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進展

哲学の本とか読んでいると、読書会を開いてみんなで勉強すれば為になる、というようなことが書いてある。それはそうだと思うが、みんなで春秋を読もうとかいって集まる人がいるとは思えない。やはり弱小勢力のものを学ぶには一人で頑張るしかないのだろう。いや、春秋に限らず、礼でも書でも。論語は除く。

とりあえず春秋経文の一次整理は終わった。あとは経文の異同を調べることになるのだが、研究とかやり出すと途端に時間がなくなった。まあいつも仕事からかえってだらだらするだけだったから、少しはマシなのかもしれない。だらあだらすると時間だけがあっというまに過ぎてしまう。

経文の異同は最善を期しがたいので、とりあえず清代の成果をつかって大まかなところだけ記すことにしよう。しかしあえて穀梁伝の経文を主にもってくるなんてのは、我ながらあほうとしか言いようがない。私自身ですら使いにくいのだから、他人はまず使うまい。しかしこれも宗旨とするところのことなのでしかたあるまい。

なんだかんだで鍾文蒸の補注の第2版を購入した。痛い出費になったが、これで利用が便利になった。1冊の本はたしかに便利なのだが、太すぎるとそれも考えものだ。そういう意味では民国時代に春秋三伝というものが出たのだが、これは大変な優れものだ。

春秋三伝には、春秋三伝と宋代以降の主要な学説が付されており、かつ名號歸一圖とか経典釈文とか年表とかもくっついている。他にも便利な資料がついているので、これ1冊あるだけで春秋をずいぶん深く学べる。惜しむらくは、ぺらぺらの粗悪な紙に、粗雑な作りなところだろうか。こういうコンパクトなものの再生を願う(たしかこれの校点本も2冊本で出たはず)。

そんなところ

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そろそろ

最近になってようやくやる気が出てきた。やはり私は憎悪とか憤激とかそういうのがないとやる気が出ないようだ。公平中立に考えて、これが良いことだとはとても思えない。しかし何かに進むにはそれなりの感情が必要だろう。私の場合はマイナスの感情が前に進ませる気をおこさせるのだからしかたあるまい。

それはともかく、今日は学友と古本を見に出かけた。はからずも春秋釈例の影印本を入手できたのでよしとしよう。影印本なので外れはあるまいし、1000円もしなかったのでよく調べずに買って帰ったが、どうやら古經解彙函本だったらしい。それと漢文叢書の説苑と新序(+晏子春秋)もついでに購入した。これも1000円ていどだったので、これくらいなら買ってもよかろう。

そうそう中国経学の第九輯を入手した。

研究をするにしても発表(というか投稿)する場所がないのは確かだ。年を追うごとに学界の動向が気に入らなくなっているわけだから、ふつうの大きい学会に入ろうとか入りたいとかいう気持ちはあまりないが、かといって規模の小さい学会は大学の研究室のものだったりするから部外者は入りにくい(というか入るのも気が引ける)。地方のものは案外(?)年会費が高いのでちょっと難しいかな。

最近の雑感

昨日も書いたが、とりあえず春秋権衡の巻2は訳了した。巻1にもよくない訳があるので、それも含めて推敲を進めることになった。意味のよく分からない部分の補正はもちろん、杜預で統一した「杜預」と「杜氏」の区別も原文にしたがってもどすことにした。ただし「杜」は明らかに省文の場合は「杜氏」のままとした。おかげで二度手間になったが、当時としては「杜預」に統一する方が読みやすかろうと思ってしたことなので、いちいち過去の私にケチをつけるに及ぶまい。

ただ権衡の推敲は時間がかかるので、まとまって時間がとれないときは、春秋経の校正と増註につとめることにした。おおむかし(メモには2008年とあった)、穀梁伝の経文を抜き出し、それに公羊伝と左氏伝との経文の異同をつけたものを作ったことがあった。あのときの経文はよく出回っている十三経注疏(阮元の校勘記がついた芸文印から出版されたあれ)をテキストにしたように思う。ただあのときは呂祖謙の集解の注記と春秋経伝引得を使って異同を記し、最終的に公羊伝と左氏伝の経文とを比較してさらに異同を記した記憶がある。

まぁ呂祖謙の集解とか引得とかはあまり価値がないので(いちおう宋代の文字異同を調べる意味があったのと、手ごろな版本がなかったので引得をつかった)、今回は経文の組版が完成次第、割注形式で別の本を用いて文字異同を記すことにした。ただ今回も手元に手ごろなものがないので、おそらく異文箋や通志堂本の経典釈文をつかって異同を記す程度に止まるだろう。本当は石経や経典釈文・三伝の善本やを使えればよかったのだろうが、ないものはしかたあるまい。

経文の体裁はもう少し後で考えるが、とりあえず漢志にあわせて11巻にする予定ではある。ただ熹平石経のように「・」で全部をつなげるとあまりにも使いにくいので、記事ごとに改行を入れようとは思っている(こちらの記事に石経断片の写真が載っている)。もっとも干支をまたいで記事が連続する場合、改行するか連続させるかという面倒な問題もある。

また改行とは別に、句読点をどうするかという問題も残る。基本的に句読点は加えたくないが、なければないで読みにくいところもある。そこでとりあえずは必要最小限度の句読点を加えてデータを作り、不要だと思うようであれば、そこから句読点を省く方針で進めることにした。句読点を附加するのは面倒だが、省くのにはそれほど労力はかからない。一括して置換で削除すればいい。

なお経文とあって小塚明朝のPr6Nでも未登録の漢字がやたらとあったので、花園明朝をつかわせてもらった。さすがにABともに使うと表示できない文字はなかった(一部に表示のしかたが分からないのはあったが、登録されていないわけではなかった)。しかし春秋でこれだけ未登録の漢字があるとは思わなかった。これが尚書や毛詩、儀礼だったら大変なことになっていただろう。

以上、春秋経の話は終わり。


さて、ねんどろいどのあやせを買った。

amazonのリンクでもはろうかと思ったが、なぜかしらんがねんどろいどが検索できないので止め。いちおう公式サイトのリンク。なかなかシンプルでいいですな。

ガラにもなく写真をとってみた。さすがは写真などほとんど撮らないだけのことはあって、素人感まるだしだな。

あやせ

現実にはありえないシーンだけど、まぁいいだろう。


シャナも終わってしまった。えんじゃないのかな。頑張った方じゃないかな。


とりあえずこんなものかな......と思ったが、鍾文蒸の穀梁補注の校点本(中華書局の十三経清人注疏)、やはり再版は2冊本になってたんだな。むかし私がかったときは粗悪な紙の1冊本だったのだが。あれはかなり読み間違いがあった。再版はそのあたりを校正したのだろうか?はやいところ陳立の公羊義疏が出ることを望む。経解本は字が小さくて読みにくい。

とりあえず

出張があったりなんなりで思わず時間を取られた。連絡その他は明日する。ちなみに春秋権衡の巻2は訳了した。校正に入る予定だったが、時間がとれなかったので、とりあえず春秋経の補正を進めている。いずれにせよ細かいことは明日にしよう。明日は休日だったりする。

あと1丁

今日は休暇を利用して一日中春秋権衡の訳にいそしんだ。というわけでもないが、二時頃から夕食を除いて十時半までやっていたので、それなりに時間を費やしたはずだ。おかげさまであと一丁くらいで巻二が終わることになった。あすも継続できれば、なんとか終われるだろう。

もっとも礼制にかかわる部分が二カ所ほど不明のままになっている。そのほかへんてこりんな訳もたくさんあるだろうから、いちど訳し終われば、言葉遣いを統一し(杜預と杜氏と杜とを区別するとか)、注をつけ直し、補注を増補し、最後に礼制のいやなところに着手することになるだろう。

とりあえず目が痛くなったので今日はこれで終わり。

てててて

一生懸命になれるものがあるというのはすばらしいことだ、と思った。

ひよわーるど(2)(バンブーコミックス)ひよわーるど(2)(バンブーコミックス)
(2012/03/17)
橘 紫夕

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ひよわーるどの2巻を買った。あいかわらずのだめっぷりがいい。発売日に買いにいったところ、棚にもなく平積みにもされてなかったので、かなり探したあげく店員さんに聞いたところ、「ちょっとおまちください」と笑顔で言われ、そのあと10冊ばかりを持ってきてそのうちの1冊をわたしてくれた。もう夜だったんだけど、まだ並べていなかったらしい......

シャナもあと1回で終わりか。原作未読につきよく分からないところもあったが、なんとなく分かったのでこれはこれでよい。

春秋権衡は何とかあと2日で巻2を終わらせたいところだが、現実としてはかなり厳しい。ちなみに巻2はサイトで公開する気はない。誰も見ないだろうけど、いちおう断りを入れておく。

ひさしぶりの権衡

久しぶりに劉敞の『春秋権衡』を訳したら、あまりに久しぶりすぎて頭がまわらなかった。結局、5時間ちかくかけて、1丁程度しか進まなかった。劉敞の議論は礼の話が多いから、いちいちその根拠を調べるのに手間取ったというに過ぎないのだけども。いずれにせよ頭が回転してくれなかったことはたしかだ。

しかし劉敞の礼説は典拠があるのか類推なのか分かりにくい。劉敞のみならず当時の礼説というのは、我々が考えているような文献的根拠をもとに論ずるものではなく、もっと別の手法から導き出されたものだけに、その根拠をつきつめるのは労力がかかる。ときに根拠を導き出すための片鱗すら残っていない場合があって大いに困る。

いずれにせよ巻2はあと4丁半になった。明日は出勤だが月曜日は休みなので、三連休の間にもう少し進めたい。巻2で隠公と桓公が終わりだから、キリとしては悪くあるまい。それに巻7の左伝総論を足せば、ほぼ『春秋権衡』の左伝の部の概要は分かるはずだ。できればこれに公羊伝の総論をおこなった巻8を載せることができればいいのだが。

先月の末に巻1の訳文の点検を行ったところ、まずいところが山のように見つかった。単純に文章(訳文づくり)が下手だとか、原文の文意を正確に捉えられていないとか、いろいろあるにはあるのだが、それとは別に強いて漢語を別の表現に置き換えようとして逆にこてこてした日本語になっているところが多い。やはり私意が入ると宜しくないと見える。

雑記

明日は休みだ。ゆっくり寝る。

中国の古文も細かくやりだすと際限がない。まぁもともと学がないので、細かくやった方がいいのだろう。

携帯からだと書きにくい。後は帰ってから書くか。

もろもろ

今更ながら濱口富士雄氏の『漢文語法の基礎』を購入した。基本的に『漢辞海』の解説(同名の「漢文語法の基礎」)と同内容の改訂版らしい。文語文の研究もいろいろあるだろうが、漢辞海の解説には世話になったので、改めてこの本を読んで勉強しなおうのもいいような気になってきた。

文語文というと、なかなか語の違いが分からないのは、一つには作文がないからだろう。人の選んだ言葉を使うだけで、自分で漢字を選ぶ必用がないから、どうしても類似の漢字どうしの違いに気づきにくくなると思われる。現代の中国語とも違うわけだし、なかなか厄介なことだ。


高畠本は文庫本サイズで217頁になった。これに目次やらなにやらが付くので、220頁+αになると思われる。これは刷っても5部が限度だろうな。本を作るのは金がかかる。


※濱口氏の著書は販売元で直接買った。主人の動き方から察するに、まだ在庫はあるように感じたが、断言はしかねる。

いろいろ

中国学の新局面とかいう雑誌が送られてきた。なんでも日本中国学会第一回若手シンポジウム論文集らしい。どうせ掲載論文がないからというので、「若手」救済策のつもりでこういう論文集を出しているのだろう。しかし若手の救済というからにはポストがなければならず、それが減っている状態で論文の業績だけいくらつみあげても無意味もいいところだ。

とはいえ、若手を救うためにポストを増やすべきかというと、これも大いに問題で、そもそも中国学(というか中国古典で遊んでいる学問。本人の主観は別として)は存在しなくてもさほど困らないし、現にある程度は存在するのだから、その程度で充分といえば充分。別段これ以上の拡張は必用あるまい。減りすぎてから増やしてもかまうまい。

だから若手を救済するつもりがあるなら、学部生に向かっては大学院進学を諦めさせ、日の浅い大学院生にはすぐにも研究を止めるよう説得し、日の長い大学院生には諦めて別の人生を模索するよう説得すべきだろう。もちろん最終的には学生個人の問題だから、他人の意向はどうでもいいのだが、救済したいと思ってるなら、無駄に期待を持たせるようなことはやめるべきだというに止まる。

清貧に甘んじた江戸時代の学者もいるだろうし、それはそれで尊敬はするが、当時にあってほとんど唯一の先進思想を手に入れようとした人と、現在にあって後ろ向きの学問に趣味で立ち向かおうというのでは、少し熱意の入りようが違う気もする。

まぁ江戸時代の人間もほとんどマニアとして儒学の研究をしていたのかもしれないし、人間にとって、他人のためとか世のためとかよりも、自分の享楽のためにすることが一番力が入るのかもしれない。だとすれば救済する必用もなく、放っておけばいいことになる。「若手」は「若手」で勝手にやるだろうから。


知らぬまに中国経学の第9輯が出版されていた。今回も日本の論文が掲載されているが、これは最近のものでないだけに読む価値がある。


漢文学習必携

漢文学習必携(京都書房)というのが売っていた。句法の説明や重要漢字(虚辞のこと)といったものを解説した副読本のような本だが、副読本は市販していないことが多いので、もしかしたら教科書・参考書の分類上では、少し違う本なのかも知れない。まぁそれはどうでもいい。いずれにせよ副読本のようなものだった。

この本は兵庫県の高等学校教育委員会が作ったもので、内容的にも高校漢文に必用なものがコンパクトに収まっているように感じられる。たぶん受験漢文にも役立つだろう。もちろん古典としての中国古文の読解にはほとんど役に立たないが、これは目的が違うので仕方ないところだと思われる。。

で、総じて内容はいいと思うのだが、1つ気になるところがあった。それは「所」(~する所の)の解説で、この本によると、「所の下の同士が他動詞の場合」は、「所によって導かれる名詞句は、その他動詞の目的語を示す」もので、自動詞の場合は、「自動詞の補語」になるらしい。

この解説の当否はともかくとして、自動詞とか他動詞とかいうのは、どこで判断するのだろうか?もし「所A」とあった場合、そもそもAが動詞であることをどうやって判断するのだろう。よしんばAが動詞であったにせよ、それが自動詞であるか他動詞であるかは、Aだけでは分からない。もし分かる人がいるとすれば、それは文法的機能を理解する前に「所A」の意味が分かっている人に限られるのではないだろうか。だとすれば「所A」の解説は釈迦に説法になる。

この本の意図するところを推し量れば、おそらく「送りがな」の状態で判断するということなのだろう。送りがながあれば、それが動詞であるか否かは判断できるし、自動詞と他動詞の区別も可能なことも多いだろう。しかしそれはあくまでも送りがながあればということであり、漢文を読んだことにはならない。やはり送りがなを利用せず、所の用法を説明しなければならなかったのではないかと思いもする。高校漢文では送りがなはあるものなのかもしれないが、それに準拠しているらしい受験漢文で、送りがななしの問題がでるらしいから(立ち読みした参考書の問題にそういうのがあった)、やはり送りがなありきの説明はよろしくあるまい。

その他、これと同じような印象は返読文字(下から返って読む漢字)にも感じた。例えば「可」は返読文字ということになっているが、これは「すれば可なり」というように、下から返ることのない場合もある。返るのは「べし」の意味の場合である。だとすれば「可」が返読文字なのではなく、「べし(可)」が返読文字でなければならない。

......と、いろいろ書いてみたが、どのみち漢文は消えるのだから、どうでもいいといえばどうでもいいことであった。まぁ全体的には綺麗にまとまった本だと思うので、ふつうに使うには良い本だろう。

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Author:awatan
HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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