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雑記

私はfirefoxでブログを書いてます。でも拡大率が高いから、それほど目は疲れない。どれくらいかって?自分のブログですら、右のリンク部分が全部消えるくらい、文字の拡大率をあげている。そうじゃないと目が疲れて目が疲れて。でも拡大して始めて気付いたこともある。アイコンって、拡大するとあんがい無様に見えるのね。

もういちど読む山川世界史。読み終わった。第2次世界大戦後は歴史じゃない。蛇足になっていた。執筆者の責任ではなく構想した人間の責任だな。やはり歴史は適度に古い方がおもしろい。どれだけ人間が死んでも他人事だし、話しの展開も大きいし。

コミケのために印刷代を計算したらかなり必要だと分かった。みんな100部ちかく刷るらしいが、ようやるなあ。私なぞ10部にしようと思っているのに。

孔子家語も調べてみるといろいろおもしろいことが分かるものだ。孔子家語の真偽はともかく、孔子家語をめぐる考証は、いかに考証がいいかげんで信頼できないものかを示す格好の例となるだろう。もっと多くの人に知られるべきだ。何でかって?おもしろいからですよ。歴史なんて信頼できないものだと分かるからですよ。

ちょっとアクセス解析しらべたら、消した記事に来る人がパラパラいるようだ。Googleの検索結果に残っているのだろう。どうせ有益なことは何も書いてないから気にしないことにした。

部下に権限を与えろというのは、いわゆる下克上の始まりというやつだろうか。下克上の理論的正当性はこのようなかたちで始まるのか。いままで実感がなかったけど、自分の生きている時代にそういう感覚を味わえるなんてラッキーだな。これだと儒学者が道徳守れとかいうのも寝言でないと言える。彼らからすれば世の中の仕組みをどれだけ変えても、道徳が守られないと仕組みも維持できないから、まず道徳守れとなるのだろう。これはむかしから指摘されていたことながら、はじめて実感として分かった。もちろん儒学者は間違っているけども。

宋代の歴史には売りがないなぁ。誰かが、(現代の)中国を知るには宋代以降、特に明代以降の歴史を知る必要があると言っていた(誰の発言か失念した)。歴史なんて知っても現代の中国はなにも分からないけど、知った気持ちになりたいなら、それはそれで間違いでもあるまい。少なくとも隋唐以前の中国を勉強しても意味はない。でもそういう意味で宋代を売り出すのは気が引ける。というか、無理だろ。もし中国にいくから素養として歴史を学んでおくとか、そういう気持ちなら、それこそ中国で出版されている中国の歴史を読んだらいい。日本人のものは読まない方がいい。当たり前で、中国人が大事だと思っている歴史は、中国人の歴史の本に書かれるだろう。その色づけだって、中国人が好むように書かれているだろうから問題あるまい。中国が復活した昨今、日本の中国史研究のレベルはもう低くなったので、日本語で中国の歴史を読む必要は全くなし。

話しがそれた。宋代の歴史を売るなら、やはり娯楽として売らないとダメだろうな。まちがっても現代の中国を知るために見たいなノリではだめだ。現代の中国を知りたければ、現代の中国を勉強すればいい。それが歴史の歪曲であっても、現代の中国人が信じているのが、現代の中国の人の歴史なのだ。歴史の真実などどうでもいい。もし歴史の真実を知りたいのなら、それは現代の中国と切り離して考えなければならない。その場合、もっとも強く関係するのは、現代の日本人の価値観だ。

また話しがそれた。宋代の歴史でおもしろいのは陰湿な政治闘争だけど、周囲の情報から判断するに、そういうのはあまり喜ばれないらしい。私なんて同文館の獄(疑惑をでっち上げて宦官とか女官とか官僚とかを痛めつけて皇后を失脚させた事件。あとで嘘だとばれたけど、みんなしってたじゃん、みたいな感じで笑い話になった)とか絶対おもしろいとおもうけど、そうはならないのが世の中らしいな。ああいう事件を見ていると、いかにも知識人というのは喰えない存在で、歴史というのはどこまでも酷いものだというのがよく分かる。生きているのが馬鹿らしくなるくらいだ。もっとも、そういう話しの続きで、やっぱり戚夫人は萌えるといったら、知り合いにどん引きされた。ジョークの分からん人だね。でもね、あれもこれも歴史に書かれていることがもしあるていど正しいなら、全部人間がやったことなんだよ。人間というのはそういうことができるんだよ。できない人もいるし、感情を止められる人もいるけど、する人もいるんだよ。

さっきNHKの討論みてた。国連決議ってのは、春秋時代でいうところの覇者の命令みたいなものか。


いままでバーナーを非表示にしていたから気付かなかったが、このブログの宣伝に「歴史を学ぶならどこどこで」みたいな宣伝が出てるのね。気分悪いから設定かえようかな............

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他人の不幸は蜜の味

とは全然関係ない話し。


むかし田子方が外遊したときのこと、道すがら老馬を目にした。何やら放っておけぬ気持ちになり、御者を呼び止めて言うならく、「この馬は何だ?」御者、「殿様の馬ですよ。用済みになったので、捨てられたのです。」これを聞いた田子方、「若きときは死ぬほど働かせながら、老いれば用済みとばかり捨ててしまう。とうてい仁者のすべきことではない」と言って、この老馬を買い取った。不遇をかこつ人々は田氏のやり方を耳にするや、はじめて力を尽くすべき主人を知ったという。

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ジャンル : 本・雑誌

雑記

さすがにやばくなってきた。

1.オスマン
2.もういちど読む~
(3.英語)

(※)以下本文

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雑記

1.古典翻訳の終焉
2.もういちど読む~
3.ちくまの
4.漢書

(※)以下本文

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読書感想

ひところ話題になった山川の『もういちど読む山川世界史』を読んだ。って、まだ近代の半分(全体の半分でもある)までだけど、でもだいたいの傾向は分かった。

全体は古代・中世・近代・現代の四つに分かれ(近代は大航海時代あたりから、現代は第一次世界大戦前から)、現代に近づくにつれ相対的に頁数が増える。内容的には頁数の関係から細かいことはなにも書いていないが、その分だけあっという間に時代が過ぎるし、固有名詞も少ないしとあって、読んでいて痛快だった。南宋なんて8行かよって。

ただし欠点もある。頁数が絶対的に少なすぎて、説明になっていないところがあるのだ。短くまとめすぎたためか、文章を圧縮しすぎて分かりづらいところがあるほか、人名・地名といった歴史用語の羅列におわっている文章すらあった。とはいえ、これらは少しでも正確な歴史的事実を、少しでも短く説明しようとするゆえのことで、遺憾ではあるが、あまり批難すべきでもない。大人が対象の本だから、そこらはおおらかな気持ちで読むべきなのだろう。

ということで、読む前はどうかなと思っていたけど、世界史をざっとおさらいしたいという人には便利な本だった。もう少し頁数があれば、なおよかったかな。

ちなみに山川には『詳説世界史研究』という参考書があり、本書よりはるかに詳細な記述が売りだ。しかし私は『詳説』を褒める気にはなれない。なぜなら『詳説』は大学受験向けの参考書で、読者の対象も高校生だからだ。それにヘタに頁数があるためか、中途半端に細かい記事が目立ち、かえって理解の妨げになる。

歴史の説明は、書き手の文章力以外に、読み手の能力をも要求する。読み手に現在と異なる価値観を理解する能力がなければ、どれほど完璧に説明しても、理解できないだろうし、おそろしく曲がった理解をするだろう。その意味で、『詳説~』は、高校生対象であるにも関わらず不必要に細かく、またその割りに正しい説明がなされていない(おそらく諸般の事情で書きたくても書けないのだろう)。

もっとも大人用に『詳説~』を出版するなら話しは別だ。その場合は、歴史とは何か、そもそも歴史とはどのように作られるのか(まさか歴史は神さまが与えてくれたものと思っているわけではあるまい。歴史は学者が作るのだ)、なぜ新発見もないのに学説が変わるのか、等々、高校生が知る必要のないものであっても、大人は知っておくべきことを説明してほしい。

そして説明文にも思い切って踏み込んだ発言を入れて欲しい。例えば、農奴とか小作とかが何故歴史で重視されているのか(学者が当時の流行にのって吹聴しただけなのに、大人の事情でまだ抹殺できずにいるとか)、どのような形で歴史が書き換えられていくのか(極めて現実的で実益のある人間関係上歴史は書き換えられる必要があるのだとか)、等々。もちろん一つの事柄の確定が不可能なこともある。また事柄の意味が三つも四つもある場合もあるだろう。それらは高校生には伝えにくいものだが、大人なら大丈夫、バンバン書いて欲しい。

もっともそんなことを知りたいのなら、大人なんだから、別の歴史の本を読んだらいいとは思うけど。


ああ、もちろん『詳説~』を読む人に文句はないよ。人はいろいろな目的の下に本を読むのだから、『詳説』が必要な人は『詳説』を読めばいいし、だれもそれに文句を言う必要はない。ただ『もういちど読む~』の詳しい版を求めて『詳説~』を読もうと思うなら、止めた方がいいというだけだ。『もういちど読む~』を読んで歴史が好きになり、もっと詳しく知りたいと思うなら、それこそ中央文庫から出てる『世界の歴史』でも読んだ方がいい。まぁ、あれは著者によって偏向と優劣が甚だしいという難点はあるけども。

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

雑記

1.孔子集語
2.生徒さんの性質
3.戦い
4.だんつま

(※)以下本文

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孔子家語の真偽

この前は虫の居所が悪かったこともあって、いい加減なことを書いたが、考えてみれば孔子家語は狭い世界で有名な本だから、古典愛好家が調べることもあるだろう。ということで、気を取り直して少しだけ紹介しておく。もちろん論題は孔子家語の真偽(についての論争)。と言っても、もう中国のサイトでいろいろ説明されているので、そこのリンクを貼るだけのことなんだが。

まずwikiprdia。さすがに最新の情報が載っているところは中国だな。日本のものはどこかの解説書から取ってきた内容だし、しかも不適切で偉そうな表現が目につくので見なくていいだろう。

中国語wikiのキモは:

20世紀70年代以來,由於出土文獻的出現,給《孔子家語》的研究帶來了新的契機。1973年河北定州八角廊出土了漢墓竹簡中有《儒家者言》,内容与《家语》相近。1977年安徽阜陽雙古堆出土了漢墓木牘,内容同《家语》有关,另有英藏敦煌寫本《孔子家語》。李學勤認為,《孔子家語》可能成于孔安國、孔僖、孔季彥、孔猛等人之手。有學者甚至指出《孔子家語》的價值並不在《論語》之下。(脚注は省いた)


で、要するに『孔子家語』は本物だから『論語』と同程度の価値がある、換言すれば『論語』を読もうと思う人間は、同時に『孔子家語』を読む必要もあるんだよ、ということになる。

もっと専門的にきれいにまとめたものであれば:

歴代《孔子家語》研究述略

一読したところ、著者は『孔子家語』本物派のようだが、研究整理はなかなか綺麗にできていて、読んでいてい分かりやすい。この解説によると、清代に至るまでにほぼ学界の定説となった感のある『孔子家語』偽作説であるが、昨今の出土文献の発見によって、『孔子家語』が本物である可能性が出てきた、そしてそれはなかなか説得力があり、今後のさらなる研究の進展が待たれるというような内容になっている。色は付いているようだが、まあ普通の研究整理とそのアナウンスといったところだろうか。

次に上の解説にも名前の登場する、『孔子家語』本物派の闘将・楊朝明さんの解説。論文も多数執筆されているようだが、ネットにも流れていた。

《孔子家语》的成書与可靠性研究

ちょっと冗長な感じはするし、過激な発言が散見するけど(私は好きだが)、ネットで読める本物派の意見としては貴重なんだろう。というか、楊さんには『孔子家語通解』というのがあって、『孔子家語』を詳細に研究したものがある(本書の冒頭に論文が掲載されている)。だから本人としてはかなり真面目に『家語』の本物たることを信じているようだ。

ということで、各人各論の主張はネット先で読んでください......では不親切なので、以下、分かり難く説明してみよう。


『孔子家語』は『古文尚書』と並び偽作の代表例とされている。つまり現行本の『孔子家語』は、前漢の宮廷に確かに存在した『孔子家語』ではなく、それから二百年以上の後、魏の王肅なる人物が、学界の主流学説(鄭玄の学説)を打破するために自分の都合のいい資料をかき集めて作った偽書だとされる。

まず王肅の『孔子家語』を疑ったのは、馬昭という鄭玄派の学徒で、彼は王肅の出してきた『孔子家語』に対して「鄭玄先生の見なかったものだ」「『孔子家語』には王肅が増加したところがある」といって批難した。ただ馬昭がどれほどの学者であったのか不明であり、また他の鄭玄派の学者は『孔子家語』を普通に引用しているので、馬昭のいう「増加」の意味は、いわゆる全くのパチモンという意味ではなく、来歴ある『孔子家語』に王肅が自分の都合のいい文章をつけたしたという意味だろうとされる。

つぎに隋唐の時代になると、『漢書』の注釈で有名な顔師古が、漢書芸文志の『孔子家語』に「現行本ではない」と注している。もっとも顔師古が何を根拠にそのように論断したのか、今一つ定かではない。上の楊さんもいろいろ試案を出しているが、もともと資料のない世界のことだから、推測の域を超えない。

つぎにぐっと時代が下り、宋末になると、偽書の大家・王柏が登場し、『孔子家語』は全くの偽者である、という大胆な説を提唱する。その根拠は、『孔子家語』の文章は『説苑』や『大戴礼』に見えるものがほとんどで、それらから取材したものだというにある。王柏の学説はなかなかインパクトがあったと見え、元代にあるていど支持者を得たらしい。

後、学問の死滅した明は飛ばして(*)、清代になると大いに『孔子家語』の評判は悪くなり、特に范家相の『家語証偽』、孫志祖の『家语疏証』が出で、『孔子家語』と古典文献との関係が白日の下にさらされるに至り、『孔子家語』の偽書たるはほぼ学界の定説となった。もっとも清代には陳士珂の『孔子家語疏證』のように、本物たると偽書たるとの判断を避けるものもあり、また銭馥のように、現行本『孔子家語』の大半は本物だという人もいたが(陳氏疏證の跋)、大勢は偽書説に傾いた。

具体的な論証過程を説明するには予備知識が必要になるので、ここでは省略するが、要するに范氏や孫氏の論証というのは、「『孔子家語』のどこどこの箇所は、『説苑』と『大戴礼』を足したものだ」とか、「どこどこはまったく『説苑』と同じだ」ということを逐一指摘し、「だから『孔子家語』はこれらの書物から取材して王肅が作ったパチモンである」と説明するにある。

これだけだとあまり説得力を感じないだろうが、『孔子家語』全篇にわたりこういう嫌がらせをした結果、『孔子家語』のほとんどが『説苑』や『大戴礼』『礼記』と重複することが明らかとなった。古典どうしの重複は珍しくないとはいえ、あまりにも重複が甚だしく、しかもつぎはぎしたような跡が見られ、さらに王肅の学問態度(相手に勝とうという気が強すぎるところ)が問題視され、やはり王肅の偽作だろうということになった。

これに対して陳氏のものは、『孔子家語』と類似する文献を挙げるだけで、どちらがどちらを剽窃したのか、といった下世話な論評は一切なく、淡々と資料を列挙してそれで終わっている。学問的には陳氏の方が良心的だが、学者は衝撃的な方を好むので、おのずと范氏や孫氏の結論が好まれた。

ということで、しばらくの間、『孔子家語』偽作説は学界の定説となっていたのだが、ここ20~30年に中国では出土文献がおびただしく発見され、その調査研究が進むにつれ、戦国時代の文献に『孔子家語』と類似する(と彼らは思ったらしい)ものが発見され、また戦国時期の文献と用語を比較した結果、『孔子家語』の方が『大戴礼』や『説苑』よりも古い(らしい)ことが明らかとなった(と彼らは思った)。そのためこの種のものに関わる人間は、『孔子家語』が『大戴礼』や『説苑』から取材したのではなく、逆に『大戴礼』や『説苑』が『孔子家語』ないしそれに類する古籍から取材したのだ、ということを主張するようになった。

で、学界の大勢はいまだ『孔子家語』偽作派が優勢のようではあるが、本物派の人々は一方的に勝利宣言を出して、もはや『孔子家語』偽作説の根拠はなくなり、その本物であるのは明白になったので、これからは『孔子家語』を『論語』に匹敵する書物として扱い、孔子とその教団の真相を解明していこう、ということを言い出だしているらしい。なかなか自己の所信に忠実なことではある。


前にも書いたけど、ここ十数年で疑古派(古い書物は疑えばいいという考え)はとみに信頼を失い、古いのは正しいらしいという考えが勢力をもつようになった。だから従来ならば、『孔子家語』には疑わしいところがあるらしい→だったら偽書にちがいない→やっぱり偽書だった→偽書以外の結果はあり得ない、となった。

しかし一度このような考えが否定され、古いのは正しいと思うところから出発すれば、論理は顛倒する。すなわち『孔子家語』を疑う人々には根拠がない、なぜなら彼らははじめから疑ってかかって、都合の悪い資料は無視し、都合のいい資料ばかりを集めて議論しているのだから、つまり結論ありきの研究なのだ、だから彼らの発言に根拠はない、偽書説ははじめから成立していない、となる。そして、正しいと信じて『孔子家語』を読んでみたところ、言っていることに矛盾はないし、用語法や出土資料とも合致する、さらには実に素晴らしい古典的性質を備えている、やはり『孔子家語』は本物なのだ、となる。

疑古派もそうでない人たちも、結局、常識で考えて是非の判断を出し得る資料的正当性のないところで議論しているのだから、なんとでも意見は出せるし、相手を否定することもできる。

疑古派の発言が論理的に破綻しているのは言うまでもないが、『孔子家語』が正しいという根拠だって、それほど万全なものではない。

例えば、本物だという人々はこういうことを言う。――もし『孔子家語』が偽書であるならば、偽作者は『説苑』『大戴礼』などの書物から巧妙に取材したことになるが、それにしては齟齬が見られる。孔安國の享年だとか、序文跋文の関係だとか、いろいろ細かいミスが指摘されている。しかし考えてみてほしい、あれほど巧妙に本文を作る人間が、はたしてこんな単純なミスを犯すだろうか。

またこうも言う。――もし王肅が『孔子家語』を作ったのなら、それこそ彼は『孔子家語』から自説に都合の悪い部分を全て削除したか改訂したはずだ。ところが『孔子家語』の王肅注には、ほかならぬ王肅その人が批判しているところがある。これこそ王肅が偽作しなかった理由ではないか。などなど。

確かに『孔子家語』の本文ばかりを眺めていれば、そういう考えも浮かぶだろう。偽書説の根拠ばかりに気を取られて、なんとか本物だと証明しようとすれば、こんな意見が出てきても不思議ではない。

しかしね、本文の作り方が巧妙だとかいうなら、もっともっと後の時代、宋の劉敞は『春秋伝』を作ったとき、三伝から巧みに取材して自分の伝を作った。そこで宋元代には、劉敞の意図するところ、あまりに深淵でよく分からないとまで言う人がいたほどなのだ。しかしその劉敞の『春秋伝』ですら、清人によると、割裂が下手で三伝の真意を汲み取り得ていないとか批判されている。要するに巧みに取材しているのだから、ポカミスなんてあり得ないなんてのは、それ自体があり得ない考えで、むしろよくあることなのだ。

それに王肅じしんが『孔子家語』を批判しているとしても、だからどうしたのだ。そんなものはちょっと頭のいい人間ならだれでもすることだ。よく言うだろ?悪しきセールスマンが商品を売り込むとき、人の言うことを信じやすい人には、商品の利点ばかりを並べるけど、自分が頭いいと思っている人間に対しては、商品の欠点めいたところをわざわざ口にして、相手の批判慾を受け入れてから、改めて商品の素晴らしさを説明するって。それと同じで、「おれは『孔子家語』を偽作してないぜ」っていうアピールをするために、わざわざ『孔子家語』に自説に都合のわるい記事を残すことは、人間なら誰でもすることだ。私だったら絶対するね。

その他、出土文献との関係は、まだ出土文献の発見ブームが終わっておらず、したがって確定的な成果がまだ出ていないこと、比較するといっても余りにも断片的すぎて、本当に比較になっているのか怪しいところがあること等々、まだまだ問題は多い。話題になっているらしい『儒家者言』との比較だって、あれは『孔子家語』だけに一致するのではなく、『説苑』にも重複が見られるのだ。そして『孔子家語』と『説苑』は資料的に類似のものが多いのだ。いや、そもそも『儒家者言』と『家語』では相違が見られるのだから、仮に『家語』が本物でも、必ず両者の間に何か別の書物が介在していなければならない。要するに、まだまだ研究途上のことばかりで、本物か偽作かといったややこしい問題の根拠に使うには時期尚早なのだ。


しかし実のところ『孔子家語』が本物だろうと偽物だろうと、あまり重要ではない。『孔子家語』は前漢あたりに伝わっていた孔子学派のエピソードを集めたものに相違なく、それは比較的古い時代の孔子集団の言行録なのだから、孔子とその弟子を知りたいと願う人々がこの『孔子家語』を繙くならば、手っ取りばやく目的を達することができるだろう。

その意味で、『孔子家語』の真偽はともかく、こういう議論のおかげで諸種の注釈書が出版されるのは喜ばしい。そもそも『孔子家語』を説明するものは、その偽作たることの証明に力を削がれて、書物としての性格すら説明しないありさまだったから、こういう本物だという人が力を持つと、おのずと書物としての面白さにも注目が集まるだろう。だからどうってことはないのだが、『論語』よりも『家語』が好きな私としては、喜ばしい傾向ではある。

『孔子家語』の注釈は、上の楊さんの『孔子家語通解』が力作とされる。伝統的な成果(『家語』の該当条がどの古典と類似乃至一致するか)であれば、范家相『家語証偽』、孫志祖『家语疏証』、陳士珂『孔子家語疏證』の3書が現在でも便利本として知られている。その他、去年、『唐宋類書徴引《孔子家語》資料彙編』が出版され、唐宋時代の引用文献を一望できるようになった。

何はともあれ、学問は激しい論争と意見の対立があってのものだから、このままどんどん啀み合って欲しい。間違っても仲良くみんなで頑張ろうみたいな意味不明なことは止めて欲しいものだ。


(*)書くべきことがないこともないが、まがりなりにも由緒ある『孔子家語』本文を閲読して肯定・否定をしていた宋元代以前および清代以後の学者と異なり、学問の死滅した明代の学者は、『孔子家語』の節略本(および佚文を収拾したもの)しか読まずに議論していた。およそこのような低レベルな人々の意見は聞くに値しない。

雑記

1.自殺率
2.孔子家語の真偽
3.春秋学綱要の解説
4.神祇官
5.詳説政治~
6.先秦両漢典籍引尚書資料彙編
7.お買いどく

(※)以下、本文。

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やはり次は

孔子家語だな。今日は夕方から家語を調べはじめ、気が付いたら夜中になってた。まぁ調べたといってもネットではあるが、中国はネットに高度(?)な学術論文を載せているので、参考になることが多い。日本の研究はネットに皆無といっていいので、はなから無視することにした。それはともかく、ネットとはいえまともに読んでいると時間もかかるし、まだ調べ終わっていないのだが、うまくまとめた記事があったので、それなりに全体的な流れは了解できたつもりでいる。

しっかし孔子家語は本物だとか言っているのは、どこかの出土資料万歳集団しかいないと思っていたけど、あんがい違うのね。これは勉強になった。まあね、孔子家語はもともと説苑とかなり類似しているから、出土資料と説苑が一致すれば、それだけで孔子家語と一致する可能性は高くなる。だからもし孔子家語が説苑から取材しているのなら、当然孔子家語と出土資料との関係は、孔子家語の真偽を論断するだけの根拠になり得ない。

とはいえ、実際問題、孔子家語の偽作説に論理的な穴があるのも明らかではある。それもそのはず、竹書紀年のように釈文が宋代まで残っていたものはともかく、偽作説の大半は「~のはずだ」とか「論理的に考えて~とならなければならない」という、文献に徴すことのできないものを根拠にしているからだ。もっと言えば、文献に徴し得ないから、論争が起こるのだ。

だからかつての疑古派よろしく古いものはとりあえず疑っておこうとかいう精神がなくなって、古いのはとりあえず信頼できるんじゃね?みたいなノリになれば、そんな穴だらけの偽作説なんかアッサリ無視されるのは当然といえば当然だろう。昨今、疑古派が劣勢なのは言うに及ばず、したがって孔子家語もそれにつられて本物だと論じられるのも、決しておかしいことではない。

かくいう私は孔子家語が本物か否か、よく分からない。偽作だというには余りにも根拠がなく、またあまりに古すぎる。古い時代は何があってもおかしくない。しかしかといって本物かと言われると、偽作説を支持する人々の気持ちも分からないではない。孔子家語は本物というには、あまりにも他書(しかも有名な古典)との重複が多すぎる。重複が多いから偽書だというのは、逆にそれらの有名古典が孔子家語から取材したとも言えるので、結局そこで証明されるのは資料の関係性だけであり、真偽の問題ではなくなる。ただそれにしても重複が多すぎる。

偽書説が穴だらけであり、はじめから家語を疑ってかかっていたというのは、確かにある。しかし疑われるだけのものがあるのもまた否定しがたいのであり、それを偽書説の穴をついて否定してみただけでは、到底偽書説の疑惑はぬぐいされない。もっとも偽書であることを証明することは時に可能であるが、本物たることを証明することは、事実上不可能なので、ここらは何とも難しいところではある。

だからこの種の史料操作で明らかになることは、某々の資料と孔子家語との関係性だけであり、その関係性を高めることでどれほど蓋然性を確かなものにすることはできても、某は是であるとか、某は非であるとかいう、決定的な論断には結びつかない。下手をすれば、関係性をひっくり返して、真反対の学説が同時に資料的根拠と論理的整合性をもって成立することすら充分ありえるだろう。


......いつになく真面目に書いてしまったが、別に孔子家語の真偽などどうでもいいといえばどうでもいい。キャッチフレーズに、孔子家語は本物だ、現在の中国の学界(本場の学界)も大勢は本物説に傾いている、家語は孔子学派の重要文献だ、孔子のことをしるには家語が大事だ、といっておけば「孔子」を売り込もうという人々の商売に影響は出ないし、そもそも家語がはやるか否かは、ことさら本物か偽物かとは関係ないことではあるのだ。歴史の真実など知る必要はどこにもない。政治的な問題でもない限り、嘘を本当だと思っていても何も困らない。

興亡治乱

さきほど漢字の調べごとをしていたら、「治乱興亡」は欧陽修の朋党論が出典だと知った。てっきり誰でも使う言葉だと思っていたけど、そうじゃなかったんだ、欧陽修なんだ、知らなかった。でも欧陽修より先に柳宗元が使っているんだけど、なぜ柳宗元が出典ではダメなんだろう?

以下、関係ない話し。

このまえ岩文の『孔子家語』を読んだので、また移動中に中国学術名著の『孔子家語』(旧時代の句点本)を読んでみた。が、どうもこれは予想以上に出来が悪いな。文字の誤りが多すぎる。子夏が子貢になっていたり。まぁ字は似てるけどさ。ということで、こういう基本的なところに誤りが多すぎるので読むのは止めた。

孔子家語は四部叢刊本がポピュラーだけど、蜀本の方がいいと言われている。けど蜀本はとても高すぎて手に入らない。そんなら中国あたりに校点本が出てないかと思って調べてみたけど、案外ないのね。書虫に孔子家語(上下)とか孔子家語通解とかいう高い本が売ってるけど、これは何だろう?いや、そもそも発売されたのか?

孔子家語は長いといえば長いし、短いといえば短いから、値段の上下では本の中味が判断できない。ちなみに冨山房の孔子家語はよくない。あれは明の輯佚書(正確には違うが)を本にしているから、既に宋版の発見された現在、あれを用いる必要は存在しない。さしもの漢文大系も孔子家語に関しては利用できない。

そういえば中国学術名著には孔子家語とセットで孔叢子(3巻の影印本)が入っている。孔子家語の出来があまりにふがいないので、仕方なく孔叢子を読んでみたところ、こちらは驚くほどつまらないこと書いてるな。前に読んだはずなんだけど、全く覚えてなかった?

晏嬰先生、「斉の国をなんとかしてもらえませんでしょうか」
孔丘先生、「斉の国?もう潰れるんじゃね?そうだねぇ......あとは田氏かな」

そんなんでいいのかね。

ちなみに孔叢子に孔子の言葉が載っているのは初めの数篇だけで、あとは子孫やら文字(小爾雅)やら、よく分からない上奏文やらがくっついてる。かつて文公先生は「文章が軟弱だから後漢の連中が作ったんだろ」といって譏ったらしい。

思い出した中国書

1.廿五史述要

世界書局の『中國學術名著』の一つに『廿五史述要』というのがある。世界書局編輯部編とあって、各篇の著者名は記入されていない。台湾の本だからか、むかし台湾から出版された二十四史(中華書局のと同じもの)の冒頭にこの述要の一部が引用されていた。

本書は古い本だから(手持ちの本は1966年出版)、既に常識に属することや必ずしも正当と思われない表現などがある。しかし全体的にうまくまとまっているので、私のように学の浅い人間は、専門外の正史の概説書としてたまに読むことがある。

本書の内容は以下の目次の通り。八割が本編(したがって二十五史の解説)に充てられてます。

叙例
第1編 前論(中国之史籍/史体/紀伝体史)
第2編 本論(史記~明史+新元史、清史稿)……全体の八割
第3編 後論(歴代統系与史書之関係表/二十五史修撰表/同例目表/同帝紀表/同各表表/同各志表/同類伝表)
附録(正史源流急就篇/史家宗旨不同論/論史学分廿家為諸子之流派/主要参考書)

上に書いたように本書はなかなかコンパクトにまとまっているのだが、遺憾なことに印刷が杜撰で、誤植も散見する。目次をめくったら正史の第1番に「史」とあって驚かされるのはいいとして、誰某は『某々』を著したとかいう誰某が消えていたり(印刷のときに別の紙がはさまったのだろう)、一行の高さは頁によってバラバラで本文と注文の異同がわかりにくいしと、印刷上の問題は非常に多い。

しかしむかしの中華書局の解説のように思想的偏向がなく、淡々と各正史の特徴や問題点(杜撰な点という意味で、貧農史観に立っていない!!とかいう意味ではない)が書いてあるだけなので、読者としては気軽に読めるという利点はある。やはり書物の解説というのは、ただ事柄だけを書くべきであって、歴史的意味とか価値とか、そういうものは書かないでもらいたいものだ。

ということで、興味のある人はぜひ古本屋で入手してください。新品で手に入るかどうかは存じ上げませんし調べる気もありません。


2.閲微草堂筆記

先週の書虫に出ていたけど、閲微草堂筆記が出版されるみたいね。もちろん今まで数限りなく出版されてきたけど、大昔の影印本や断句本を除き、なぜか片っ端から簡体字だった。今回は上海古籍から中国古典文学叢書の一環として発売されるみたいだから、通常通りいけば、恐らく縦書き繁体字だろう。論文はどうでもいいけど、資料となると何故か横書きは読みにくく感じる。

いちおう今年の4月に出版されたことになっているけど、書虫にまだ写真が出ていないので、近刊扱いなのかもしれない。私は買わないけど、早く出版されて、本書が多くの人に読まれんことを欲する。というか、原文で読むのは面倒くさいので、だれか全訳してくれないかな~


3.雑記

全訳してくれないかな~で思い出した。私はそういう人頼みが嫌いで(というか無意味だと思っていたので)、むかし高畠素之の評論が気に入ったときには自分で集めてタイプしてサイトで公開し(諸般の事情で閉鎖した)、春秋五論は素晴らしいと思ったので自分で訳してみたのだった。

その後、高畠素之の著作が出版されたという噂は聞かないし、春秋五論が翻訳されたという話しも聞かないから、結局は自分が知りたかったのだから自分でやって正解だったのだろう。たまに研究書の「あとがき」なんかを見ていると、他分野の人の研究を期待するみたいな文句を目にするが、これは全くの間違いで、そんな骨を誰が折るんだか。

自分が必要だと思ったら、自分でしないと駄目なのだ。他人が自分の為に研究しくれないかと考える人間は、まず自分が他人の為に労をとったかどうかを考えてみればいい。そういう「あとがき」を書いている人間の論文を読む限り、およそ他分野の研究者の為に研究した形跡は皆無だ。やはり他人に頼るべきではない。自分だけで出来ないときは、キッパリ諦めるべきだ。

ちなみにわたしが高畠さんのタイプを公開したり春秋五論を出したりするのは、世のため人のために立ちたいという気持ちからというよりは、単純に自己顕示欲が強いだけだろうと思っている。まぁそれだけでもなかろうが、冷静に考えてみると、やはりそれが一番強い。もちろん悪いことだとは全く思っていない。

記事削除

去年以前のブログの記事一部を削除した。宋代史話とか、廖平とか、劉敞とか、四コマとか、コメントとかトラックバックのない記事(こちらから送らなかったのは別)は削除した。

春秋学と雑談は記事数が多かったので、ぼちぼち削除していく予定です。その他、今回なんとなく愛着を感じて削除しなかったのも、次回は気が変わって削除するかもしれません。

思えば無駄な時間を使ったものだ。

なお月別アーカイブは意味がなくなったので、表示しないようにした。

それと拍手も非表示にした。不便ならもとにもどすが、なんとなく疲れたので。


これとは関係ないが、新釈ファンタジー絵巻の記事を更新中。これは大事なので消さない。

調査中

1.新釈ファンタジー絵巻

(※)以下、本文。

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雑記

1.この前の双子ちゃん
2.コミケ
3.ピュロン主義哲学の概要
4.朱子学理解の基本文献
(※)以下、本文

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双子ちゃん

BLのBDが出ていたのか。知らなかった。secondの双子ちゃんはかわいかったし話もよかった。DVDは2枚に別れていたが、BDでは1枚に入るようだね。

そうそうBDには単行本の巻末漫画がアニメ化されているらしい。双子ちゃんの登場頻度は高いけど、個人的にはBD第3巻所収(らしい)の「バラライカの憂鬱」が好きかな。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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