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気になる本

1.書虫の新刊
2.サイト更新
3.京都の愛宕郡
4.中国経学
5.紙芝居
6.農業

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蒙を啓かれたうんぬん注

第1番目の所感

要するに自分の好みを貫き通したという意味でしょうか。考えたこともなかった。

人は他人の趣味に金を払うことは絶対にない。どれほど話のおもしろい人間と会話を楽しんでも、「今日の話はおもしろかったから金払う」というようなことは絶対にない。逆に金を払わないといけないのなら、そんな話は聞こうと思わない。ということで、いかに自分の好みを出さないかということを前提にいろいろやってましたので、そういう風に考えたことはなかったですねえ。逆に言うと、ブログみたいな相互非利益みたいなものは、他人の存在をあまり気にしないで書いている。あくまでも犯罪助長にならない程度に。

もっとも私の場合は自分の好みを全面に押し出して(A氏曰く押田して)いくと、「公共の良俗」に反することうけあいなので、やりたくても出来ないというのはある。例えば......って、書けるわけないよね。そういう意味からしても、自分が読んだり見たりして満足できるようなものは、とても人の前に出せないようなものになるので、おのずと自分の本性をいかに隠していくかというところが大前提になっていくのだろうと思う。

まあでもぎりぎり出せるレベルのものはあるかもしれない。章惇は素晴らしい、だって旧法派がにくいから世の中滅ぼしたんだよ、ステキだよね!とか。間違ってもらって困るのは、「章惇は従来世間から低い評価がなされてきた。しかし実は違う。彼は大変な能力者であっただけでなく、真に国を憂い民を愛する人だった」とかいいたいのではない。章惇はしょーもない奴だからステキだと言っているのだ。

ただし悪者ならなんでもいいというわけではない。私が好きなのは、非常に卓越した能力をもっており、その人がいないと困るようでありながら、その人がいると世の中が亡びかねないという、そういう人ね。与える害毒が天下国家、あるいは超歴史的なものでないとこまる。蔡京みたいに道楽で国滅ぼしたみたいなのは、全く興味もない。勝手にして下さいという感じ(A氏曰く漢字)だ。

人間は未来にむかって生きるのだから、形ある過去の遺物は亡んでもいい(A氏曰く言い)。骨董・絵画を進んで破壊する必要はないが、それを守るために権力が生きた人間を犠牲にするなんてとんでもない。むろん私はなんでもかんでも過去の遺物を保存したがる最近の傾向を危惧している。

要するに同じ悪人でも、その悪が人間の本質に根ざすものであり、人間が生活を営むにおいては如何ともし難い存在でなければおもしろくないということになる。もっと簡単に言えば、「質が悪い」というやつね。しかしコミケは反社会的な集団ではないから、「社会悪をもたらす人をどしどし推奨していくサークルです」みたいな応募の仕方だったら間違いなく落選すると思いますけどね。それどころか2度と当選しないんじゃないだろうか。多分エログロより悪質だと思う。


第2番目の所感

もうひとつの考えとして、自分が見て読んで満足できるレベルに達しないというのがある。どれほど推敲を重ねても、いや推敲を重ねるたびに不満がでてくる。だからその意味でも満足したことはない。どう考えてももっと素晴らしい表現のしかたやもっと適切な訳仕方があるはずで、自分がその域に到底達していないのは明白であるのだから、つねに不満とストレスが溜まる。


以上、注おわり。

雑記

すこし頼まれ事(?)があって真潮の文章を読んでいるのだが、それで久しく秦山先生の文章を読んでいないことに気が付いた。ここ2,3日心が低劣になっていたので、こういうときこそ秦山先生のような鉄の精神を持った人の文章を読んで発憤しないといけない。そう思って寝る前に少しづつ秦山先生の文章を読み直すことにした。やはり克己復礼は大事だ。


時代劇やなんかが時代性を帯びるのは仕方のないことで、だから私はあまりあの手のものを見ない。もちろん見る人に文句を付ける気は毛頭ない。こういうのは趣味の問題で、自分には許せないものが、他人には娯楽となることは全く珍しくない。私なんぞ秋の虫の音なんか雑音にしか聞こえないが、美しいと思う人もいるらしいから、まあ人それぞれなんだろう。

これを前提として、時代劇で今一つおもしろく思えないのは、服とか家とかそいういう小道具に凝る反面、精神とか価値観とか発言の方法とかそういうところに手抜かりがあることだ。むしろ脚本や監督なんかは、過去の器物や事件を利用してその中から(勝手に)現代性を引き出そうとしているのだろうし、それをこそ言いたいのだろうが、残念なことに私はそれを聞きたくないのだ。どちらかというと過去の生活の一こまをできるかぎりそのまま再現して(不可能であることは百も承知だ)、それをそのまま流して欲しい。現代や自分との相違を発見できて楽しいだろう。例えば戦後直後であれば××××なんて珍しくもないとか。


わがことながらいつも思うのは、古文を訳すとき「~と」をやたらと使ってしまうことだ。例のなんでもつなげられる接続詞「が」の使用には気をつけるようにしているので、不用意に「が」を使った場合はもういちど論旨をおって考え直すことにしている。もちろん古文じしんが強引に文章を繋いでいる場合、たとえばミンジン(明人)なんかの文章に対しては、遠慮なく「が」で繋いで原文の拙劣さを強調してやりたい気持ちになる。

しかし「と」はどうも「が」とは性格が違うらしく、文の流れが分からないというものではなく、リズムが悪く分かり難いという類のものであるようにも思える。「成都府知事となった」とか、「と言った」とか、私はさまざまなところで「と」を使っているようで、しかも個々の句を取り出せば意味が分からないというものでもないのだが、文章が長くつづくと読みにくくなる。うまい人の訳本でもよんで勉強しないといけない。

中国古文の翻訳がうまいのは誰だろうか。論語みたいなのは参考にならないから、もっとましなもので名訳はないものか。むろん書き下しは論外だ。個人的には中野さんの『西遊記』は好きだ。漢語の翻訳なのに全く漢文を意識させない。すばらしい。原文と比べたことがないので内容があってるかどうかは知らないが、孔丘とか漢代の文集ならいざ知らず、宋代以降の文章を堅苦しく訳す必要はどこにもない。

とはいえ『西遊記』は白話文だから、いかに中野さんがうまくても、歴史書とか経解類の訳と同列に語るのはむつかしい。漫画やラノベを外国語に翻訳するのと、カッチカチの哲学書や研究書を翻訳するのと、勝手が違うような感じだ。なにか名訳はないものか。ああ、言うまでもないけど、名訳とかいって「書き下し」なんてのはなしだよ。

ちなみに私などは穀梁伝や尚書などは書き下しでもいいと思っている。なぜならあそこまで時代が古くなると、漢字一文字に多様な意味が含まれすぎて、どうにも訳しようのないのが正直なところだからだ。今から1000年前の宋代の人ですら、「古い時代は文字が少ないから漢字一文字に複数の意味が込められている。だから強いて現代人の感覚で漢字の意味を探ってはならねえ」みたいな偉そうな講釈を垂れていたくらいだから、ましてやその1000年後の我々とあってはなおさらだ。ところが日本には書き下しという便利なツールがあるので、書き下しのまま放っておけばいい。せいぜい語釈でもつけて、「Aという漢字には、Bという意味と、Cという意味と、Dという意味と......Zという意味がある。ここの意味はそのどれか、あるいは全部」と書いておけばいい。

雑記

1.読書
2.孤独を愛する概説書
3.岩文曾根崎
4.カバーの綺麗な本
5.本の逆ギレ
6.損害
7.イライラする
8.苦しいところ
9.コミケ用の新刊とどいた
10.自費出版サービスうんぬん

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雑記

寝られなかった。

昨日まだ研究している人間にあった。その人間のことはどうでもいいが、話を聞いていてどうしようもなく怒りがこみ上げてきた。怒りというか、憎しみというか、妬みというか、おそらくその全部だろう。話をしたときは毒づきつつも適当に流しておいたが、家に帰って一人いると、どうにも体が熱くなって何も手に付かなくなった。斬り捨てるべく無関係になろうと思ってきたが、ぜんぜん駄目だ。

私は子供のころから何とはなしに凶悪犯罪者の心理が分かるような気がしていた。たぶん本当は分かっていなかったのだろうが、何となく言いたいことは分かるような気になっていた。自分に近いというか。ただそれでも私は犯罪者にならない自信があった。私と犯罪者との間には、底のない溝があるように思っていたのだ。ただ私はその溝の先っぽに立っていたので、対岸がよく見えるだけなのだと思っていた。しかし昨日それは完全に間違いだったことに気付いた。私と犯罪者との間にあったのは底のない溝ではなく、単なる高く厚い壁にすぎなかった。底のない溝を渡ることはできないが、壁は崩すことができる。そして昨日、確実にその一つが崩れたのが分かった。

いけないとは思っていたのだ。ここ数年、日一日と犯罪者の心理が自分に近づいてきていると感じてはいたのだ。むかしは彼らの言い分が分かるだけだったのが、じょじょに彼らの言い分が正しいのではないかと考えるようになってきていたのだ。だからなんとかそれを防ぎ止めようと、無意識のうちに無関係の関係を作っていこうとしたのだろう。同じ世間を離れるにしても、出世のごとく、世間から出るならそれもそれで一つの道だ。世の中に益することはないだろうが、そうそう害にもなるまい。害になると思う人もいるだろうが、そういう人は自分をよく反省してみるといい。人のことを言えた義理でないことくらい簡単に気付くはずだ。

しかし無関係というのは怖いもので、無関係ゆえに心の平静を保てると言える反面、無関係ゆえに××××××××××××××××××というように考えることもできる。もちろん今の私がそういうことを考えているわけではないが、なにか一日一日そういうところに近づいているようで怖い。

まあ当面は大丈夫だと思う。まだ理性もあし、親もいるから迷惑はかけたくない。そもそもそうならないように人生設計を立て直している最中でもある。それに最悪の場合どうすべきかは子供のころから決めていたことだ。どうにも避けられなくなれば、それだけは実行できるはずだ。それは他人の助けを一切必要としないことだからだ。

他者を必要としないのは素晴らしいことだ。どれほど他者が望もうと否定しようと、他者の存在が必要なければ、それも嗤って通り過ぎることができる。


欲しい本でも全部買えば気分爽快+やってしまった感に襲われてそれどころではなくなるだろうが、本質的な解決にはならないし、そもそも金がないから本もろくに買えないので無意味な妄想だ。

銭基博『経学通志』自序

自序

私見によれば、経学の源流を述べた陸徳明の『経典釈文』は、文章に抑揚が少なく、人をして厭かしめるものがあるばかりか、遺憾なことに魏晉以下の記述が頗る簡略であった。その後、江藩は徳明の遺志を継いで『経師経義目録』を著したが、門戸の見に囚われ、「清代の学者だけが漢代の学問を継承できた」と称し、唐宋以下の学問を放擲してしまった。このため経学の変化の跡は不明朗なままに置かれている。そこでこのたび私は旧聞を集めて本書を著すことにした。

無錫の銭基博


『経学通志』目録
自序
総志
周易志
尚書志
詩志
三礼志
春秋志
小学志


※底本は民国25年の中華書局本。
※銭基博は1957年に亡くなり、かつ中国なので戦時加算もない。したがって著作権は切れている。
※銭基博については百度に詳しい解説がある。参考になるところとしては、本書は銭氏の経部における代表的論著であるということ、そして『論語』『孟子』『孝経』『爾雅』を経書から省いたということの2点。その他は現在から見れば常識に属する。

雑記

寝られない......

1.生没年
2.知恵コイン
3.龔道耕の著作

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雑記

1.欲しい本
2.サイキックソルジャー
3.訳本の注

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雑記

段祺瑞伝

こんなん出してええんかいな。

そういえば『中国経学』とかいう雑誌があったはずだけど、あれはどうなったんだろう。少し前に「第5輯が出る」とかいう噂を聞いたが、それから音沙汰なしだな。あの雑誌、発売当初はなかなか立派な論説が載っていて感心していたのだが、最近は日本人の研究の翻訳(しかも最近の!)みないなのが載るようになって、私の個人的評価が暴落した。100点満点中90点から-1500点くらい。むだなことは止めて、もとの研究雑誌にもどして欲しいものだ。それと異常に高い値段をなんとかしてほしい。

『中国経学』第1輯第2輯第3輯第4輯第5輯。第5輯を除く各輯には目次が載っている。

論語は金になるか

かどうかは知らないが、なにか『論語』でいろいろ考えている人が多いのは確からしい。例えば:

『論語』と電子書籍

繁多な本業を抱えながらデリケートな翻訳業を志すとはなかなかバイタリティーに溢れることで見習いたいところだ。

さて、いまだ見たこともないipadはともかく、この種の読み物はどうも読みにくくていけない。推進しているのがビジネス書を読む人だからかどうか、読み物として堪えないようなレイアウトのものが多い。もちろんググってみれば日本語の組み方についていろいろ議論があるのは分かるのだが、現実問題としてまだまだ見にくいことは確かだと思う。

ビジネス書なんかだと必要な情報を集めるような気持ちで読むので、それこそネットに流れているニュースを読むような感じでもそれほど不都合は感じないが、小説だとか思想書だとかの読み物となると、字間行間だとか、行末が整っているかとか、そういうところに目がいってしまう。そもそもそういうところも含めて読んでいるのだから、その辺りの微妙なところが綺麗になってくれないと、とても読む気がしない。

みんなで作るePubファイル投稿共有サイト(β版)とかいうところでePubのデータを公開しているのだが、どうもね、ただ読めるというだけで、読み物を読んだ気持ちになれない。ちなみにePubはhtml、cssなどをzipにして拡張子をepubに変えたもの(実際に作るにはもう少し複雑)。FireFoxにEPUBReaderを入れればブラウザでも読める。

そういえば上のサイトにはやたらと青空文庫のデータが流れているけど、自動で変換したのかしらないが、目次も何も一切なく、たんに本文だけがダラダラ続いている。これだと青空文庫のhtmlで見た方が軽くて便利だ。まあ長い文章だとepub用に作り替えるのが面倒だったんだろうね。

読みものというのはデータではないので、ビジネス書以外で電子書籍をというのなら、読みたい本を増やすのもそうだが、そもそも日本語の読み物として手抜きしていないものを提供する必要があるだろう。もっとも読み物もデータだから、中味さえ手っ取り早く分かればいいという人が大多数を占めるなら、まあレイアウトなんてどぶにでも捨てればいい。私は古い人間だからか知らないが、あまりにデータ然とした読み物には抵抗を覚える。別にそれが悪いというのではなく。

ああそうそう、電子書籍もいいけど手軽に料金が払えないと意味がない。たとえ100円でもいちいち銀行振込で本体より高い手数料を払う気にはなれない。それに常にそういう予算を確保しているとは限らない。コンビニで買うような感覚だと楽だけどな。


......頭痛い。頭が痛いとろくなことを考えないな。


思い出した。pdfだと(小説や思想書ていどだと)レイアウトを保てるが、使い勝手が悪すぎる。重いし、表示が画面を飛び出るし(ipadは知らない)。

孫復『春秋尊王発微』始隠

宋代の春秋学を切り開いた学説――孫復の春秋尊王発微。というか、これ以前の学説はほとんど残っていないので、これが一番最初ということになっている。学問というのはそういう都合のいいものなのだ。世の中に残った学説が著名であったわけでもなく、著名であった学説が世に残るとは限らず、さらにいえば世に残った学説が必ずしも価値あるものとは言えないのに、なんとなく世の中に残って、なんとなく大事そうに見えるだけで、それが当時を代表する学問だということになる。

その孫復の始隠(隠公元年春王正月が始まる前のところ)の部分。時間がなかったので書き下しにした。余裕があれば後で訳文に差し替える。

孔子の『春秋』を作るや、天下に王無きを以て作るなり、隠公の為に作るに非ざるなり。然らば則ち『春秋』の隠公に始まるは、他に非ず、平王の終わる所なるを以てなり。何となれば、昔し幽王の禍に遭い、平王東遷し、平既に王たらず、周道絶ゆ。夫の東遷の後を観るに、周室微弱し、諸侯強大たり、朝覲の礼修まらず、貢賦の職奉ぜず、号令の束ねる所無く、賞罰の加うる所無く、法を壊し紀を易うる者之有り、礼を変じ楽を乱す者之有り、君を弑し父を弑す者之有り、国を攘け号を窃む者之有り、征伐は四出し、蕩然として禁ずる莫く、天下の政、中国の事、皆な諸侯之を分裂す。平王庸暗にして、孝を歴て恵を逾え、能く中興する莫く、播蕩陵遅し、隠に逮びて死す。夫れ生あれば猶待つべき有るなり。死せば則ち何を為す所あらんや。故に『詩』は黍離より降り、『書』は文侯之命より絶ち、『春秋』は隠公より始むなり。『詩』は黍離より下るとは、天下に復た雅有る無ければなり。『書』は文侯之命より絶つとは、天下に復た誥命有る無ければなり。『春秋』は隠公より始むとは、天下に復た王有る無ければなり。夫れ其の末を治めんと欲する者は、必ず先ず其の本を端し、其の終わりを厳にする者は、必ず先ず其の始まりを正す。元年に王を書すは、本を端す所以なり。正月は始めを正す所以なり。其の本既に端しく、其の始め既に正しく、然る後に大中の法を以て従りて之を誅賞す。故に「元年春王正月」と曰うなり。隠公は曷為れぞ即位を書さず。正しければなり。五等の制、世を継ぐと曰うと雖も、皆な天子に請う。隠公の恵を承くるは、天子の命なり。故に即位を書さず、以て正を見せり。



ちょっと手を加えた書き下し。

孔子の『春秋』を作るや、天下に王無きを以て作るなり、隠公の為に作るに非ざるなり。然らば則ち『春秋』の隠公に始まるは、他に非ず、平王の終わる所なるを以てなり。何となれば、むかし幽王の禍に遭いしとき、平王は東遷す。平〔王〕は既に王たらず、周道は絶ゆ。

夫の東遷の後を観るに、周室は微弱となり、諸侯は強大となれり。〔然れば〕朝覲の礼は修まらず、貢賦の職は奉ぜられず、号令の束ねる所もなく、賞罰の加うる所もなく、法を壊し紀を易うる者もこれあり、礼を変じ楽を乱す者もこれあり、君を弑し父を弑す者もこれあり、国を攘け号を窃む者もこれあり。征伐は四〔方より〕出ずるも、蕩然として〔これを〕禁ずるものなく、天下の政と中国の事とは、みな諸侯がこれを分裂〔して分け持てり〕。平王は庸暗にして、〔魯の〕孝〔公〕を歴て、恵〔公〕を逾ゆるも、〔なお〕能く中興するなく、播蕩陵遅し、隠〔公のとき〕に逮びて死す。

夫れ生あ〔る者な〕ればなお待つべきものあるなり。〔而るも〕死せば則ち何を為す所あらんや。故に『詩』は黍離より降り、『書』は文侯之命より絶ち、『春秋』は隠公より始むなり。「『詩』は黍離より下る」とは、天下にまた雅あるなければなり。「『書』は文侯之命より絶つ」とは、天下にまた誥命あるなければなり。「『春秋』は隠公より始む」とは、天下にまた王あるなければなり。

夫れその末を治めんと欲する者は、必ず先ずその本を端(ただ)し、その終わりを厳にする者は、必ず先ずその始まりを正す。元年に王を書すは、本を端す所以なり。正月は始めを正す所以なり。その本既に端しく、その始め既に正しく、然る後に大中の法を以て従りてこれを誅賞す。故に「元年春王正月」というなり。隠公は曷為れぞ即位を書さず。正しければなり。五等の制、〔先代の〕世を継ぐと曰うと雖も、みな天子に〔命を〕請う。隠公の恵〔公〕を承くるは、天子の命なり。故に即位を書さず、以て正〔しきこと〕を見(しめ)せり。



ふつうの春秋学を学んだ人がこれを読んだら、「この人、バカですか?」となる。でも、前提なくしてこれを読めば、「ふ~ん、なるほどね」となるかもしれない。新説なんてそんなものだな。したがって孫復の新説の意味を説明するには、孫復の否定した旧学説を説明しないといけない。孫復の学説の説明でないだけか、これから否定するために説明する。これは書きてとして大変な苦痛なので、ここでは説明しない。

雑談

1.かーりる
2.どーでもいいこと
3.画像の×○△
4.著作集

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どーでもいいこと

高畠さんのサイト(旧版)がもうgoogleの検索結果に出ていた。しばらく......というか、永遠に表示されないだろうと高をくくっていたら、「偏局観測所」で上の方に出て来る。う~む、どういう基準だろうか。そういえばおととい旧版のデータを一括変換してそのままftpで転送したんだけど、ファイル数が400か500くらいあったらしく、ちょっと時間かかった。でも後から思い出したのだが、たしかfc2の規約かなにかで、同時に転送するのは100くらいにしとけよみたいなことが書いてあったような気もする。やばいな。

そういえば泉鏡花文庫というサイトがあって、そこには同氏の多くの著作がデータで公開されている。その一部にpdfのものがあり、開いたところ横長の用紙(?)に縦書きで印字されていた。考えたことなかったけど、たしかに縦長よりも横長の方が収まりは悪くないように見えないでもない。もちろん100%で表示すると横スクロールが必要になり、非常にストレスがたまるのだが、もしこれが綺麗に収まっておれば(縮小表示でも閲読が可能なら)、むしろ読みやすいだろう。もっともpdfはどう考えても重くて読みにくい。印刷用に使うなら便利だけど、それで読むとなると面倒だな。

それはそうと、ファイルの中味を拝見したところ、原則として縦書き旧漢字旧仮名遣いを用いたらしい。ただ一部に新漢字が混ざっていた。「精」とか。「精」のような分かりやすい漢字が新漢字だということは、おそらく「成」や「盛」も新漢字だろう。旧漢字は新漢字より一画多い......と思ったけど、ここで見る限り、「成」の正字なんかはそもそも登録されていないのね。台湾フォントでも使わないといけないのか。

ふるい日本語を操作しようとすると、どうしてもこういう問題にぶち当たってしまう。高畠さんなんてのは、作家は作家でも社会評論だから、極論すれば漢字や仮名遣いを現代風に変えたって大したことないが、小説家となるとそうはいかないんだろうな。矛盾するようだけど、そういうどうでもいい高畠さんのですら、私もタイプするときに旧漢字旧仮名遣いの方がしっくり来るような気がして、結局そっちを選んだくらいだから、作家の文章を好きでタイプしようと思うなら、なおのこと新漢字新仮名なんて用いる気になれないのではないだろうか。いや、上のサイトの人はどういう気持ちか知らないけどね。

でも旧漢字旧仮名遣いとうのは、しばらく見ていると気にならないが、逆にしばらく見ていないと異様に読みにくく感じる。それも縦書きの紙っぽいものだったらいいけど、webで横書きで旧漢字旧仮名遣いなんて読めたもんじゃない。おとつい高畠さんのをブラウザで開いたら、うげー!っという感じだった。でも不思議なもので、あれも見慣れると普通に感じるのよね、これが。ちょうど「、」を「,」にするようなものだな。

しかし泉鏡花のサイトを見ていたら、やはり高畠さんの著作を広めるべく努力しないといけないような気がしてきた。電子書籍云々はどうでもいいけど、ipadくらいの大きさがあれば読みやすいだろうから、その意味ではどしどし高畠さんのデータを流して......と思ったけど、やっぱ面倒だな。一銭の得になるもんでもなし、止めた止めた。でもさっき始めて知ったんだが、indesignのcs4だとepubの形式で保存してくれるんだね。う~む、時は流れてるんだな。

関係ないけど、高畠さんつながりで思い出した。むかし「狂気乱舞」というサイトがあって、蓑田胸喜のことを扱っていたんだけど、もう(かなり前に)消えてしまっていたのね。いまは昔の跡地だけが残ってる。でも断片的にはまだ残ってるみたいね。真っ赤な背景に文字を書くという斬新で目に痛い表紙だったけど、もう見られないと思うと少し寂しい。

愚痴

困った、見直せば見直すほど駄目なものに見えてくる。

いや、実際駄目なものなんだけど、駄目すぎではあるまいか。やはり本質的に読解力と学力に問題があるようだな。こんなことを今さら言っても仕方ないのに、いつもいつも節目節目で感じることだ。よほど力がないとみえる。それにしても訳が曲がりくねるのは、私の性格が曲がっているせいだろうか。

右ですね。→前でも後でも左でもないね。もちろん上でも下でもないよ。
右ですね。→そういっても間違いじゃないと思う。
右でしょ。→否定はしない。


話は変わるが、むかしの高畠サイト、みかけだけ変えてみた。表紙だけだけど。どーでもいいけど、なんでこんなに重いかね。

偽装裁判

いまから1000年ほど前に相州の獄というのがあった。単なる収賄事件なんだけど、そこでの取り調べ方法に問題があったとかで、その当時ずいぶん問題視された。これとは全く関係ないけど、昨日ブハーリンの裁判について書いたものを読んでいたら、似たようなことをしていたので(規模ははるかに大きいけど)、人間はどこでも同じだな~という嫌な思いをしてしまった。

私の読んだ本によると、ブハーリンに無実の罪を着せて銃殺しようと企んだスターリンは、ブハーリンを厳しく取り調べて嘘の自白に追い込んだ。さらに裁判を開いてブハーリンに自白を認めさせ、その正当性を立証しようとしたらしい。そのために外国からの記者も集めて、大々的に裁判を行っうことになった。

しかし裁判でブハーリンが自白を否定し、余計なことを喋られると非常に困る。そこで考えたのが、偽装した裁判を開いてブハーリンに発言させ、もしそこで自白を覆すようなことを言えば、嘘だとばらして徹底的にしごき倒すというものらしい。そういう偽装裁判を何度か行った後、最後に本当の裁判を行って、衆人環視の中で自白の正しさを認めさせたとかいう。

この話がどこまで正しいのか分からないし、そもそもブハーリンは裁判で微妙な発言をしているから、最終的には本当の裁判か偽装したものか見抜いたのではないかと思わないでもないが、まあそれはいい。要するに嘘っぱちの裁判を開いて被告を欺し、いざというとき被告が何を言い出すかを調べるというのだろう。そしてこれと同じようなことを1000年ほど前に蔡確先生は行ったらしい。もちろん中国のことだから、もっと前にも同じことをしているだろうけども。

相州の獄を調査することになった蔡確は、士大夫をしょっ引いて牢屋にぶち込み、一般囚人と同じように扱って恥辱を加えた。さらに食事を与えるときも、家畜にするのと同じように、食材を大きい器に放り込み、ぐちゃぐちゃにかき回して出したらしい。そればかりか取り調べのために牢屋にぶちこんだのに、囚人(被告)の話を全く聞こうとせず、長い間ずーっと放ったらかしにしておいたという。このため屈辱的な扱いに我慢できず、さりとて弁解する余地も一切与えられないとあって、たまに蔡確が話を聞いてやると、囚人はあることないことべらべら喋ったらしい。

しかしこの蔡確の取り調べに上官と同僚は非常な不快感を示し、なんとか蔡確を調査から閉め出そうと考えた。そんなある日、牢屋の近くから人の絶叫が聞こえたという。上官はほら見たことかと思って、すぐに皇帝(神宗)のもとに走り、「調査で拷問が行われています。しかも相手は士大夫なのです。このような暴虐は許されません」といって蔡確の排斥を訴えた。皇帝も疑問に思って、中使(宮中から派遣される使者)に違法行為がないかどうかを調査させることにした。

調査すると、人の絶叫は牢屋から聞こえたものではなく、近辺の人間のものだと分かったが、中使は蔡確の取り調べ方法に問題があるらしいことをかぎつけた。そこで違法な取り調べが行われていないかどうか、じかに囚人に聞き取り調査を行うことになった。しかし蔡確とすれば迷惑な話だった。せっかくもう少しで事件も解明するものを、余計なことをして有耶無耶にするわけにはいかない。そこで彼は一計を案じることにした。

さて中使が牢屋に到着すると、囚人達はつぎつぎに蔡確の暴虐を訴え出るとともに、自白はすべて嘘で、蔡確のためにやむを得ず喋ったものだと言った。しかしそこに蔡確が現れて、「これは中使じゃない、私の手下だ」と笑って言った。囚人はびっくり仰天したが既に遅く、蔡確は虚偽の発言をしたといって、調査の不正を訴え出た囚人をしごき倒したという。そういうことを何度も行ったので、囚人も疑心暗鬼と恐怖に陥り、結局本当の中使が調査に訪れたときには、何も問題ありません、公正に取り調べが行われています、と自白したらしい。もちろんこのために蔡確を弾劾した上官と同僚も処罰され、蔡確に刃向かうものは一人もいなくなったという。

似ているといっても、規模は段違いだし、そもそも相州の獄は「粛清、銃殺」みたいな物騒な事件ではなく、現実問題として不正があったことは確かだったらしいのだが、いずれにせよあまり上品な話でないのは確かだ。ましてや蔡確はこれによって自分の上官のポストを手に入れたのだから、当時の士大夫から憎まれるのも無理ないことだ。

え?士大夫を一般人と同等に扱って何が悪いのかって?それは決まってる。天下の士大夫さまが、凡俗の一般人程度と同程度の扱いを受けるなんて、許されないことだ。士大夫さまと一般人とは人間的価値の上から考えて、天地の隔たりがあるんだ。一般人なんぞは士大夫さまの足下に這い蹲っていればいいんだよ。という考えがあるからです。

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awatan

Author:awatan
HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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