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中国のAmazon(中国古典編)

1年ほど前のこと、中国(大陸)の某学者の著書を中国Amazonで検索したところ、一般人から「本書の記述や体裁は古く、とうてい現在読書人の用に堪えない」というようなことが書かれてあった。某学者の著書は日本の中国古典研究の方法に似ていただけに(たしか日本に留学していたと思う)、私はひそかに痛快に思ったものだ。私は旧套依然たる研究は好きだが、それは明治以来の旧套依然ではない。どうせ旧套依然なら、漢学宋学の如く、徹底的に旧套依然にいきたいと思っている。

それはさておき、中国Amazonにはどんな古典が売っているのかと思い、ちょっと調べて見たところ、なるほど日本とはずいぶん様相が違うらしい。以下、中国Amazonのリンク。各々windowの左側から経部その他の項目へ飛べる。

国学
中国哲学

販売書籍の種類にもあきれるが、試しに我が日本で「明学」の最高傑作と激賞される『明儒学案』を開いてみると、驚くほど多くのレビューがあがっている。中には日本のAmazonと同じように、やたらと長い文章もあるが、それに対しても積極的な書き込みがあって驚いた。『明儒学案』が日本の古典のどれに位置するかは不明ながら、おそらく日本の古典(訳本にあらず)ではなかなかこれほど積極的なレビューはつかないだろう。

中国はネットが好きだから、コメントやレビューが多いこと自体は驚かないが、古典のようなカビの生えた物質も同様だったとはね。少し前に有名になった于丹さんの論語は別にしても(例えばこれとか)、数百のコメントがあるっていうのは、日本人の古典に対する感覚と違いすぎてちょっと気後れしてしまう。もちろん日本と中国では人口が違うので、数が倍増するのは当然といえば当然ながら、中国の現実主義と日本の現実主義とに少し違いがあるように思えないでもないでもないでもない。

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復刻

王先謙の『詩三家義集疏』が復刻された模様。入手が難しくなっていたので、復刻されてなにより。本書は今文学の立場から詩経を解釈したもので、先行学説をふんだんに引用しており、参考書として便利な書物と言われている。古い学問をやりたい人には便利だろう。

好きな人に文句を言うつもりはないが、忌憚なく発言させていただくと、どうせ今文詩なんて分かりはしない。それをよくもまあ無駄な時間を費やして研究したものだ。ほんと人間の執念には感心させられる。しかしもし趣味で、すなわち意味があるからではなく、単純に「知りたい」という欲求でこのような研究をするというなら、その気持ちはよく分かる。私もいわゆる「価値」あるものとは思われない春秋を愛好しているので(一緒にするなと言われそうだが)。

それはそうと、うろ覚えで恐縮だが、たしか宋代に韓詩が残っていたとか、どこかで見たことがある。劉安世の発言だったと思う。そんでもって詩集伝にも載っていたのではなかったか。いや、朱子語類か文集かな?

でも本当に韓詩なんてものが流通していたのだろうか。それとも劉安世が見たのは「韓詩の引用」だったのだろうか。北宋のことなので、それならじゅうぶんあり得る。

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意味不明

A{a,b,d,f,g}
B{a,b,f,g,h,}
C{a,b,c,g,h,i,j,k}
D{a,c,f,g,i,j,k}
E{a,c,d,g,i,j,k}

Q{A,B,C},{C,D,E}
R{a,g}

R=普遍的特徴
Q=時代区分
a~k=特徴(標識)

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宰相織

Wikipediaに「元豊の改革」というのがあった。いわゆる元豊の官制改革のことらしい。いろいろ書いてあるが、宰相のところの記述が分かりにくい。

wikiさんにはこう書かれている(以下、コピペ)。

第三に宰相職の変更である。元豊の改革では外見上は唐制を継いで三省六部を立てるが、三省の長官(中書令・尚書令・門下侍中)は名前のみあって空席とされ、尚書左僕射(副長官)に門下侍郎(副長官)を尚書右僕射(副長官)に中書侍郎を兼任させてこの二人を宰相・副宰相として尚書丞(左右1人ずつ)をおいて、これまでの同中書門下平章事・参知政事に代わらせた。


副長官というのもよく分からないが、上の記述だと、元豊官制は以下のどちらかになる。

宰相‐尚書左僕射兼門下侍郎
副宰相‐尚書右僕射兼中書侍郎
その他‐尚書左丞、尚書右丞

もしくは

宰相‐尚書左僕射兼門下侍郎、尚書右僕射兼中書侍郎
副宰相‐尚書左丞、尚書右丞

参考文献を見る限り、おそらく後者のことが言いたかったのだろう。でも日本語で節と節をつなぐとき「・」を用いると読みにくい。特に最初の節の最後と次の節の冒頭が漢字だとよけいに分かりくくなる。ちなみにWikiの説明は間違っている。執筆した人は本当に参考文献しか見なかったのだろう。一度でも『宋史』宰輔表を見れば、副宰相に門下侍郎と中書侍郎のいたことはすぐ分かったはずである。元豊官制の宰執は以下のようになる。

宰相‐尚書左僕射兼門下侍郎、尚書右僕射兼中書侍郎
副宰相‐門下侍郎、中書侍郎、尚書左丞、尚書右丞
(*)各々一人。

ほんらい宰相は尚書令のはずだが、唐代の太宗が任じて以来、官名のみあって任命されず、宋代も引き続き尚書都省の次官である左右の僕射をもって長官の任に変えた。これは御史台における御史大夫と御史中丞と同じ関係にある。元豊官制もこれを受け継ぎ、宰相に尚書都省の次官(事実上の長官)を充て、それに三省の残りの二省である門下省と中書省の次官を兼任させた。さらに僕射を兼任しない門下省と中書省の次官、および尚書都省の事実上の次官である左丞と右丞を副宰相に充てた。このうち尚書左僕射兼門下侍郎が首相で、右僕射兼中書侍郎が次相とされる。

もっとも最近の研究によると、首相と次相の両者がいた場合(具体的には神宗末期の首相=王珪と次相=蔡確の時代を指す)、中書が高級文官の人事権を握ったため、中書の次官を兼ねる次相の実権が首相を越えていたとされる。したがって、次相と副宰相の中書侍郎が結託すれば、首相とはいえ簡単に政治ができない状況になる。これは蔡京政権の時代にも一時的に見られた。ただし哲宗以後、宰相が並置されない独相状態が多いので、その場合の中書侍郎(副宰相)の権限は、次相設置時に比べて落ちているはずである。

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明朝の国際戦略

たまたま借りた本に「十四世紀から十七世紀にかけての中国の戦略」という論文が入っていた。著者はアーサー・ウォルドロン氏。有名人かもしれないが、私は知らない。ちなみに借りた本というのは、『戦略の形成』(上巻、中央公論新社、2007年)。古今東西の戦略形成を扱った複数著者の論文集で、主として西側のことが書かれてある。

当たり前のことだが、この手の論文は圧倒的に西側のものの方が面白い。それはこの本も例外でなく、当初は明朝の論文は飛ばそうと思っていた。が、「古代や近代における中国の戦略には従来から高い関心が払われてきた。しかし、孫子と毛沢東の間の非常に長い時期を研究の対象としている学者はほとんどいない」(189頁)という人間的に極めて妥当な発言でありながら、日本にいると顛倒したような錯覚に囚われる書き出しに牽かれ、おもわず読んでしまった。

この論文は「戦略」を扱ったものだから、戦争のことが中心で、経済政策とかいう無邪気な話しは出てこない。論旨は、中国の戦略にはステップ地方を主眼とするものと、南方を中心とするもの(おそらく儒学のことを指しているのだろう)が複雑に絡み合っている。そして明朝はそれらを体現しているから、研究に値する。で、研究した結果、明朝は初期こそ元朝を追随してステップ地方に積極策に打って出たが、土木の変あたりから消極策に変化していった。で、最後は自滅した。という、常識的なことが書かれていた。そうそう、あらゆる政策は個人の偶然の能力に委ねられていたという、中国史の常識も強調されていたが、これは常識過ぎて問題とするに足らない。

全体的に、誤訳なのか原文のミスなのか不明なところがわずかに存在したほか、論旨不分明なところも若干あった。しかし大部分は常識的なことしか書かれていなかったので、普通に中国の歴史を調べたことのある人なら、あえてこの論文を読む必要はない。わざわざ皮肉な言い方をすれば、漢文畑の人が書きたがる表現ではなく、「安全保障」とか「プラグマティック」とか「政策決定プロセス」とか、現代的な表現が多用されており、一見すると斬新な感じを受ける。そういうのが好きな人は読まれるといいでしょう。いいかどうかは別として。

本論を読んで少し面白く思えたのは、明末に出てきた朱子学バカの東林党を評して、外交問題をよりいっそう複雑にしたと指摘していたところだ。なぜか日本では評価される向きのある朱子学バカ集団だが、常識的に言って、人間が高潔だったという以外のものではない。書物しか読んでいない読書人が実際政治にタッチした場合の危険性は言うに及ばない。さすがに戦略を問題にした論文だけあって、この危険集団を正しく評していたのは気持ちよかった。

もう一つ、これも普通の人間には常識に属すことだが、儒学大好きっ子にはなかなか出てこないステキな発言があった。中国古典によく見られる道徳万歳主義に対して、「社会の秩序を維持するためには、中国の古典が描くような道徳を基礎とした国内秩序を確立するだけでは十分でないことは明らかであった。なぜなら、中国文化にまったく感化されない外部勢力が存在すれば、中国の社会そのものが滅ぼされる恐れがあるからである」(199頁)と言う。すこぶる常識的な見解だが、儒学大好きっ子の発言を見ることの多い私には、少し小気味よかった。

その他、文句をつけようと思えば付けられるが、短い論文でもあり、著者の真の目的もはっきりしないので、止めておく。ただし論述の都合で、唐・宋・清の政策を無視して、漢と明と元だけを問題にするのはどうかね?ちょっと読者をなめてないか............とまでは言わないが、ちょっとねえ、という感じは受けた。

以上、とりあえずの感想。

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雑感

しかし中国思想にはなぜ歴史の研究が多いのだろうか。なんでもかんでも「歴史的にこうだった」とか、「当時の風潮でゴニョゴニョ」とか、「これが当時の特徴だった云々」と言われてもねえ、まったく思想の説明になっていない。これは春秋学でも同じで、なぜか「春秋学の歴史」をやろうとする人々が多い。言葉を換えれば、歴史的に説明すれば、それで春秋学が分かったつもりになる人が多いのだ。私などは思想を歴史で語り出したら、その瞬間、その学者には価値がなくなると思っている。若手の学者が全国紙に論文を載せるために媚びるなら構わないが(どうせ就職できれば無視するんだから)、地位のある人間が歴史で語りだした日には目も当てられない。

春秋学は春秋の「真理」と言われるものをつかむのが学的使命なのであって、決して春秋学を用いて当該時代の歴史的特徴を解明することに目的があるのではない。例えば、宋代の経解類を利用して、春秋学の研究をより高めることは明らかに春秋学の研究だが、宋代の春秋解釈書を分析して宋代の特徴を割り出すのは春秋学でもなんでもない、どうでもいい存在だ。はっきり言えば、後者の研究は思想にとって不用なばかりか、有害だといってもいい。

なるほど胡安国の『春秋伝』は「当時の政治状況を反映して攘夷論が強調されている」かもしれない。思想を歴史的に研究する人間は、驚くことにそれで胡安国の『春秋伝』が分かったと思うらしい。私はそのような人に、「では胡安国の『春秋伝』とはなにか?」とあえて聞いてみたい。胡安国『春秋伝』とはなにか?「当時の政治状況を反映して攘夷論が強調されている」書物などは、説明にならない。もっと端的に胡安国『春秋伝』はこれこれであると答えてもらいたい。それを答えるのが思想研究のはずだ。当時の歴史的状況などどうでもいい。それらはより深く胡安国『春秋伝』を考える手段に過ぎない。

もちろんこれを答えるには、答える人間に答えるための資質が必要だろう。自分の信念(理念でもなんでもいい)、たとい世界の全ての人間が反対しても正しいと思う信念がない人間に、過去の思想を論ずることはできない。むしろ思想の研究とは、その自分の信念をつきつめるために、自分自身が過去の研究と戦うものだと言ってもいいくらいだ。思想の研究は最も魅力的であると同時に、もっとも危険な存在だ。信念は一つではない。他の信念をもって別の信念を曲げることはできない。信念と信念とがぶつかるところには、ただ争いがあるだけであり、それは信念を争うが故に決して妥協できないものだからだ。

まぁ、信念がどうとか、そこまで大げさなことを全ての研究に求めるつもりはないが、「歴史的」に説明しただけで思想が分かったつもりになるのだけは、どうにも研究として認めがたい。とはいえ、だからどーしたと言われたらそれまでだけどね。信念などなくても人間は生きていけるし、そして人間は必ず死ぬからねぇ。

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春秋・国史・左氏

春秋左氏伝は不思議な書物で、いったい誰が何の目的で作ったのか、いまいちはっきりしない。議論はいろいろある。それぞれにもっともらしい理屈も付けている。なるほどそれだけ聞けば正しいように聞こえる。しかしどれをとっても無理のある場合が多い。今日はその話しでも............と思っていたが、理屈張った話しは書き手にのみ面白いものと相場が決まっているので、それは止める。かわりにちょっと奇妙(馬鹿な?)なものを作ってみた。

左氏伝の隠公元年にはやたらと「不書」が記されている。国史にはあったが、経文には「書かなかった」、それは某々の理由からである、というアレである。本当のところは、左氏伝の不書が国史に対応しているか否か明らかでなく、勝手に後世の人間が思い込んでいるに過ぎないのだが、まあここは定説に従っておきたい。

ということは、この巨大にして穴だらけの前提を受け入れたならば、「不書」(およびそれに近い表現)と経文をつきあわせれば、左氏のいう国史が復元されるはずである。しかも隠公元年の不書は、書法が経文と似ているので、国史を再現するには最も便利だ。そこで経文を左氏伝の不書を組み合わせると、以下のような国史が完成する(月日の書法は経文を模して再構成した)。

〔經〕元年,春,王正月。
〔經〕三月,公及邾儀父盟于蔑。
〔左〕夏,四月,費伯帥師城郎。
〔經〕五月,鄭伯克段于鄢。
〔左〕辛丑,大叔出奔共。
〔經〕秋,七月,天王使宰咺來歸惠公、仲子之賵。
〔左〕八月,紀人伐夷。
〔左〕有蜚。
〔經〕九月,及宋人盟于宿。
〔左〕冬,十月,庚申,改葬惠公。
〔左〕衞侯來會葬。
〔左〕及邾人、鄭人盟于翼。
〔左〕新作南門。
〔經〕十有二月,祭伯來。
〔經〕公子益師卒。〔左〕衆父卒。

もしかすると衛侯来会葬の下に「鄭人以王師、虢師伐衞南鄙」もあったかもしれない。また最後の公子益師卒は、左氏によると「衆父卒」らしい。隠公元年の他の伝文は経の正文を引くのに、なぜか公子益師卒だけは経文と異なる文字を引用している。

まぁ、冗談ですがね。しかし私がかねがね気になっているのは、そもそも春秋は本当に魯の国史か、という点だ。もっと正確に言うと、春秋は魯の国史そのものなのだろうか、それとも魯の国史を模したものだろうか、あるいは魯の国史を下敷きとしたものだろうか。下敷きにしたとしても、それはどの程度の筆削を加えたものだろうか。形態が変わるくらいにか、それとも伝説の通り一字褒貶程度のものか。

もっともらしく「春秋は魯の歴史書だ」と説明してみたところで、本当は分からなことの方が多い。ちょうど竹書紀年は魏(晉)の国史だと思い込むのと同様に。

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やはりないか

昨日はつまらない愚痴を書いてしまった。しかもぼけーっとしていたせいか、ややこしい書き方をしてしまった。勘違いした人がいたらごめんなさい。

ええっと、歴史地図といっても、例の『中国歴史地図集』は持っております。たいそうお世話になっております。ですがこの『中国歴史地図集』では少し物足りないところがあるのです。それはなにか?地形、是れなり。河川は除く。

中国の地面に詳しい人(あるいは旅行好きの人)なら必要ないと思うのですが、私は自慢じゃありませんが、日本の地形ですら怪しい知識しかありません。それが歩いたこともない土地の地形を理解するなんて、もう、ねえ、なにかの冗談ですか?という感じで、風景の一枚も脳内に浮かびません。

でもたまにこの地形が分からないと意味のとれない資料がある。その典型的なのが、土地改良政策(治水ふくむ)と軍事活動です。前者は興味がないのでハナっから諦めてますが、後者はふつーに政治問題化するので、ちょっとは理解できないと困るのです。............いや、困ることはないが、私が知りたいので、分からないと困るのです。人間、自分の好きなことは特別なのです。

例えば、澶淵の盟が結ばれる前のこと、太宗の時代、宋は二回ほど契丹に遠征したのですが、その時の行軍行路が意味不明。次に神宗の時代、宋は大夏(いわゆる西夏)と戦うため、煕河路という特殊地域を作ったのですが、このときの議論がまた意味不明。

何となれば、どちらも「あそこは山がある」とか「あの山脈を越えられると洛陽までひとっ飛び」とか、「李存勗は西部の山岳地帯を背に燕州を奪取した」とか、そういう発言ばかり出て来る。で、私はそれを読んで?????となったわけです。

議論の流れから大体のことは分かりますが、どうもピントこない。しかも地図音痴の私だから、件の『中国歴史地図集』を開いても、「なんで太原府からわざわざ北に遠回りして燕州に行くんだろう?直接東に行けばいいのに」などと思う始末。まあねぇ、行けないことはないだろうけど、行くのは大変なんだよ。なにせ太原府と燕州の間には山があるんだから。

ということで、私は地形が必要なとき、少々のことには目を瞑って、GoogleMapの地形を見たりします。黄河の形は宋代と現在とで全く違いますが、山脈はそうそう歩いて移動しないでしょう。でもGoogleMapは利用規程の問題で勝手に改造するわけにもいかないし、かとってマイマップも読み込みに時間がかかるし。そこでなにかいい歴史地図はないかな、と思った次第です。

ですから、昨日の記事を敷衍しますと、「宋代の黄河と地形の掲載された都市名(宋代の)付きの地図はないか」ということになります。それだけです。


あー、念のため言っておくと、別に地形が分かっても軍事活動は分かりません。私ももちろん知りません。でも議論くらいはなんとなく分かる。なにせ議論している儒学者は、私より軍事知識があるとはいえ、所詮素人の議論ですから。もう一つ、改めてGoogleMapの地形で契丹の燕州(燕州地方の意味)と宋の雄州を見てみると、よくこんなところで契丹の軍隊を防御していたなぁと、他人事ながら冷や汗がでます。たしかにこれは西夏の問題とは違うわな。

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ないものか

宋代の便利な地図はないかな~

軍事関係の資料を読んでも、位置関係が分からなくて困る。なにかないものか。

え?自分で作れって?

またご冗談を。私なんか黄河の位置すら分からないのですよ。

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申不害『申子』

法家の中、韓非子には『韓非子』があり、商鞅にも曲がりなりに『商君書』が残っているが、申不害の著書『申子』は失われた。『韓非子』を見る限り、私の嗜好からすると、商鞅よりも申不害の方に共感するので、著書が散佚してしまったのは残念なことだ。そこでむかし『申子』の佚文を蒐集すべく、『玉函山房輯佚書』を参考に資料を集め直したことがある。結果的にほとんどの佚文が『玉函山房輯佚書』に収録されていたのだが、以下はそのとき集めた資料。

(A)人物
申不害者,京人也,故鄭之賤臣。學術以干韓昭侯,昭侯用為相。内脩政教,外應諸侯,十五年。終申子之身,國治兵彊,無侵韓者。申子之學本於黄老而主刑名。著書二篇,號曰『申子』。(『史記』列伝)

(B)書目
『申子』六篇(『漢書』芸文志)
『申子』三巻(『意林』巻2)
梁有『申子』三巻,韓相申不害撰,亡。(『隋書』経籍志『商君書』注)
『申子』三巻(『旧唐書』経籍志、『唐書』芸文志)
『申子』三巻也(『史記正義』所引阮孝緒『七略』)
『崇文總目』『館閣書目』皆缺(『漢書芸文志考証』申子六篇)

(C)解題
○劉向『別録』:
申子名不害,河東人。鄭時賤臣,挾術以干韓昭侯,秦兵不敢至。學本黄老,急刻無恩,非覇王之事。(『意林』巻2申子)
今民間所有上下二篇,中書六篇,皆合二篇,已備,過於太史公所記也。(『史記集解』所引)
申子學號刑名。刑名者,以名責實,尊君卑臣,崇上抑下。宣帝好觀其君臣篇。(『漢書』元帝紀注)

○司馬貞『史記索隱』:
今人間有上下二篇,又有中書六篇,其篇中之言,皆合上下二篇,是書已備,過於太史公所記也。

(D)本文
大體
夫一婦擅夫,衆婦皆亂,一臣專君,羣臣皆蔽,故妬妻不難破家也,亂臣不難破國也。(*1)是以明君使其臣並進輻湊,莫得專君。今人君之所以高為城郭而謹門閭之閉者,為冦戎盗賊之至也。今夫弑君而取國者,非必踰城郭之險而犯門閭之閉也。蔽君之明,塞君之聽,奪之政而專其令,有其民而取其國矣。今使烏獲・彭祖負千鈞之重而懷琬琰之美,令孟賁・成荊帶干將之劔,衛之行乎幽道,則盗猶偸之矣。今人君之力非賢乎烏獲・彭祖,而勇非賢乎孟賁・成荊也。其所守者,非恃琬琰之美,千金之重也,而欲勿失,其可得耶。明君如身,臣如手,君若號,臣如響。君設其本,臣操其末,君治其要,臣行其詳,君操其柄,臣事其常。為人臣者,操契以責其名。名者,天地之綱,聖人之符。張天地之綱,用聖人之符,則萬物之情無所逃之矣。故善為主者,倚於愚,立於不盈,設於不敢,藏於無事,竄端匿疏,示天下無為。是以近者親之,遠者懷之。示人有餘者,人奪之。示人不足者,人與之。剛者折,危者覆,動者搖,靜者安。名自正也,事自定也。是以有道者,自名而正之,隨事而定之也。鼓不與於五音而為五音主。(*2)有道者,不為五官之事而為治主。君知其道也,官人知其事也。十言十當,百為百當者,人臣之事,非君人之道也。昔者堯之治天下也以名,其名正則天下治。桀之治天下也亦以名,其名倚而天下亂。是以聖人貴名之正也。主處其大,臣處其細。以其名聽之,以其名視之,以其名命之。鏡設精無為,而美惡自備(*3),衡設平無為,而輕重自得。凡因之道身與公無事,無事而天下自極也。(『群書治要』申子不害)
(*1)妒妻不難破家、亂臣不難破國。一妻擅夫、衆妻皆亂。一臣專君、羣臣皆蔽。(『意林』巻2)
(*2)鼓不預五音而為五音主。(『意林』巻2申子)
(*3)豈不知鏡設精無為,而美惡自備矣。(『初學記』巻25器用部鏡)


○明君治國,三寸之機運而天下定,方寸之謀正而天下治,一言正而天下定,一言倚而天下靡。(『太平御覽』巻390)
三寸之篋運而天下定,六寸之基正而天下治。(『意林』巻2申子)
明君治國而晦,晦而行,行而止。止故一言正而天下定,一言倚而天下靡。(『太平御覽』巻624)
一言正,天下定。一言倚,天下靡。(『藝文類聚』巻19人部言語)
一言倚而天下靡。(『北堂書鈔』巻29政術部君道)

○智均不相使,力均不相勝。(『意林』巻2申子。『太平御覽』巻432)

○百世有聖人,猶隨踵而生。千里有賢人,是比肩而立也。
百世有聖人,猶隨踵。千里有賢人,是比肩。(『意林』巻2申子)
百世有聖人,猶隨踵而生。(『太平御覽』巻401所引商子)
千里有賢者,是比肩而立。(『太平御覽』巻402)
千里有賢者,是比肩而立也。(『藝文類聚』巻20人部賢)

○君子之所以尊者令。令不行,是無君也.故明君愼令。(『藝文類聚』巻54刑法部刑法)
君之所以尊者令。令之不行,是無君也。故明君愼之。(『北堂書鈔』巻45刑法部律令)

○天道無私,是以恒正。天道常正,是以清明。(『北堂書鈔』巻149天部天)
天道無私,是以恒正。天常正,是以清明。(『藝文類聚』巻1天部天。『太平御覽』巻2)

○地道不作,是以常靜,帝是以正方,舉事為之,乃有恒常之靜。(『北堂書鈔』巻157地理部地)

○君必有明法正義,若懸權衡以稱輕重,所以一羣臣也。(『藝文類聚』巻54刑法部刑法。『文選』巻20、顏延年應詔讌曲水作詩。『太平御覽』巻638)
君必有明法正義,若權衡以稱輕重,所以一羣臣也。(『文選』巻39、鄒陽上書呉王)

○堯之治也,善明法察令而已。聖君任法而不任智,任數而不任説。黄帝之治天下,置法而不變,使民而安不安,樂其法也。(『藝文類聚』巻54刑法部刑法)

○昔七十九代之君,法制不一,號令不同,然而倶王天下,何也。必當國富而粟多也。(『藝文類聚』巻54刑法部刑法)

○款言無成(『史記』巻130太史公自序)

○四海之内,六合之間,曰奚貴,曰貴土,土食之本也。(『太平御覽』巻37)

○『韓非子』
申子曰:「上明見,人備之。其不明見,人惑之。其知見,人惑之。不知見,人匿之。其無欲見,人司之。其有欲見,人餌之。故曰:吾無從知之,惟無為可以規之。」(『韓非子』外儲説右上)
申子曰:「慎而言也,人且知女。慎而行也,人且隨女。而有知見也,人且匿女。而無知見也,人且意女。女有知也,人且臧女。女無知也,人且行女。故曰:惟無為可以規之。」(『韓非子』外儲説右上)
申子曰:「獨視者謂明,獨聽者謂聰。能獨斷者,故可以為天下主。」(『韓非子』外儲説右上)
韓昭侯謂申子曰:「法度甚易行也。」申子曰:「法者見功而與賞,因能而受官。今君設法度而聽左右之請,此所以難行也。」昭侯曰:「吾自今以來知行法矣,寡人奚聽矣。」一日,申子請仕其從兄官,昭侯曰:「非所學於子也。聽子之謁敗子之道乎。亡其用子之謁。」申子辟舍請罪。(『韓非子』外儲説左上)
申子曰:「失之數而求之信則疑矣。」(『韓非子』難三)
申子曰:「治不踰官,雖知不言。」(『韓非子』難三。定法。)

(E)論評
○『荀子』解蔽
昔賓孟之蔽者,亂家是也。墨子蔽於用而不知文,宋子蔽於欲而不知得,慎子蔽於法而不知賢,申子蔽於埶而不知知,惠子蔽於辭而不知實,莊子蔽於天而不知人。

○『韓非子』定法
問者曰:「申不害・公孫鞅,此二家之言孰急於國。」應之曰:「是不可程也。人不食,十日則死。大寒之隆,不衣亦死。謂之衣食孰急於人,則是不可一無也,皆養生之具也。今申不害言術,而公孫鞅為法。術者,因任而授官,循名而責實,操殺生之柄,課羣臣之能者也,此人主之所執也。法者,憲令著於官府,刑罰必於民心,賞存乎慎法,而罰加乎姦令者也,此臣之所師也。君無術則弊於上,臣無法則亂於下,此不可一無,皆帝王之具也。」
問者曰:「徒術而無法,徒法而無術,其不可何哉。」對曰:「申不害,韓昭侯之佐也。韓者,晉之別國也。晉之故法未息,而韓之新法又生。先君之令未收,而後君之令又下。申不害不擅其法,不一其憲令則姦多。故利在故法前令則道之,利在新法後令則道之。利在故新相反,前後相勃,則申不害雖十使昭侯用術,而姦臣猶有所譎其辭矣。故託万乘之勁韓,七十年而不至於霸王者,雖用術於上,法不勤飾於官之患也。公孫鞅之治秦也,設告相坐而責其實,連什伍而同其罪,賞厚而信,刑重而必。是以其民用力勞而不休,逐敵危而不卻,故其國富而兵強。然而無術以知姦,則以其富強也資人臣而已矣。及孝公,商君死,惠王即位,秦法未敗也,而張儀以秦殉韓・魏。惠王死,武王即位,甘茂以秦殉周。武王死,昭襄王即位,穰侯越韓・魏而東攻齊,五年而秦不益尺土之地,乃城其陶邑之封。應侯攻韓八年,成其汝南之封。自是以來,諸用秦者,皆應・穰之類也。故戰勝則大臣尊,益地則私封立,主無術以知姦也。商君雖十飾其法,人臣反用其資。故乘強秦之資,數十年而不至於帝王者,法不勤飾於官,主無術於上之患也。」
問者曰:「主用申子之術,而官行商君之法,可乎。」對曰:「申子未盡於法也。申子言:『治不踰官,雖知弗言。』『治不踰官』,謂之守職也可。『知而弗言』,是不謂過也。人主以一國目視,故視莫明焉。以一國耳聽,故聽莫聰焉。今知而弗言,則人主尚安假借矣。商君之法曰:『斬一首者爵一級,欲為官者為五十石之官。斬二首者爵二級,欲為官者為百石之官。』官爵之遷與斬首之功相稱也。今有法曰:『斬首者令為醫匠。』則屋不成而病不已。夫匠者手巧也,而醫者齊藥也。而以斬首之功為之,則不當其能。今治官者,智能也。今斬首者,勇力之所加也。以勇力之所加而治智能之官,是以斬首之功為醫匠也。故曰:『二子之於法術,皆未盡善也。』」


*『玉函山房輯佚書』には、これ以外に『呂氏春秋』 審分覽、薛據『孔子集語』から佚文を蒐集しているが、前者は申不害の事跡に属し、後者は信頼できないので、ここでは省略する。

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堯宗皇帝

堯宗という廟号をもつ皇帝はいない............多分。少なくとも宋代にはいない。しかしこの堯宗なる廟号を与えられそうになった皇帝はいる。南宋初代皇帝、あるいは宋代第十代皇帝がそれで、正式には高宗という廟号がおくられた御仁である。

廟号の数が増えたからか、それとも単なる珍しもの好きか、宋代にはかわった名前の廟号が多い。神宗、哲宗、徽宗、理宗などなど。しかし廟号に「堯」の字を使われると、ちょっと気持ち悪い。というか、「堯」っておくれるものなのか?

宋代の学者の認識からすれば、堯の名は「放訓」だし、諡法にも「堯」の字があるから、おくろうと思えばおくれるのだろう。しかし私の感覚だと、神宗や哲宗はあり得ても、堯宗はないというのが正直な感想だ。堯宗がありなら、舜宗とか紂宗とかもありだが、それでいいのか?

前置きはこれくらいにして、「高宗」の廟号選定をめぐって議論百出したことは、李心伝の『建炎以来朝野雑記』甲集巻2の光堯廟号議(光堯は諡)にまとめられている。こういうつまらないことに興味を持つのが私の悪い癖で、まだ院生だったころ、もっと詳細な記録は残っていないかと調べたものだ。そして資料は案外簡単に見つかった。この時代に宰相をつとめていた周必大の『思陵録』(『文忠集』巻172)に皇帝(孝宗)と宰相・礼官らの質疑が記録されていたのだ。

以下、『思陵録』を利用して、廟号選定のいきさつをメモ書きしておく。

淳煕十四年十月乙亥、太上皇帝(いわゆる高宗)が崩御すると、すぐさま喪礼の準備が始まり、尊号、廟号などの選定が始まる。同十二月戊申、礼官と太常寺の官僚が廟号に「高宗」の字を選定。概ね意見の一致を見たようだが、洪邁だけは「世祖」の字を用いるべきだと主張。皇帝(いわゆる孝宗)は直ちに礼官に打診。「世」と「祖」の両方に問題ありとして退ける。つづく乙丑、唐輅が洪邁の意見を汲み、廟号には「祖」の字を用いるべきだと主張。皇帝はまたも礼官に打診。礼官は唐輅の無学を激しく罵倒し、「祖」案は消える。この後、しばらく順調に喪礼の準備が進む。

明くる淳煕十五年正月己未、何の前触れもなく、当然林栗が意見書を提出し、廟号に「堯宗」の字を用いるべきだと主張。皇帝は堯の字を廟号に用いられるか否かを宰相・周必大に尋ねた後、ただちに礼官に意見書の提出を求める。四日後、礼官は堯宗の不可を指摘。それを聞いた他の政府高官も賛同。唐輅のときのように、堯宗案も流れるかに見えたが、ここで皇帝から意外な発言があった。

皇帝、「皇太后陛下が憂慮されている。高宗と言えば、唐の高宗を思い出すが、その唐の高宗には則天武后がいる。それを懸念されているのだ。いっそう堯宗でいいのではないか。」

衝撃を受けた宰相一同は、堯宗案はしばらくおき、礼官に他の案を出させるよう求め、皇帝もこれを許可する。(*『繋年要録』によると、林栗の意見書の中に、「唐の高宗と則天武后」のことが指摘されており、皇太后がそれを見て動揺したという。)

ここから連日のように御前会議で廟号問題が語られる。

廟号の選定には、「中興の功」と「禅譲の議(孝宗は太祖系)」の二義を必要とした。このため「成」「正」「寧」「光」「大」「開」「芸」など多様な文字が候補に挙がったが、礼官は自身の選定した「高宗」の字に固執し、また各々の字にも典拠に問題があったことにより、廃案になった。

これらの中、一時は「聖宗」と「烈宗」が有力候補となった。特に「聖宗」は、北宋の「神宗」と対になり、典拠的にも優れていた。そこで皇帝と政府高官の間でほぼ決着を見たが、聖宗は契丹に前例があること、烈宗は反逆者が多く用いていることから、廃案になる。そこで皇帝の意向で再び堯宗の是非が下問されたが、やはり政府高官および礼官の賛同を得られず、廃案になる。

進退窮まった皇帝は、「高」の字に「商の高宗」の意が含まれ、且つ商の高宗は中興の祖であり、宋は商の地と縁深いというので、結局、淳煕十五年二月甲申すなわち林栗の動議から24日後、初議のごとく廟号は高宗に落着した。


宋代では皇帝が死んだ場合、次の皇帝が先帝の諡(尊号)・廟号などを決める。諡も廟号もそこそこの字が選ばれ、あしざまに批判するような文字は使われない。しかし美しい字であればなんでもいいわけではない。皇帝の治世を考え、最も有意義な功績をすべて含んだ文字でなければならない。高宗の場合なら、宋の中興(孝宗にとってはさらに傍系への禅譲)が必須だった。だから中興に関係する文字を経書などの価値ある書物から選び、諡や廟号に充てたのである。

重要なことは、選定した文字にどのような意味があるかではなく、その文字にどのような意味を込めたか、である。換言すれば、きちんと意味づけできているかが重要なのだ。もちろん、ありえそうな批判には前もって答えておくべきだし、そのために異論があれば、そのつど皇帝は関係部署に議論を尽くさせ、衆論の一致をみた段階で決定するのである。しかし衆論を一致(説得)させるとき、もっとも有効な武器になるのが、意味づけであるのに変わりはない。

高宗の場合は、「堯宗」という奇異な廟堂のためもあり、歴史書に皇帝・政府高官・礼官の議論が残っている。これと同じことは、大なり小なり他の皇帝にもあったはずである。しかし幸か不幸か、それらの議論がのこる皇帝はほとんどいない。ただし北宋の九人の皇帝と、南宋の一部の皇帝については、最終決定の諡・廟号の定義が残っている。『宋会要輯稿』『中興礼書』に残る歴代大行喪礼がそれである。廟議を読めば、儒学者がどれほど文字にこだわっていたかよく分かる。


ちなみに周必大の記録を一通り調べたあと、もういちど李心伝の『繋年要録』を見直すと、なるほどさすがに李心伝はよくまとめている。周必大の記録からでは判断できないことも、他の資料を知っていたのだろう、適切に記録していた。さすがに見識ある歴史家は腕ちがうな。あらためて痛感した。まあ、だからどーしたという話しではあるのだが。

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更新記録

ようやく訳文の改訂と補注が終わった。不満足なできとはいえ、念願のものだっただけに、終わることができて少しほっとしている。もう改訂する時間はないだろうから、残念ながらこれが決定稿になるのではないかと思う。そうそう、ついでにブログの方も改訂した。あまりに誤訳が酷いので、知らん顔はできなかった。

今回も例の如く更新場所:
春秋学綱要(第二論文~第五論文、同補注)
劉敞の弟子記および七経小伝のテキスト。綜合ページ

本書を訳出することで春秋学を普及させるという当初の目的は、当然ながらもろく潰えた。そもそも本書は入門書としてあまりにふさわしくない本だった。おそらく普段からこの手の本ばかり読んでいる私にだけ、入門書に見えたのだろう。より適切に説明し直すと、「春秋学的思考をあるていど知った人間が、改めて入門するための書物」と言った感じになるだろう。

ということで、訳が拙いうえに事前準備なしに読めないという難儀な書物だが、もしこれをきっかけに春秋学に興味をもったという奇特な人がおれば、ぜひ進んで他の書物も読んでもらいたい。解釈そのものに牽かれた人は呂祖謙の『春秋集解』や黄震の『黄氏日抄』(春秋部分)、理論の構造や体系化に興味を持たれた人は陳傅良の『春秋後伝』、程端学『春秋本義』(冒頭だけで十分)、あるいは趙汸の『春秋属辞』『春秋師説』あたりが面白い。

............いや、まあ、そういう人にこの訳文が必要ないことは分かっているんだけど。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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