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閉鎖

さきほど「高畠さんサイト」を閉鎖した。それにあわせて「公孫樹の資料庫」(上のリンクバーからどうぞ)の観測所も改訂した。リンクを削っただけだけど。あの程度でも作るのに2~3年はかかったのに、削除するときは1分もかからなかった。2~3分もかかってくれれば、話しのネタになったのにね。

しかし、あのような世間から全く望まれないサイト、四年以上もつづくとは思っていなかった。しかも偶然プロバイダの関係で閉鎖しただけなので、それがなければまだ続けていただろう。閉鎖が決まっても、なお「公孫樹の資料庫」に移転させようかと思ったくらいだ。もっとも、それだとファイルの関係が滅茶苦茶になるし、手を加えないといけない部分が多すぎて、時間をかける気になれず断念した。

なんでもそうだが、終わるときは一瞬だな。おそらく人の死もそうだろう。

以上、閉鎖の記念に記しておく。

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恩の売り方・王旦と寇準

李・張詠・王旦・寇準というと、北宋初期の名臣として知られているが、彼等はそろいもそろって太平興国五年(980)の科挙合格組で、当時でいう「同年」だ。同年とは、同じ年という意味ではなく、科挙を同じ年に合格した人の意である。ちなみに四人の生卒年をあげると、李は947-1004、張詠は946-1015、王旦は957-1017、寇準は961-1023。李は聖人宰相として、張詠は蜀の治績で、王旦は名宰相として、寇準は澶淵の盟で、各々歴史に名を止めている。

きょうはそんな四人の中、王旦の売名行為を記しておこう。さすがに名臣ともなると遣り口が違う。スマートなだけではない。結果的にその人物に恩を売るばかりか、皇帝には感心され、世間には尊敬され、歴史には名臣と騒がれる。人間としてこれほど徳のある行いはない。


王旦が宰相、寇準が枢密使(国防長官)のとき。

宰相府から枢密院に事案を送ったところ、書類に不備が見つかった。すると寇準はすぐに真宗皇帝に訴えた。真宗が王旦に言うよう、「宰相府は四方が仰ぎ見るところ。こんなことでどうするのだ。」王旦、頭を下げて、「まことに私たちの責任でございます。」宰相府の役人も罰を受けた。これを知った枢密院の役人は冷や汗もの。寇準にこう囁いた。「宰相府との間にいざこざがあっても、むかしは関係部署どうしで処理させ、宰相に謝罪させるようなことはありませんでした。」

しばらくして枢密院から宰相府に事案を送ったところ、こんどは枢密院の書類に不備が見つかった。宰相府の役人はそれを見つけると、飛び上がって喜び、さっそく王旦に見せた。ところが王旦はすぐ枢密院に送り返してしまった。こちらは枢密院の寇準。宰相府の態度を知らされて大いに恥じ入った。そして王旦に語るには、「王同年の度量には感服した。」しかし王旦はなにも答えなかった。

こんなこともあった。

王旦は真宗に見えるたびに寇準を褒めそやしていた。ところが寇準は王旦を貶してばかり。ある日、真宗が王旦に言うよう、「卿がどれほど褒めても、彼は卿の悪口しか言わぬぞ。」王旦、「道理として当然でございましょう。私は久しく宰相の任を忝なくしております。ならば政治の失敗も多くございましょう。寇準が私のあやまりを陛下に直言したとあらば、まさしくその忠実・正直を知れるというもの。これこそ私が寇準を重んずるゆえんです。」これを聞いいて真宗はますます王旦に心を寄せるようになった。

そして事件は起こった。

寇準が枢密使を辞めることになった。こっそり王旦に人をやり、使相(すごい名誉職)を呉れるよう頼み込んだ。ところが王旦はびっくり仰天、「使相などと......寇準はなにを考えているのだ。ましてや私がタカリを相手にすると思うのか」と言下に断った。もちろん寇準は深く怨んだ。

ほどなく王旦は真宗から意見を求められた。「寇準が辞めるんよ。どう処遇したものか。」王旦、「寇準はまだ三十にも満たぬ身ながら、先帝の恩をこうむり、枢密院に責を任かされました。ましてや彼は才能と人望に恵まれた男。使相など与えて地方を守らせれば、世の人々に朝廷の度量を知らしめることができましょう。」こうして使相の辞令が降った。

寇準はさっそく真宗に面会を求め、嬉しさのあまり涙を流して訴えた。「陛下のおかげです。陛下でなければ、このような栄光はとてもとても......」そこで真宗は詳しく語ってやった、王旦との会話のこと、そして寇準に使相を推薦したことを。ここに至り、寇準はようやく我が身を恥じ、そして王旦の賢を称えた。「王同年の度量、俺ごときではとても測りきれない!」


............まぁ、本人たちがそれでいいならそれでいいけど、『韓非子』的にはアウトじゃないかね。真宗も王旦も。王旦はうまいこと皇帝を使って寇準に恩を売り、寇準も皇帝ではなく王旦に感謝するんだから。王旦みたいな平和な人が宰相だったからよかったものの、結局、残るのは王旦の人望と名声と権力だけで、皇帝の権力はかえって危うくないか?

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妖人妖言・丁謂

北宋初期の権臣・丁謂の言葉。世情の表裏精粗を嘗めつくし、数万の謀略に通じた丁謂だけに、王曾の評とはまた別のスゴミがある。


宰相の丁公が中書省にいたころのお話。

ある日、同僚にこんな謎をかけた。

丁、「前漢の高祖をどう思う。」

同僚、「無位無冠から天下を取ったばかりか、政治のやり方ときては、また何とも雄大高遠なこと。実に一代の英雄と言えるでしょう。」

丁、「英雄だって?あんな男、張良が左に導けば左、陳平が右に動かせば右、項羽が死んで天下に主がなくなったから、うまく権力を握れただけのこと。周囲に流されるだけで、なんの向上心もない。単なる田舎のジジイだ。」

またこんな言葉も口にした。――「古今のいわゆる忠臣・孝子というやつは、全く信ずるに足らない。どうせ物書きが粉飾して、後世の美談に仕立てたのだろう。」

これらの発言は一時の戯れであろうが、その品格を瑕つけるものではあるだろう。


王曾『王文正公筆録』

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百年後の友・劉敞

北宋の中頃、無類の博識を誇る劉敞という男がいた。祖父以来、三代の政治家一家に生まれた彼は、自身も難関の科挙をやすやす三番で合格し、若い頃から経学だの論文だの道徳だのと、ほうぼうで名誉を擅ままにしていた。それのみではない。彼は謹厳勤勉、ほとんど隙のない生活を送り、酒を飲み過ぎただけで噂になるほどの超真面目人間だった。

生まれがいいだけでなく、己の才能もあり、さらには真面目ときては、さぞかし将来が楽しなことだろう。たしかに彼の出世は早かった。科挙三番の影響も少なくないが、とんとん拍子で出世し、あと一歩で翰林学士というところまでこぎ着けた。翰林学士の次にはもう大臣の椅子が見えている。

ところが、劉敞はここで人生の罠にはまってしまった。彼はあまりに多くのものを生まれながら持っていた。タダで手に入るものほど、価値のないものはない。努力して買えばこそ、失いたくないのだ。劉敞にとって、ゼニもコネもチイも、意に介するほどのものではなかった。

宰相を向こうに回しての歯切れのよい批判。長と幼とを問わぬ真面目一点張りの非難。自分が正しいと思えば、何でも言動に移してしまうのだ。顰蹙を買っているのは分かっている。でも、だからどうした。俺は正しい。自分の地位がやばいのも分かっている。でも、だからどうした。地位がなんだ。ということで、いつしか非常に迷惑がられる人になっていた。

そこで宰相は嫌がらせのつもりか、なかなか劉敞に翰林学士のポストを与えなかった。しかしそれで引っ込む劉敞ではない。世間と妥協なんてばかばかしい。長いこと待ってもポストをくれないものだから、「翰林学士?なれないならいらないよ、そんなの」とばかり、さっさと地方に出て行ってしまった。

この判断が善かったのか悪かったのか、劉敞はその地方で病気に罹り、都へ還ってはさらに悪化させ、そのまま数年後に死んでしまった。もちろん翰林学士にはなれなかった。将来を嘱望され、あわよくば大臣の椅子までもと思われた人間にしては、あっけない最期だった。彼の死後、先輩であり、その成長をしかと目にしてきた欧陽修が、その惜しまれる死に情緒あふれる祭文を書いた。

劉敞は不遇をことさら嫉む人ではなかったが、なにかしら心に言いしれぬ寂しさがあったらしい。自分は正しいはずだという、傲慢なまでの信念があったのだ。そこで彼は家人にこう言い遺したと言われる。――「私の文集を軽々しく世人に見せてはならぬ。百年の後、世の中の是非が定まり、私の理解し、私の書物を必要だという人が現れたなら、そのとき出してやれ」と。百年後の知己に、全てを託したのだ。

さて、劉敞が没して百年後、既に南宋も半ばにさしかかろうかという頃、彼の文集はどうなったのだろうか。この時代、劉敞の名声は高かった。経学の大家として、天下の名士として、彼の名は天下に鳴り響いていた。彼の自負は正しかったのである。そして件の文集もまた、細々とではあるが世の中に流れていた。しかし多くの人々にとって、彼の文集は目に見ぬものだった。その族人・劉清之ですら、各地をめぐってその文集を探しながら、目にすることができなかった。そして宋から元を経て明に入ると、劉敞の文集は、百年の後の知己どころか、いつしかそれそのものが世の中から消えていった............

それから数百年後、清での出来事。

李穆堂なる男がいた。ある日、朝廷に出仕したときのこと、部屋の隅に積まれた薄汚れた書物の束をみつけた。不審に思い開いたところ、なんと『永楽大典』なる明朝の類書だった。頁を一枚めくるごとに、彼の頬には冷や汗が伝った。そこには彼の目にしたことのない、いや、彼だけではない、当時のだれもが目にしたこともない、既に失われたはずの書物が夥しく存在したのだ。李穆堂は仕事のあいまに寸暇を惜しんで『永楽大典』を整理し、輯佚すべき書物の目録を作り、『永楽大典』の重要性を主張した。

この李穆堂の働きを嚆矢とし、清廷に『永楽大典』見直しの動きが高まり、ついに『四庫全書』編纂時に大規模な輯佚作業が敢行された。いわゆる永楽大典本である。そして、その一つに『公是集』があったのだ。清廷の臣は劉敞の功績を没しなかった。大義凛然たる著述として、劉敞の『公是集』は『四庫全書』に収録されたのだ。劉敞の予想すらしなかったであろうかたちで、彼は知己を得たのだ。

実に劉敞が没してより七百年、ようやく『公是集』は世に認められたのだった。


*以上、失敗作。機会があれば全面的に書き直す。

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雑感二話

しかし秦山と尚斎は違うなあ。『雑談録』を読む限り、尚斎もなんとなく神道家(神儒兼学)の心情を理解していたように思えるが、性格的なものか、受け付けられなかったのだろうな。

秦山は「日本は神の国だ!」的なことをよく口にするが、あれは文字どおりの意味であるとともに、「日本人なんだから、日本のいいところは積極的に褒めたい」的なものもある。だからもし周辺の学者がみな「日本はすばらしい」的なことを言っておれば、秦山もことさら日本を力説しなかったかもしれない。いや、熱い人だから、それはそれで感動して余計なことを言ったかも知れないけど。

でも尚斎はそういう風には思わない人らしい。学者がまっ先に問題にすべきなのは真理であって、ローカルな問題はそれに従属する。その真理を最も正しく指摘し得たのは朱子学であり中国だから、日本人だろうと何処の人間だろうと、まずは朱子学を学び、中国を学ぶのだ、ということになる。

もちろん真理に照らして日本にも正しいところはある。だからそういうところは褒めていいのだが、もしそこを褒めると、真理に非ざる日本の悪しき部分も褒めたように見える恐れがある。それなら日本など褒めるに当たらない。そうでなくても朱子学によって真理は完備しているのだから、いちいち神道なんぞ持ち出すと、かえって害がある、とまぁ、こういうことだろう。

私の性格は概ね尚斎に近い。だからこそ、個人的な興味を真理のごとく吹聴する学者を見ると、心の底からイライラする。しかし自分にないものを求めるからか、それとも生き様が美しいと思えるからか、この両人を比べた場合、人間的に魅力を感じるのは圧倒的に秦山の方だ。尚斎も立派だと思うが、人間的に偉大だというよりも、学者として立派だというに止まる(ような気がする)。もっともこれは、私の年齢から来るものかもしれないが。


それはそうと、木斎と秦山と尚斎の闇斎入門時期を調べるべく、せっかく『木斎紀年録』を捲ったこととて、ついでにざっと目を通してみた。改めて読んでみると、なんというか、こう言うと木斎先生に申しわけないのだが............すごく漢文が下手だな。何度も何度も同じ漢字を続けるは、滅茶苦茶な構文を使うわ、有名な学者の割りには下手っぴだった。とはいえ、自分の力量を知っていたのか、無駄に難読漢字を用いないところには、好感が持てた。

真潮さんの『北渓集』を読んだときには、不必要な難読漢字を多用していて面倒くさかった。もちろん中国の駢儷文には、なにこれ?みたいな漢字も多いが(私レベルだとね)、あれは普通に使われているから気にならない。真潮さんの場合は、文章の書き方とか表現の巧さからして、あきらかに不必要な難読漢字を用いていたので、無理に難しい漢字を使いたがる中学生を見ているような気がしたものだ。今から見れば、難しい漢字を使えば立派なわけではなく、重要なのは内容だということになるが、当時とすればそれも致し方なかったのだろう。

ちなみに『木斎紀年録』は遊佐木斎の自伝的書物で、その誕生から死ぬ半年前までの記録が残っている。『木斎紀年録』を読む限り、とても波瀾万丈といえる人生ではないが、誕生から学問修行、出仕、昇進、挫折、神道との邂逅、晩年の熟練した境地まで、学者の生涯として読んでいておもしろい。

尚斎の『雑談録』は不必要な条文が多く、そのままでは現代人の読書に堪えられないが、『木斎紀年録』なら趣味人には楽しんでもらえるのではないか思う。もちろんその「趣味人」の範囲は限りなく狭いので、とても一般人の興味の対象にはならないだろうけども。そして読んでもらうには日本語に訳さなければならないのだけれども。

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更新記録

サイトの更新。今回は『木斎紀年録』の崎門関係記事を抄出した。といっても、中心は闇斎入門時の記録で、それ以後のものは神道関係と私の興味を引いた部分を写したに過ぎない。

例の如く更新場所。『木斎紀年録』崎門関係記事

そういえば今まで全く気づかなかったが、木斎先生の「木斎」はなんて発音するんだろう?検索しても「ボクサイ」と「モクサイ」の二つが出てくる。平重道さんの論文には「モクサイ」とあるので、もし平さんが自分でそう振ったなら、それが正しいのだろうが............論文の表記は他人が勝手につけたりするから、これだけでは分からない。

秦山(ジンザン)も「シンザン」と振る人がいるけど、漢字の発音だけなら「シンザン」とよんでも間違いではないから、ここらは難しいところだ。正確なところを知りたければ、地元の人の記録を調べて見ないと分からないか。木斎先生は仙台藩の人だから、そちらの資料に載っている発音が正しいのだろう。これが鎌倉や室町の人なら地元の人でも怪しいが、江戸時代くらいなら、そこそこ信頼できる。

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留守希斎の出奔

『木斎紀年録』を調べたので、ついでに留守希斎の出奔記事を載せておこう。

儒学は中国のものだから、他姓の養子を拒否する。しかし日本は他姓の養子に寛容......というか、ふつうに他姓の養子をとる国柄なので、江戸時代の儒学者も、理論上は非難しつつ、現実的には容認していた。ところが崎門派だけは、有言実行を貴び、自他共に養子を禁止した。

享保十七年、木斎七十五歳のときのこと。芳しい跡継ぎに恵まれない木斎は、弟子の中から将来有望なものを養子にとり、後継者(藩の公職に就けるという意味)にしようと考えた。木斎は闇斎の弟子であり、養子否定の側にいても良さそうなのだが、彼は神道を兼ね学んだため、そのあたりは克服できたらしい。

一方、木斎に見込まれた留守希斎は、養子に疑問はあったものの、父親がどうしてもというので、やむを得ず木斎の養子となった。しかし一年の京都留学が決まり、崎門の学を修めると、疑念はますます深まった。そうこうするうちに事態は刻々と変化し、留学から帰国するや、養子・後継者への道が決まってしまう。

進退きわまった希斎は、京都の三宅尚斎に意見を質した。尚斎は事の重大性を鑑みて慎重だったが、結局は、「これから人師となるものが、心に欺瞞をもっていてよいはずはない。ましてや君主に道徳を説く者が、自身に不道徳を抱えてはならない」と判断。希斎に養子の拒否を勧めた。ただし現実的には養子を回避する手段はなく、希斎は出奔を余儀なくされた。

とはいえ、出奔して済むのは希斎だけのことで、出奔された木斎はたまったものではない。しかも自身が老齢であり、余命を悟っての養子縁組だけに、その衝撃は大きかったとされる。それは希斎とて充分認識したところで、したがって木斎にあてた書き置きには、その点が縷縷つづられている。まぁ、細かいことは平重道さんの論文でも読んでください。


*以下、『木斎紀年録』の該当条。文中、好生は木斎、武内は留守希斎を指す。丸括弧は割注。

六月十八日:
好生以自隱居、武内家督、申請之。上書捧大番頭柴田朝隆(中務)。親類(村岡長太夫廣賢)持參、附之帳役。

十九日:
早朝、僕夫曰:「武内夜中有用云之於近所而未歸云々。」尋可行之處、皆不知。南至越河、北至一關、遣人尋問之、不知其行方。其中見書置文。其旨趣謂:為師父教養之恩、山高海深。況至極老病體、奈無可報之日。然棄本氏冒他姓者、聖人之深戒、賢者之明訓、皆明白也。自為養子之日、未決知此理。雖且辭、父臨終呵嘖命之。其後學問、自覺長進、此理決不可易也。違聖賢之教者、背天道也。背天道、則本不立也。本不立背天道、則何以事君父耶、何以交人乎。如此而説經書者、猶己罪人而制盗也。雖無蓄積之金錢、斃於路頭者、有謝罪於天乎。雖小事曲折未盡、守此一大節之志也。因今日出奔、二十四日副此置文申達之。


留守希斎には『学余雑録』なる学問談義らしきものと、『自筆年譜』が遺っている。しかしそれらは無窮会の平沼文庫にあるので、私が見ることはないだろう。平さんの論文にも原本からの引用はなかった。ちなみに秦山は独学のせいか、他姓の養子を完全否定している。

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三宅尚斎の神道批判

先週、尚斎の『雑談録』について漫然と感想を書いた。今回は残りの神道関係のことどもを記しておきたい。以下、原文の片仮名は平仮名に直し、文字は道学資講本を用いて適宜改めた。世の愛好家は片仮名文字や踊り字に厳しいらしいが、そう大したことを書くでもなし、大目に見ていただきたい。(だいたいこんな感じですが、あとで文字を修正する予定です)


尚斎が神道に批判的だったのは有名な話しで、その精神は『雑談録』においても貫かれている。しかし尚斎の批判する神道は、いわゆる神道者や神道説という類のもので、神代巻そのものであるとか、神代巻の正しい理解といったものまでを批判したものではない。原文を持ち出すのは邪魔だろうが、尚斎の一般論として、次の発言を引いておきたい。

神代巻神道と云ものは、なる程、赤子の樣なもので、ひらけたまゝにしてある。聖道はその開けたものを、列聖のよくひらきなされたものなれば、赤子によく知をひらきて、大人にしたやうなもの。日本には列聖つぎ作ること無ければ、やうやうその赤子なりを、もちつめる樣なものなり。されども今では、下に道が行はるゝはかりで、ひらけぬからして、上は一向道がないなり。〔雑23〕


この一文は二様に解釈可能で、まず神道を純粋無垢の赤子とみなした尚斎の立場を好意的に見るもの、つぎに神道は聖人の知を加えられぬ赤子であるから、日本の神道は、少なくとも尚斎の時代の神道は、明らかに未熟な存在であると、否定的に見るもの、これである。以下に見るとおり、恐らく尚斎としては、神道そのものは天人合一のありがたい教えではあるが、そのままに止まっているので、聖人の知を加える必要があると、このように考えていたであろう。

尚斎は神代巻に価値を認めつつ、不必要な部分の存在することを遠慮無く指摘する。そして孔子が五典を刪去して経書を作った故知に倣い、神代巻も不要の部分を削除するよう要求する〔雑02〕。言うまでもなく、この事業に手を染めたのは、山崎闇斎だった。遺憾ながら未完のまま世をさった闇斎ではあったが、儒学で培った力を用いて、摩訶不思議な神典を有用の書物に仕立てようとしたその試みは正しく、闇斎によって神道ははじめて価値ある存在になったと云う〔雑02〕〔雑03〕。

闇斎の『風水草』『風葉集』などは、後に国学的立場から、儒者のまがい物として指弾されたが、尚斎とすれば、まさにその指弾される所以こそ、闇斎の神典理解が正しい明証となる。尚斎は神代巻を評して「ありがたき天人一致」を記したものと評価する。ではその天人一致とは何を指すかと言えば、鬼神の造化や五行の相生などを念頭に置いていた〔雑08〕。つまり儒学(闇斎の朱子学)的な見地から判断して、天地開闢、天人一致、鬼神、造化等々の概念と相即する部分を神代巻に見出だし、その部分を残し、それ以外を除去しようとしたのである。

このように尚斎は神道や神代巻に対して全面的な否定は避けている。しかしそれは当時の神道家あるいは神道説に対する批判と表裏一体の関係にある。

尚斎の神道家/神道説批判は、雑然としてたものだが、大きく三つに分けられる。第一は学問的な見地からの批判、第二は神儒兼学の徒に対する批判、第三に自身の祭祀来格説との関係からくる批判である。

まず学問的な見地からする神道批判。これは実に尚斎らしい批判でも、その論説も最も説得力がある。例えば、彼は皇統綿々を根拠に日本の天下に冠たることを力説する神道家に対し、「現在の皇統はあるかなきかの状態であり、今後についても怪しい話しだ。そんなものをありがたがっても無意味だ」と発言し〔雑03〕、さらには「皇統連綿と誇ってみても、姓を易えなかっただけで、革命は行われているのだ」と公言し〔黙04〕、その具体例――平城上皇と嵯峨天皇が兄弟で皇位をめぐって争ったこと等――を列挙している〔黙05〕。

またこのような道義的な問題のみならず、当時の神道家の諸説にありがちな秘伝についても至極常識的な批判を加えている。尚斎からすれば、神代巻は遠きむかしのことを記したものだから、不明なところや現在(江戸時代)既に測りがたい心情がある。だから分からぬところを無理に解釈する必要はないと考えていた〔黙06〕。ところが神道家は、「なんでもかんでも牽強付会な説を立てて知ったかぶりをしている。そんなものでよければ、昔話でも道理を説ける」といって、舌切り雀の説話で陰陽を説明してみせ、神道家を嘲笑する〔雑08〕。

たしかに山崎闇斎の神道研究には、五文字の守や神器の伝について好ましからぬ所説がある。しかしそれらは日本に少しでも残っている道を明らかにしたいという、日本に生まれた人間の心情からであり、それ自体は否定すべきものではない。したがって五文字の守や神器の伝は方便法として理解しなければならない〔雑03〕〔雑04〕。逆に言えば、だからこそ神道を理解するには、よくよく物事の道理を弁えてからでなければ、誤った道に足を踏み入れることになる。尚斎が若かりしころ、闇斎に神道を尋ねると、まず儒学の明白なことを学び、それらに熟練してから神道を学べと教えられたという。これこそ神道のあるべき学び方だというのだ〔雑13〕。

ところが当時の神道家ときては、そろいもそろって馬鹿ばかり。垂加神道の正統後継者を自任する正親町公道にして既に化けの皮がはがれ、神道に飽きている。闇斎の佞臣と侮蔑された植田玄節も金で養子をとった笑止千万の愚か者。このような神道家を相手にするなどとてもできないというのだ〔雑05〕〔雑15〕。

この種の批判の背後には、尚斎の「變易して止まざる者は天地の常」〔黙02〕という信念があったようで、皇統連綿の問題にしても、「中和を失う者、反て一路に明らかにして、偏長なる者有り」〔黙02〕といって、そのおめでたき君位一系そのものが「中和を失った」ものであることの証拠とする。しかしこのような学理的な問題はともかく、尚斎の神道説/神道家批判は、極めて常識的な見地に立つもので、後に神道家の秘伝が徐々に影響力を失うことを考えれば、それなりに時代の先端を走った考えであったと言える。

尚斎とすれば、これほど明白な誤謬を含む神道家/神道説に、人並み以上に儒学を学んだ人々が陥るとはとても考えられなかった。ところが、現実はそうならなかった。正親町公道や植田玄節、出雲路信直、桑名松雲、あるいは土佐の谷秦山ら、闇斎の直弟子もさることながら、なぜか絅斎の弟子が神道の研究を始めたのである。もはや人生の最後にいた尚斎は、これに強い危機感を募らせたと考えられ、ついには闇斎の学恩に刃向かってでも、神道批判を刊行せねばならぬと考えるに至る〔雑30〕。

しかし尚斎は、神道を奉ずる同門に対して、学理的な方面からその確信に迫ろうとせず、あくまでも師弟の関係という外形的なものにこだわった。絅斎の門人らが神道を研究するのは、絅斎が晩年に若者は神道を学ぶよう言ったことが原因であり、そのような紛らわしい発言をしたから大きな害になったと結論づけた。だから尚斎自身も神道について思うところはあるが、余計なことは言わぬでおこうと誓うのである〔雑16〕〔雑25〕〔雑27〕。この種の批評は、師弟の関係に厳しく、また師の人間的魅力に感化されて学業に励む弟子等を間近で見てきた尚斎のものだけに、皮相なものとは言えないだろう。しかし絅斎の門人がなぜ神道にこだわるのか、その心の奥深くにまで足を踏み入れたものとは言えないだろう。

神道に足を向ける人々に対し、尚斎は決して好意的ではなかったが、必ずしも自身の思想と全く無関係ではなかったようである。これは単なる日本人として弁護したいという類のものではなく、何か知らん、自身の思想と一脈通じかねない危険性を察知していたらしいことが、断片的ながら窺える。

尚斎は忍藩に幽閉されたとき、祭祀来格の奥義を悟り、後に修正を施して『祭祀来格説』を著した。それは理気の両面から祖考と自家の精神の同一なることを論じたもので、尚斎の特異な思想とされている。尚斎によると、祖考と同一気を持つ己が祈念するならば、何代前の祖考でも木主に再生する。なぜなら、理は消滅せず、しかも必ず気を拠り所とする、ならば理と気は必ず何百年の後も存在するというのだ。

このような所説は、当時としては仏教の輪廻説や気一元論的な思想との違いが問題になったとみえ、尚斎もそれとの違いを強調している(祭祀来格説講義に見える)。尚斎としては理の重要性を強調し、理から判断して気を制御しようとしたようであるが、現象面から言えば、一気の貫通が重視される。したがってここに皇統連綿の思想を持つ神道との類似が問題となったようである〔雑26〕〔雑32〕。

祭祀来格は尚斎の思想の根幹であり、それだけに宗教的でもある。そのため説を立てれば立てるほど複雑になり、また収拾が付かなくなる。『雑談録』『黙識録』ともに、神道との関係は明言は避けている。

尚斎の神道批判は、概ね以上の三点に収まると思われる。尚斎の意見は、変易説や祭祀来格説という彼の特殊な思想を除いても、比較的常識人の立場が保持されており、それなりに人を納得させるものがある。むろん尚斎じしんの所説にはかなり非科学的な側面があり、例えば人が死ねばウジ虫が湧くが、そこには死んだ人間の精神が宿っている等と主張している。また神道家の牽強付会を説きつつも、自分は日常生活から理気の妙用を引き出そうとすることもある。そういう意味でどっちもどっちといった側面もあるのだが、正統朱子学を奉ずる尚斎としては、怪しげな説を振り回す神道家を黙って見ておれなかったのだろう。

とはいえ、後から見ると、尚斎の神道批判には、二つの弱点があった言える。第一に、神道家/神道説が、前江戸時代的な秘伝の効能を無効化し、その上に新たな神道説を組み立てるならば、もはや尚斎の批判には意味がなくなるだろう。尚斎は牽強付会ゆえに神道説を批判したのであるから、牽強付会がなくなり、「合理的に」神代巻を説明できるなら、尚斎の批判は批判ではなくなるのである。宣長のごとく神典を神典のまま読むとまで言わずとも、一種の歴史書として神典を読み出すとき、もはや秘伝的解釈など全く不要になる。と同時に、尚斎の批判も不要になる。

第二に、尚斎は儒学(朱子学)を前提としている。そのため相手が儒学から完全に/半ば足をのけただけで、もう批判の有効性がなくなってしまう。谷秦山は尚斎と論争したが、そのときまだ秦山は朱子学を奉じていた。ところが谷家の学問は秦山から子の垣守に継承されるに従い、徐々に儒学に対する興味を失い、孫の真潮に至っては、神道を中心にすればよく、儒学は盛んだから用いればよいという程度の、一種の和魂漢才を主張し出す。かつて尚斎は神儒兼学の徒が、口で神道を奉じながら、実質は儒学を行うことを批判したが、真潮のように口でも実質にも神道を奉ずる相手に対しては、尚斎の批判は全く意味を持ち得ない。

そういう意味で尚斎の神道批判は、果たしてその晩年においてすら意義があったか否か、疑問とせざるを得ない。絅斎の門人たる若林強斎は神儒を兼学したが、それは尚斎の思うような神道であったかどうか。尚斎の神道批判は、あるていど有意義なものだが、それは彼が壮年ころに見た儒学界での話しである。あるいはだからこそ神儒兼学の人々の心情を理解できず、「余計な一言が禍を招く」という程度の、後学を馬鹿にしたような嘆きに止まらざるを得なかったのではないかとも思われる。まぁ、嫌な相手だからといって正面から戦わなかった人だから、その学識から期待されるほどの成果が得られないのも、当然といえば当然ではあるのだが。

以上、素人の感想でした。

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五年

プロバイダの関係で高畠さんサイトを閉じることにした。サイトを作ってから五年弱。長いような短いような。去年の夏、実質的に更新を止めてから、カウンタ類をかたずけたので、今では来訪者がいるのか否かもよく分からない。

そういうサイトだから、閉鎖すること自体は構わないが、作るのに時間だけはかかったから(主に論文のタイプ)、完全に消えるとなると、それはそれで寂しい気もする。その反面、作った人間が生きている間に、作った人間の手で閉鎖できるというのは、ある意味、幸せのような気もしないでもない。

いずれにせよ、私自身にも唐突なことだったので、ちょっと拍子抜けしたというか、実感がないというか、そんな感じです。いつ消えるか分かりませんが、早ければ一~二週間ではないかと思います。あ、ちなみに「公孫樹の資料庫」の方はまだ続けます。問題が起こらない限り。

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秦山・尚斎・木斎

谷秦山も三宅尚斎も、ともに山崎闇斎の晩年に弟子入りした。両者に接触はあったのか、なんとなく気になっていたので、少し調べて見た。

尚斎が闇斎に入門したのは、十九歳の延宝八年(1680)で、そのまま闇斎没後まで弟子の列にいた。対する秦山は、その一年前の延宝七年に十七歳で上京、六月一日に浅見絅斎に師事、ついで十月二十一日に闇斎に師事。翌八年四月に諸般の事情で帰郷している(谷氏族譜による)。尚斎の入門月日が不明のため、正確なところは分からないが、秦山と尚斎が切磋琢磨した時期はなかったか、あったとしてもごくわずかだったことになる。もちろん両者は書簡で神道の押し問答をやっているので、面識のあるなしに関わらず、知り合いではあったはずだ。秦山の弟子・宮地静軒も後に尚斎に師事している。それに年もほとんど変わらない。

一方、同じく闇斎晩年の弟子で神儒兼学に走った男に仙台藩の遊佐木斎がいる。彼もまた微妙な時期に入門している。木斎先生についてはネットに手頃な年譜があったので、それを借りて............というわけにもいかないから、大昔に複写した『仙台叢書』所収の『木斎紀年録』を繙くと(っていうか、部屋の奥から出しただけだけど)、山崎闇斎に始めて面会したのは延宝六年三月二十七日のことらしい。時に歳二十一。そして同七年八月九日に帰国命令が到着し、二十七日には京都を発っている。

ちなみに上の紀年の中、尚斎だけは手許に資料がなかったので、やむを得ず『佐藤直方・三宅尚斎』(明徳出版社、『叢書・日本の思想家』12。担当は海老田輝巳氏)を用いた。『日本道学淵源録』に尚斎の行状や年譜が入っているので、もしかしたら月日も分かるかも知れない。

それはともかく、こうしてみると木斎が尚斎と会うことはなかったろうが、秦山とは微妙な関係にある。ただ木斎は佐藤直方を通して闇斎に入門したのに対し、秦山は浅見絅斎に弟子入りしてから闇斎に入門している。また木斎は神道入門したのに、秦山は許可されなかった。ということで、木斎と秦山も、秦山と尚斎に同じく、京都での関係はほとんどなかったと想像される。闇斎晩年の弟子として著名な三人が三人とも、微妙な時期に入門し、みな微妙に接触していないらしいというのも、なにかしら奇縁を感じておもしろい。

しかし闇斎入門時の三人の身分は、なかなかどうして将来を予想している。木斎は所謂国費留学というステキな肩書きを持っての勉学だったのに対し、尚斎は自身の発案で闇斎に入門し、秦山に至っては家計を苦しめてまでの上京だった。その木斎は、自身の後継者にこそ今一つ恵まれなかったが、仙台藩の儒臣として重きをなした。尚斎も壮年にして忍藩で幽閉されたが、最後は崎門派の最長老として重きをなした。ところが秦山は、貧乏暮らしの上、神道に走って絅斎から義絶されるは、最後には閉門蟄居を喰らって罪人のまま死んでしまった。

登場時にその人の一生が見えるというのも、なんとも嫌な話しだ。ただし死後の顕彰という意味では、おそらく生前の逆になるだろうと思う。むろん私は三人ともに敬意を払っているのだが。


なんとか尚斎の年譜を確認したい。

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新刊?

書虫の新刊を見ていたら、春秋胡氏伝邵雍集が目に付いた。

胡氏伝は南宋の胡安国という人物の書いた書物で、それ自体はごくありがちな春秋の研究書だ。ところが間違って明代に流行したものだから、清代に徹底的に罵倒され、現代でも無価値な書物とみなされている。故ないことではないが、明人に評価されたのが運の尽きとしか言いようがない。明はあらゆる学問を滅ぼしてしまう恐るべき時代だ。

書虫の説明によると、本書は両浙作家文叢系列から3月に2000円弱で発売されるらしいけど、どんなものだろう。もしかして研究書か?もっとも、仮に校点本でも、あえていまさらそんなものを使う必要を感じないので、買うかどうかはかなり微妙だ。

邵雍集はねぇ、たぶん七八年前なら喜んで買ったと思う。でも、こちらは「あえて」ではなく、「もう」、いまさらそんなもの買っても哀しくなるだけだ。どうせ道学者の本なぞ読む必要もないので、穏当にパスかな。

この邵雍集、先週のカタログには「中国古典文学基本叢書」と書いてあったので、なんで邵雍なんぞが欧陽修先生や蘇軾先生と並んでるのか不思議だったが、土曜日に添付された写真を見ると、きっちり「理学叢書」のマークがついている。だよねえ。邵雍は理学で十分だよ。

言うまでもなく、邵雍はシュウトンイとか程頤とかテイコウの先輩みたいな人で、王安石の悪口を言ったことで知られている。あと息子の邵伯温と孫の邵博も旧法万歳的な態度で、近代の学者から大いに顰蹙を買った。それ以外では無名といっていい人間だが、強いてあげるなら、邵雍には『皇極経世書』という書物があって、数遊びで世界の全歴史が分かるとほざいていたらしい。ピュタゴラスのような古い時代なら尊敬できるが、10世紀の人にそんなことを言われても。

もう一つ、少し前に公羊伝の入門書っぽいものが発売されたらしい。けど、買うのは止めた。お金もないが、それ以上に最近は学問的なものを見ているだけで、なんとも心が虚しくなる。............道学的には心が虚しくなるのはいいことなのか?

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『尚斎先生雑談録』

昨日の建国記念日、なんとか『尚斎先生雑談録』を読み終わった。三宅尚斎は谷秦山と神道をめぐって論争した人物というので、平生の所感を記した文献に目を通して、尚斎の神道理解を抑えておきたかったのだ。今回は底本に国会図書館所蔵の乾坤二冊本を、校本に蓬左文庫の道学資講所収の四冊本を用いた。問題の神道関係は後日のおたのしみにとっておき、今日は記念に『雑談録』の感想でも書いておきたい。

三宅尚斎(1662‐1741)は、山崎闇斎の弟子として、いわゆる崎門三傑の一人に数えられる。ただ残る二傑の浅見絅斎と佐藤直方が闇斎に長らく師事したのに対し、尚斎が闇斎に接したのはその晩年二年に過ぎず、闇斎没後は絅斎と直方に兄事した。そのため三傑とは言いながらも、絅斎・直方と尚斎との間には少しく扱いに差が生じる。ただ崎門の弟子がつぎつぎ死没する中で、八十の齢を保った尚斎は、闇斎の直弟子として崎門の長老と仰がれただけでなく、朱子学の基本書を簡易明白に解説したおびただしい書物を残したため、三傑の一人に数えられることになった。

本書は尚斎の言葉を高弟・久米訂斎(1699‐1784)が記したもので、その期間は享保七年(1722)から元文四年(1739)、尚斎六十一歳から七十八歳までの記録とされている(道学資講所収本は元文五年七十九歳までの日付。ただし収録文章は同じ)。尚斎の主著『黙識録』の序文が正徳五年(1715)に書かれ、本文最後の日付が戊申(享保十三年、1728)であるから、『黙識録』後半が『雑談録』の前半に重複する関係にある。『雑談録』の途中に「『黙識録』ハ大切ナルコトヲノミ擇出シテ書置クナリ」の記述があるのもそのためだろう。

『雑談録』にはいくつかの本が存在する。よく見かけるのは無窮会の平沼文庫本だが、私は会員ではないので閲覧は諦め、今回は国会本と道学資講本を用いた。両本を厳密に比べたわけではないので、正確なことは言えないが、全体的に道学資講本の方が誤植が少なく読みやすい。しかし必ずしも国会本が劣るとわけではなく、道学資講本を補い得る部分も少なくない。特に国会本は多くの漢字を充てており、私のような学の浅い人間には大助かりだった。また繋年にも両者出入りが多い。その他、若干ながら収録条数に多寡がある模様。

本書の内容は、書名の如く、尚斎の学問的雑談ばかりが並んでいる。それも前半こそ尚斎のふとした言葉を多く収めているが、後半になるにつれ、訂斎の質問や意見が多くを占めるようになり、尚斎の言葉は「その通りだ!」とか、「分かってる!」とか、訂斎を褒めるためにとってつけたようなものが目に付いてくる。これこそ訂斎の訂斎たる所以なのか、それとも単純に訂斎の筆になるもの故なのか、私は寡聞にしてよく知らない。

さて『黙識録』だけを読んだ限りでは、尚斎の学問は冷静緻密で少しの奇癖もなく、一見すると平凡に見せるほどに自分を絞り込んだもののように思われる。いや、『雑談録』でもそう思いはした。が、読んでいる途中で、なんとも尚斎はいやなオヤジだなと思うようになった。崎門らしいといばそれまでながら、なんというかね、箸の上げ下げも朱子学というか、日常のささいなことで説教したがるというか。例えば:

この頃も瓦焼きを見るに、あの火がきびしく焼くで、土がどんと成就して瓦となる。それに応えぬは却って割れる。これ則ち「火、土を生ず」なり。ちょうどあの如く、父が厳しく教えるで、子がモノになる。それに応えぬは、割れ瓦のようなものなり、と思はるる。(難読箇所は改訂した。また片仮名は平仮名に直した)


............なんで瓦焼きで教訓を引き出すのか。お前は風呂屋のオヤジか!っと言いたくなるようなものも多々あった。でも、息子が死んで跡取りがなくなったあと、急に精彩ある発言をし出すとか、そういうところは人間味を感じた。あと、すごく常識人のところとか。

八十を数える歳月を厳しく生きた学者の言葉だけに、多少の問題はあるにせよ、『雑談録』一つ一つの言葉は叡智の結晶であると言ってもいい。それゆえ、このまま消えるにまかせるのは余りに惜しいと思う半面、尚斎の言葉はあまりに学問的過ぎて、時代が変わり、言葉も遷った現代では、もうこれを利用するのは難しいと感じもする。もちろん現代の人間が尚斎の言葉を説明して見せたのでは、原文の億分の一の価値もないだろう。尚斎の言葉は原文のままでなければ意味をなさない。

でも、次の言葉は笑った。江戸時代もこんな表現をしたのね。浅学ゆえの役得か。

易は潔静精微と云う、さっぱりちんとしたものがとんと基本なり。あれが天地造化なりの、さっぱりちんとしたものを書つらねたものなれば、今吟味するにも、その意でなければうつらぬなり。ここは甚だ難しきことぞ。


「さっぱり・ちん」って。

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臣子弟のわきまへ

谷秦山の息子・垣守の著作。復刻本の少ない垣守にあって、めずらしく『勤王文庫』第二編なる戦前の書物に論文が収録されていたので、テキストデータにしてみた。丸括弧は原文のルビ。編集者の付したものか否か不明のため、そのまま残した。本文中、誤植と思われる箇所もあるが、私の能力の関係で、二つの例外を除いて注記は避けた。ただし原文の傍点は省略し、分段も内容を鑑みて適宜改廃したほか、句読点を加えた場合は〔〕に入れた。

*以下、本文。

そもそも天人唯一(てんじんずいゐいち)の理を考ふるに、君父師の臣子弟を愛育し、臣子弟の君父師を尊崇するや、たとへば昊天(びんてん)の大地を蔽(おほ)ひ、大地の昊天を戴(いたゞ)くが如し。たとひ天上より大旱霖雨のなやみを下し、雷火龍風の怒を起し給ふとて、地下此が為に怨憤(ゑんぷん)を表はすの道あらむや。たまたま、地震などいへる地につきたる變あれども、いはゞ臣子弟の身によからぬふさがりのあるが如し。一度ひらけて後は長き害となる事なからまし。されば、臣子弟より君父師を 天といへるは、深き理なりといふべし。されど、父子の中はたとひうきつらき憂(うれひ)ありとも、同じ氣血の分れぬるものから、親のなだめ、子の睦(むつ)みも通(かよ)ひ易(やす)く、なべての人にもさばかりふみ違へて、禽獸の境に落つる理の事は稀なり。まして日本(やまと)、西土(もろこし)の書に父子の道を詳に説きつくすのみの親を持ち、子を養はぬ人もなければ、殊更に禿筆(とくひつ)に委(まか)せずして、此に洩らし侍りぬ。

君臣子弟の交りは、養ひを受け、教を蒙りぬるの切(せち)なるを、嬉しと思へど、氣血の通ひなくてや、一度離れて會ふこと稀なるためしも、珍らしからず。されどかかるたがひめは、君父師同じ理にして、天地に根させるの道なりと、明らかに辨(わきま)へ知らぬの誤ならまし。あるは君に仕へて、諫(いさめ)行はれず、志あはざるといへるは、唐土の道にして、日本の人の心にしもあらず。諫を容(い)るるも、志を盡すも、思兼神(おもひかねのかみ)の長鳴鳥(かがなきどり)を集め、兒屋根命(こやねのみこと)、太玉命の祈祷(ふとだまのみことのみいのり)を盡し、鈿女命(うずめのみこと)の俳優(わざをぎ)を行ひ、手力雄命(たぢからをのみこと)の日神の御手をとりて、石窟(いはや)より引出し給ふ如く、純一(じゆんいつ)の誠を以て、己が身をありとも覺えず、思の儘(まゝ)を、つくろひなく表はす程ならば、など君に得られぬの患あらんや。なべては、西土の書に見馴れ、聞き馴れて、臣下は君に仕へて、諫を陳(の)べるが當り前と許(ばか)り覺えて、己が身はらひとやらいへる如く、たまたま思ひよりし事を、君に告げしとて、君の惡しきを語りて、己が身をてらひ、君の用ひ給はぬ時は、かしみづを受くべしと、兼ねて企てぬるは、われと凶相をもち出でぬるの類なるべし。用捨は君にありて、去就の臣より奏すべき事にあらず。たとひ、己が身に毛筋程の過なくて、三至の禮にかかり、不測の罪に落ちぬるとも、聊、怨み怒るの心なく、嬰兒(みどりご)の母を慕(した)ふ如く、つめられ、たたかれても、泣く泣く、膝に這(は)ひかかる思をなして、七年の病に三年の艾(もぐさ)を求むるの、をくれながら己が心身を愼みて、再び日月の光を享(う)けなんことを願ひて、音もなく、香もなきを、忠臣の操とはいふべし。

菅相公(くわんしやうこう)(○道眞)の恩賜の御衣の餘香を拜し、實方(さねかた)中將の臺盤一明(だいばんいちめい)の供御(くご)を思給ひふ(*1)など、臣たる者の鑑(かゞみ)ならまし。彼儒學を唱へ、白眼にて、世上を見るの輩は、國體を辨へず、西土の道を偏執して、出處去就を己が儘になる事と思ひぬれども、聖賢の語にも、「仕へては則ち君を慕ひ、君を得ざれば則ち熱中すともいへらずや。をしのぼせては均幽操(きんゆうさう)(*2)の天王は聖明なりの語を何と心得ぬるにや〔。〕君に事(つか)へて禮を盡す、人以て諂(へつらひ)と為すの聖語など、よくよく味ひ見て諫むべきに當りぬとも、上と下との禮儀を亂らずして、宜しく、人は用ひさせ給へ惡しくは愚なるひが言の罪を許して、惠を垂れさせ給へと親に對ひて、言葉を盡くし、子を誡めて、涙を落すことなるぞ、誠の忠なるべけれ。君の恥は己がはぢ〔、〕罪なくて君に棄てられぬるは、己がなやみよりも君の善からぬ名をや、とり給はんかと思ふ程ならば、世にいへる何事も、花とうけて、拜みたをすの罪もなく、又は罪なくて、配所の月を見るの患もなからまし。君の臣をあひしらひ給ふ事は、明らさまにいふも、恐れあらば、筆をさしをき侍りぬ。

さても師弟の交をいはば、臣の君に仕ふるとは、少しく理の違(たがひ)めありぬべし。初めて學ぶ時に、よく道藝のそなはりたる人を選びて、其門に入るべし。たとひ、道を辨へ藝に達しぬるとも、生れつき腹惡しくまして、言と行の違ひある人ならば、必ずしも、師と頼むべからず。鮑魚(ほうぎよ)の市にたちまじればけがれの香に染(そ)むる譬、忘るべからず。されど一藝一術の師といふものは、その藝術の優れたるを學びて、その人をば取らぬといふも、一つの理あるべき事なれと、それすらよく心をつくれば、道に缺けぬる人を君親の如く尊びぬるは、うるさき事ならずや〔。〕

彼豐原の何某が、源義光の東の陣に赴きしを、慕ひ行きて樂(がく)の傳授を受け、博雅(はくが)三位の夜な夜な、通ひて小幡の盲僧(まうそう)が秘曲を聞き得たるの類は、もとののせちなる千歳の後までも、ふかめしきためしなるを、源義經の鬼一法眼(きいちはふげん)の兵書を盗み取り、根岸兎角が飯篠長意が病を見すてし類は、如何なる心にや。たとひ驪龍頷下珠(りりうがんかのたま)なりとも、盗むの名ありて、何の寶とするに足らむや。たとひ萬人に敵するの妙手なりとも、恩を受けし師に背きて、運を聞くの時あらんや。藝術に執心(しふしん)の深きものは、罪許しぬべしといへるは、深く辨へ明らめぬ、ひが言なるべし。今の學術藝能を好む人には、適々、全服をもて一家の秘奥を傳はりあるは、樣々の謀計を企みて、盗み出しかすめ取るを、賢き事にして言行も正しからず、傳來も確ならぬ師門を立てぬるもありとかや、いかに昇平百年を經て、道も明に藝も詳なりとは雖も、かくまで淺々しく、己が力を盡すの誠もなくて、したり顔に重き事を取りはやしぬるは、いふにも堪へぬ罪咎(つみとが)、恐るべく愼むべし。

さはいへ師を撰ぶ時に、かくとも知らで、本意ならぬ人を師と頼み侍りぬとも、己が幸の薄きを痛みて、聊、逆ひ戻らす一字一句の教を受けぬとも、其恩をば忘れざらん事を思ふべし。いはけなき時、辨へなく、異端の道に入〔、〕年たけて、惡しき事を覺らればとて、正しき道にふみかへぬるを、人に誇り、今まで仰ぎ仕へし佛をも、僧をも、口にまかせて惡し樣にきたなく、罵り笑ふは、顔の厚きとやいふべき。ゑよて(ママ)うけられ侍らねまして、道の筋めのよしあしに、心つきぬる程になりぬれば、師を見限り、遠ざかりて、昔思はぬ惡名を師に負(おは)せて、己を立てなんとするの類は、馬牛にして、簪裾(しんきよ)するにたとへぬとも、道たるにはあらじ。たヾ願はしきは、火々出見尊(ほゝでみのみこと)の鹽土老翁(しほつちのおきな)のさとしを、聞かせ給ひ、源義家の江帥(かうのそち)の許を、腹立つ心なくて、軍傳をうけ、平泰時の栂尾明慧(とがをのみやうえ)上人の訓導をうけひきし如く、聊、己が慢心雜念を加へず、純一の誠を盡くして、示教を仰ぎ、級(しな)を越えて、高遠に馳せざるを肝要とすべし。師弟の交は、西土の書に見えたるを則として、心喪を服するに到らば、彼天地に根させるの理に、違ふまじ。

師の弟子を教ゆるの事は、その人にしもあらぬ身にて、明ら樣に筆を動かし難くてさし置きぬ。

抑、君父師に仕ふまつるの道は、辱(かたじけな)くも神國の大眼目にして、夫婦長幼の道も、悉く、此内に兼ね備はれり。されど涙つきて血をしぼるの實情、誠心なき人には此大事をつけがたし。愼むべし恐るべしといふことしかり。

    名月にふむべき影もなかりけり。

   元文三年戊午七月三日
谷丹四郎垣守草稿     


(*1)「思ひ給ふ」の誤。
(*2)「拘幽操」の誤。

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梅堯臣の『碧雲騢』

前回のつづきということで、ざっとおさらいをしておくと、詩人として著名な梅堯臣には『碧雲騢』という書物があり、それは北宋の賢臣偉人を片っ端から非難したものだった。たしかに梅堯臣は官界で出世できず、不遇を強いられたとはいえ、がんらい品格の高い人だ。世間では彼ほどの人間がなぜこのような低俗な書物を著したのか、世間の人は訝しんだ。しかし何のことはない、魏泰なる人物の偽作だった。と、このようになる。

件の梅堯臣の『碧雲騢』は完本こそ残っていないが、『説郛』に一部が抜萃されており、現在でもその梗概をうかがうことができる。説郛本『碧雲騢』は叙1条+本文14条の全15条。『全宋筆記』第1輯にも収録されている。梅堯臣については日本のwikiに美しい紹介があるので、そちらを参照していただければよいのだが、少し留保の必要な箇所があるので、以下に補足しておく。

梅堯臣(1002-1060)、字は聖兪、宣州(江南東路)の人。詩人として著名で、現在でもその詩集『宛陵集』は愛好者が絶えない。また范仲淹、欧陽修、劉敞といった新進の政治家・学者・文化人と交友を持ち、時代の最先端を走った人間としても知られている。ただ本人の才能や人脈に比して、必ずしも恵まれた環境になく、その生涯はいつも貧乏との戦いだったという。

これについて、wikiには、梅堯臣は科挙に合格せず、恩蔭(親戚の恩恵)で官に就いたため、思うように出世できなかったと解説している。確かに恩蔭出身は科挙合格者に比べれば明らかに不利であるし、ましてや梅堯臣ほどの才人であれば、「もし科挙に合格していれば」との感を抱かないではない。

しかし北宋は科挙官僚だけが幅をきかせていたわけではない。恩蔭出身の政府高官も決して珍しくない。それに梅堯臣は召試をうけて進士出身を賜っている。その意味からすれば、梅堯臣は決して不遇ではなく、むしろ単なる恩蔭出身者よりも恵まれた環境にいたとさえ言える。

それにも関わらず梅堯臣が不遇だと思われたのは、その才能と人脈に比して出世できなかったこと、そして残された遺族も不遇だったからである。ことに梅堯臣の死の直後は悲惨だったらしく、友人・劉敞の行状には次のような自慢話が残っている。

梅堯臣は劉敞先生と旧知の仲だった。その梅堯臣が死んだとき、残された家族は生きる術もないほど困苦に陥った。先生はこの惨状を哀んだが、なんとも助ける口実が見つからなかった。梅堯臣は少し前、故・丞相の程戡のために神道碑を書いてやる約束をしていたが、書き終えることなく死んでしまった。これを知った先生は、梅堯臣に代わって神道碑を書いてやった。程氏が白金五百両を持参すると、先生は封を開かず、そのまま全額を梅氏の遺族に与えた。先生は軽々しく碑銘を書く人ではなかったが、梅堯臣とは特別の間柄だというので、あえて旧恩に報いられたのだった。


神道碑や墓誌銘は、死者の功績を称える碑文の一種で、宋代では能文家に書いてもらうことが多かった。それによって死者の名誉を高め、少しでも長く功績を世の中に留めようということらしい。と同時に、碑銘を書くことは、実は書く方の人間にとっても実りのある仕事だった。遺族から少なからぬ執筆料をいただけたのだ。欧陽修は当時から文豪として知られていたので、会ったこともない人間の墓誌銘・神道碑を多く手がけている。劉敞が碑銘を書かなかったのは、単にご自身の趣味と、お金に困らない身分だったからに過ぎない。

閑話休題。いずれにせよ梅堯臣は貧乏だった。しかも先輩の范仲淹、同年代の欧陽修や韓が順調に出世し、宰相や執政に登ったのに、自分はいつまでも地方官で、しかも貧乏の中に死んでしまった。梅堯臣は単なる詩人ではない。現在でも『十一家注孫子』にその名が伝わるように、政治・軍事関係でも一家言を持つ有為の才として世間でも認められていたのだ。これは不公平ではないか。だからこそ世間は疑いを持ったのだ。やはり梅堯臣の心にも醜いものがあったのかと。

さて『碧雲騢』は人物批評というには余りに低俗で、今風に言えば暴露本の類である。例えば当時名臣とされていた張士遜を評しては、「張士遜は宮中に女を入れて皇帝の歓心を買おうとしたが、諫官が批判の準備を始めると、さっさと追い払った」という逸話が書かれている。名臣の隠れた巨悪を暴くのではなく、どうでもいい悪事を暴露しただけの書物。そう、出世できなかった人間が、嫉妬で有名人の過去を暴いたような本なのだ。

実際のところ『碧雲騢』が魏泰の偽作なのか、それとも梅堯臣の真作なのか、杳として知れない。一部に梅堯臣説を採る人もいるにはいるが(邵博『邵氏聞見後録』巻16)、世間の評価では概ね魏泰の偽作説が有力なようで、葉夢得はその『避暑録話』で次のような解説をしている。

世に伝わる『碧雲騢』一巻は梅堯臣の作とされ、その内容は政府高官の隠れた悪事を暴いたものだ。范仲淹とて謗りを免れなかった。世間では、梅堯臣は范仲淹らと交友があったのに出世できなかった、だから怨んで本書を物にしたのだ、と噂している。しかし君子は人の美点を世に知らしめるもの。万に一も至らぬ点があったとて、それこそ「賢者のために諱む」というものだ。ましてや真偽の怪しいことを書き散らすだろうか。梅堯臣は人格者だ。そのようなことは決してすまい。後で聞いた話しでは、襄陽に住む魏泰なる男が書いたものとか。彼は梅堯臣と親戚だという。ならば魏泰は単に名臣に仇なしたのみでなく、梅堯臣をも謗ったことになろう。


人格の優劣でもって書物の真偽を判断するのは、いささか危険な香りがする。当時の人、しかも稀に見る博識として知られる葉夢得にして然り。もはや現在の我々に『碧雲騢』の真偽を確かめる術は残されていない。本書が梅堯臣の作でないならば、彼にとってはいい迷惑であろう。しかし、もし本当に梅堯臣の作であるならば、彼はその人となりによって、ついに天下後世の名士賢人をも欺し仰せたことになる。

賢人の小悪を暴いた『碧雲騢』は確かにつまらぬ書物だ。しかし、そこからは浮かばれぬ人々の怨嗟の声が聞こえてくる。魏泰の偽作であろうと、梅堯臣の真作であろうと、その声をかき消すことはできない。

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美しき敗北者・魏泰

昨日の『東軒筆録』なる書物は、北宋の歴史を語るときしばしば利用される。著者は魏泰という男で、『宋史』に列伝もなく、科挙にも受からず、そこらで遊んで一生を終えた人間だ。その意味では「つまらない」人間の部類に入るのだが、彼の嫁が曾布の姉だったこと、そして王安石一家とも関係があったため、新法筋の情報をよくつかんでいたらしい。その著『東軒筆録』は北宋の政治史、特に新法前後の歴史を調べるのに不可欠な書物の一つとされている。

もっともそれだけのことであれば、あえて私が褒めることはない。そこそこ才能があるのに世渡りが下手で、貧乏くじを引いた人間。でも貴重な歴史の証言者として現在でも有用。これに止まる。私が魏泰をわざわざ取り上げて、褒めちぎろうというのは、彼が世間的に極めて悪質な人間だからだ。言葉を換えれば、魏泰はあまりにも人間的であり、あまりにも普通すぎる才人なのだ。

わずかに残る伝記をまとめると、魏泰はこのような人間だった。――若くして才能に溢れる彼は、自由気ままな生活を送っていた。そして当時の常識にならって科挙を受けた。ところが科挙の監督官と一悶着をおこし、ちょっとのことも我慢できず、監督官を殴って半殺しの憂き目にあわせた。そして殴った自分も科挙受験の停止をくらった。

しかし、ここで折れないのが我らの魏泰だ。思い通りにならないなら、せめて自分のできる範囲で人様の役に立とうなどと思いはしない。彼がしたことはまず、気に入らない人間の批判だった。しかも人の名を騙って。自分で悪口を書かず、人の口を借りて人を批判する。これは簡単なようでいて、相当の才能がないとできない芸当だ。これだけでも魏泰が超一流の人間だったことがよくわかる。

こうして才能の無駄遣いをしつつ、次にしたことは、みずから名乗って『東軒筆録』を著し、世間で顰蹙を買っている新法派の連中を激賞することだった。あえて批判の中に飛び込む勇気を、魏泰はもっていたのだろう。最後にはそういう勇気をもっと効果的に利用した。あえて親戚の有名人・梅堯臣(故人)の名を騙り、『碧雲騢』なる書物を著し、北宋一代の偉人・賢臣を片っ端から批判したのだ。かの名臣・范仲淹もその例に洩れなかったという。なんとふてぶてしい勇気ではないか。

晩年に新法派の章惇が権力を握り、好意的な呼び込みがあったが、魏泰はそんなものに尻尾を振る人間ではない。「いまさらなんだ」と拗ねて、地方に引っ込んでしまった。

当時は今と違って情報の流通が不確かだった。だから書物の真贋を見極めるのはかなり難しい。『碧雲騢』は士大夫世界に大きい波紋を投げかけた。――梅堯臣は范仲淹らと一心同体だった。たしかに梅堯臣だけ出世できなかったが、彼ほどの賢者が人を怨み、このような罵詈雑言を浴びせるはずがない。これはどうしたことか。このような噂が広まったのだ。

後々、士大夫の一人が気を利かせて「『碧雲騢』は梅堯臣の書物ではなく、魏泰の偽作ですよ」と云ってくれたので、世間は納得し、またそれにともない魏泰の評判もいっそう悪くなった。あいつの言うことはほとんど嘘だ、ひそかに章惇とつるんだくわせものだ、と。こうして魏泰の名はその著書『東軒筆録』とともに、大変な不名誉の栄光を勝ち取り、後世に語り継がれることになった。

いやはや、なんとも胸のすくような人間だ。才能を鼻にかけ、勝手な生活を送り、思い通りにいかないと人を罵倒誹謗する。しかも念の入ったことに他の有名人の名を騙って、さも真実らしそうに語る。これほど人間的な人間はちょっとお目にかかれない。すくなくとも才人でありながら、これほどの小人ぶりを発揮してくれる人は、なかなかいない。いても名前が消えてしまうからだ。

しかし私が魏泰に好意をもつ理由は、またこれとは別にある。四庫官は云う、「これほどの小人であるのに、あれほど不信の書物であるのに、それにも関わらず、魏泰の『東軒筆録』は世の中に広まり、多くの人々に読まれた。なぜか。それは本書が魏泰の恩讐より出たものでありながら、その優れた歴史的記述によって、北宋の歴史を知るのに不可欠なものだったからだ」と。

真贋雑出するにも関わらず、魏泰の『東軒筆録』は便利だから利用される。魏泰をののしり、書物を否定する人間が、かえってその物したところの書物を使う。魏泰を疑い、その著述の誤謬を知りながら、それを利用しなければ我々は宋代の歴史を知り得ない。正しき人間を歯ぎしりさせること、これほどのものはない。

人がみな己の才能を他者の利益の為に使うと思うのは、あまりにおめでたい。己は欲望を適え、人に不便を強いながら、その人に向かって自分に都合のいい汗をかけという。遺憾ながら学才のない人間は、黙々とそれに従うしかない。しかし魏泰は違う。その溢れんばかりの才能を駆使して、不可欠な、それでいて害悪な成果を、人々にもたらしたのだ。このような小人・魏泰に私はむしろ感動すら覚える。敗北者の生き様として。

魏泰の『東軒筆録』。中華書局本にして僅か1冊194頁。しかしその価値は千金に値する。


附記:話しの都合で省略したが、梅堯臣の『碧雲騢』には異論もある。それについてはまた別の機会に書く......かもしれない。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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