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更新記録

久しぶりにサイトを更新した。といっても、変えたのはデザインだけで、中味は昔のままです(リンクは改廃しました。それと誤字脱字も)。それも時間たらずで、一部にいままでのものが残ったままになっています。宋代の記事は半ば棄てているのではじめから諦めてましたが、春秋学のはなんとか終わらせたかったのに......

ということで、今日はそれだけです。

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党争

党争という言葉の典拠はどこだろうか?前にそう思って『漢語大詞典』(CD-ROM版)を調べてもらったら出てきたような気がしたんだが、さっき縮刷本を調べたらなかった(と思う。字が小さいから見落としたのかも知れないが)。朋党とか党籍とか党人とか、そういう言葉は古典でよく見かけるし、意味も比較的分かりやすいのだが、この党争というのが、どうも昔からよく分からないでいる。

中国史の概説書にも、北宋の党争を説明して、まれに「旧法党」と「新法党」の争いと解説したものがある。旧法党の名称は元祐党籍碑の時分にはあったのだろう。しかしそれは元祐党というだけのことで、別に党争のことを意味しない。また新法党に対しても、「煕豊の旧党」というような言い方があるし、彼らを「党」と見なした集団もいたのだろうが、だからといって旧法党と新法党が戦ったことを言ったわけではない。

北宋の歴史に限れば、党争らしき表現で最も有名なのは、おそらく洛蜀党議だと思う。これは旧法党の中に分派を作り(党派)、程頤が洛党の首領となり、蘇軾を奉ずる一派を蜀党とよび、洛党と蜀党が争ったというお話で、邵伯温の『邵氏聞見録』に見える有名な伝説だ。しかしこの場合の党争らしき表現は、旧法党で内部抗争があったというだけで、別に旧法党と新法党が戦ったというような意味ではない。

もちろん元祐から紹聖に移ると、章惇が猛烈に旧法派を糾弾するし、建中靖国になれば旧法派の一部巻き返しがあったし、崇寧大観の時代は蔡京が元祐党石碑を作ったし、政和あたりはちょっと旧法派の糾弾がゆるむしで、いろいろ政界に変化はあった。だから歴史的事実としては、旧法を奉ずる人々と新法を奉ずる人々が争ったらしい。だからこれを党争と言うのだろうか?

そもそも旧法党というのは、劉安世が『護道録』で「旧法党人七十八人」と言ったように、地縁・血縁・学閥のトライアングルで固まった存在だったらしい。だからこの政権の時期は、「もし親類縁者をポストに推薦できなくなれば、天下の賢者を推薦できなくなる。だってボクたち、親類縁者しか知り合いはいないんだもん!でも大丈夫、賢者は賢者としか寄り合わないから、ボクが賢者ならボクの知り合いも賢者だ!だからボクの知り合いだけ紹介していればいいんだ!」という寝言を起きたまま言っていたのだ。だからその「七十八人」+αを旧法党というのは、分からないではない。

しかし「新法党」とはなんだろうか。新法を熱心に行っていた連中だろうか?それなら上の「七十八人」+α以外はみな新法党ということになってしまう。それとも旧法党人を叩いた連中を新法党というのだろうか?しかし旧法党人を叩いた人間というのであれば、新法党ではなく、反旧法党ではないのか。いや、反旧法党は新法を拠り所にしたというのであれば、そもそも政争が激化した紹聖以後、新法も旧法も、奉ずるものは時の政権の国是によって変化して、とても信念ある政治家などいなかったのではないか。あるいは章惇や蔡卞のような、反旧法党で新法支持に熱心家な人々だけを指したのだろうか。しかしそれにしても新法党は旧法党と異なり、いまひとつ核がない。

ということで、私の場合、今一つ「新法党」の方に理解の足らないところがある。

もっとも、こういうものは党争の定義をどうするかによって、内容を検証する前に意味が決まってしまう。仮に党争を、近代に新しく決めた言葉で、政治的立場を異にする集団の政治闘争を指す、と定義すれば、もちろん新法党と旧法党の対立を党争とよぶことはできる。その場合の「党争」も「新法党」も「旧法党」も、古典の文脈に関わらず、新しく定義しなおせばそれでいいのだ。別に古典に典拠を求める必要はないと言われれば、仰る通りとしかいいようがない。

ただ、党争の二字が妙に古典っぽいので、なにか引きずられるものがある。だれかに教えていただきたいものだ(党争の典拠が分かればすぐ解決するとは思うんだが)。

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最近足を運んでいるサイト。キリヌケ成層圏

うまいなあ~

1/24日は源義経か。なつかしい。源平のはなしでは、私は平通盛(教経の兄貴。越前三位として一ノ谷で戦死)が好きだった。理由は知らない。いや、ほんと。なぜ好きなのか、私にもよく分からないのだ。小宰相が好きだったから、というわけでもないんだよねぇ。でも、いまでもあまり悪い気はしない。ちなみに通盛には通衡という息子がおり、京都で処刑された。まだ赤子か、さもなくば童だったはずだけどね。

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お姫さま

宋代には妙ちきりんな言葉がよく出て来る。帝姫もその一つ。帝姫......字面からして皇帝のお姫さまであることは分かるが、あまりお目にかからない名前ではある。

日本語でいう「お姫さま」のことを、宋代では公主とよんでいた。正確には、皇帝の娘を公主といい、公主が臣下のところにお嫁にいくと某国公主とい、子供が生まれると某国大長公主といい、孫が生まれると両国大長公主(両国は二つの国名をもつこと)といった。

古典において「お姫さま」の称呼はいろいろあって一定しないのだが、唐代に公主の名が用いられていたというので、宋代もなんとなくそのまま「お姫さま」を公主とよんでいたのだ。

ところが、である。そのまま疑問に思わなければいいものを、宋代の神経質な皇帝と政治家はふとこれに疑問を持った。案の定というべきか、例の神宗皇帝が文句を付けたのだ。こういうどうでもいいところに気づくのが、この皇帝の特徴だ。

細かい議論は『長編』煕寧3年6月癸酉条に載っているので、それを読んでいただくとして、いま意見書の概要だけを書き出すとこうなる。――いろいろ学説に矛盾はあるようだが、「公主」の「公」は王姫の婚儀を執り行った諸侯のことを指すようだし、「主」も「主君」の義と同じらしい。だから公主は皇帝の娘の称呼として適切でない。したがって改正すべしという皇帝の考えは正しい、と。

ただ当時の政治家は賢かった。意見書の最後に「公主というのは、本来の意味から言えば間違いではありますが、今日通行の官職爵号にもそのような間違いは夥しく存在します。どうしても改正したいと仰せなら、諸々の改正すべき名称爵号の中、重要なものからお改めになってはどうでしょうか」と、暗に「そんなつまらないものに労力を割くな」と文句を付けたのだ。名称改正の愚に気づいたか、このときは神宗皇帝も臣下の意見に従い、とりあえず公主の号はそのままということになった。

爵号の改正は、実益がないわりに物議を醸すので、理屈をつけて通行の名前を用いるのは賢明なやり方だ。ところがこういう火種は時間が経っても消えないものとみえ、やはりというべきか、ここでも神宗皇帝の息子の徽宗が、闇に葬られた問題を掘り起こしてきた。政和三年閏四月の改正がそれで、公主の称号はこのとき件の帝姫に改められた。これ以後、歴代の公主(国公主などを含む)に帝姫の称号をおくり、その煩瑣なこと、『十朝綱要』の一覧表に記される通りである。

この帝姫改正(改悪?)の動議は、姦臣・蔡京の息子にして自身も姦臣の蔡絛『鉄圍山叢談』巻1(国朝帝女封号云々)に見える。これによると、徽宗が「帝姫」の称号に改めたいと発議したところ、蔡京は「私は姫姓の出だから、世間の反感を買いかねない」と反対したが、徽宗は笑って取り合わなかったという。こういうくだらないことは蔡京から言い出しそうだが、案外というべきか、蔡京は反対したらしい。

姦臣の寝言はともかく、徽宗によれば、公主の字が不適切なことは神宗の仰せの通りだ。ところが今に至るまで改正されずにいるのは残念至極。そこでふさわしい字として「帝姫」を推薦したい。なんでも、人によると、「姫」の字は周の姓で、その周の娘だから「某姫」と書くのだ、別段「お姫さま」のことを「某姫」と言うわけじゃない、とか。しかし姫は、周の姓の意味以外にも、婦人の美称として使うじゃないか。だったら問題ない、と。細かい話しは『宋会要輯稿』帝系8を御覧いただきたい。もっとも細かく議論している。

実際問題、故事を掘り起こしてああだこうだ言えば、なんとでも理屈はつけられる。だから徽宗にも言い分はあるだろうし、逆に徽宗の言い分を否定するのも簡単だ。現に徽宗の論法(本人は蔡京と思ってたらしいが)を批判して、「姫は婦人の美称ではあるが、それは妾に対する美称だから、皇帝の娘につけるなんてとんでもない!」ということを仰る御仁もいたのだ。まぁ、歴史的根拠なんて、そんなものだ。ただこのときは徽宗がどうしてもというので、臣下の反対を押し切って改正を断行し、そのまま実施された。そして帝姫という称号が、いわゆる公主の称号の代わりに用いられることになったのである。

ちなみに帝姫の称号は、南遷のはじめ、建炎元年に早々と公主にもどされてしまった。「姫」はやはり姓だというのと、もう一つ、「不便だから」というのが理由らしい。いかにも実益を重視した宋代らしい。

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万斯同『明史』

『明史』は明朝一代の歴史を記した中国正史の一つで、その体裁の完備したるに関わらず、内容において粗雑であるとの謗りを受けてきた。それはそうだろう。明代くらいになると、正史以外にも多くの書物が残っているから、『明史』のありがたみなどないに等しい。できばえから言えば、『漢書』や『史記』と大して変わらないはずなのに、あちらは太古の昔とて、代わりになる史料がないものだから、内容の如何に関わらず、金科玉条のごとく扱われる。しかし後代のはるかに完備した史料を用いて作られた正史にして、既に必ずしも価値あるものと見なし得ないならば、おのずと『漢書』や『史記』の価値も知れるというものだ。言うまでもなく、古い史料が正しいわけではない。発掘された金石文や石刻が別段正しいわけでないのと同様に。

まぁ、それはいいのだが、実はちょっと面白いものを見つけた。あくまでも個人的に。

『明史』の仲間の一つに『萬斯同明史』がある。もちろん萬斯同の著した『明史』のことだが、ややこしいので『萬斯同明史』と人名まで括弧に入れて記入する場合がある。この『萬斯同明史』、ふつうの図書館には収蔵しておらず、なかなかお目にかかれないのだが、数年前に『続修四庫全書』が発売され、その中に収録された。おかげで世界レベルでの利用頻度は少し上がったのだが、そういう叢書を収蔵している研究機関は多くない。だから「少しマシ」になっただけで、依然として利用は難しかった。

ところが、何を血迷ったのか、中国がこの『萬斯同明史』を売り出したのだ。現在でも上海古籍出版社から発売されている。例えばここ(リンクは書虫。「目次」をクリックして笑ってしまった)。

『萬斯同明史』は『明史』や『明史稿』の稿本で、立伝数などはそれらより多い。だから明代の人物を『大漢和辞典』などで調べると、『明史』などには立伝のない人物の伝記が、この『萬斯同明史』にあったりする。もちろん正式に出版されたものではないから、上の上海古籍の本も鈔本の影印本だが、写りは綺麗で見やすい。四庫全書クラスとは言わないが、同じ鈔本でもこのくらいだと価値がある。ちなみに気になるお値段は、3~4万するらしい。全8冊だから、しかたないか。それにどうしても必要な人には、絶対に手に入れられない値段ではない。朗報と言うべきなんだろうね。そう思っていた。

ところが、この『萬斯同明史』、最近切り売りされ出した「凱希メディアサービス」のデータにも収録されることになった。検索は北九州中国書店の専用検索で「万斯同」と入力すれば出て来る。............しかもお値段は5000円。たしかにこれはデータだけで画像がないから、そのぶん値段も安くなっているのだが、ちょっと紙の値段と違いすぎやしないだろうか?いかに『萬斯同明史』が珍しかろうと、多くの原史料そのものの出版によって、既にこの種の編纂物の価値が低下している現在、ハッキリ言って、検索さえできれば本体はいらないといっても過言でない。わざわざ福沢先生を数枚だして紙を買う気にはとてもなれないではないか。

私には関係ないことながら、笑える発見だったので記しておく。ちなみにこれを知ったのは去年のことです。


それにしても件の凱希メディアサービスの値段の付け方はよく分からない。『萬斯同明史』はともかく、それと同じくらいの分量しかないはずの『中興礼書』『同続編』は、なぜ都合1万4千円もするのだろう?ほかにも分量と値段の不釣り合いなのが多いような気がする。

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実物実見

ちょっと用事があって県立図書館に出かけたところ、思わぬ本を見つけた。去年の夏に紹介(?)した杉崎仁氏の『保建大記打聞編注』が入っていたのだ。栗山潜鋒とも秦山とも全く関係ない当地の県立図書館に、なぜこんなものが入ったのか不思議だが、おかげで実物を確認できた。

内容は書名の通り、『保建大記打聞』の本文(大記と打聞)をできるだけ忠実に再現し、それに読み仮名と脚注を加えたもの。現代語訳などはない(まぁ、なくて困る人はいないだろうけど)。脚注はそこそこ詳しいが、思想内容に踏み込んだものではなく、事柄の注を主としているようだった。本文に入る前に『保建大記打聞』の写真数枚、平泉隆房氏の解説を、本文の後に本人の後書き(秦山の経歴)を載せる。本書はかなり大きな本で、普通の単行本より高さも幅もかなり長い。そのかわり太さはあまりない。大きさが大きさなので、内容の如何に関わらず、ちょっと使いづらいように思えた。

以上、実物を拝見したので、とりあえずご報告まで。

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「日本の学」

なぜ秦山に興味を持ったのか、私にもよく分からない。私は「大王は神にしませば」の奈良時代が好きで、幕藩体制で地方分権の江戸時代はむしろ嫌いな時代だし、むりにネイティブぶった日本の漢学者は総じて好きになれないのだが、なにを血迷ってわざわざ江戸時代の漢学者の秦山先生に牽かれたものやら。

直接的な理由は案外単純なもので、『秦山集』を短期間に読んだからとか、その程度のことだと思う。しかしその手のお気に入りはすぐに熱が冷めるものだが、秦山に至ってはなかなか飽きないどころか、むしろ垣守だとか、真潮だとか、そういうややこしい方面に興味を持ちだし、挙げ句の果てには、崎門だとか、神道家だとか、そういう最も手を出してはいけない方面にすら関心が出始めた。

私が秦山先生に牽かれる本当の理由は私自身もよく分からないが、思いつくのは、彼が貧困苦節に甘んじ、美しい人間的生活を歩んだところと、教育者として後進を導いたところと、そして恐らく神だの日本だのといって「国粋」的な発言をしたところだと思う。前の二者は言うに及ばず立派な話しで、別段秦山でなくても構わない。問題なのは当然三番目の理由だ。あるいは前二者と三番目が妙に融合しているので、秦山に強く牽かれるのかもしれない。ちなみに国粋は清末(民国だったか?)に生まれた言葉だったように記憶する。気になる人は自分で調べてください。

グローバル化の進みつつあるこの頃、神道だの日本だのと喧伝するのは、愚か者のすることのようにも思える。私もそれが単なる復古である限り、賛同する気にはなれない。どれほど素晴らしく、どれほど懐かしく、どれほど帰りたくとも、過去には帰れないからだ。敢えて高畠素之の言葉を引いておこう。

然るに世の復古主義者、尚ほ廣くいへば精神主義者は、社會主義もまた唯物主義だから人類の幸福に寄與し得ないといふ。そして求むるところは、過去の社會生活そのものである。昔を今にするよしもなしといふ古歌の心意氣は、等しく今を昔にするよしもないのである。汽車、電車、瓦斯、等々の物質的なそれが、一時に眼前から、拭蝕されたなら、その不便は目明がめくらになつた以上であらう。生れながらの盲目なら別として、現世的な美と幸福を眺めた兩の眼が、一時につぶれたとなれば、その不幸は想像外であらう。ところが復古主義者、なほ廣くして精神主義者は、十億の人間が皆めくらになれといふ。そして盲目にのみ幸福があるといふ。世にこれ程の出鱈目はあるまい。(『自己を語る』向ふ三軒兩隣り)


しかし私が思うのは、ずいぶん前に引用したが、高畠さんの弟子の石川準十郎の次の言葉だ。

このことは現在に於いて国家の消滅を考えて見る時は最も明瞭に理解される。日本が仮りに米国なら米国と戦い、不幸にして敗れ、その下に征服され、その属国とされたと仮定する。然る時は日本国家は其処で消滅して了う。然し日本社会はそれに依って必ずしも消滅しない。否日本民族社会はそれに依って決して滅びない。ただ極めて不幸でありみじめであるというだけである。而して其処からは勃然として日本国家再興の運動が起きて来るであろう。国家滅びて国民の幸福はない。それ自身の独立せる統制組織、権力組織、即ち国家を失った国民乃至民族なるものが、如何にみじめなものであるかは歴史の証明しているところである。(国家主義と社会主義(上)、『国家社会主義』第2年12月号。原文旧漢字旧仮名使い。原文の傍点は太字に変えた)


国家というとややこしいが、高畠さんや石川さんの国家は、支配統制機能のことで、いわゆる国家とは少し異なる。別の言葉で説明するとよけい混乱するが、文化的な運命共同体的なものの上に成りたつ秩序立った組織だと思ってもらえばいい(文化的な運命共同体とはいっても、オットー・バウアーの概念とは違うので)。

要するに、人間は一人で生きていけないが、集まっていればそれでいいわけではない。そこに一体感がなければ、単なる烏合の衆で、秩序の維持などできるはずがない。経済や偶然や環境のため、秩序ある集団からはみ出たために、残酷な人生を歩まざるを得なくなった人間はもちろん悲惨であり、それはなんとか救済されるべきであるが、単なる烏合の衆のなかに生活する人間は、これと同じくらい悲惨だろう。

いまの私にそれほど明確な意図はないし、力量はもっとないが、自分の頭の中を探ってみると、不回避的に崩れゆく昔日の日本(国力とか経済力のことではない)を思い、改めてこれから日本という存在や日本人というものを考えようとした場合、そもそも日本とは何であるのか、これを知りたいのではないかと思わないでもない。もちろん「日本とは何か」といっても、「平静に歴史を読めば、日本はこうだった」というような、過去そのものの日本の探求には興味がない。そもそもそのような理屈は原理的に成立しない。歴史を平静に読んで得られるのは、矛盾だらけの都合のいい結論だけだからだ。私は秦山の努力を通して、これからの日本のための歴史とその本質を知りたいのだ(と思う)。

ちなみに、言うまでもなく、具体的な「日本」の定義に至っては、秦山先生の発言は役に立たない。秦山先生の具体的提言は、具体的であればあるほど、江戸時代特有のものなのだから。現代に生きる人間は、秦山先生の糟粕を嘗めるのではなく、秦山先生の精華をつかみ取る努力をしなければならない。間違っても、「秦山先生(別の偉いひとでも可)が~と言っていた」などと権威主義的な発言をしてはいけない。「私は~と思う」と発言すべきだ。

なお題目の「日本の学」は、秦山が日本の儒学崇拝主義者に対して発した言葉。

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名言01

己の長を矜(ほこ)り、人の短を病む。鄙人の常態。(『秦山集』巻29)

ぱらぱらめくっていたら思わず目に入った。痛い……痛すぎる…………。

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翻訳

ちょっと必要があって、去年せこせこ翻訳した『春秋五論』を一部読み直した。正直いって、自分の文章や訳文を読むのは苦痛なのだが、はたと「もしや誤訳したのではないか」と気になったのだ。結果的には、立派な翻訳ではなかったが、誤訳とまではいかないものだったので、まぁ、それはよしとした。しかし、やはりと言うべきか、下手だな......あれでは普通の人は分からない。全然駄目だ。

それはそうと、翻訳とは何だろうか。直訳か意訳か、そもそも直訳とは何ぞや、訳とは何か、等々、いろいろ議論はあるのだが、私は長らく、機械的な直訳は翻訳ではなく、著者が日本人ならどのように書くか、ということを理想にしていた。ググってもらえば、この種の考えを抱く人間が多々いることを容易に発見できるし、そこにはなかなか立派な主義主張があるらしい。ただ私の場合は、尊敬する(とまでは言わないが)高畠素之がそういう翻訳をしていたというので、無意識にそういう流儀だったに過ぎない。

しかし最近になって、どうもその手の翻訳に疑問が出てきた。もちろん日本語として意味の通じない機械的な直訳は、学者相手ならともかく、普通には無意味であり、また志すべきものではないと思う。しかし「著者が日本人ならどう書くか」を追求して行き着くさきはどこにあるのだろうか。どこまで追求すれば、本当にこなれた日本語になるのだろうか。分からなくなってしまったのだ。

例えば、私の場合、中国古文を読むときは、おそらく擬似的に中国古文として読んでいると思われる(自分ではよく分からないが)。いちいち日本語に置き換えるようなことはしていない。それは難解なところでも同様だ。もし難解だからといって、日本語に置き換えて理解しようとしても、決して理解できないだろう。仮に原文が日本語であっても、それが難しいからといって、相手の主張が理解できていない段階で自分の言葉に置き換えても、決して理解できないだろう。それと同じだ。そもそも置き換えには幾通りもの可能性があり、その可能性の中のどれを選ぶかは、原文が読めていないと出来ないからだ。

ただ中国古文を中国古文として理解した場合(正確には擬似的に理解した場合)、それほど難解な文章でなくとも、いざ日本語にするとなるとなかなか厄介なときが多々ある。もちろん私の理解力が足らないだけのことも多いが、それだけとも思われない場合も少なからずある。

その理由は幾つか考えられる。一つは単語(中国古文の場合は漢字)が正確に現在の日本語に対応してくれないこと。二つは原文の句読が日本人の呼吸に馴染まず、しかも句読を変えると原文の意味が変わりかねないこと。三つは表現方法(修飾語や典拠を含む)が既に現在の日本人に理解できないこと。四つは価値観が現在の日本人に理解不能なこと。五つは文章の構造がそもそも日本語の構造と異なること。いま思いついたものを書いただけなので、探せば他にもまだまだあると思う。

訳本を読んでいて常々思うのは、個々の単語や一文の難解さもさることながら(これらは腕のいい翻訳家のものなら気にならない)、文章全体の流れや説明の仕方、構造、論理、感性等々が理解しにくいことだ。しかもこれらは訳者が手を加えることの許されない領域のものだ。もし文章の構造や論理や感性が日本人に馴染まず、「著者が日本人ならこのような構造で書かないし、このような論理は用いないし、このような修飾語は使わないし、そもそもこのような感性はないのだから、このような結論になるはずがない」などと言って、原文をめちゃめちゃに改編すればどうなるか。それはもう翻訳でも何でもないだろう。

もちろんそこまで極端なことはないにしても、「著者が日本人ならこう書くはずだ」で済まないところで、内容理解が妨げられているとすれば、それは訳者がどれほど頑張ってもあまり報われないはなしではないか。と、翻訳家でもなんでもなく、しかも下手くそな私がいうのも変な話だが、最近そんなことを考えていた。

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とりあえず

ようやく時間がとれた。

いまさらですが、今年もよろしくお願いします。

とりあえず挨拶だけでも。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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