スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

高畠本2

やはり旧字体でいくべきだろうか。時間はかかるが、その方がよいのではなかろうか。

自分だけの本にするなら旧字体だし、他人にわたすなら新字体だなあ。

スポンサーサイト

高畠本

高畠素之の『自己を語る』を現代仮名遣いになおそうとしたところ、やはり踏ん切りのつかない事態に陥った。拗音とかカタカナは現代風に直してもいいと思うのだが、「寧ろ」とか、その手の表現をどうするかで迷ってしまう。思い切って変えようかと思いつつ、これを変えだしたらきりがないような気もするし、どうしたものだろうか。

文庫本にするには、ここなんてよさそうだな。


そういえばサイトの名前を変えようかな。いい名前がなかったので適当につけたのだけど、それでもいい名前がなかったので、なんとなくつづけて使っていた。こちらのブログとあわせて傳疑樓雜目とかにしたらいいだろうか。でも雜目はいただけないな。もう少し錬ってみよう。

漢文の教科書(補)

かつて『覚へ易い漢文重要四千単語』という本があったらしい。昭和11年の刊、著者は浅尾芳之助。

重要四千単語というからには、通常程度に必用な単語はその数倍あるということなのだろう。さすがに戦前の漢文はひと味違うな。実際問題、これだけでは漢文は読めないが、それでも四千単語というのはすごい。現在の英単語なみの多さだ。それに漢字といわずに「単語」というところがまたいい。

昨今の高校漢文(というか受験漢文)はどうでもいいから、こういうのでも復刻したらおもしろそうではある。ちなみに漢文を音でよもうが、訓読しようが、そんなことはどうでもいい。要するに一般的に漢文を読むにはこの程度の語彙力が必用だという目安として、こういう単語集があっても良さそうだというにすぎない。

もっともこの「覚へ易い」四千単語は、高等専門学校の入試によくでる単語を集めたらしいから、漢文読解のための単語集としては偏りがあると言わざるを得ない。昨日書いたように、高等専門学校の入学試験の出典には偏りがあるので、それだけではどうしても普通の漢籍を読む能力を養うことはできない。

まぁ日本人好みの漢文に多用される(というか試験で多用される)単語集とはいえ、それなりの言葉が集まっているようでもあるので、とりあえずこの四千単の訳文を現代風に変え、適当な例文を増補すれば、そこそこおもしろい本に成りそうな気もしないでもない。

なにせ漢文の単語集ときては、200語にも満たない受験漢文か、さもなくばいきなり辞典になってしまうから、その間の学習単語帳が欲しいような気がする。

漢文の教科書(3)

漢文の教科書といえば、戦前の教科書にはいわゆる日本漢文が多数収録されている。というか、日本人の漢文ばっかり載せているのもある(多いか少ないかは不明)。このあたりは現在の漢文の教科書との違いだといえる。が、まぁ戦前の教科書については私も調査不足が多いので、なんとも比較のしようがない。

ただ文検の試験には、四書、春秋左氏伝、史記、十八史略、唐宋八大家読本、古文真宝と漢詩、日本外史などがよく出ている。これを見るかぎりでは現在の教科書は戦前の流れを普通にうけついでいるようにも見える。このあたりはもう少し正確に分析してみないと分からない。

実際問題として教科書と試験が一致するわけでないことは、現在の漢文教科書と入試問題が一致しないのと同じといえる。昨日書いたように教科書には史記とか十八史略とか、あるいは論語とか孟子とかがやたらと載せられているが、大学入試で問われるのは主として唐宋以降の散文・小説類なのだから。

そういえば、さるルートによって中国の受験参考書を幾冊か入手したところ、そこに載せられている文章はほとんど近世のものだった。もちろん漢詩の位置づけは極めて大きいが、まぁ中国では未だに漢詩が必用だから、漢詩に力点があるのはいい。が、少し意外だったのは先秦の文献など目もくれず、新旧唐書や宋史の出典が多いことだった。

もっとも中国にしても受験参考書と教科書が一致するかどうかは不明なので、こちらも何ともいいがたい。そもそも日本の漢文においても受験参考書に載っているのはほとんど唐宋以降の文章(というか受験問題から抜粋しているのだから当たり前だけど)なのだから、中国の文言文の教科書を調べてみないことには分からない。

このあたりを正確に調べるには、もっと時間と金が必用なので、私にはできない話だ。まぁ日本の漢文教育についてはあってないようなものだから調べる必用はあるまいけども。


ちなみに教科書を見たついでに漢文の受験参考書も漁ってみたが、私の学生時代よりも圧倒的に数が少なく、しかも重厚なものがなくなっているような気がした。どれもこれも句法を丸暗記する式のものになっているように思う。


そうそう漢文の教科書といえば、高校で副読本が指定されているはずで、想像するにそれを中心に授業をしているように思われる。私のみたところでは教科書はそうとう立派なものだと思うが、あれを使って立派な授業をするのは大変だろうし、学生も求めていないだろうから、お手軽に副読本を使うのだろう。

この副読本の中味如何によっては漢文の授業の内容も変わってくるのだが、ご存じの通り、副読本は学校関係者以外には売っていないので調べることはできない。まぁそこまで必死に調べるものでもあるまい。

漢文の教科書(2)

今回から個別に見ていこうと思ったが、あまり個別にやり過ぎると問題が出そうなので、やはり全般的な話に終始しておく。また全ての教科書を見たわけではないので、回数などは省略する。

で、やはり多いのは論語、史記、十八史略、孟子、荀子、老子、荘子、韓非子、墨子あたりになる。もっとも孟子以下は性善説と性悪説、無為自然、二柄(臣下の越権行為を許さない逸話)、兼愛・非攻などがほとんどで、全体的に分量も決して多くない。論語は閲覧した全ての教科書に掲載されているが、おそらく文章が短いのと有名なのとがあわさってのことだろう。

その他、韓愈の師説や桃花源記、めずらしいところでは人虎伝、朋党論などが採られている。人虎伝はそれなりの分量であるが、多くの教科書に採用されているわけではなく、やはり全般的にこれらの収録紙数は多くない。

教科書の中でもっとも幅をきかせているのは史記と十八史略だった。十八史略は管鮑の交をはじめ、三国志ねたなど、多彩な逸話を扱っている。一方の史記は項羽と劉邦の話はもっとも多く、特に鴻門の会と四面楚歌が多い。もちろん管鮑の交などは、十八史略ではなく史記で採用している教科書も多い。考えてみれば私が高校時代に使っていた教科書にも、管鮑の交と廉頗藺相如列伝、鴻門の会、四面楚歌などは載っていたような気がする(安井息軒の論語の解説がのっていたことだけは覚えている)。

教科書を通覧して気づくのは、古代に偏りが大きいことと、史書関係にかなりの頁が割かれているということだと思われる。これは(かつての)日本人の漢文好みの傾向にあわせたものかも知れないが、戦前から似たようなものが試験でだされていたことに鑑みると、これが日本人の思う漢文だったのかもしれない。

私のような人間からすると、史記のような泥臭いはなしはいらないから、王侯貴族の活躍を描いた美文でしられる漢書をこそ読むべきだし、諸子百家のような注釈がなければ読めない文献ではなく、宋代とか清代の文献を載せるべきだと思う。あるいは思い切って経学の文章でも載せたらどうかと思うが、これは教師が教えられないだろうから、載せる必用はあるまい。

まぁ何の為に漢文があるのか、という基本的なところがぐらついているわけだから、教科書の方針が一定しないのも無理はない。いちおう文部省の指導要領には「中国など外国の文化との関係について理解を深めるのに役立つこと」とあるが、順位はかなり低く、漢文が決して中国の文化を理解するためのものでないことは明らかだから、現状のような日本人好みの漢文が多数とられていても、しかたないといえばしかたがない。

ちなみに私がもっとも気に入った教科書は、筑摩のものですな。これでも不足を感じるくらいだが、実にいいセンスをしている。すばらしい。


高等学校学習指導要領(国語)
筑摩書房
第一学習社
教育出版
東京書籍
三省堂
大修館
明治書院
数研出版
右文書院
桐原書店


東京書籍の教科書は悪くないと思うが、会員にならないと詳細がわからない。しかも会員には学校の教師とその関係者しかなれない。あと調べるには調べたが個人的に興味を持てない出版社のリンクは省いた。

漢文の教科書(1)

教科書というのは一般人でも購入できるらしい、ということで、漢文の教科書を幾冊か購入してみた。

私の高校時代からあまりに時間がたちすぎて、当時のことは全く覚えていない。戦前派でない私は、漢文は国語という科目に入っていたと記憶していたので、国語の教科書を調べてみたところ、なるほどよく分からないのがたくさんある。現在(当時は知らない。そして来年変わる)の国語は:

国語表現
国語総合
現代文
古典
古典講読

の5つに分かれているらしい。

「国語表現」というのは、日本語の表現方法に特化したものらしく、古文とか漢文とかは入っていない。「国語総合」は1セットに現代文と古典(古文と漢文)が入っている。中には現代文と古典に分けられたものもある。高校の1年~2年につかうものらしい。「現代文」はその名の通り現代文。「古典」は古文と漢文のことで、両方とも収録した教科書もあれば、古文編と漢文編に分けたものもある。「古典講読」の位置づけはよくわからない。「古典」と同じようなもののように思うが、やや長文のものが収められているような気もする。

ということで、漢文は国語総合、古典、古典講読の3つに入っている。このなか国語総合と古典講読には、一部の例外を除き、あまり目を見張るものがない。国語総合は1冊の本に現代文と古典が入っているのだから、分量的に限界があるからだろう。逆に言えば、国語総合でも現代文と古典が分けられているものは、重厚な内容であるものが多い。一方の古典講読は、本来であれば本格的な漢文が収録されていそうなものだが、遺憾なことに古文が大半を占めており、漢文に見るべきものが少ない。史記、十八史略がほとんどで、せいぜい唐宋の随筆が収録されているにすぎない。

なお漢文の中でもジャンル分けはあるらしい。細部は教科書によって異なるが、大きく見ると、文章(逸話、散文など)、史伝、漢詩、思想、小説くらいが目につく。文章は、小説や思想と区別が難しいものの、諸子百家の文章ではなく、且つ杜子春などの小説でもなく、論述関係の文章や史書とまでは言えない史的な読み物が収録されている。史伝は史記と十八史略がほとんどを占める。漢詩は言うまでもなく五言絶句や七言律詩のもので、長めのものであれば長恨歌が収録されている。思想は論語、孟子、老子、荘子、韓非子、列子がほとんど。小説は杜子春的なもの。文章が短い所為か、論語は必ずといっていいほど収録されている。

ということで、全般的に漢文の教科書は以上のような布陣になっている。遺憾ながら全ての教科書に目を通したわけではないので、完全な比較は出来ないが、次回からは手元にあるものを中心に個別に見ていこう(まぁ見ていかないかもしれないけど)。

風邪

頭痛いし熱っぽいのは何だろうと思っていたら、同僚から「風邪じゃないの?」といわれて、はじめて風邪だったことに気づいた。明日も仕事だから今日は早く寝よう。

両子張

余計なお世話だと思うが、いちおう書いておくと:

漢代には三つの系統の論語があったという。一は魯の地方で広まっていた論語(魯論)、一は斉の地方で広まっていた論語(斉論)、一は孔子の旧宅を破壊したときに壁から出てきたという古文の論語(古論)。古論がもっとも胡散臭いのはいうまでもなく、これには例の如く胡散臭い孔安国の訓説があるのみだったらしい。

現行本の論語の祖型は、上の魯論をベースに斉論と古論を参考にした鄭玄のテキストであるとされる(鄭玄の前に流行していたらしい張禹のテキストは魯論をベースに斉論を混ぜたものだったという)。その鄭玄のテキストをベースにして、鄭玄以後の学説を参照して作られたのが何晏の論語集解で、これにさらに注を施したのが、いわゆる論語注疏になる。

では三つの系統の論語にはどのような異同があったのか。三種とも現存しないのではっきり分からないが、ある学説に拠れば、以下のような関係にあるという:

魯論:二十篇。
  現行本に近いと考えられる。
斉論:二十二篇。
  魯論の二十篇以外に問王・知道という二篇があったらしい。
  下の古論にもこの二篇はなかったという。
  章句も魯論と大きくことなっていたらしい。
古論:二十一篇。
  魯論の二十篇に子張篇(魯論の子張篇とは別のもの)があったらしい。
  二つの子張篇を「両子張」という。
  章句は魯論・斉論と異なっていたらしい。

ちなみに章句というのは、章と句のことで、句読点のない本文を章ごとに分け、各章の句を定めることをいう。章句が異なるということは、各篇内部の章の数や句の判断が異なるという意味で、換言すれば現行本と大きく異なる解釈がなされていた(可能性がある)ということになる。もちろん現行本の章句と已に佚した章句とを比べた場合、已に佚した章句があまりに稚拙で見るに堪えないものである可能性は充分ある。

さて斉論にのみあったという問王・知道の二篇(正確に言うと「問王知道」の二篇としか分からず、「問」と「王知道」、「問王知」「道」と区分するのかもしれない)は、どのようなものか判然としない。ただ魯にまつわる魯論と古論に存在しないものであれば、斉において附加されたものであると推測される。

次に古論の両子張だが、これはさほど驚くべきものではない。わずか二十篇(二十一篇)程度の書物の篇名が重複するということ自体、古論編修の拙劣を感じさせるが、それはともかく、古論にのみ存在するという子張篇は、現行本・堯曰篇(第」二十篇)の後半を引きちぎって一篇にあてたものであるという。

現行本の堯曰篇は以下のようになっている(面倒なのでデータは中央研究院のを引っ張ってきただけ……だったが、あまりに見苦しいので二三の漢字を日本語用になおした)。

堯曰。咨爾舜。天之?數在爾躬。允執其中。四海困窮。天祿永終。舜亦以命禹。曰。予小子履。敢用玄牡。敢昭告于皇皇后帝。有罪不敢赦。帝臣不蔽。簡在帝心。朕躬有罪。無以萬方。萬方有罪。罪在朕躬。周有大賚。善人是富。雖有周親。不如仁人。百姓有過。在予一人。謹權量。審法度。脩廢官。四方之政行焉。興滅國。繼絶世。舉逸民。天下之民歸心焉。所重民。食。喪。祭。寛則得衆。信則民任焉。敏則有功。公則説。子張問於孔子曰。何如斯可以從政矣。子曰。尊五美。屏四惡。斯可以從政矣。子張曰。何謂五美。子曰。君子惠而不費。勞而不怨。欲而不貪。泰而不驕。威而不猛。子張曰。何謂惠而不費。子曰。因民之所利而利之。斯不亦惠而不費乎。擇可勞而勞之。又誰怨。欲仁而得仁。又焉貪。君子無衆寡。無小大。無敢慢。斯不亦泰而不驕乎。君子正其衣冠。尊其瞻視。儼然人望而畏之。斯不亦威而不猛乎。子張曰。何謂四惡。子曰。不教而殺。謂之虐。不戒視成。謂之暴。慢令致期謂之賊。猶之與人也。出納之吝。謂之有司。孔子曰。不知命。無以為君子也。不知禮。無以立也。不知言。無以知人也。



古論は上文中頃の「子張問於孔子」以下を分断して、「子張篇」に充てたという。

だから孔子の予言を云々するなら斉論の方が妥当だろうが、魯論と古論の関係からして、斉論の二篇はどこかの御吹聴家が勝手にくっつけたと考えるのが普通だと思われる。まぁ孔子の真意を知っている弟子が斉でその真説を継承し、論語に二篇くっつけたという可能性もないではない。問王・知道という篇名からして尋常ならざるものを感じさせる。

権衡と属辞とどっちがいいか

いろいろあって春秋権衡ではなく春秋属辞の方が適切ではないかと思えるようになってきた。春秋権衡はもちろんおもしろいほんだが、あれは基本的な解法を説明することなく、断定的に自分の意見を書いているだけだから、春秋学の基本的な解法手順を知らない人が読むと意味がわからない。一方の春秋属辞もきわめて専門的な本ではあるが、こちらは基本的なところから論証?を進めているので、なんとなく春秋学の研究方法が分かる。

春秋属辞は春秋権衡とは比べものにならないほど大部の書物で、春秋権衡と同じくらいややこしい内容だから、その全てを説明するのは難しい。が、春秋学はこういう学問ですよというのを説明するには適切のような気がする。呂大圭の春秋学はあくまでも春秋学がめざすところを論理的に抽象的に論じたもので、それはそれとして価値はあるが、具体的な手順が簡略に書かれて過ぎていて分かりにくい。その点、春秋属辞はどこまでも具体的でわかりやすい。

迷うことが多いが、迷う時間もない。


そうそう世の中には春秋三伝を基礎にした「春秋学」学に価値がある、つまりようやく春秋三伝を基礎にした研究にまで「進んできた」のだから、そういう研究をすべきだという議論があるらしい。春秋学のような、あるいは春秋三伝のような、本質的にまちがった研究をもってきて「進んできた」とは滑稽なはなしだ。春秋学にもともと進むべきものなどなく、あるのはただ経文だけだ。歴史的に思想を解析するのはもっとも無意味だといえる。

やはり時間がかかる

昨日は時間がなければ旧仮名、旧漢字でいくといったが、異体字に直す手間がかかりすぎて、これなら新仮名遣い・新漢字の方がはやい。ということで、やはり新漢字、新仮名遣いでいこう。漢字はあまりひらがなに変えない方針で、読みにくいところにいはふりがなを振るということで。

いろいろ

人間、取り返しのつく間違いと取り返しのつかない間違いがある。


この前、ある本を読んだ。いや、ぺらぺらめくったところ、非常に憤慨させられることが書いてあった。ひさしぶりにふつふつと闘志が湧いてきた。もうそんな火は消え失せたと思っていたが、そうでもなかったらしい。闘志が湧けば湧いたで、こんなところで働いてないで死を覚悟の研究生活に戻らなければならないような気もしてきた。どうしたものか。


春秋権衡ははたして巻二まで訳し終えられるだろうか。非常にあやしくなってきた。まぁ巻一は草稿があるので、あれを改訂すれば何とかなるとは思うんだが。あとは解説めいたものだろうか。

それはそうと高畠さんの論文・エッセーを本(同人誌的なのね)にしようかと考えていくつかサイトをめぐってみたところ、なるほど小数部の文庫本をつくってくれるところもあるようだ。まぁ標準は50冊以上という感じではあるが、ところによっては1部からでも可能ならしい。部数が少ないと割高にはなるが、50冊も作っても無意味なので、とりあえず10冊単位で考えてみよう。

今回は高畠さんのエッセーの中でももっとも読みやすい(と勝手に思っている)『自己を語る』を冊子にしようと思っているのだが、はたして漢字と仮名をどうしたものか。高畠さんの本を読むような人間が旧仮名・旧漢字を解せないとはとても思えず、しかも今回は大昔のプリパブとちがって自分でデータを作るので、かなりの程度旧仮名遣い・旧漢字を再現できる。その点はOpenFontは便利だ。

が、私としても一応は高畠さんの本を普及させたいと考えている手前、やはり新仮名遣い・新漢字になおし、かつ一部の漢字をひらがなに(あるいはひらがなを漢字に)改め、部分的に注でもつけた方がよいような気もしている。まぁ10部程度しか作らない奴が普及もへったくれないのだが、気持ちの問題でどうするか揺れていたりする。時間がなければ旧漢字・旧仮名遣いで、余裕があれば新漢字・新仮名遣いで、ということになりそうだ。

ちなみに旧漢字・新仮名遣い、あるいは旧仮名遣い・新漢字の組み合わせは気持ち悪いので不可。

......しかし「言う」が「言ふ」だからといって特段読みにくいとは思わないが、世の中には「言ふ」と書いてあるだけで読む気が失せる人もいるらしい。日本語の中に横文字があるのを見ただけで嫌になる私がいうのも変な話だが、人間はそれぞれだな。


よし、寝よう。終わったことをくよくよしてもしかたない。

特になし

一ヶ月以上放置していたのか。気づかなかった。広告を消す為に少し書いておこう。

ちなみにキルミーベイベーの第四巻とか森田さんは無口の第五巻とかは購入した。で、キルミーベイベーのアニメは第一話で断念した。やはり原作から入ると合う合わないが出てしまっていけないな。でもキャラデザはよかったよ。

> データ

そういうのは楽する人が得するだけですよ。

モリサワとか小塚だけでなく、ヒラギノもProNに対応していると聞いていたが、明朝とゴシックの一部だけなんだろうか。まぁそれはモリサワと小塚も同じだけど、ヒラギノはw3とw6だけが対応しているように見えるが、実際はどうなんだろう。どうでもいいけどフォントは高いな。

清盛たちをぶっ潰せ!‐純丘曜彰 教授博士

ご自由に発言してもらったらいいが、清盛好きとしてはあまりおもしろくない話ではある。私は秀吉の方がよほどきらいだ。なぜって?平民からのし上がって後継者の選定に失敗したからだよ。もっとも清盛がこの人のいうように権力ほしさにしょっぼいことしたなら、なおのこと清盛は人間の欲望に忠実で好感が持てる。いちばんいらつくのは歴史の進歩とか言ってる連中だな。人間なんて大昔からかわりゃしねーよ。

さて、下品な言葉遣いは止めるとして、久しぶりに哲学関係の本を読んだ(現象学とかそういうの)。こういう役に立たないものは読んでいて楽しい。前にも書いたような気がするが、読んでいちばんつまらないのは、実益に関わる本だ。なるほど!だから政治や経済理論の本は読んでもおもしろいのかもしれない。あと、学者の本とか。

高畠素之の復刻本でも同人誌的に(?)復刻したいところだが、そうなると表紙の耐久度が問題になる。ちょっとした厚紙だと数回手にしただけでぼろぼろになってしまうから、カバー的なものをつけないとだめなんだろう。ちょっとしたことの割にけっこう手間とお金がかかるものだ。

カレンダー
01 | 2012/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 - - -
プロフィール

awatan

Author:awatan
HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

自営サイト
最近の記事
カテゴリー
リンク集
全記事表示

全ての記事を表示する

FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。