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おりおり

Project MUSE

電子書籍ビジネスに書籍は必要か?‐田代真人

新しい電子書籍というのは、単にパソコン以外の媒体から見るウェブページということだろうか。

漢語。T島氏の影響ではないですよ。というよりも、私が影響を受けた人は、すべて物故者です。数百年前に死んだ人とか。むかしやたらと漢字をつかって文章を書いたものだから、その反動が来てるのではないかと思います。あるいは日本語万歳!とのたもうていた真潮先生の呪いかもしれませぬ。

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箴膏肓など

箴膏肓一巻、起廃疾一巻、発墨守一巻

山西巡撫採進本

(漢)鄭玄の撰。

『後漢書』鄭玄伝には「任城の何休は公羊贔屓が高じて『公羊墨守』、『左氏膏肓』、『穀梁廃疾』(*1)を著すに至った。これに応じて鄭玄はその『墨守』を発(ひら)き、『膏肓』に鍼(はりう)ち、『廃疾』を起こしてみせた。何休は鄭玄の書を目にすると、「康成(鄭玄)は吾が室に入り、吾が矛を操り、我を伐つものか』と感嘆したという」とある。

本書について『隋書』経籍志に記載あるものは、『左氏膏肓』十巻、『穀梁廃疾』三巻、『公羊墨守』十四巻で、そのいずれにも「何休の撰」と注されている。そしてまた別に『穀梁廃疾』三巻を掲げ、「鄭玄の釈、張靖の箋」と注している。これによれば鄭玄の評釈と何休の原本とは、隋代以前においては、別行していたと推測される。ところが『旧唐書』経籍志の記載になると、『墨守』こそ二巻と記され、少しく異同があるものの、『膏肓』『廃疾』の二書は巻数までも一致しているにも関わらず、三書のいずれにも「鄭玄の箴」、「鄭玄の発」、「鄭玄の釈」と記されている。つまりこのときには既に鄭玄の書と何休の書は一書にあわされていたのである。

しかし宋代に入るとこれらも散佚が始まり、『崇文総目』には『左氏膏肓』九巻を載せるのみとなった。そして、それすらも陳振孫の見たものは宣公、定公、哀公の三公を闕く有様でだった。陳振孫の指摘によれば、所見本は錯誤のため読むに堪えず、恐らくは後人の収録したもので、『隋書』『旧唐書』に記載された原本ではなかろうとのことである(*2)。その後、漢学はますます衰微し、陳振孫の見た不完全な『左氏膏肓』もまたこの世から消えてしまったのである。

この本は『箴膏肓』二十余条、『起廃疾』四十余条、『発墨守』四条からなり、諸書の引用文を集め、それを再編集したものと推測される。編者の名は詳らかにし得ない。「宋の王応麟の輯」と題するものもあるが、これといった確証があるわけではなく、王応麟がかつて鄭玄の『周易注』『斉魯韓三家詩考』を輯集したというので、本書の編集もまたその手になるのではないかとの推測にすぎない。しかし『玉海』の末に本書は附されていない。王応麟の子孫ですら見ることのできなかった書物が、かえって後世に流伝することなど、およそ考えられぬことである(*3)。

このたび諸書をもちいて校勘したところ、『毛詩』大明篇疏所引の宋襄公戦泓の一条を佚する外は、一つの遺漏もなかった。本書は王応麟の手になるものではないが、これを要するに、古義に心を潜めるものが作ったものである。謹んで編集補綴し、これを『四庫全書』に収録するものである。原書の二割にも及ばぬ分量とはいえ、系統だてて輯集された本書から原書の梗概を伺うことはできようし、鄭玄の学を修めるものも、これによって得るものがあるだろう。

(*1)おのおの「公羊を墨守する」、「左氏の病は膏肓に入っている」、「穀梁は不治の病に冒されている」の意。これを受けて鄭玄は、公羊の墨守を啓き、左氏の病を治し、穀梁を不治の病から起き上がらせるという意味で下記の書を著したとされる。
(*2)陳振孫の発言は『文献通考』あるいは『書録解題』に引用を見るが、この提要の主旨とはズレがある。
(*3)王応麟の『玉海』は類書として極めて有名な書物。原本はいちど失われ、現行本は孫の王厚の整理を経て出版されたものである。王厚の出版時、王応麟の他の遺著十三種も附録としてあわせて刊行された。すなわち四庫官の発言は、王厚ですら発見できなかった王応麟の遺著が、別人の手によって後世に伝わるはずがないという意味になり、言うまでもなく、まったく根拠のない憶測である。

雑記

1.文明が古いから......
2.~病
3.漢文訳語
4.無名人物
5.浮かれる人々

※以下本文

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春秋穀梁伝注疏

春秋穀梁伝注疏二十巻

内府蔵本

(晉)范の集解、(唐)楊士の疏。

この『伝』については、楊士の疏に「穀梁子、名は俶、字は元始、一の名は赤。春秋経を子夏より受け、経のために『伝』を作った」とあるのによれば、穀梁子の自作ということになる。しかし徐彦の『公羊伝疏』には「公羊高より相伝すること五世、胡毋生の時代にようやく竹帛に書き写し、その親師の名をとって『公羊伝』と名付けた。穀梁もまた竹帛に書き写した者が、その親師の名をとって『穀梁伝』と名付けた」とある。これによる限るならば、本書はその学統を受け継ぐ人の手によって作られたものということになる。

これについて『公羊伝』の定公即位の一条を検するに、「子沈子曰く」を引くが、何休の『解詁』はこれを後師(何休の注は隠公十一年所引の子沈子条下に見える)の説としている。この『伝』も定公即位の一条につき、「沈子曰く」を引いている。しかしながら公羊と穀梁はともに子夏を師としたのであれば、後師に学を授かる必要はあるまい。またこの『伝』は〔隠公五年の〕初めて六羽を献ずの一条において「穀梁子曰く」と称しているが、もし穀梁の自作であるならば、己の学説をこのような形で引くはずがない。それのみか、本条はさらに「尸子曰く」を引いている。尸佼は商鞅の師であり、商鞅が誅殺された後、蜀に逃亡したと言われる人物である。その在世もまた穀梁の後にあり、〔未だ存在せぬ人物の学説を〕前もって『伝』に引用することはできまい。これらから判断して、恐らくは徐彦の指摘が事実を伝えたものであろう。ただ誰が竹に書き写したかについては明らかにし得ない。

『漢書』芸文志は公羊と穀梁の二家の春秋経十一巻を載せ、『伝』についても各々十一巻とする。ならば経と『伝』はもともと別物だったのである。范の『集解』は経を『伝』にあわせて注解を施している。あるいは范が経と『伝』を合わせたのではあるまいか。

さて、定公元年の春王三月の一条は、「春王」二字の下で『伝』を発し、「三月」を別に下文と接続させており、その区分の方法には大いに疑問を生じさせるものがある。しかし劉向の『説苑』には「文王は元年に似たり、武王は春王に似たり、周公は正月に似たり」の一文がある。劉向は『穀梁春秋』の学を受けた人物で、『穀梁』の経文が「春王」二字を割いて一節としていたことを知っていたのである。そのため劉向は如上の読みをして見せたのである。

また〔隠公五年の〕公観魚于棠の一条、〔荘公三年の〕葬桓王の一条、〔成公九年の〕杞伯来逆叔姫之喪以帰の一条、〔同十三年の〕曹伯廬卒于師の一条、〔襄公三十年の〕天王殺其弟佞夫の一条は、いずれも「伝に曰く」の字を冠している。その中、ただ葬桓王の一条のみは『左氏伝』の所説と一致するが、それ以外はいかなる伝から引用したものか明らかにし難い。あるいは范が伝を経に付したとき、鄭玄や王弼が『易』に対して「彖に曰く」、「象に曰く」を用い〔て経の本文に十翼を割裂し〕た例のごとく、一条ごとに「伝に曰く」の字を冠したのではあるまいか。ところが後の世に本書を書き写したものがこれを削り去ったとき、この五条のみを削り損なったのではあるまいか。

范の注本は十二巻、その門生故吏、子弟の学説をも含み、各人の名を列したものであるが故に、「集解」と名付けられた。『晉書』范伝には「范の書は世間からもてはやされた。ほどなく徐邈がまた『穀梁伝』の注を作り、これもまた世間の評価するところとなった」とある。しかし本書について検するに、〔本書完成の後に成立したはずの〕徐邈の注をも多く引用している。その詳細については明らかにし難い。また『集解』の自序には「名例を商略し」なる句があり、疏もまた范には別に『略例』十余条があったと指摘する。ところが本書にはこれが存在しない。しかし注中に「伝例曰く」なる文字が散見される。あるいは楊士が『略例』本文を割裂し、注疏の中にちりばめたのではあるまいか。

楊士の詳しい官歴は不明である。しかし孔穎達『左伝正義』の序に「故四門博士楊士と参定す」とあるからには、貞観年間の人だということは分かる。その穀梁疏は孔穎達の〔撰した『正義』の〕博識に及ばぬとはいえ、左氏を扱うもの多く、公羊と穀梁に携わるもの少き中にあって、また依拠し得べき資料の乏しき中にあって、さらには『左伝正義』が多くの学者の手になるのに対し、本書は楊士ひとりの力に成り、助けとするもの少なき中にあったことに鑑みれば、内容の詳略に差違の生ずるのは、やむを得ないことであったろう。

なお〔現行本は文公十一年の〕長狄眉見於軾の一条に対する疏が上句の身横九畝につながっており、注と疏が乖離してしまっている。恐らく邢昺が〔『穀梁伝注疏』を〕校訂したとき、原書の配列を誤ったところが多くあり、楊士の原本とは完全には一致せぬのであろう。


※こちらは公羊伝注疏よりマシな感じはするが、全体的に推測の文章が多く、論断しているところも推測による部分が目立つ。よってあまり参考にならない。春秋三伝の研究は春秋学の花形だから、四庫提要が書かれた後もそうとう研究されたので致し方のないことではある。ただし決定的な資料を欠くが故に研究が盛んになるのであるから、もとより後世のいかなる研究も十分な信頼は置けない。したがって、春秋三伝については、何事につけ、よく分からないというのが真相といえる。

春秋公羊伝注疏

春秋公羊伝注疏二十八巻

内府蔵本

漢の公羊壽の伝、何休の解詁、唐の徐彦の疏。

本書について『漢書』芸文志は「公羊伝十一巻」といい、班固の自注は「公羊子、斉の人」といい(『漢書』芸文志の注記において、顔師古の名を冠さぬものは、すべて班固の自注である)、顔師古の注は「〔公羊子の〕名は高である」(これが『春秋説題詞』に拠ることは徐彦の疏に指摘がある)という。また徐彦の疏は、戴宏の序を引き、「子夏は公羊高に伝え、高はその子の平に伝え、平はその子の地に伝え、地はその子の敢に伝え、敢はその子の壽に伝えた。漢の景帝の時代、壽は斉人の胡母子都とともに竹帛に書き写した」という。これは何休の注も同じである(何休の学説は隠公二年の紀子伯莒子盟於密の条下に見える)

しかし『伝』の中には「子沈子曰く」、「子司馬子曰く」、「子女子曰く」、「子北宮子曰く」、「高子曰く」、「魯子曰く」等の表現があり、彼らはいずれも学統を継承した経師であろうから、『伝』のすべてが公羊子ひとりの手に成ったとは考えられない。また定公元年の『伝』に見える「棺を両楹の間に正す」以下の両句は『穀梁伝』にも引用を見るが、そこでは直に「沈子曰く」と書かれ、公羊の発言とはされていない。ならば姓名を記さぬ学説とともに、これもまた、『伝』のすべてが公羊子の手に成らぬ証拠の一つに数えられよう。とりわけ「子公羊子曰く」なる表現は、公羊高の手に成らぬことの明白な証拠といえるだろう。したがって、これらの点に鑑みるならば、『伝』が公羊壽の手に成り、胡母子都の補佐にかかるものであることは、疑いなきものといえる。旧本は冒頭に公羊高の名を署しているが、それはこの事情を熟知しておらぬことによるものである。

さて羅璧はその『識遺』において「公羊や穀梁はその高と赤の『伝』以外、前史および後世にその姓をもつものを見ない。万見春(*1)は『公羊と穀梁は、いずれも〔二字を一字に〕約めれば「姜」の字と同じ音になる(*2)。恐らくは姜姓の仮託であろう』と言っている」と指摘する(*3)。なるほど鄒を邾婁とし、披を勃鞮とし、木を彌牟とし、殖を舌職とする等々(*4)、経典の記載においても音の異同は認められる。しかし弟子が先師について記し、子孫がその祖父について述べるのに、本字が分からぬといって別に合声を用いることなど断じてあり得ない。羅璧の指摘は奇異を好む好事家の発言にすぎない。程端学の『春秋本義』に至っては、公羊高を漢代初期の人間だというが(*5)、これは講学家に見られる臆断にすぎず、ことさら弁解するにも及ばない。

三伝と経文とについて、『漢書』芸文志は各々巻帙を別にしている。そして『左氏伝』を経に付したのは杜預に始まる。しかし『公羊伝』を経に付したのが誰かは判然としない。何休の『解詁』を検するに、ただ『伝』を解釈するのみで経を解釈せず、杜預とは方式を異にしている。ならば漢代末期においては、いまだ経と『伝』は別行していたものと考えられる。また現存する蔡邕の石経残字についてみても『公羊伝』に経文はなく、先の〔何休の解釈方法〕とともに相互に〔漢代末期にはいまだ経と『伝』とを区別していたことの〕証拠と見なし得よう(*6)。

ところが現行本は『伝』を経に付している。これは徐彦が疏を作ったときに合わせたものであろうか。徐彦の疏について、『文献通考』が三十巻とするのに対し、現行本は二十八巻にすぎない。徐彦の作ったものは、経文を二巻にまとめ、『伝』の前に付していたものであったが、後世の人が〔経の二巻を〕『伝』の中に散入したのであろうか。そのため〔『文献通考』に比べて現行本は〕二巻だけ少ないのであろうか。詳細は不明である。

徐彦の疏は『唐書』芸文志にその書名なく、『崇文総目』に至ってようやく記載を見るが、そこでも「〔本書には〕著者名が記されていない。一説に徐彦の作という」と注記されている(*7)。一方、董逌の『広川蔵書志』は「世に徐彦の作と伝えられているが、いずれの時代の人間かは不明である。〔唐代後半の〕貞元・長慶以降の人ではあるまいか」と指摘する(*8)。疏を検するに、〔宣公十二年の〕邲の戦の一条によるならば、なおも孫炎『爾雅注』の完本を見得たようであり、したがって〔孫炎『爾雅注』の佚した〕宋代以前の人であることが分かる。また〔荘公三年の〕葬桓王の一条は楊士の『穀梁伝疏』を完全に襲っており、したがって〔『穀梁疏』の成った〕貞観以降の人であることも分かる。疏には自問自答が多いこと、文章は煩瑣で言葉も重複していること、邱光庭の『兼明書』と類似してことなどから判断して、唐代末期の文体とも考えられる。そうだとすれば上述の董逌の発言は理なしとしない。そこでこの度は唐逌の説に従い、徐彦を唐代の人としておきたい。

(*1)羅璧『識遺』巻三(左伝非丘明)に「郷先達万見春鎮嘗著論弁伝非丘明作」とあることから、姓は万、名は鎮、見春は字か号であろうことが分かる。また四庫提要によれば羅璧の本貫は新安(徽州)らしく、したがって万鎮も新安の人ということになる。なお饒魯の弟子にも同名の人物がいる。こちらの万鎮は字を子静といい、平江(蘇州)の人であるが、彼にも左伝十弁なる著があったという(宋元学案巻八十三、清一統志巻二百七十九)。
(*2)公または穀の子音と羊または梁の母音付近の音を合わせると姜と同音になるという意味。下の合声もこれと同義。
(*3) 『識遺』巻三(公羊穀梁)。
(*4) 鄒と邾婁は国名ないし地名、披と勃鞮は寺人勃鞮を、木と彌牟は公孫彌牟を指す。殖と舌職は羊舌職(羊殖)のこと。恵棟『左伝補註』成公十八年羊舌職条(清経解巻三百五十五)に「説苑作羊殖。殖為舌職合声」とある。説苑はその巻十一、善説、趙簡子問於成摶条(巻十一最終条)の一節を指す。ただし向宗魯の説苑考證は「左氏所称羊舌大夫為職之父、非職也。且此文云今臣不見五年矣、則是簡同時人、年代尤参錯不合」と疑問を残している。
(*5)『春秋本義』春秋伝名氏に指摘がある。
(*6)何休と蔡邕は後漢末期の学者で、杜預は魏晉時代の軍人、学者、政治家である。
(*7) 『崇文総目』は宋代初期の蔵書目録であるが、四庫提要執筆の清代中期には既に散佚していた。この引用は『文献通考』春秋公羊疏条所引崇文総目を引いている。
(*8)『文献通考』春秋公羊疏所引の陳振孫『書録解題』に引かれる言葉。


劉敞の権衡に取り組む精神的余裕がないので、とりあえず随分前に訳した四庫提要の校正をすることにしたが、三伝と繁露などを訳してなかったのを思い出した。ということで(?)、この公羊伝注疏を含めて六つしかないけど、ぼちぼちやっていこう。

と思ったけど、久しぶりの所為か最後の方は疲れた。最後の一段落はかなりいい加減なので、また明日にでも校正し直す。訳文の拙劣さはともかく、当時はよくこんなもの何十種類も訳す気になったものだ。我ながら頭がどうかしてるのじゃないかと思ってしまう。

ああ、念のため断っておくと、上の四庫提要の判断は出鱈目なので間違っても信用しないように。

雑記

寒くないのに雪が降ってる。

不平不満が多いのは暇だからだと言われてその通りだと思ったが、よく考えてみると数年前に死ぬほど忙しかったときでも、寸暇を惜しんで不平不満を垂れていたのを思い出した。単純に私が不平不満を口にする性格だったらしい。

uni-ballのノック式じゃない方を使ってみた。書きやすいし使いやすいが、ノック式より細い分、僅かの差でノック式の方があってるような気がする。たぶん手の大きさとか持ち方とかで個人差が出てしまうのだろう。それとノック式じゃない方は、キャップがなくなると全長が縮まり、手持ちに不安が残ることも分かった。ただし、それなりに大きい文具屋にいったにも関わらず、ノック式の替芯は一切売ってなかった。というか、極細すら売ってなかった。あの店が特殊だったのか。

シリア正教とは何か

広説 佛教語大辞典 縮刷版。書店で見かけた。大判の在庫があまってるから縮刷版が出せないとか聞いたけど、ようやく発売されたのね。仏光大辞典の方が利用勝手がいいと聞いたけど、私は仏教をやらないから知らない。ああ、英語とか仏語の辞典は知らないから。たぶんいいのがあるだろう。

この前、wikiの詭弁の項目はおもしろいと書いたが、学問上の論理学はともかく、現実の世界ではあまり役に立たない。フランス革命も民主主義も人権も何もかも詭弁といえば詭弁だ。殺し合ってもいいでしょ?というのは否定できるが、同時に人間の互助的なものも否定できる。別段、学問は人を幸福にしないよ。

最近は続修四庫全書が簡単に見られるようになって結構なことだ。どうせ見られるようになるなら、研究していたときに見られたらよかったのだが、このあたりは言ってもしかたのないことだな。むかし研究室にいた中国人が、四庫全書が検索できるようになったのを知り、大いに感動する反面、もう少し早ければなぁ~と言っていたのを思い出す。

しかし不思議なことに現代の研究者の前の世代の研究(現在の研究者がなかば古典的な扱いをしている研究書を書いた学者の研究)は、そういう電子検索がなかった時代のものであるにも関わらず有用だったりする。いや、それら学者の研究は、電子検索ていどではとてもお覚束ないような精度と分析がされており、それらを見るといつも研究能力の高さに驚かされ、また敬服させられる。

研究環境が変われば研究手法も変わり、したがって調査が楽になりもするが、本質的に能力の高い研究者の研究は、環境の有無に関わらず(劣悪すぎる場合は別だけど)、立派なものなのだろう。逆に言うと、独創性も何もなく偉い先生の模倣に走った研究は、技術の革新さえあれば、極端なはなし、1秒で論証可能なものになりかねない。例えば、○○という文字の一番古い出典はどこか、とか。

そういえば、じょじょに漢字よりもひらがなを用いるようになってきた。十年ほど前はやたらと漢字を用いていたのだが。もしかするとこれも愛国的至情の現れなのかもしれない。なんてね。

中国経学第七輯

やっと中国経学の第七輯がとどいた。紀念沈文倬先生逝世周年専輯の副題の通り、本当に沈氏の論文と学術紹介と思ひ出だけだった。これほど名と実が一致していると気持ちいい。日本でも某先生退休記念論集などが出版されるが、某先生のことは冒頭十数ページに年譜と著作一覧があるくらいで、実際は弟子のどうでもいい論文ばかり載ってることがある。こういう詐欺まがいの論集に比べると本作は清々しいほどに専輯とよぶにふさわしい。

中身は......まだちゃんと読んでないから何とも言えないけど、ここで感想を書く必要もないだろう。どうみてもふつうの人が興味を持つような内容でなし、万が一、価値のある感想を書いても、喜ぶのは学者関係だけだから、労多くして益すること絶えて無きことは断じてすべきでない。

※今日の妄言

それはそうと、お金になる分野の論文はともかくとして、どうみても赤字の分野は、余計な論文雑誌を出さないで、どこかの研究機関なり政府なりに一括して論文を提出するようにしたら便利なのに。いや、販売して元がとれるとか、利益の出る分野はそんなことする必要ないけど、出せば出すほど赤字になるとか、会費だけで成り立っているような分野は、無理して金を集めて紙の雑誌をつくらなくても、どこかにまとめて投稿するようにすればいい。金になってないのに研究が続けられるということは、大半が国民の血税をむしり取ってしている研究なのだから、別段、ただで公表してもかまいまい。

そんでAmazonみたいにレビューとか☆とかつけられるようにして、さらにダウンロード数を表示できるようにすれば、いちいち偉い先生のお手を煩わせるまでもなく、評価なんて一目瞭然に分かるし、見かけ倒しの論題・摘要etcに惑わされることなく論文の善し悪しもおのずと分かる(かもしれない)。

なんなら正式会員(自称専門家)と一般会員(他称素人)に別けて☆の表示場所を変えるとか、ダウンロード数におうじて正式会員から徴収した金を執筆料としてくばるとか、適当にやればいい。どうせ売れてない分野だから金が集まるとは思えないけど。

まあ私のように曲がった性根の人間は、匿名で偉い先生の論文と憎たらしい人間の論文をこき下ろすだろうけど、大半の人はそんなことすまいて。むしろ肩書きだけのトンデモ学説が世間に知られるいい機会じゃないか。

もちろん、俺たちのやっている贅沢で高級な学問は下劣な一般人には理解できないのだから、凡俗の連中にはそんなすんばらしい世界に入ってきて欲しくないというなら、ご自由になさったらいいけども。


プリンタが壊れた。

別に神罰が降ったわけではないと思ふ。購入してから十数年経ってるし、寿命だったのではないかと。数日前に動かしたとき、ギーギーあやしい音がなっていたので、やばそうだなと思っていたら、案の定、動かなくなってしまった。とはいえ、いままでよくもってくれたものだ。

滅多に使わないものだから、新しいのに新調!という気にはなれないのだが、遺憾なことに印刷しないといけない資料があって購入せざるを得ないような状況になってしまった。こちらは神罰かもしれない。

いや、そうでもないかもしれない。問題のpdfにはパスワードがかかっていて、PC上に保存しようとしたら白紙画面になってしまうので、印刷するしかなかったのだが、pdf印刷にしてみたら案外そのままpdfで印刷されて出てきた。杜撰な管理してるな~。でもpdf変換ソフトの性能が悪いせいか(AdobeのAcrobatにあらず)、汚い感じのpdfしか出来ない。プリンタは滅多に使わないから、できれば買いたくないのだが、どうしたものかな。

ちなみに紙に印刷したものをスキャンしてOCRで読み取れば、ほぼ正確にもとのデータが再現できる。もともと平易な日本語データをpdf化しただけのもののようだから、OCRでもそれなりに読み取れるのだろう。ということは、わざわざpdfにパスワードかけてデータを保護しようとしてもほとんど無意味ということになる。それなら無駄な手間をかけさせるの止めてもらいたいものだ。

春秋学のレトリック

もっともらしいことを書こうと思ったがやはり止めた。

春秋権衡を読んでいると、いや、大概の春秋関係の書物を読んでいると、三伝の批判に勢力を費やすものが多い。しかし遺憾なことにそれらの大半は「逆は必ずしも真ならず」を是認すれば否定できる。彼ら批判者の謂が正しいのであれば、命題が真であれば逆もまた真でなければならない(場合によってはさらに裏も真でなければならない)、ということになる。劉敞のように発言そのものに凄みのある場合はともかく、単に三伝を批判しただけで、しかも上のような幼稚な論述をされると、とても読む気になれない。

もちろんこの種の発言をする理由を執拗に追跡すれば、もっともらしい理屈をねじ上げられないではないし、中国の特殊性ならぬ中国的論理とかそういう意味のよく分からないものも錬れるだろうが、無理にそんなことをしなくてもいいだろう。自分が好きなものだからといって、不得手なところで無理に評価する必要もあるまい。もし春秋権衡の訳がまとまるようなことがあれば、「歴代春秋学に燦然とその名を輝かせる劉敞の批判とは、かくも驚くほど幼稚なものだった」と率直に書いてやりたい。......まあ今のままだと訳は完成しないだろうけど。


※その他

「長生きしたくない」と考える若者が増加中!

私は既に若者ではないが長生きはしたくないな。それにしても最近の年よりはいちいち文句が多い。もう少し反省という言葉をかみしめてみたらどうだろうか。だいたい責任は責任者がとるものでヒラがとるものではない。ヒラがうまく動かないのは指揮官が愚かだからだ。今の若者はという暇があったら、自分の無能指揮官ぶりでも嘆いたらどんなものか。


三礼通釈

というのがある。礼学の名著かどうかはさておき、そこそこ有名なもので、数年前に全二冊の影印本が発売された。かなりの高額だったので購入はあきらめたが、最近になって四庫未收書輯刊の第二輯第八冊と第九冊に収録されていることを知った。知ったからといって未収書輯刊をもっているわけでなし、あまり意味はないのではあるけども、知ったついでに書いておく。


詭弁

詭弁っていろいろ種類があるんだなあ。ほとんど使ったことあるような気がする。

もろもろ

やはり続修四庫全書はステキだなあ。特に経部。でも、たまに抄本とか入ってる。刊本があるならそちらを入れて欲しいのに。善本ではあるんだろうけど。そういえば存目叢書のことはあまり聞かないけど、中国での評判はどうなんだろう。

編纂者のひとりが必死に「価値ある!」と言ってたけど、「それは錯覚だ!」と言ってみたい気もする。まあ存目の中にも四庫官のいけずで価値ある書物もあるが、大半はなくなってもよかった本ばかりだからなあ。

こういうと文句を言う人もいるだろうし、それはそれとして一理あることは聞く前から分かっているけど、個人的な感想を言わせてもらうと、存目の大半は、書物それじたいに価値があるというより、その書物をつかって歴史的な背景を明らかにできるというような、書物本来の読み方とは違う利用をした場合に価値が生まれるような気がする。正直なところ、存目の経部の書物なんて、それ自体には何の価値もないように思うんだが。

※以下どうでもいいこと

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同じ文字遣い

数日前ふいと竹取物語が気になったので、昨日ひまなことに図書館に足を運び、岩波の新大系と小学館の新全集の2つで読み、その後で角川のビギナーズ・クラシックスとかいうシリーズの訳本を読んでみた。

いずれも語釈が細かいので読む分には苦労しなかったが、岩波の新大系と小学館の新全集の文面が似ているのでちょっと驚いた。ところによっては文字遣いまで同じ語釈とか、極めて似ている解説部分とか、そういうのが目に付いた。

編纂者が師弟の間柄かとも思ったが、あとで角川のを読んだら、こちらにも似たような解説が多々あったので(ただしビギナーズだからなのか、文字遣いはかなりくだけていた)、たぶん学会通有の決定的解釈があって、新大系も新全集もそれを踏襲したのだろう。M治書院の新釈とは質が違うのかもしれない。

それはそうと角川のビギナーズなんたらは読みやすい。原文から相当離れた翻訳がなされているので、気楽に読める。もちろんこれだと正確さは失われるが、そこは物語の大筋をおさらいしてから原文を読み直せばいいので、文句をいうものではないのだろう。それに解説が薄っぺらいのもいい。あっちこっちに「分からん」「分からん」と書いてある。由来のはっきりしない古典なんてのは、著者だの成立年代だのを断定できないのだから、実にすなおな解説と言える。解説はこうあるべきだ。そういえばその角川のに書いてあったが、中世の竹取物語はかぐや姫と帝がハッピーエンドになったりするのね。知らなかった。知ってどうということもないけど。

竹取物語を読んだついでに新大系の日本霊異記も見たのだが、こっちはすごいね。成立時代の日本語をおもんぱかって各書から訓を拾い集めてつぎはぎして読んでる。言うまでもなく、当時もちいられていた訓だからといって、日本霊異記というユニークな存在の訓になるとは限らないのだが、なかなかの労作ではあった。

が、そういう古い訓をちりばめてるものだから読みにくいことこの上なく、誰得?という気がしないでもない。悪くいえば研究者の自己満足とも言える。まあ日本霊異記なんてのはあちこちに訓読本も訳本もあるのだから、こういうのがあってもいいのだろう。

ということで、昨日はなかなか有意義な時間をすごした。

雑記

1.春秋権衡
2.ばげちう
3.はち みち ぐん
4.帝国
5.例のOVA
6.データいろいろ
7.竹取物語の解説で......

※以下本文

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谷真潮「神道本論」

神道なる者は、我が國の天皇、天下を治しめすの道なり。開闢の始め、神、其の中に生ず。是れ乃ち我が天皇の祖なり(國常立尊より伊弉諾尊・伊弉(冊)〔冉〕尊に至るまでを指す)。惟だ神にして亦た能く天神地祇に奉り若ひ、以て人倫を立て、以て邦國を定め、以て皇圖を固む。世々の天皇、斯の道に由る。故に天皇、衆庶に詔したまひしとき、其の始めに「明神御宇天下天皇」と稱さるるは、是の謂なり。

問ふて曰く、『易』に云ふ、「聖人、神道を以て教を設け、天下服す」と。神道、豈に惟だ我が國のみや。

曰く、然り。開闢の始め、天と人と隔て無く、人は即ち神、神は即ち人。神人、神の命を奉じて行う所、則ち神明の道。祭政に二致無し。故に西土の古周以前の如き(*1)、祖を祭るに天に配し、大事は必ず廟庭に決し、龜に謀り筮に謀り、言は必ず天と稱し、敢えては人為を用ゐざるなり。惟だ西土の古のみ然るにあらざるなり。天竺の佛を奉じ、南蠻の天主を尊び、北狄の龍祠を奉ずる、皆此の物なり。而して水土の靈に美惡有らんや。神人のに至ると至らざると有らんや。西土〔の若き〕、天皇氏沒し、地皇氏興り、地皇氏沒して人皇氏興る。堯舜の聖すら尚且つ國祚を無窮に期する能はざれば、則ち其の所謂神道なる者も亦た我が國の純粹至然に如かざるなり。

問ふて曰く、西土聖人の道、具に六經に存す。秦火に罹ると雖も、其の遺、見るべし。孔子集めて大成し、孟子述べて顯章し、漢・唐・宋・明の儒者、奉じて之を扶翼す。故に近くして心術の微、遠くして經綸の蘊、綱舉がり目張り、燦然著明、至れりと言ふべし。我が國の所謂神道の如き者、其の書、『日本書紀』『舊事本紀』『古事記』のみにして皆史なり。開闢以來の皇家の事(記)跡を叙述するに過ぎず。神代の事の如き、有るが如く、無きが如く、恍惚として典要と為すべからず。嘗て之を其の人に問へば、則ち曰く「是れ秘傳の存する有り」と(*2)。之を扣けば、則ち釋氏に假りざれば、則ち儒道に(傳)〔傅〕會す。理趣有るが如きと雖も、絶へて本文と關はらざるなり。之(*3)に由り之を觀れば、我が國に教えの道無きこと知るべきなり。宇宙の間、惟だ聖賢の道有るのみ。信ずべき學ぶべし(*4)。所謂神道なる者も亦た異端邪説の類なり。子以て何と為す。

曰く、神道は、先王、蒙以て正を養ひ(*5)、天下を治むるの道なり。高祖天神(伊弉諾尊・伊弉(冊)〔冉〕尊・天照大神を指す)、三綱を身につけて人紀を立て、三器を奉じて天統を定め、國土山川を祠り、民命を寄す。化深厚、天下の民、知らず識らず、帝の則に順う。儒佛の教、未だ中國に入らざれば、天下淨事無し。事無し、幾をか紀すべけんや。千年、此の道に從ふなり。至治の極なり。夫れ天下の民、識らず知らず、帝の則に順えば、訓誥戒勅、何に由りて興らん。庠序〔學〕校も亦た何ぞ設けんや。獸有りて陷阱を作り、魚有りて綱罟を結ぶ。化足らずして教法興り、大道廢れて仁義有る者なり。

西土の古、神道無きに非ず。三綱正されず、皇極凝まらず。故に禮樂政刑以て之を維持し、神道以て之を行ふ。故に世を經ること、亦た彼の如く悠久たり。周の衰うるに及び、神道亡びて禮樂壞れ、政刑も孤行せず(*6)。孔子、先聖の道を大成すと雖も、位を得ざれば、則ち其の以て之を行ふ所を見る無くして、諸弟子の傳うる所、徒だ其の理のみ。戰國に至るに及び、禮樂澌盡して法家興る。秦漢より以來、天下を治むもの、只だ理と法と有るのみ。儒者は理を執り、俗吏は法を執る。理愈々明らかにして俗愈々巧みとなり、法愈々密にして人愈々賊なはる。

夫れ理は見る所に隨ひて遷る者なり。法は操る所に由りて拘はるる者なり。故に理なる者は爭いの源にして、法なる者はの賊なり。理法興りて天下の民、手足を措く所無きなり。故に教の明らかに備はるは、善の善なる者に非ざるなり。〔識らず知らず、帝の則に順いて、而る後に善の善なる者なり。〕後世、神道を論ずる者、其の此の如きを知らず、神代紀に教の得べき無きを見るや、穿鑿附會し、力めて其の説を高うし、強ひて儒佛に抗行せんと欲す。其の本文と干渉せざること、怪しむに足る無きなり。而して今、余、之を言うも、亦た只だ理を以てする者なれば、人誰か之を信じん。嗚嗟、應神以上、雍々煕々、神化の内に生壯老死して、其の然るを知らざる者。今にして復た追うべけんや。

儒佛未だ中國に入らざるや、上下一心。天皇は天下に只だ我れ在るのみと謂ふ。民庶は四海の中、只だ君在るのみと謂ふ。他の尊き者有るを知らざるなり。儒佛入りて上下其の心を二三にす。天皇は別に教主の我より尊き者有りと謂ふなり。民庶は別に教主の現當に利益する者有りと謂ふなり。是れより厥の後、天皇は神武のを喪い、臣民は不一の心を懷き、天下騒然、世道日に降る。國史を觀れば知るべきなり。

曰く、然らば則ち後世に神道を學ぶこと、果たして如何。

曰く、皇家、國史を讀み、祖宗の澤、神業斯の如きを知れば、競々業々、三器を奉じ、天業を敬い守り、天の永命を祈る所以の道、自ずから已む能はざるなり。武家之を知れば、則ち皇室を翼(載)〔戴〕し、下土を鎭撫し、外侮を扞衛する所以の節、至らざる所無きなり。諸民之を知れば、則ち父子・君臣・夫婦の道、得て分に安んじ、業に樂しむの心、油然として生ず。凡そ書を讀む者、名分の統を吾が先神皇の道に歸し、其の學始めて謬らざるなり。然らざれば則ち禪讓放伐を以て道と為し、明心見性を以て學と為し、人々は(聽)〔聰〕明を以て政を為し、皇家の治を亂さざる者少なし。

測れざる之を神と謂ひ、畏るべき之を明と謂ふ。神明なる者は、理を以て〔論ず〕べからざる者なり。人知を以て測るべからざる者なり。洋々乎として其の上に在るが如く、其の左右に在るが如し。人誰か之を測らん。孔子曰く、「精氣を物と為し、遊魂を變と為す」と。亦た既に頗る發す。宋儒に至りては、逎ち云ふ「二氣の良能なり。造化の迹なり」と。宋儒は窮理を以て學と為す。故に之を言ひて忌憚せず、而して神明の道荒れたり。其の來格説に曰く、「祖宗の精神なる者は自家の精神、自家の精神は即ち祖宗の精氣。故に只だ吾が誠敬を盡くせば、精神孚に感じて神其の庭に降るなり」と。夫れ自家の誠敬の至ると至らざるとを以て、神の格ると格らざると為すや。神のと為す、亦た淺からざらんや。故に理を以て神明の道を論ずる者、皆天を畏れざるの類なり。

『日本紀』に事實有り、因縁有り。人皇紀なる者は事實なり。神代紀は因縁なり。神代(記)〔紀〕の中、事實と因縁と錯綜して成るなり。之を知りて後、始めて讀むべきなり。夫れ事實なる者は、疑うべき者無きなり。而して因縁なる〔者〕は、自ずから此の事實有り、而して其の然る所以を推言する者にして、只だ當に之を仰信すべく、而して強いて其の説を求むべからざる者なり。太古の事、神人口傳、什一を仟佰に存す。帝皇の系、開闢の上に○(*7)れば、則ち詳らかにし難き者有るなり。故に舎人親王、『日本紀』を書きたまひ、神代紀に至りては、則ち諸説を併舉し、少しく異なるのみと雖も捨てざるは、詳らかにし難き者有りと為せばなり。敬の至りなり。而るに後世之を讀み、西土の書(*8)の看と為し、強ひて其の説を求めんと欲し、一々其の義を疏し、穿鑿に渉らざる者蓋し少なし。

曰く、然らば則ち國常立尊以下、説く者或いは五行の神と為し、或いは國土成熟の次序と為す。彼れ皆非か。

曰く、然り。既に列して祖宗と為し、載せて帝系に在れば、假令ひ五の神を祭り、國土の靈を祭るとも、祖と為る所以の本意を外にし、私に之が説を作して可か。蓋し國常立尊・國狹土尊・豐斟渟尊〔の三世〕、荒鴻の世、夫婦の道未だ立たず。故に乾道獨化するなり。埿土煮尊より惶根尊に至るまで、夫婦を合わせ、天地相參ずるも、功用未だ見えざるなり。伊弉諾尊・伊弉(冊)〔冉〕に至りては、天神の命を奉じ、降りて下土を治め、三綱を敬いて人紀を立て、國土を經営し、民養を厚うし、天地に請い禱い、聖子を生み、業を授け統を垂れ、孫子繩々、千億萬祀、常に此の國に主たり。實に天地とを合わせるの神皇なり。嗚呼、盛んなるかな。

()〔〕:()は底本、〔〕は改訂文字。
(*1)宮地家本は「西土の如き、古周以前」に作る。
(*2)『南路志』は「秘傳有り而して存す」に作る。
(*3)宮地家本は「是」に作る。
(*4)宮地家本は「惟聖賢之道、可信可學耳」に作る。
(*5)『易』蒙の彖辭。
(*6)不詳。
(*7)氵+厥。宮地家本、欄外に「恐遡誤」と有り。
(*8)宮地家本は「西土經書の看」に作る。

『北渓集』巻下所収。他に『土佐國群書類從』巻123下(詩筆部6)、『南路志』所収。文中の宮地家本は宮地家資料(高知県立圖書館)所収の神道本論を指すが、ここでは矢崎浩之「神道家としての谷真潮」(『いわき紀要』第23号、平成6年)所載の資料を用いた。

神道本論は真潮の草稿が残っており、現行本とおびただしい異同がある。とはいえ、本旨は現行の神道本論と同じなので、ここではいちいち注記しなかった。そうそう言うまでもなく原文は漢文。日本人の漢文なのでどことなく読みにくいところがある。読み間違えた部分もあるだろうから、下に原文を掲げておく。上にも書いたとおり草稿との異同は省略。


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丙丁録

秦山集二十七

雑著

丙丁録

六正史、書房已に五史を印す。ただ日本後記のみ之無し。嘗て羅山集を見るに、斯の書の泯ぶを歎ず。今、人間に行はるる所の寫本は、則ち諸書を掇拾して之を纂むるのみ。原本に非ざるなり。

應神紀に云ふ、「皇太后、政を攝ること三年、立てて皇太子を為す」と。注に云ふ、「年三」と。又四十一年、天皇崩ぜる時、年一百一十歳と。重遠按ずるに、兩處の字に脱誤有り。三當に四に作るべし。十年の間、一の字を脱す。蓋し此の紀に曰く、「天皇、皇后の新羅を討つの年、歳は庚辰に次る、冬十二月を以て生まる」と。神功紀に曰く、「大歳辛巳、政を攝るの元年と為す」と。是れ則ち仲哀九年庚辰に生まれ、神功三年癸未に太子と為れば、正に四歳なり。崩じたまひし年、歳は庚午に次る。百一歳、疑ひ亡し。

貞享五年戊辰十月六日乙巳、元禄と改元す。

楠正成、湊川に死す。蓋し獻策の行はれずざるも、義去るべからざればなり。

山崎先生曰く、正成は諸葛孔明の亞と謂ふべきなり。藤房、官を辭せば可なり。僧と為るは何ぞや。

我國は櫻花を愛し、西土は牡丹を愛す。我國は鶴を嗜み、西土は牛を嗜む。兩國の習尚の同じからざること、多く此に類す。

松田左馬助、小田原に死せず。焉んぞ義と謂ふべけん。

左馬助、孝子傳の論、之を得。

毛受勝助、佐久間十藏、其れ幾ど靖獻の義に聞かんか。

天暦十年五月五日、佐々木大明神始めて近江國に居る。

近世の詩僧、虎關は黠豪、元政は細潤。

秀吉の李昭に檄する書、只だ是れ雷霆霹靂、激發奮撃す。朝鮮の君臣、固より已に膽落つ

内藤如安と沈惟敬、各々國體を辱むること甚だし。

朝鮮の役、黒田如水の一著甚だ高し。當時如し其の策に出ずれば朝鮮危うきかな。

茅明時が十策、甚だ功有り。

朝鮮に死節の臣無し。婦人の國と謂ふべきなり。

或ひと傳ふ、加藤清正の家士某、臨海君に護侍す。一日、從容として其の手書を請ふ。君、之を許し、乃ち筆して曰く、「秦軍を傾敗す、琰と玄と。情を矯めて顧みず、驛書の傳はるを。危を持て幸いに復た桓温死す。太傅の功名も亦偶然」と。

同名ブログ

わが傳疑樓雜記と同名のブログがあるらしい。世の中は広いから、「伝信」より「伝疑」を好む人もいるだろうが、奇遇なことだ。ちなみに内容は全然違う。

え、何で気付いたかって?それはもう、ねぇ、有名でもないくせに自分のブログ名をググるというステキなことをしたからですよ。

例の古本

ふう、つかれた。

むかし出品されていた本田二郎[周礼通釈]が安くなってまた登場している。1000円スタートで既に入札者がいるから、今度は誰かが落札するだろう。この手の相場はよく分からないが、1万は超えるような気がするなあ。でもって、結局は相場と同じか、場合によってはそれより少し高いところで落ち着くのではあるまいか。誰も入札していないときは高いような気がしても、いざ誰かが入札すると商品がなくなってしまうので、少々高くても買いたくなるという感じかな。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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