帰郷。
29日,五藤永之助の江戸出府に代わり教授館頭取。
8月24日,豊雍薨去,豊策襲封。
12月3日,異国船の要務を帯びて甲浦へ出張。
14日,甲浦から帰着。
○同2年。64歳。
4月14日,万六が江戸で三人扶持十石を拝領。二人扶持五石合力米を拝領。格式御小姓格。
○同3年。65歳。
7月9日,老齢を理由に大目付役柄弦差物を罷免。教授役に戻る。
○同4年。66歳。
1月23日,神代巻講釈開巻。
○同6年。68歳。
8月5日,安並雅景が素読に来る。
○同7年。69歳。
3月5日,宮地仲枝が江戸出府。
8月17日,発病。
○同8年。70歳。
2月15日,加増知五十石を拝領。
6月16日,宮地仲枝が帰国。
○同9年。71歳。
9月11日,発病。
10月17日, 病死(18日の説もあり)。
12月15日, 万六が家督相続。
○同10年。
3月1日,宅守が好井の養子となり御目見。
9月18日,丹蔵の子の万三郎が病死(24)。
○同12年。
5月23日,宅守が江戸で客死(20)。
○享和3年。
9月25日,真潮の妻が病死。


先生 家の神道、大父秦山先生は渋川春海先生より伝来あり、父君垣守先生は玉木翁より伝来ありて、誠に奥秘ある伝授の事なり。然るに先生 壮年の時より神書を通読せられ、伝来の事に間然する事有りて、垣守先生の説を受けたまはず。垣守先生 殊のほか深いに思し召し、我が家に悪魔が入りしなどとまでもいはれしとなり。先生 恐れ入りながら、終に伝来の説に随ひたまはず、神書文面の儘を自見めされ、終に一見識を立てられけり。垣守先生も力及ばず、以後にはその方の見識の処も一種の事なれば、まずその分の事なり。されども、只今まで蔵来りし神道奥秘の書 いつまでも大切にいたすべしといはれしとなり。

先生 近年著述し給ひし『論聖』『論仏』の二編、誠に世に類ひなき物にてぞありける。儒仏の事は古来論説多かれど、この二編のごときもの和漢ともにいまだ先哲の説を聞かず。古今の確論と云ふべし。この論に『神道本論』を併せ読みて三国の道体、掌上に見るべし。

先生 儒道の学風、壮年の頃より、他に異なる事多しとぞ。勿論程朱の学を本とせらるれども、亦た諸家の取るべきをば平常捨てたまはず。徂徠などの説にも服従の事多し。軍法は『孫子』を常に講ぜられ、能くその義を精究したまひけり。常にいはれしは、軍法の事はその時その事に出合せざれば、ただ書面のみにては会し難き事ありなど、毎々聞しなり。

先生の和歌、誠に当世の絶調といふべし。近年自ら撰出したまへる物三十首ばかり、いづれも風調の高き事、人の及ぶべきにあらず。大坂の人とやら、先生の歌を聞きて、大いに感吟し、「歌はかやうにこそよむべきものなれ。されど今の世、この地などにてかくよみては、口腹の為にならず」といひし事ありとぞ。

以上、『北渓先生行状』より抄す。



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真潮の行状と遺事

(追記:2010/02/06)
南学・秦山・崎門関係の記事はサイトの方に改訂整理しました。以下は拍手をいただいた記念に残しておきますが、間違いは訂正していません。
(以上、追記終わり)

前に北渓行状と遺事はどうちがうんだ?という記事を書いたが,最近松山白洋(秀美)氏の「土佐歌人群像(十四)・谷真潮」(『土佐史談』45,S38)を読むことができた。この論文は谷真潮の生涯を詳細に論じただけでなく,既に亡失した史料を多く含むことから,真潮を知るには必ず参照を要するものとされている。その中に北渓行状と遺事について次のような記述があった。

真潮の学問や,歌道や,性格や,施政などの一面を知るには「北渓先生行状」「北渓先生遺事」の両書によるが一番捷径である。尤も行状と遺事とは双方書名を異にしてゐるが内容は同一の物が多い。今同書により当時学界の巨擘であり,政治家であり,歌人であり,武士であった人間真潮の横顔を素描せんとする。(原文旧漢字)



両書を実見した人の言葉である以上,行状と遺事は別物で,しかも重複が多いことに疑いを容れる余地はない。両書はなぜ重複があるのか,どのようないきさつで生まれたのかは不明だが,両書が別著であることはこれで分かった。こういう知識を書いておいてくれると,実際に書物を読めない私のような人間には頗るありがたい。久しぶりに先学のありがたさを身にしみて感じた。

それはそうと真潮にどれだけの著作があるのかを知りたかったのだが,こればかりは松山氏の論文も完備していなかった。山内文庫のものは吉崎久氏に『秦山書目』『谷秦山・垣守・真潮関係書目録』がある。特に後者は谷家三代の詳細な調査報告書だが,著作目録ではないので,真潮の著作を調べるとなるとまた話しは別である。

史料が全国に散っており,しかもなかなか利用に便がわるい(研究者でもないと見せて貰えないという意味)ので,近世前後の史料は基本資料を抑えるだけでも一苦労を強いられる。ところが中国の宋代あたりだと,稀覯本でもない限り,重要史料は公刊されているので,一度でも専門の研究室に身を置くとほぼ全てに触れることができる。やや奇異な感じもするが,とはいえ明代以後の史料は量が多すぎて,『続修四庫全書』や『存目叢書』でも全く完備し得ないわけだから,時代が近い史料の不便さは同じといえば同じなのかも知れない。

ここしばらく時間のあるとき秦山関係の資料ばかり読んでいたせいか,いちど高知に行ってみたくなった。どうこう言いつつ秦山に牽かれつつあることは確かなようだ。

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気づけば気づいていなかった

本ブログはほとんど日記の体をなしていませんが,たまには日記らしいものを書いてみます。

まず少し前から話題になっている『藤子・F・不二雄大全集』の刊行。私も注目していますが,さすがに高齢になってしまったこととて,いまさら読んで面白さを感じることはないと思います。食指が動くのは,小学生のころ好きだった『ドラえもん』の単行本未収録作品と『パーマン』の5号(赤ん坊)だけです。

そういえばどっかの大学の学者が『ドラえもん』初出の複写を全て集めたとかなんとかいう話題があったように思いますが,もし『大全集』の『ドラえもん』が初出を全て収録するとなると,あの学者のやったことはなんだったんですかね。もともと漫画を学者が集めることじたい私は反対ですが,これで『大全集』に収録なんてことになれば,単なる時間と税金の無駄だったとしかいいようがありませんな。ほんと罪深い。

それはそうと諸般の事情で『黄氏日抄』を見る機会があったのですが,ふと1.5年ほど前に『黄氏日抄』の春秋を訳していたことを思い出しました。もともと全訳するつもりもなかったし,できれば隱公篇は終わりたいな,最低でも隱公元年くらいは終わりたいな,くらいの気持ちでしたから,案の定隱公の途中で終わりました。というか,なんとなく終わっただけで,きっちり終了すらしていません。

それはいいのですが,さきほど『黄氏日抄』の訳出した部分を目にしたところ,あまりの拙劣さに立ちくらみを覚えました。現在もかなり拙い出来の訳文を作る私ですが,その私が見ても「ちょっとね-,こんなんよく公開したな-,厚顔無恥だねー」と言いたくなるできですね。あの当時は出て来る漢字を全て日本語に置き換えようとしたり,書き下し調を避けようとしつつ,原文の文法を日本語の文法に直そうとしたり,原文にない接続詞は一切補うべきでないと考えたり,できるだけ原文の文法順に訳出しようとしたり云々と,かんり無理をして訳していたようです。

そもそも中国語と日本語は文法が違うわけですから,中国語には中国語の表現方法があり,日本語には日本語のそれがある。ですから単純に中国語の文章を文法で表して,それを日本語の語順に直しても意味は通らないのですが,当時はそれが翻訳だと思っていたのでしょう。

思わず書き直してやろうかと思いましたが,さすがにこれもあれもと気になるところが出てきましたので止めました。

最後に例のごとく四コマの話し。今月上旬には辻先生の『ただいま勉強中』第2巻が,月末には『ぐーぱん』第2巻が,そして来月には師走先生の『あおいちゃんとヤマトくん』第5巻(背表紙はかえでちゃんかな?),佐野さんの『Smileすいーつ』第2巻,宮原さんの『恋愛ラボ』第3巻が発売とあって,嬉しい反面財布の中身が心配なこのごろです。

私は漫画を書くわけでも芸術を云々する人間でもなく,四コマ以外の記事を日常の慰めとしている人間ですので,四コマの感想は気軽に書いておりました。いや,ほんと気軽なきもちで,面白かったとか,ここが残念だったとか,好き勝手言ってたのですが,2巻目とか3巻目の単行本をググったところ,たまに私のブログが上位に登場することがあってギョッとしました。ググって表示されるのは嬉しいのですが,どちらかというと700~800番くらいで十分なことしか書いていないので,これはちょっと困ってしまいました。

FC2で記事を書くと,書いた直後は自動登録の賜か最初の方に出て来るのですが,かなり前の記事が初めの方に出て来るとなると,気軽に書いた私としては途方に暮れてしまうわけです。四コマの記事だけ登録しないというのもありますが,それも面倒なので,今度からはタイトルには書名を書かないでおこうと思います。少しは判定されにくくなるでしょう(よく知らないけど)。

と,気づけば漫画関係と人様の批判とぼやきで埋まってしまいました。

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更新記録

昨日サイトの更新する予定だったのを忘れていた。とりあえず前回予告していた誰もが望んでいない春秋経文を公開した。春秋経文を参照。

細かいことはサイトに書いたが,要するに上の経文は,誰もが利用に不便を感じている穀梁伝の経文を正文に,公羊伝と左氏伝の異同を記したものである。穀梁伝の経文は公羊伝ほどではないが少し癖がある。だから非常に使い勝手が悪い。そもそも私が研究している(いた?)宋代の春秋学は穀梁伝を重んずる人が多いが,その宋代ですら,経文といえば左氏伝の経文を利用していた。ではその使いにくい穀梁伝の経文をなぜ正文にもってきたのか。それはサイトに書いてます。言うまでもなく学術的目的からではないので。

もう一つ,経文の下に諸家の解釈をまとめようと思っていたが,これはちょっと時間がかかるのでちょびちょびする予定。試みに哀公の部分を作ってみたところ,途中でデータがないことに気がついた。おかしいおかしい,確かに句読を打ったはずだはずだ............と探していたら,古いPCにデータが残っていた。どうも新しいPCに移動する際,古いデータを引き継いでしまったようだ。

ということで,公開中のデータは古いデータなので,次回の更新時にでも新しいものに差し替えたいと思います。とりあえず,こういう感じのものを作る予定だという程度の意味で公開してみました。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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