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雑記

なぜか知らないけど「契丹 地図」で検索する人間がやたらと多い。で、ほとんど関係ない我がブログの「契丹盟好」がGoogle検索の上の方に出てくるためか、アクセスがあって非常に迷惑だ。だから先ほど契丹盟好の記事を削除しておいた。しばらくは検索結果に表示されるだろうけど、じきに消えるだろうから、鬱陶しいアクセスも減るだろう。

その地図で思い出した。見るのはともかくとして(前にブログで書いたらいろいろアドバイスをもらった)、自分で作る場合、他の人はどうしてるのだろう?ネット上には概説書とか歴史地図州をトレース(および改変)して作ってる人とか、自分で描いてる人とかいろいろいるようだけど。やっぱり自分で描くのがいいのかねえ。ま、私の場合は描かない方が分かりやすいものができそうだけど。

なんとなく徽宗の資料を読んでいるけど、何でこういうことになったのだろう?これから私の手持ち時間も減るので、哲宗の時代までもどるべきだろうか。やはり北宋の歴史で一番おもしろいのは哲宗の時代だ。陰湿理知で救いのない政争劇は見ていてほれぼれする。歴史の本を読んでよかったと思えるのは、ああいう時代にぶち当たったときだ。左遷された腹いせに憎い相手の左遷辞令に悪口書きまくる......なんて人間的に正直なんだ!彼等こそ陽明学者とよぶにふさわしい。

しかし宰相クラスの伝記ばかり見ていると××は大したことねえなあ~とか思うけど、もうすこしレベルの低い人間と比べると、そこはかとなく宰相の実力らしきものを感じさせる。例えば章惇や曾布の言行だけだとすごい人くらいにしか見えないけど、邢恕あたりと比べるとそうとう出来る人だったように見えないでもない。哲宗から試問されても返し方が巧いものな。

そうそう宋季三朝政要箋証の実物を見た。まともに読んだことなかったけど、こういう性格の本だったんだね。また書名に「箋証」とついていたので、恐るべき無駄な博引旁証主義ではあるまいかと危惧していたが、こちらも実に常識的で有益な範囲に止まっていた。これだと使える。最近は『宋史』の列伝とかちょっとカスっただけの記事をバカバカ引用したがる整理本が目につくが、ああいうのは邪魔なだけだから止めてもらいたい。ちなみに中国が国慶節になるので書虫の発送が遅れるみたいね。いつものことだけど。

セクストス・エンペイリコス『学者たちへの論駁3』が10月に発売予定。やっとというべきか、もうというべきかは分からないけど、首尾よく発売されればこれで全3巻がそろう。『ピュロン主義哲学の概要』の発売から長かった。まさか日本語で読める日がくるとはね。って言っても、言語を解する能力がないので、訳が正しいかどうかなんてさっぱりだけど。

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雑記++

なしていまそのアニメを?BDでも見たんですかね。まぁ評価が分かれたそうですよ。でも結局は、あるキャラクターがかわいいので許せるとか、音楽がいいとかいう流れになって売れたそうです。ちなみに我々の歳の人間が見ても、キャラ萌できないかぎり、普通はおもしろくありません。なぜなら年齢の賞味期限が大きく過ぎているからです。

やはり私としては山下大将の......ってまあそれはいいですけど。あ、でも西田貢の奥さんのドラマであれば、(そこそこのできなら)毎週必死になって見ると思う。

なんとか『東都事略』の王黼と朱勔が終わったので次にと思ったら、なんと种師道とか何灌の伝記だった。彼等は自分以外のもののために命を捨てた人々だから敬意を表すのにやぶさかではないが、いまは中央政界で活躍した人の慌てたふためくさまを楽しんでいる段階なので、軍人はまた今度にしよう。

そういえば种師道は水滸伝にもチラッと登場するらしい(聞いた話)。种師道というと宋代では陝西軍閥として名高く、金との戦争以外でも結構活躍してるから、北宋末の話をするならどうしても無視できない人なんだけどな。バッタもんがどうあつかってるのかは......やっぱり気にならないや。

でも种師中(种師道の弟)くらいは読んでもいいかも。いかにも軍人らしい死に方をしたので好感もってるんだよね。

史実通りであれば老种→种師道です。
時師道春秋高。天下稱為老种。(『宋史』巻335)

そうですな。不必要に史実を引いたり蘊蓄を垂れられると読み手はどん引きですな。もっとも人によっては異常に細かい注を好むらしく、通ぶって「高大尉」と書くと、「不親切である!」と批判されるそうですよ。このあたりは読み手の能力に依存しますね。

この前、言葉の誤用ではないかと思う文を見つけたのですが、ネットで調べたらあるていど通用しているというのを発見しました。言葉の用途も常識も内容も変わっていきますね。今後の変化が楽しみです。

> 日本語教師

もうかりませんよ。基本的に現地の水準と同じです。欧米は賃金もそこそこ高いですが、競争が熾烈で入るのはかなり厳しいとのこと。円の価値が大暴落して周辺国と同程度になれば、その賃金でも日本にもどってこれますが、そのころは日本語教師の価値もなくなっているでしょう。日本語を学ぶ必要がなくなりますから。

朱勔の補足および雑感

TOEIC730以上というのは、CランクではなくBランクのことでは?まあ「素地を備えている」というのはよく分かりませんけどね。おそらく若い人向けなんでしょう。若い人だから、素地を備えている→今後大きく飛躍→すぐ使える。でもTOEICって、leadingとhearing試験だけで会話能力はなかったのではなかったか......いや、試験内容が少し前に変わったとも聞いたな。

それと履歴書以外に判断するすべがないので、金がもったいないから写真を貼らないとか、履歴書もまともに書いてこない人は論外という判断。

基本的に古文書読解は人材育成を兼ねていないので専門家でないとだめ。ふつうの資料館は国文とか国史とかの学歴(修士以上)を応募資格にあげてたりする。寺の場合は......個々の寺で勝手にやってるものは、いきなり出された古文書を昔の人ばりにスラスラ読めれば問題ないのかも知れませんけど。あと宗門の大学があれば、「おいしいところ」はそちらがやる。

※以下本代

朱勔は北宋末期に大活躍した小物で、徽宗に気に入られるために呉地方の珍品を掻き集め、せっせと貢ぎまくった男としてしられている。もちろん朱勔はずいぶん強引な手段で珍品を掻き集めたので、呉の人々は大迷惑をこうむり、非常な反感を買ったのであった。朱勔にそうさせたのは徽宗の責任なんだから、怨むなら真っ先に徽宗を怨むべきなのに、そうならずに手下が恨まれるというのは、皇帝政治の致し方のないところといえるだろう。

朱勔の前に出てきた王黼という人は、『宋史』では姦臣伝には入れられず、佞幸伝(おべんちゃら集団)にその名が見える。まあ『宋史』の姦臣というのは、蔡確、章惇、曾布、蔡京みたいな超大物政治家と、その付録的人物だけを収めた巻だから、宰相にまでなりながら何も積極策に打って出なかった王黼は、姦臣の名にも劣るということだったのだろう。それに対して朱勔はいかにも佞幸伝に入るにふさわしい人間で、事実そうなっている。

伝記によるかぎり朱勔はたいそうな力をもっていたらしい。ご自宅のあった呉は東南の小朝廷とよばれるほどだったとも云われている。が、朱勔は権力を握っていたといっても、宰相は言うに及ばず、執政や枢密院の要職に就いたわけではない。彼の手に入れた節度使、観察使のような厳めしい官名はもちろん身分を現すもので、五代軍閥のような権力を持っていたわけではない。結局のところ、朱勔が権力を握っていたというのは、宰相や執政、あるいは五代の軍閥のように何か実質的な権力を保持していたのではなく、単純に徽宗に愛されていたので、その権威を笠に着て威張っていたというにすぎない。

もっとも徽宗の時代は皇帝と個人的に関係のある人間にコネをつけ、それをツテに出世するというのが当然になっていたから、そうなれば朱勔じしんの能力や地位に関わらず、その影響下にある人間は当然多くなり、結果的に巨大な政治力を持つことにもなるだろう。朱勔は北宋を代表する「つまらない人間」だけども、諸種の伝記や資料を見てみると、あんがい大物や忠義の士が門下にいたらしいことも記されている。

探索はつづくどこまでも?

あいも変わらず「徽宗末年、陰約閹寺之姦、稍誅數人以殺其勢」におわれる。


恐らく...という資料にあたった。

しかもむかし読んだことあった。本に書き込みしてた。というか有名な記事だった。記憶力ないなあ~。まあ念のためと思ってページを捲ってよかった。やはりこの時期だとこれだよね。

本朝宦者之盛、盛莫盛於宣和間。……宣和之初曁中間、宦人有至太師・少保・節度使・正使・承宣・觀察者比比焉。朝廷貴臣、亦皆由其門、遂不復有廟堂。士大夫始盡向之、朝班禁近、咸更相指目、「此立里客也」、「此木脚客也」、反以為榮、而爭趨羨之、能自飭勵者無幾矣。魯公則居家悔歎、毎至啜泣。而上亦覺其難制、始殺馮浩、又殺王堯臣、若楊十承宣、小李使皆死不明、連剗數人。然勢已成、未睹其益。而羣閹既懼、思脱禍無術、則愈事燕游、用蠱上心、冀免夫朝夕。識者深憂、且疑有蕭墻之變、漢唐之事、了在目前。俄禍自外來、大敵適破、都人憤洩、至殺之啗之、骨血無餘矣。(蔡絛『鐵圍山叢談』卷六)


さすが蔡京の息子、身贔屓も甚だしい。ま、評価はまったくの出鱈目だろうけど、理由の如何に関わらず、宦官が殺されたという事件はあったのだろう。もちろんこの記事そのものが捏造という可能性もないではないが、歴史の調査ではこういうとき疑わなくてもいいことになっているので通例に従っておく。

上の中、馮浩の記事は見つかった。王堯臣はよく分からん。というか、王堯臣っていったら仁宗朝の参知政事が有名だと思うんだけどな(劉敞の親戚です)。楊十承宣とか小李使とかはありふれすぎていて分からん。承宣使は低い身分ではないけど当時たくさんいたらしいし、李に至っては宦官にどれだけ李さんがいたことか。

馮浩のこと。

蔡京の息子はぼろくそ書いてるし、他にも林霊素の件で悪いことしたみたいだけど、一方的な記事は宜しくないので別のを挙げてみる。

『中興姓氏姦邪録』曰:蔡京自政和二年後、召拜太師、令三省事、陰為壊國之計、天下大權一歸于己、日請上游宴、以酒色困之。宣和初、内侍馮浩力言:「京必亂天下、宜速誅之。」京怒譖于上、編管浩循州、至蔡州、使人殺之。自後言路絶矣。有識之士、比之王莽。(『三朝北盟會編』卷四十九)


おう!蔡京、ワルモノだぜ。

ちなみに『鐵圍山叢談』の存在を知ってから文中の文句をつかって『長編拾補』を検索してみたら宣和二年に引用されていた。ガックリ。

宦官粛清の時期はハッキリしないけど、蔡京息子の書き方からすると、宣和の最末期とみていいだろう。とすると、あんがい下に書いた『宋史』本紀の宣和七年六月戊申条「詔臣僚輒與内侍來往者論罪」と附合しているのかもしれない。もしこれが正しければ六月のことだからねぇ、半年後には事実上の北宋政権壊滅というステキなめぐり合わせになる。


※以下、数時間前の記事。


方臘起以誅勔為名、諸郡響應。童貫出師、承上旨、盡罷去華石進奉綱、徽宗亦黜勔父子弟姪之在職者、民大悦。

寇平、勔仍得志。怙權恃勢、父子各立門戸、聲焰熏灼、賄賂紛紜成市、邪人穢夫、爭候門下、肆狎昵、因以求劇職要官、躐進至侍從者袂相屬也。有不附已、即旋踵罷去。時謂東南為小朝廷。

徽宗末年、陰約閹寺之姦、稍誅數人、以殺其勢。勔因得入其訾、力排梁師成、寖為徽宗所親倚、出入禁闥、進見不避嬪御。

伐燕之役、謂勔有功、自慶遠軍承宣使、進寧遠軍節度使・醴泉觀使。

前後槃結固寵二十年、鬻恩毀法、昔所未有。……天下為之扼腕。

欽宗即位、削其官、放歸田里、既而羈管循州、籍其家、尋賜死。子孫徙湖南。



という流れからすると、方臘の乱があり、いったん失脚したのち何故か復活し、権力を恣にし、徽宗の末年に粛清があって梁師成を追い落とし、禁中に出入りし、北伐で功績をかすめ取り、二十年ほど寵愛を一身にあつめ、天下の羨望の的となり、欽宗が即位していきなり処刑されたことになる。

王黼の伝記もあまりいい編集とは思えなかったが、朱勔伝はもっともいいかげんで、記事が雑然と並べられている。士大夫ではないから、まとまった伝記資料がなく、各人の雑記から寄せ集めてなんとなく時系列にそって事件を並べたのだろう。

徽宗の末年とは何時か。『東都事略』の記載によれば、方臘の乱と北伐のあいだのことらしいけど、方臘の乱が宣和二年の十月、その平定が翌年の四月、北伐の開始が翌年の三月、金から燕州をもらうのが宣和五年の五月。ということは宣和二年から五年になるが、これを末年といっていいかどうか。

それに徽宗在位二十五年のなか寵愛二十年というのもいかにも大げさで、長編紀事本末引く蔡絛『史補』には:

始命伯氏,俾朱勔密取江浙花石。其初得小黄楊木三株,以黄帕覆之而進,上大喜異然。其後歳不過一二貢,貢不過五七物。大觀末,朱勔始歸隸童貫,而所進已盈舟而載,伯氏亦自命使臣,采以獻焉,倶未甚也。政和初,魯公被召,上戲伯氏須土宜進,遂得橄欖一小株,雜諸草木進之,當時以為珍。


とあり、朱勔が童貫のもとに身を寄せたのが大観の末とする。仮に大観の次の政和から突如として徽宗の寵愛を得たとしても、政和七年+重和1年+宣和七年=通計15年で、二十年に満たない。もちろん蔡京が権力を握ったころを基準に考えれば二十年くらいになるけど、それを「槃結固寵」というのは、ちと大げさではあるまいか。

伝記の排列はとりあえず無視して、徽宗の末年と梁師成のことを目印に見当をつけてみる。徽宗の末年というえば、大きく宣和年間か、あるいはより厳密には宣和五年~七年くらいではないかと想像される。

一方、梁師成がいつごろから権力を持ち出したかは分かりにくいが、それなりの地位に就きだしたのが宣和二年の大尉就任で、次に応奉司の副官になったのが宣和三年、以下、徐々に地位を上げている。もっとも童貫の致仕が宣和五年の七月だから、朱勔が梁師成だけを批判の的にしたというのであれば、だいたい宣和五年の後半からではないかと推測される。

もっとも『宋史』の梁師成の伝記を見る限り、朱勔の批判など一言も触れられていないので、ここの朱勔伝の紀事などもともといい加減なものだと分かる。

つぎに肝心の粛清の内容。

分からん。漠然としていて探しにくい。伝家の宝刀『長編』様が欠けているので、しかたなく『宋史』本紀を調べると、下(追記)のとおり。

かろうじて関係ありそうなのは宣和七年六月戊申の「詔臣僚輒與内侍來往者論罪」だけど、これがどういう内容のもので、なぜ詔が下ったのか詳しく書かれていない。同じ記事が資治通鑑後編にも出てくるけど、新しい情報はない。


※以下王黼とか朱勔とかに関係ありそうな『宋史』本紀の紀事:

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雑記

朱勔の伝記はあやしい。どこかの野史が下敷きではあるまいか。誇り高い(?)史館の香りがせず、おもしろおかしく書いたような臭いが漂っている。読むのがばからしくなってきた。それはそうと最後の方に「徽宗末年、陰約閹寺之姦、稍誅數人以殺其勢」というのがあったけど、徽宗の時代に宦官を粛清したことってあったかな。調べるのにすごく時間かかりそうで嫌だ。

一部は容齋随筆から来てるのか。いや、蔡翛の記事と重複するところが多いな。紀事本末。しかし肝心の粛清のことは分からん。思ったより時間を取られそうだな。というか、そんな一文わからなくてもなにも困らないんだけど。『宋史』は削除してある。


太祖はどうですかね、あんがい北漢より先に契丹と戦争したかもしれませんよ。北漢なんて契丹の衛星国だから、燕雲十六州さえ握ってしまえば、あとは殴られても蹴られてもどうしようもない国ですし。


昨日の釈放にはいろいろな反応があったみたいだな。ふだん政治向きのことを語らないブログでも不満たらたらな書き込みがあっておもしろかった。まぁ、今回のが中国のお家事情であろうとなかろうと、そちらの都合にあわせて日本人が感情を左右にする必要もなく、またできもしないので、理性的な面はともかく、感情的にそういうのが出てくるのは当然だろう。ま、日本もぼちぼち普通の国になりつつあるということだろうか。日本には貧乏人が増えてるらしいし、貧乏人は「愛国心」が強いらしいから。

しかし常識的にいって、そして個人の幸不幸とは全く無関係に、中央集権的な権力体制を布ける組織体の方が、分権的な組織体より強いに決まっている。だから中央集権から権力分散に向かっている我が日本はここしばらく駄目なんだろうな。まぁ近代になって人間に扱える力が大きくなりすぎて、共産主義みたいな凶悪な中央集権国家も登場してるから、今となっては中央集権的なものが目的を達成するに有益かどうかは不明だけど。いずれにせよ組織体が強いか弱いかの話だから、人の幸不幸とは全く関係ない。


「中国に貸し」は意味が分からない。集団間の信用がないというのもさることながら、そもそも今回もし日本が船長に何かの自白をさせたって、中国はなんとでも反論できるのだから、日本がよほど巧妙な手を打って中国を自己矛盾に陥れない限り、中国に損害はない。損害のないところに貸しなんて存在しない。

もっとも、いろいろな発言が今回の事件を解説するためだけにされたものとは言えないから、そこは難しいところ。過去のことを扱っていると、ついつい事件の因果関係の解明に力を注いでしまうけど、現在進行形で発言する人は、おおげさにいえば世論をリードしようとする傾向があるので、両者の意見はなかなか一致しない。政治ネタの雑誌を数ヶ月遅れで読めば嘘ばっかり書いるように見えるのと同じだろうか。


契丹ってあんな戦争の仕方してたのかいな。でも数万の軍隊が動いたといっても、数万の人間が戦う訳じゃないから、実は本当にあんなものだったりして。

Googleのカレンダーって1週間が月曜日から始まることになってるのね。

干支で1週間を表示したカレンダーないかな。十日毎に一日休みみたいな。まったく役に立たないけど。

雑記

嫌な面というか、そういうのはよほど未発達な国以外はどこでも似たようなものじゃないですかね。他人との共存なんてそんなものでしょう。負ければ終わりなのに、集団間で心から仲良くしようというのがそもそも間違ってる。

というか、七時のニュース見て唖然とした。

因循苟且。

雑記

久しぶりに書店へ足を運んだ。おかげで一日がつぶれちまったい。何時間もぶらぶら本棚ながめてたくせに、結局一冊も買わずに帰ったわけだから、店にしてみればいい迷惑だっただろう。

宋会要、ああなるほど、画像データが落ちてましたか。なら原本引っ張り出して見る必要ないですね。私も原本とはいえど、結局影印本ですから。線装本は大学に入ってるのを見たことあるだけです。

それと会要のデータですが、私が拾ってきたのはWordのデータでした。たぶん中央研究院のをコピペしたんじゃないかな~と思いますが、中央研究院はチラッと見たような気がするだけですから、よく分かりません。ページ数が入ってたから、たぶんUSB版のコピペじゃないとは思うんですけどね。

Wordのは意味不明な文字(たぶん中央研究院独自の文字と記号)がふんだんに挿入されていてすごく読みにくいですけど、注は色違いになっていて本文と区別できます。まぁ突如として注の色分けがなくなったりして困りますけどね。


知府事が増えるのは、もうすこし厄介な問題じゃないですかね。県ももともと県令だったのが、例の幕職州県官とかの関係で知県になりますし、府と州もそれの流れでしょう。まあ府は格が高いから皇族が任命されて、州よりもややこしかったのかも知れませんがね。

~州府という表現がどこまで当時のものかは不明ですね。

それと蔡京のことですけど、あれをそんなに美しく解釈するのはどうですかね。もっと地方行政とは無関係の非合理的な要素(復古万歳!みたいな)が入ってると思いますけどね。でもまあ、そういう美しい解釈の方が学者は喜ぶでしょうけど。


> 大都督府
これは軍事的なものだから、行政組織の州とは別ですよ。全く別というのでもないですけど、いちおうは別ということになってるみたいですね。他にも宋代なら節度使の軍額としての「軍」(行政組織の軍とは別のもの)もありますしね。宋代は唐から元明清にかけての過渡期だから、ややこしいのがそのまま併存してます。

これは太祖がふぬけで邪魔な奴を粛正しまくって強固な中央集権待制を作らなかったからか、あるいは当時の人がそこまで考えられるレベルに達してなかったからか、それは不明ですけど。普通の王朝は王朝成立時に新しい制度をバシ!と布いて、あとそれが崩れて腐敗しまくっていく(いや、腐敗ははじめからしてるけど)という路線ですが、宋代はなぜか神さま皇帝のころに改革してますからねえ。

理想的には真宗がバカでなくてもっと好戦的で野心的であれば、泰山封禅みたいなものに金を使わず、軍事費をどしどし出して契丹と戦争したのでしょうけど、まあそうならなかったのが宋ですね。

連絡

王臨伝は中華書局の校点本でも「知廣州府、河中」になってる。四庫本(薈要)も同じ。ただし宋人伝記資料索引はこれをふまえて「徙河中」とある。馮澥の校点本は「知潼川府」。おもしろいことに四庫本(薈要)は「知潼州府」。五行一上は校点本・四庫本(薈要)ともに「知潼川府」。潼州は潼川の誤だろうけど、王臨の方は百衲本でも見ないと分からない。単純に河中府の府が上に来ただけかもしれない。

会要は「宋哲宗元祐四年賜額「文學」」とある時点で、「宋」以後の記事だと思われる。

何渉の春秋本旨にこんなところで出会うと思わなかった。それはさておき、宰相経験者が地方官に任命されるときに判~州(/府)事になる。文彦傅はおそらく時期から考えて文彦博だろうけど、列伝を見たところ彼は判河南府事と判河陽府事になっている。どちらかの誤の可能性あり。

眠くなったのでもうやめる。ところで会要の注はどの注のことだろうか?原本の朱筆(だったと思ふ)の注か、それとも校点者の注か。いずれにせよ『宋會要輯稿』は明代の永楽大典から輯佚したものだから、細かいところが滅茶苦茶でも全く不思議でなく、あまりにも微細に渉るならば資料的価値が疑われる。

明日、余力があれば宋會要輯稿の検索ソフトを動かしてみる。USBじゃないやつ。まあ原本みてもいいんですけどね。でも出すのが面倒で。

yaolu

まあ簡体字なのは仕方ないですよ。向こうのPCで操作すれば簡体字になるでしょうし。流出もとが台湾の場合は繁体字ですけどね。長編はたぶん中央研究院のでしょうから。たまに台湾から流出したもののくせにわざわざ簡体字にしてくれてるのもありますけね。

研究室にいれば四庫全書の検索版があったりして、落ちてるテキストデータは全く不要になりますね。何種類もの検索ソフトを入れてるスーパーPC(個人用)を見たことありますよ。


簡体字データの場合、むかしは面倒なのでいちいち繁体字に変換してました。単に気分の問題ですけど、なんとなく簡体字で資料を読むと気持ち悪いもので。他の人はどうしてるんでしょうね。

でも繁体字から簡体字は簡単ですけど、逆はいろいろ問題が出てきますね。私の使ってるのは、なぜか「圣」を繁体字に変換できない。あとよく問題になるのは「云」と「仆」ですかね。

Google Chromeはなんとなく使いにくい(見づらい)感じがして乗り換える気になれない。firefoxはJavaScriptをoffにしてるときが多いのであまり気にならない。むしろ昔はカスペルスキーが重くてイライラした。カスペルスキーも最初はよかったけど、使えば使うほど重くなったような気がするなあ。


ああ、これは別に検索よけじゃないですよ。


要録をパラパラ読んでいたら葉夢得の名前を目にした。この人はむかし蔡京と仲良く政治してたことがあったはずなんだが、そこのところ本人はどう思ってたんだろうな。いや、弁解がましいことは言ってたはずだけど、自分の見識についてどう考えてたのだろう。葉夢得といえば春秋学の大家として知られている。

春秋は経学のなかでも最も名分に厳しい学問なのに、その葉夢得が蔡京と仲良しさんとは、笑うに笑えん話ではある。まぁ春秋に通暁していたらしい王沿は、春秋を用いて裁判して冤罪を引き起こしたらしいから、そんなものといえばそんなものなんだけども。

「〔蔡〕京姦邪之計大類王莽,而朋黨之衆則又過之,願斬之以謝天下。」──『宋史』巻356、崔鶠伝

昨日、寝る前に『宋史』の趙鼎伝を読んでいたら、冒頭にこんなことが書いてあった。

趙鼎字元鎮,解州聞喜人.生四歲而孤,母樊教之,通經史百家之書。登崇寧五年進士第,對策斥章惇誤國。累官為河南洛陽令,宰相呉敏知其能,擢為開封士曹。

ほぉ~章惇を批判するとはなかなか勇ましい......と一瞬思ったけど、よく見たら「崇寧五年進士第」と書いてある。崇寧五年?章惇が失脚して六年後ですか?しかも呉敏に目をかけられたっていうけど、呉敏も蔡京(いや、その息子だったっけ)と一緒に国を破壊しまくった男だったはずなんだがな。なんとなく冒頭の二行に趙鼎の駄目振りが現れているようだ。

それにすごい人気で高宗からの信望も厚かった割に、秦檜が死んでも名誉回復されないのね。孝宗に代替わりしてからですか。そうですか。

しかし趙鼎伝で一番おもしろいのは、徹底的に排斥されたあと、最後の記事:

在吉陽三年,潛居深處,門人故吏皆不敢通問,惟廣西帥張宗元時饋醪米。

の一句だな。まあ慕ってるとか感謝してるとかいう民衆や一般人や仲間の感情表現がどれほど虚しく無意味なものかよく分かる。世間なんてそんなもので、それを徹底的に踏みつぶした秦檜にはむしろ感動こそ覚える。


なにか下の宣伝に:

宋元版を研究するなら - www.nijl.ac.jp
国文学研究資料館にある大学院で博士(文学)を取得しよう !

とか出てくるけど、宋元版を研究したいなら東大か京大に行った方がいい。日本ならの話だけど。

要録など

そういえば『要録』にはテキストデータがあったのを忘れていた。おかげで昨日は中華書局本の紙をぺらぺらめくる羽目になってしまった。それでさっき奥底に眠っていたテキストデータを引っ張り出してみたところ、テキストと中華書局本には文字の異同があるらしいことにはじめて気づいた。まぁ『長編』ならいざしらず、『要録』テキストデータなんて使ったことないから、気づかないのも当たり前ではあるんだけど。

さて私がどこかの中国サイトから拝借したテキストデータは、本文も注も一緒くたにしているので、おそらく四庫全書の電子版をコピペしたものか、あるいはその系列のものだろう。そう思ってこちらの四庫全書の画像データと比較してみたら、ほぼ同じという感じがした。目が痛くなるから真剣に比べてはいないけど、四庫全書系列のテキストと考えて問題なかろう。

で、一方の中華書局本だけど、これは何故か巻末に賈似道の跋文がないとか、不思議な本ではあるのだけど、最終冊に添えられた校勘表の端書きに「本書係采用商務印書館国学基本叢書本之紙型重印。審閲付印様書時,曾経参考広雅書局、仁壽蕭氏両刻本,及宋史、続通鑑等書,稍加訂正。除商務本排校断句之錯誤及其他文字顕著之錯誤,已予照改外;凡予別本及他書文字有異同……者,均酌量列入本表中,以供読者参考」とあり、国学基本叢書を底本に、広雅書局、仁壽蕭氏両刻本を利用したこと、そして四庫全書を参照していないことが分かる。

この二つ、別段大した違いがあるわけでもないが、冒頭のところで気になる違いがあった。

テキストデータ:
建炎元年(歲次丁未。金太宗晟天會五年。)春正月。【臣謹案:建炎改元,在五月之朔,今為所載乃中興事始,故依『資治通鑑』及累朝實録歲中改元例,即于歲首書之。或謂:「建炎元年無春,當依舊文,用靖康二年紀事。」臣謂:「不然。『春秋』魯定公以六月即位,是六月以前,國人必稱昭公三十三年矣。而孔子書之曰『元年春王三月,晉人執宋仲幾于京師。夏六月戊辰,公即位。』孰謂定公元年之無春乎。」故臣此書,以元加春,蓋亦竊取春秋之義。】

中華書局本:
建炎元年(歲次丁未。金太宗晟天會五年。)春正月。【臣謹案。建炎改元。在五月之朔。今為所載乃中興事。始改依資治通鑑及累朝實録歲中改元例。即于歲首書之。或謂建炎元年無春。當依舊文。用靖康二年紀事。臣謂不然。春秋魯定公以六月即位。是六月以前。國人必稱昭公三十三年矣。而孔子書之曰。元年春王三月。晉人執宋仲幾於京師。夏六月戊辰。公即位。孰謂定公元年之無春乎。故臣此書。以元加春。蓋亦竊取春秋之義。】

もう一つ

テキストデータ:
金國者,在遼之東北,蓋古肅愼氏之地。其國在漢稱伊掄,南北之間稱和奇,隋、唐稱默爾赫,至五代始稱女眞。祖宗時,嘗通中國,後臣屬于遼。建中靖國元年,遼海濱王耶律禧立,號天祚皇帝,立十五年,女眞完顏旻起兵

中華書局本:
金國者。在遼之東北。蓋古肅愼氏之地。其國在漢稱伊掄。南北之間稱和奇。隋唐稱默爾赫。至五代始稱女眞。祖宗時。嘗通中國。後臣屬于遼。建中靖國元年。遼海濱王耶律禧立。號天祚皇帝。立十五年。女眞完顏旻始叛

中華書局本の「始改」もよく分からないが、「晉人執宋仲幾於京師」の「於」は、定公元年からの引用文だから、「于」でなければならない。全般的に中華書局本は「於」を使いたがってるように見え、なんとなくデータの方が正しいような気もする。ところがデータの「起兵」と中華書局本の「始叛」では、まあ普通は後者の方が正しくて、前者は清の朝廷が書き換えたと考えるべきなんだろうなあ。

もともと『要録』は伝本の絶えていたところ、四庫官が『永楽大典』から輯佚したもので、ふつうに考えれば四庫全書が最もいい版本のはずなんだが、永楽大典からの輯佚本は、たまに四庫全書収録以前のものや未改訂本が流出したりするから、永楽大典本といえども簡単に四庫全書が一番とは言えない。

とはいえ、中華書局本には四庫官の案語が附されているし、そもそも四庫提要もくっついてるくらいだから、おおもとが四庫本であることに相違はなく、したがって中華書局本と四庫本の相違も、中華書局本が何を根拠に四庫本を改訂したのか、あるいは中華書局本はどの四庫本を底本にしたかにかかってくる

「起兵」と「始叛」の関係からして中華書局本の方が善本を参照したように見えるけど、中華書局本が軽い気持ちで改訂したのかもしれず、あるいは四庫全書は勝手に文字を改めるという、神経質な学者からするとあまり喜ばしくないことをしているけど、たまに素晴らしい改訂をしてくれるから、上の「始改」とかも意を以て改訂したのかもしれない。何にせよ国学基本叢書、広雅書局、仁壽蕭氏の底本を調べないことにはら埒があかない。

ググってみたら大学のゼミで読んでるところもあるみたいだけど、どの版本を利用しているのだろう。

中国には清抄本が複数あるらしい。その中に遼寧省図書館に孔繼涵の抄本があって、「清乾隆四十一年孔繼涵抄本、存一百八十卷[一至一百八十])とある。孔繼涵は永楽大典本の原本(四庫官未改訂のもの)を抄録してたりするから、もしかしたらこの本は四庫全書の前身かもしれないなあ。

あぁ、ちなみに四庫官未改訂のものが最善というわけでは全くない。四庫官は永楽大典から抄録した後、他本や同時代資料と比較したり、永楽大典の誤植(いうまでもなく大典は杜撰だ)を訂正したり、偉大なる大清帝国の威光を傷つけるような部分を改訂・削除したりして、四庫全書の定本とする。

この間に夷狄の文字を改訂してない(かもしれない)『薈要』なんてのが作られたりするんだけど、抄録した後にいろいろ手を加えているのだ。もとが宋版だったりすると難しい問題をはらむことになるが、永楽大典本の場合は四庫官の改訂作業を経た方がより正確な本になる。だから四庫官未改訂のものを見つけて大喜びするようでは話にならない。

したがって古いものを愛でることを目的とした骨董屋的研究をするならいざしらず、通常の意味での善本というのであれば、四庫全書の方が未改訂本よりも優れていることの方が多い。四庫官をなめるなというところだな。ただし現行本の『要録』は金人の固有名詞を勝手に改めているので、その点については、未改訂本があった方が便利といえば便利だろう。

府(つづき)

まあそんなにムキになって調べるものでもないけど、休みの日なので少し時間を費やしてみようか。

と、思ったけど、さっそく挫折した。

『建炎以来繋年要録』巻28(建炎三年九月是秋):
金國枢密院分河間、眞定府為河北東西路,平陽、太原府為河東南北路,去中山、慶源、隆徳、信徳、河中府名,復舊州名,去慶成軍名,復舊縣名,改安肅軍為徐州,廣信軍為遂州,威勝軍為泌州,順安軍為安州,永寧軍為寧州,升樂壽縣為樂壽州,降北平軍為永平縣。

『三朝北盟會編』巻181(紹興七年十一月十八日):
金人廢劉豫の条
劉豫が大齊皇帝に即位したときのこととして、「升東平府以為東京,以東京為汴京,改南京為歸徳府」とある。同様の記事が巻141(建炎四年七月二十七日)の劉豫即位のこととして見えるが、記事不鮮明。

金も劉豫も地名の変更を行ったのは確かだろう。『金史』の編集方針は不明ながら、劉豫は張邦昌と違って金にべったりで、金から「皇帝やらない?」といわれて受諾し、金から「もう辞めない?」と言われてあっさり辞めたほどの典型的な傀儡政権だから、劉豫のやったことも金がやったことと見なせないではない。それになにぶん劉豫の政権は7年の短命だし。

いやいや『唐會要』も結構いいかげんですよ。『資治通鑑』の方が詳しいときも多いですし。まあ『資治通鑑』を作ったときには唐の実録が残ってましたしね。それにくらべて李の『続資治通鑑長編』は素晴らしい......みたいな話になりますな、北宋をやっていると。北宋の研究にとって李は神といっても過言ではない。

そういえば当たり前だが、南宋の記事には開封尹とか大名尹とかふつうに出てくる。知大名府に慣れている身としては、なんとも気持ち悪い。

昨日の調査で蔡京も何かしらん地方行政に熱を上げていたのかとチラッと思ったが、そうでもなかったみたいね。なんというか、徽宗といい蔡京といい、ほんとーに残念な人たちだな。衛の君主じゃないけど、どれだけ芸術品を大事にしてみても、いざというとき盾になってはくれないのにね。文化物なんてものは、戦争になれば焼き捨てられるだけさ。あるいは飯を持ってる人間に安く買いたたかれるか。ま、後者の場合は僅かとはいえ飯の種になるんだから、役には立ったのかもしれないけど。開封府が金に破られたとき、徽宗の自然庭園(艮岳)に植えられた全国各地の珍木が暖とりの役に立ったとか、読んだことあるな。

それにしても久しぶりに南宋の記事を読んだ。当然だけど北宋とは違うなあ。『要録』のはじめの方は李綱がずいぶん頑張ってた。地方官もはりきって戦死していた。さすがにだれきって亡んだ南宋とはひと味違う亡び方だ。こういうのを見ても、軍事的に弱ければ国内はそこそこでも国は亡びるというのがよく分かる。結局、国を守るものは軍事力なんだな。

やたらと「契丹+地図」で検索する人がいるみたいだけど、契丹の地図には何か秘密があるのだろうか。宝物でも埋まってるのかね。まぁお金があるなら潔く中国歴史地図集でも買ったらいいし、ないなら......見なくても死なないよ。

『宋史』にあったのか...ってどこかで見たような台詞だな。ちなみに『会編』は楊堯弼の偽豫伝からの引用ですので、資料的価値もどっこいどっこいですね。

『要録』を読んでいたら熊克の引用が目についた。で、ほとんど読んだことねぇなと思って調べたところ、『皇朝中興紀事本末』なる書物が発売されているらしいことを知った。『皇朝中興紀事本末』?何それ?

ネットの海を漂ったところ、中国人の書き込みによる限り、『中興小紀』のことらしい。気になるのですぐにでも調べたいところだったが、近くの大学に蔵書もないらしいので(まぁないだろうとは思っていたけど)、仮にこれが本当として、現行本の『中興小紀』は永楽大典本なのであまりよろしくない。それに対してなんたら紀事本末は「是清雍正九年以“宋槧精本”為底本的抄本」(書虫の解説)とあるからには、かなり由緒正しい本のはずだ。なにせ巻数もぜんぜん違うしな。ここははやく中国人に校点本でも出してもらって、その異同を知りたいものだ。

と思ったら、例の中国古籍全文検索叢書シリーズ簡易版で売られていた。6500円。......画像がないのに6500円はちと高くないだろうか。

どうでもいいけど、ついさっきこばと。の最終回を見てしまった。

『要録』を調べていたら、ついつい朱勝非の情けなさが笑えて読みふけってしまった。北宋末の醜い政争も清々しい喜びに満ちあふれているが、南宋初期のあたふたする士大夫を見るのもおもしろい。適当に読んでいたら、宗室の人が、「俺は宗室の人間だから降伏できないけど、もう戦っても無駄だから、君らは降伏していいんじゃね?」とか言って、みんなも渋々従ったので、城外の金軍に向かって、「お~い、降伏するから命だけは助けて」って言ったら認めてくれたので、降伏の書簡を書いて、自分と家族は井戸から飛び降り自殺したとかいう話が載ってた。なんとなく今の日本で評価されそうで恐いだけど、そんなこと言ってるから戦争に負けるんだよ。

南宋の初期に活躍する士大夫は微妙なのが多い。ただよく見ると、蔡京の一派と関係あったり、張邦昌と関係あったりと、叩けば大いにほこりの出る身分の連中も少なくない。これはちょうどあれかな、敗戦後の日本のようなものかな。敗戦の責任者を糾弾したいところではあるが、糾弾するべき人間がみんな関係者という。李綱がどれほど頑張って国是を主張しても、周りのみんなはとても従えないよねぇ。

高宗に将才でもあれば、前政権の士大夫を血祭りにあげて軍人帥いて金と戦えばよかったんだろうけどな。どうせ宋代当時の知識人なんか掃いて捨てるほどいるんだから、国が安定してから改めて前政権に関係ない知識人を抜擢すればいいのだし。

......またバッタもんを思い出してしまった。しばらく笑いが止まりそうになり。

この前、『宋史』の全訳という英雄的行為を企図した人がいたらしいことを知ったので、それでは『続資治通鑑長編』はどうだろうかと思って検索してみたけど見あたらなかった。まぁこの狭い世界のことだから、そういう神業を成し遂げる人もいるかもしれない?『續資治通鑑長編』の校点本は『資治通鑑』の校点本と同じ冊数です。

『長編』はともかく、『要録』は『長編』の何分の一くらいなんだろう。『要録』も結構な長さで、国学基本叢書的な排印本のぶっといやつが四冊。活字が小さいので比較できないけど、『要録』一冊が『長編』校点本の1.7冊くらいなので、都合四冊で校点本6.8冊。活字の小ささを計算に入れても、まあ10冊は越えない程度かなぁ。

もし『長編』校点本10冊程度だとすると、『要録』は『長編』の太祖~英宗くらいに相当する分量になる。たった三十数年しか記録してないのに。驚くべき分量だな。時代が降るに従って無意味に分量が増えるのは、最近になるに従って(?)やたらと論文数が増える現今の学界と同じ現象なのだろうか。

しかし四庫提要が激賞するだけあって『要録』は綺麗にまとめられている。分量が多い割には無駄な文章が少ない。北宋が好きな私としては『長編』=神なのだが、どう贔屓目に見ても無駄と思える文章が『長編』にはある。特に神宗と哲宗にそれがひどく、劉安世の文章をなぜこうも何度も引用するかなとか、同じ事件の解説をなぜ三回も四回もするかなとか、文句を言ってやりたくなることがある。

また『要録』は執筆対象の時代が南宋最初期という激動期なので、どうでもいい文化事業の話とか、道徳は大事ですみたいなしょーもない記事が少なく、どこどこで戦争やったら負けたとか、だれそれを失脚させたら金が攻めてきたとか、そういう胸躍る話が圧倒的に多い。ここらも『要録』を楽しんで読める理由だろう。『長編』はちと......いや、かなり無謀としても、『要録』の全訳を企図する英雄は出てこないものかね。

でも集団で翻訳するというのはあまりいただけない。もちろんプロは別として、集団で翻訳というのは成功しそうにない。そういうことをすると大概だれそれが作業しないとか、だれそれの方が楽だとか、翻訳のレベルとかそういう本筋の話になる前にもめてしまう。あるいは担当者が消えるとか。結局最後に頼れるのは個人の学力だけということだろう。そもそも人に期待すること自体が間違っているのだ。

たまにメールが相手にきちんと届いたかどうか分からないときがある。たまにGmailがはじかれて迷惑メール扱いされることあるらしく、相手から文句が来て困ったことがある。もっともこれは手紙も同じで、出したつもりが不達になっていたというようなこともないではない。

たしかに常識的に考えて「府」は州・県の上位(格付けの意)ではなかろうか。日本にも大阪府とか京都府とか、むかしは大宰府とかあったが、あれが武蔵国や安芸国、あるいは愛媛県や新潟県と同列だとは思われない。それはそうと宋代もはじめはそれほど府はなかった。やたらと増えたのは徽宗(蔡京?)の時代から。

試みに『宋史』地理志で調べてみた。ただしおおざっぱに調べただけなので、細かいところにミスはあると思う。一部の年代不詳のもののみ『元豊九域志』を参照した。

・府名:州名。府昇格年度
・※印は『元豊九域志』

○四京
開封府:東京。
河南府:西京。洛陽。
大名府:北京。慶暦二年。
応天府:宋州。景徳三年。大中祥符七年、南京。

○重要地点
真定府:鎮州。河北西路。
太原府:河東路。※太平興国四年、州。嘉祐四年、太原府。
京兆府:長安。永興軍路。
河中府:永興軍路。
鳳翔府:秦鳳路。
江寧府:江南東路。※後唐の旧領。天禧二年。
江陵府:荊湖北路。
成都府:益州。成都府路。※太平興國六年に益州、端拱元年に成都府、淳化五年に益州、嘉祐四年に成都府。
興元府:梁州。利州路。

○徽宗以外の昇格
穎昌府:許州。京西北路。神宗の元豊三年。
延安府:延州。鄜延路。哲宗の元祐四年。対西夏の前線の一つ。

○徽宗時代の昇格
★京東東路
済南府:斉州。政和六年。
★京東西路
襲慶府:兗州。政和八年。
政和八年八月二十五日,知梁山軍韓瑜奏:「考『通典』,元天大聖後夢感天人,誕育聖祖於壽丘,實今兗州。大中祥符間,改曲阜縣為仙源,茲乃國家席慶福地。太宗始封此邦,聖祖真蔭,流光無極,乞陞兗州為府,冠以美名。」詔陞為襲慶府。(方域5)
興仁府:曹州。崇寧元年。
東平府:鄆州。宣和元年。
★京西南路
襄陽府:襄州。宣和元年。
★京西北路
淮寧府:陳州。政和二年。
順昌府:潁州。政和六年。
★河北東路
開徳府:澶州。崇寧五年。
崇寧五年十月二十一日,知澶州李孝壽奏:「本州實太祖、太宗龍潛之地,真宗巡狩臨幸,遂獲建原廟。元豐五年,又為陛下賜履之邦,乞賜府額。」詔陞為開府。(方域5)
河間府:関南の地。大観二年。
★河北西路
中山府:定州。政和三年。
信徳府:邢州。宣和元年。
慶源府:趙州。宣和元年。
宣和元年十月七日,右武郎、廉防使者王寓奏:「仰惟國姓所出之地,實自全趙。在昔神考,深念世本,嘗詔求程嬰、公孫杵臼之遺(祠)[嗣],優加爵號,以旌其義。又命守臣恢大城圍,用壯形勢。昨陛下惟尊姓系,即褒其州為慶源軍。臣茲獲將命,迓客朔塞,道出邢、趙,竊見邢之鹿郡元係英廟所領藩,今已改府曰信,欲乞趙州慶源軍更陞府號,以副群望。」詔慶源軍陞為慶源府,依舊軍額。(方域5)
★河東路
隆徳府:濾州。崇寧三年。
平陽府:晉州。政和六年。
平陽府,舊晉州,陞為平陽府。政和六年八月二十八日,手詔:「祖宗以來,賜履踐祚之地,皆建府號。晉、壽、齊三州,乃太宗、真宗、英宗封建之邦,有司失於申明,懼不足以仰對在天之靈而俯慰邦人之望,可並陞為府,晉為平陽,壽為壽春,齊為濟南。」
★環慶路
慶陽府:慶州。宣和七年。
★両浙路
平江府:蘇州。政和三年。
鎮江府:潤州。政和三年。
★淮南西路
壽春府:壽州。政和六年。
★荊湖北路
徳安府:安州。宣和元年。
★潼川府路
潼川府:梓州。重和元年。
重和元年十一月二十一日,劍南東川奏:「據奉議郎王維等狀,契勘本州南控瀘、敘,西扼綿、茂,江山形勢據西川之勝,水陸之衝,為劍外一都會。見管九邑四十鎮兵甲,巡檢賊盜,提舉五州軍,為東路十八州軍監之冠,與成都相對。昔元豐中,蒙神宗皇帝正劍南東川之名,人神改觀,原隰生光,千裏父老欣戴歌詠,至今不已。即目監司移文,尚以梓州為稱,竊恐名實未稱,不足以鎮壓委切之地。欲望睿斷,依劍南西川例,賜一府號,上以副神考正名之實,下以慰遠方士民之望。」詔梓州賜名潼川府。(方域7)
遂寧府:遂州。政和五年。
★広南東路
肇慶府:端州。重和元年。
★燕山府路
燕山府:唐の幽州。燕雲十六州の一つ。
宣和四年十月五日,詔:「燕京,古之幽州,武王克商,封邵公奭於燕,以燕然山得名。漢置涿郡,唐武元年改燕州,天寶元年改幽州,舊號廣陽郡,有永清軍節度。燕京宜改為燕山府。」(方域5)
★雲中府路
雲中府:唐の雲州。燕雲十六州の一つ。

○南宋
臨安府:杭州。高宗の建炎元年。
紹興府:越州。高宗の紹興元年。
慶元府:明州。紹煕五年(寧宗潜邸)
瑞安府:温州。咸淳元年。(度宗潜邸)
建徳府:厳州、睦州。咸淳元年。
嘉興府:秀州。慶元元年。(孝宗の生地)
安慶府:舒州。慶元元年。(寧宗潜邸)
寧国府:宣州:乾道二年。(孝宗潜邸)
隆興府:洪州。隆興三年。(孝宗潜邸)
常徳府:鼎州。乾道元年。(孝宗潜邸)
宝慶府:邵州。宝慶元年。(理宗潜藩)
建寧府:建州。紹興三十二年。(孝宗旧邸)
崇慶府:蜀州。淳煕四年。(高宗潜藩)
嘉定府:嘉州。慶元二年。(寧宗潜邸)
順慶府:果州。宝慶三年。(理宗初潜の地)
隆慶府:剣州。隆興二年。(孝宗潜邸)
同慶府:成州。宝慶元年。(理宗潜邸。もと秦鳳路)
紹慶府:黔州。紹定元年。
咸淳府:忠州。咸淳元年。(度宗潜邸)
重慶府:恭州。南宋?(高宗潜藩)
英徳府:英州。慶元元年。(寧宗潜邸)
徳慶府:康州。紹興元年。(高宗潜邸)
静江府:桂州。紹興三年。(高宗潜邸)
慶遠府:宜州。咸淳元年。(度宗潜邸)

調べてみたら意外と徽宗以前にも府が多かった。まあほとんど...というか太原府とか成都府とか、すべてが重要拠点だから、府がかなり重要な場所に配置されていたことは明白。なお反乱などが起こると、府から州に降格されるときがある。太宗(真宗だったかも)の時代に四川で反乱が起こったとき、成都府が益州に格下げされた。また太原府はもともと北漢の首都だったので、攻略後にいろいろ切り貼りされた。

南宋の府昇格は意味不明。というか、国都近辺の要地以外で府になったのは、ほとんど皇帝の潜邸が理由というお粗末なものだった。こういう茶番劇は北宋では考えられないことだが、これが北宋と南宋の政権の性格差なんだろう。

なお大都督府は別のもの。

そうそう大宰府の長官は帥とかいうけど、なぜ尹にしなかったのだろう。それとももともと軍事的性格が強いから帥なんだろうか。まあ、官名なんてものは各種の由来が絡み合って偶然決まる場合も珍しくないから、大宰府の長官が帥という名前になったときには、帥になんの意味もなかったのかもしれないけど。興味もわかないので調べる気にならない。

補足

大都督府とここの府は直接関係ないはずだけど、『宋史』の地理志を見る限りでは、都督府に挙げられてから府に格上げされることもあるようなので、雰囲気的には重要な州が少しづつ格上げされていき、最後に府になったと考えられる。

蔡京の時代の府増設について、『宋会要輯稿』に一部の州について府昇格の理由が掲載されている。それによると神宗の遺徳がどうたらとか、祖宗の遺徳がああたらとか書いてある。とすると、同じ祖宗つながりで、南宋に盛んに存在する某宗の潜邸とかいう理由で府に昇格させるのは、徽宗に淵源があったと言えないでもない。

蔡京時代の府の全てが地方行政上の意味を無視して作られたかどうかは未だ不明だが、少なくとも一部は全く行政的機能を無視した形で設置されていた可能性は高い。そもそも襲慶府のような特殊な名称は、本来的に府の名称としてふさわしくない。

偽斉時代の領土で南宋が接収した部分は『宋会要輯稿』にも記載されている。以下、その記事。

應天府:劉豫改為歸府,紹興九年收複,依舊。(方域5)
興仁府:舊曹州、督府、彰信軍,建中靖國元年改興仁。崇寧三年,陞興仁軍為興仁府,仍還(彰)[彭]信舊節。劉豫改為曹州,紹興九年收複,依舊。(方域5)
政和四年十一月二十六日,(穎)[潁]昌府奏:「將本府複充南輔,(穎)[隸]屬都畿。」從之。劉豫改為許州,紹興九年收複,依舊。 (方域5)
淮寧府,舊陳州,上州,宣和元年陞為淮寧府。劉豫改為陳州,紹興九年收複,依舊。 (方域5)
順昌府:元豐二年八月二十四日,詔曰:「本朝州郡之別,土廣民衆,則必表以節制之號,況王者舊封之地,顧可以無稱哉。汝陰奧區,東豫舊壤,朕實受胙於先帝,以啓土茅,宜加寵名,(周)[用]顯基命。(穎)[潁]州宜陞為順昌軍節度。」(穎)[潁]故團練州,因知州事、天章閣待制羅拯以為言,故下是詔。舊(穎)[潁]州,開寶六年陞為防禦。劉豫改為(穎)[潁]州,紹興九年收複,依舊。(方域5)
延安府:劉豫改為延州,紹興九年收複,依舊。 (方域5)
慶陽府:舊慶州,政和七年陞為慶陽軍,宣和元年陞為府。唐安化節度,後降軍事,建隆元年陞團練,四年降軍事,劉豫改為慶州,紹興九年收複,依舊。(方域5)
壽春府:舊壽州,政和六年陞為壽春府,劉豫改為壽州,紹興九年收複,依舊,寄治安豐縣。十二年置安豐軍,遂廢。紹興三十二年十二月二十九日,以壽春縣為壽春府,淮北壽春府為下蔡縣。乾道三年十二月十五日,壽春府改為安豐軍。(方域6)

州軍
滑州:後唐義成軍節度,太平興國元年改武成軍,熙寧五年廢隸開封府。劉豫改為平涼府,紹興九年收複,依舊。 (方域5)
陸海軍,舊汝州,政和五年,以歲比豐登,珍祥屢發,可陞為陸海軍節度。劉豫改為防禦州,紹興九年收複,依舊。 (方域5)
醴州:政和七年以京兆府奉天縣陞為州,劉豫改為永興軍路,紹興九年收複,依舊。(方域5)
保靜軍,舊宿州,建隆元年陞為防禦,開寶五年陞為保靜軍節度,劉豫改為防禦州,紹興九年收複,依舊。 (方域6)

劉予もずいぶんいろいろ名称を変えたらしい。地名変更の理由は定かでないが、一般的な観点からすれば、劉予からすれば新しい王朝になったのだから、由来が宋の宗室に関わる名称(特に蔡京がむやみにつけた名称)であれば、いち早く変えようとしても不思議ではない。應天府を歸府にしたあたりはその心の表れだろうか。

それに劉予が変えたといっても、むりやり北宋政権が府に格上げしたのを、もとの州名に戻したのが多そうだから、「変えた」というより「戻した」という方がふさわしい。いずれにせよ偽斉政権下の名称変更と金との関係は、南宋側の資料では限界がありそうだ。

そういえば尊号(「うんたらかんたら皇帝」の「うんたらかんたら」の部分)も北宋は神宗あたりで削除され、単なる「皇帝」になってしまい、南宋にも継承されるはずだが(ただし太上皇帝は尊号をおくられる)、遼は唐を継承し、そのまま明あたりまで続くんだったような気がする。ますます宋がいらない子に見えてきた。

妄言・妄想・妄念

何かを書こうと思った瞬間、虚しくなってしまった。全般的に頭がおかしくなってきているようだ。でもまあ備忘録がてらに関係ないことを書いておこう。

中国経学という雑誌の第二輯に鄭良樹という人が論孔子講《春秋》というのを書いている(《》は日本語の『』に同じ)。この論文は『論語』から春秋時代に関係する論評を抜き出して孔子と春秋の関係を探ろうとしたものらしく、考えてみれば誰でも考えそうだけど誰もあえてやろうとは思わなかった研究の一つと言える。まあ鄭氏の研究結果をここでバラすわけにもいかないから、興味のある人は自分で読んでみてください。

趣味で術数(中国の占いの本)の目録をよく見るのだけど、この手のものは途絶えることなく出版されている。占い好きが多いのは昔から変わらないのだろう。書虫にもちゃんと術数というジャンルが立てられているものな。しかも画像が多いのを見ると、日本でも購入している人が少なくないと見える。

占いなんぞ当たるはずはないというものの、そこは春秋はパチモンだと知りながらその知的探求を楽しむのと同じ気持ちで、それとなく興味がわく。もちろん自分で占おうとか、占いを信じている人間を言い負かそうとかいう気持ちはサラサラないし、占い師に騙されている人間がいても素知らぬ顔を決め込むのだが、仮にもそうとうの知恵と知識をため込んだ人間が占いに何を見出だそうとしたのか、どうしても興味がわいてしまう。とはいえ、占いも度を過ぎると経験則を寄せ集めた一種の擬似科学になってしまうので、そうなるととたんに興味はなくなる。

結局、散漫に知識を集めてみてもどうにもならない。いや、それが楽しい人に文句を言うつもりはない。それにそういう楽しみも分からないではない。しかしいい悪いの問題ではなく、自分自身がそれを求めていなければ意味がない。もっともいまさら春秋とか宋代の知識を磨いてみても何の意味もないのも事実。なんとなく『長編』とか見るとムカムカしてきた。不思議なものだな。ようやく手に入れたときはあれほど輝いて見えたのに。

そういえばここ数日、高畠素之に関するイベント(個人的な)が多かった。不思議とこういうのが重なるときがある。貧乏人の私には高畠さんの著作を本で出版する金もなし、もしデータを見ておもしろい、便利だと思うようなら、せいぜい使ってやっていただきたい。

しかし高畠さんのテキストデータを新漢字新仮名遣いですべきだったのかどうか、未だによく分からない。その方がよかったような気がしないでもなし、やはり普通の意味で旧漢字旧仮名遣いの方でよかったような気もする。こればかりは分からない。いまそこはかとなく後悔しているということは、やはり失敗だったのだろうか。まああれを読む人は旧漢字や旧仮名遣いていどは苦になく読めるだろうし、もし苦にする人がいるなら、そういう人は高畠さんの文章を読まない方がいい。意味を正確に捉えられないと有害なことが山ほど書いてあるから。

高畠さんの弱点は四十そこそこで死んだことだと思う。どれほどシニカルで達観していても、四十そこそこまでの感性を宿した文章しか世の中に残していないことになる。だとすれば五十にでもなってから高畠さんの文章を読んだ場合、やはり得られる感銘は減るのではないだろうか。下手をすれば「若いな」みたいな感想になるかもしれない。もっとも高畠さんの活動家なんだから、五十でも六十でも七十でも、同じことを言っていた可能性は充分ある。石川さんの文章なんて戦前も敗戦後もほとんど変わってないものねえ。

なんとなく高畠さんのことが気になって調べてみようかと一瞬思ったけど、考えたらこのまえ大量に資料を捨てたんだった。いるかいらないか迷うものはいらないものだ、という考えがあるらしいけど、この場合は必ずしも正しくなかったということだろうか。でも、なければないで調べる気も収まったので、やはり当たっていたのかもしれない。高畠さんも、もう私にとって過去のことになったんだな。こうやってなにもかも過去のことになっていくのだろうか。結局、研究で残ったものは何もなかったような気がするな。憎悪とか不満以外は。

高畠さんのことに限らないけど、同じ対象に興味を持って、程度の差こそあれ、同じように読んでいった場合、大なり小なり、重要だと思う場所は重なるらしい。社会民主主義とか特定の立場から論じるのでない限り、すなわち高畠素之を高畠素之としてなんとか理解しようとする努力をする人どうしであれば、その評価こそ異なれど、高畠さんの発言でここはと思う場所はだいたい似通ったところになるっらしい。

だから高畠さんについて触れた論文や著書を見て、まったくどうでもいい箇所から引用とかしてあったりすると、それはもう高畠さんを知るために努力したのではなく、都合のいいタイトルの本を読んでたまたま都合のいい箇所が見つかったから引用したか、あるいは他人の論文に引用されていたのでその原本を探して引用したかのどちらかになる。高畠さんの国家主義的側面を説明するのに『マルクス学解説』とか『マルキシズムと国家主義』とかから引用するのはナンセンスだと、私は思っている。

開封府尹

崇寧三年,蔡京奏:「乞罷權知府,置牧一員、尹一員,專總府事;少尹二員,分左右,貳府之政事.牧以皇子領之.尹以文臣充,在六曹尚書之下、侍郎之上.少尹在左右司郎官之下、列曹郎官之上.以士、戸、儀、兵、刑、工為六曹次序,司録二員,六曹各二員,參軍事八員.開封、祥符兩縣置案倣此.易胥吏之稱,略依唐六典制度.」
『宋史』職官志

徽宗宣和七年十二月二十二日,以皇太子除開封府牧。時上有内禪之意,用本朝故實也。(『宋会要輯稿』職官三七、開封尹)

尹闕則置權知府事,以少卿以上充,兼功(事)[使]及畿内勸農使。(同上)

「宋代郡守通考:北宋京師及東西路大郡守臣考」でも見ればとりあえず宋代の開封府長官の一覧表が載っていると思います。まあどこかの偉い人はこのシリーズが出たとき資料をかき集めてきただけで吟味が出来てないとか文句言ってたらしいですけど。

雑記

ちょっと疲れた。それにしても久しぶりにブログの管理画面を開いた気がする。

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2.もろもろ
3.ある人の言葉

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Author:awatan
HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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