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宋初の武将

宋代初期の政治家、というか武将、というか軍人を調べようと思って、とりあえず『東都事略』や『宋史』の列伝とか、『宋人伝記資料索引』とか、その手のものをみたが、逸話の類が思ったよりも少ない。で、宋人の逸話には『宋人軼事彙編』という便利本があるので、それを調べてみても、ほとんどない。というか曹彬以降の武官には逸話が残っているが、それ以前の符彦卿とか王全斌とか、そういう頼もしい武将(民からじゃんじゃん略奪しまくる人々)の項目がそもそもない。

そういえば北宋の資料を読んでいても、曹彬の逸話は多々目にするが、五代から宋代初期に活躍した人々の逸話はあまりみない気がする。気にしていなかったから、というのもあるだろうが。やはり五代以来の武将と宋代の士大夫との間には直接的なつながりがないので、士大夫にしてみれば、五代以来の武将の伝記・逸話なんぞ書き残してやる必要はないということなのだろうか。もう少し調べてみないと何ともいえないけども。

とはいえ、正式な歴史書となると、太祖とともに活躍した創業の功臣の伝記を立てないわけにもいかず、その意味では上記の符彦卿たちも伝記は立てられているので、いかに身内びいきで悪辣な士大夫といえども、無視はできなかったのだろう。ほかの時代なんて正史に伝がなければ、あらましすらわからないくらいなんだから、それと比べれば史料が少ないわけでもなんでもないのかもしれないな。

宋は周の後を比較的うまい感じで継承したから、創業の功臣というのがわかりにくい。いないのかもしれないし、いたのだけど資料的に過小評価されているのかもしれないし、そのあたりも含めて少し調べてみよう。


おおむかし、高校生の時分、五代十国を覚えたときは、五代と十国の違いが今ひとつわからず(正統とかの区分も実感としてよくわからなかったのだろう)、その後も五代と十国と同じくらいの強さなんだろうかとか思っていたが、後になると、なるほど五代は五代でしかないのだろうな。

もちろん一度の戦争は一国の戦力が直接反映されるわけではないし、五代みたいな内乱状態だと、一度負けると国が瓦解する可能性もあるので、もしかしたら南唐が北の一部くらいは奪取できたのかもしれないけど、燕州や雲州、河北や太原の騎馬兵を南唐が防げるとも思えず、南から北を攻め落とすのは、大砲とか鉄砲が出てきたり、よほど優れた軍事的な能力でもないと、相当難しかろう。


中国のサイトで符彦卿を調べると、戦い方についていろいろ説明があった。さすがは本場だな。勉強になるなあ。いや、勉強しなくてもいいことなんだけどね。

宋史』のwikiをみると、妙な感じで記事のある人とない人が併存している。各種の分野で有名な人に項目が立っているのはわかるが、必ずしも著名とは思われない人に項目が立っていて、結構著名な人に項目がない。選別の仕方がよくわからないな。まぁ、どーでもいいけど。


ATOK2008はさすがにwindows10でつかえなかった。いや、大半のところでは問題なく起動するが、デスクトップからの検索や付箋でIMEをオンにすると、機能が停止したり、IEMがオンにならなかったりするようだ。8年も前のものだから、あたりまえだな。

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どーでもいいこと

パソコンの再設定をしたら思いの外時間かかった。うーむ、セキュリティーソフトを入れると回線が遮断されてしまう。Windows10と相性が悪いのだろうか?調べないといけないが、今日はつかれたので明日にしよう。いや、明日もつかれる予定なので、ちと時間かかるかもしれないな。それにしてもセキュリティーソフトは必要悪だなぁ。

権衡をつづけようと思ったが、少し飽きてきたので(というか、継続してできなくなってきたので、頭がついて行かなくなってきた)、宋代の初期の伝記でも読むかな。符彦卿とか。わりと北宋中盤以降の資料を読む機会が多かったので、初期の連中にどんな伝記資料が残っているのか、すぐ頭に出てこない。彼らが建国の功臣にふさわしく暴力的で金銭と名誉に貪欲で、かつ弱者に冷たいことは記憶にあるのだが............

三国志13は荒れてるな......三国志は小学生のときに興味をもって吉川英治の小説をよく読んだし、ゲームもやった記憶はあるが、時間が経つとともになんとなく遠ざかってしまった。が、一回りしたのか、なんとなくまた三国志もありかなと思うようになってきた。祖先帰りなのだろうか?

三国志ゲームの人気の理由を調べてみると、他の時代も面白いのがあるとの意見がちらほらあるな。それは間違いではないと思うし、単に戦争であれば、戦国時代でも、魏晉南北朝でも、唐末五代でも、明末清初でも、それなりのおもしろさはあると思うが、はやらないだろうなぁ。個人的には後周の世宗か真宗あたりで契丹と戦ってみたいけど、世間はそうは思わないだろう。

三国志の時代は100年あまりで、2~3代にわたり、個人の人生では終わらないが、さりとて5~6世代にもわたることもなく、ちょうどよい時間に思える。八王の乱から隋までとなると300年くらいあって、とても系統的に人物中心には扱えないし、五代は短かすぎて1代で終わりかねないし。戦国時代は著名な幾人かを除いたら、無名の兵士と将軍の戦いになるので、いわゆる三国志のゲームのような人間中心の英雄譚的なものにはならないだろうし。

王時槐のことなど

先週はいろいろあって疲れた。おかげで権衡の予備もなくなってしまった。予想外に時間をくうときがあるので、一日一条もばかにできたものではないな。まぁ焦るものではないし、そもそも巻五以降はまとめるかどうかもわかったものではない。どうでもいいといえばどうでもいい。

そういえば王時槐の生涯を観てみると、40歳くらいで引退して思索に耽っていたそうだ。で、はじめそれを読んだとき、「だから陽明学者はおもしろくないんだよ、優秀なんだからもっと世の中でがんばれよ」と思ったのだが、さらに考えてみて、「40以降に思索に耽るような生活をすると、世の中との関係が絶たれてしまい*1、視野狭窄に陥ってひどく歪んだ思索の結果だけが出来上がるのではあるまいか、やはり価値ね~な」と思ったが、さらに思い直して、「いや、現在でもリタイヤした大学の学者が、学会との関係をたって自由に思索をはじめると、意味不明なことを主張し始めることがあるので、王時槐の場合も人間通有のものなのだろうか、だとすれば知識人の病弊のサンプルとして調べる価値くらいあるかもしれない」と思うようになり、最終的に「とはいえ、40をこえて孤独に思索を続けて、しかもそれが(当時の一部の人には)すぐれた成果だったとすれば、やはり彼は歪んだ結論に行き着く並の思索家ではなく、人間精神の機微を見抜く優れた思索家だったのだろうか」という肯定的な評価に進み、「まぁ単なる学者では死んでから尊敬されないわな、すぐれていて当たり前だわな、読む価値もあるのかもしれないな」というところにまで到達した。もっともこの間10分たらずのことだから、他人が私の頭をのぞきみすれば、一瞬で変節したように見えるだろうが、私の頭はつねにそんな感じだ。

とはいえ、私としては隠遁して思索に耽る人間よりも、政治家なり軍人なりとして思索に耽る人間の方によりおもしろみを感じるので、陽明学者よりも朱子学者に好感を抱くのは致し方ないところではある。どーでもいいけど。

*1 学者仲間との関係は断絶していないらしいが、気の合う人間同士の関係に限られてくるので、視野は大いに狭まる。

権衡207

二〇七 七年,公伐邾,取須句。左氏曰:「寘文公子焉。」非也。僖公取須句,反其君,義事也,經不襃。今文公取須句,以封叛臣,惡事也,經不貶。不唯不襃貶而己,又略無所見。豈春秋之實邪。

二〇七 七年、「公伐邾、取須句」(公 邾を伐ち、須句を取る)。左氏 曰く、「文公の子を寘(お)く」と。非なり。僖公の須句を取り、其の君を反すは、義事なるに、経は褒めず。今 文公 須句を取り、以て叛臣を封ずるは、悪事なるも、経 貶せず。唯だに褒貶せざるのみならず、又 略して見る所無し。豈に春秋の実ならんや。

二〇七 七年、「公伐邾、取須句」(公 邾を伐ち、須句を取る)。【注1】左氏は「文公の子を寘(お)く」という。【注2】間違いである。僖公が須句を取り、その君を返したことは、義事であるのに、経は褒めていない。【注3】いま文公が須句を取り、叛臣を封じたことは、悪事であるのに、経は貶していない。ただ褒貶しないだけではなく、省いて経に示すことがない。これでいて春秋の事実といえるだろうか。


1 「春、公伐邾。三月、甲戌、取須句。」杜預の注に「須句、魯之封内属国也。僖公反其君之後、邾復滅之。書取、易也。例在襄十三年」(須句は魯の封内の属国なり。僖公 其の君を反すの後、邾 復た之を滅ぼせり。取と書すは易ければなり。例は襄十三年に在り)とある。
2 伝は「春、公 邾を伐つは、晉の難を間(うかが)ふなり。〔公 霸国に難有るに因りて小を侵す。〕三月甲戌、須句を取り、文公の子を寘く。礼に非ざるなり。〔邾の文公の子 叛して魯に在り、故に公 須句を守るの大夫たらしむ。大皥の祀を絶ち、以て鄰国の叛臣に与す、故に礼に非ずと曰ふ〕」という。なお亀甲括弧内は杜預の注。
3 『権衡』巻四の一六九条及び一七〇条を参照。

参考
・『劉氏伝』に伝なし。
・『意林』に説なし。

権衡206

二〇六 六年、「晉殺其大夫陽處父」。左氏曰:「侵官也。」按左氏此事始末,罪處父,獨有稱趙宣子為能耳。改蒐易將,凡出晉侯,何以謂處父侵官邪。人君任賢不稱,必將致敗。苟食禄者,舉當諫君。況處父晉國太傅邪。事有不便,言之□矣【校1】。以此為侵官,是教大臣拱黙也。左氏又曰:「陽子,成季之屬也。故黨於趙氏。」此欲致其法,必以侵官塗汚處父耳【校2】。凡言黨者,謂其陰私比周,不以正舉者也。若舉不失人,亦何謂黨乎。如處父之舉趙盾,趙盾卒為良大夫。其退賈季,賈季卒為亂而奔。皆可謂當矣。非故有所厚薄也。春秋豈忽于此貶之邪。如使大臣見賢而舉,謂之侵官,見賢而不舉,乃其職矣。不亦謬乎。

二〇六 六年、「晉殺其大夫陽処父」(晉 其の大夫の陽処父を殺す)。左氏曰:「官を侵せばなり」と。左氏の此の事の始末を按ずるに、処父を罪せること、独り趙宣子を称して能と為す有るのみ。蒐を改め将を易ふこと、凡そ晉侯に出ずれば、何を以て処父 官を侵すと言はんや。人君 賢を任じて称はざれば、必ず将に敗を致さんとす。苟も禄を食む者、挙げて当に君を諫むべし。況んや処父 晉の国の太傅なるをや。事に便ならざる有り、之を言ふは□〔宜〕なり。【校1】此を以て官を侵すと為せば、是れ大臣をして拱黙せしむるなり。左氏 又 曰く、「陽子は、成季の属なり。故に趙氏に党す」と。此れ其の法を致さんと欲し、必ず官を侵すを以て汚を処父に塗るのみ。【校2】凡そ党と言ふは、其の陰私に比周し、正を以て挙げざる者を謂ふなり。若し挙げて人を失はざれば、亦た何ぞ党と謂はんや。処父の趙盾を挙げるが如き、趙盾 卒に良大夫と為る。其の賈季を退くがごとき、賈季 卒に乱を為して奔る。皆 当れりと謂ふべし。故に厚薄する所有るに非ざるなり。春秋 豈に此に忽にして之を貶せんや。如使し大臣 賢を見て挙げ、之を官を侵すと謂はば、賢を見て挙げざるは、乃ち其の職たり。亦た謬らざるや。

二〇六 六年、「晉殺其大夫陽処父」(晉 其の大夫の陽処父を殺す)。左氏は「官を侵せばなり」という。【注1】左氏の記すこの事件の顚末を検討したところ、処父を罪する理由は、ただ趙宣子を有能だと称賛したことだけである。蒐を改め、将を変えたことは、そもそも晉侯が行ったことである。【注2】なぜこれをもって処父が「官を侵した」といえよう。君主の任用が不適切であれば、必ず敗滅を招くことになる。禄を食むものは、こぞって君主を諫めねばならない。ましてや処父は晉国の太傅であれば、なおさらであろう。物事に不都合なことがあれば、それを発言するのが筋である。【校1】発言を理由に「官を侵す」というのであれば、それは大臣になにもさせぬことになる。左氏はまた「陽子は、成季の属なり。故に趙氏に党す」という。【注3】これは自分のやり方を成就せしめんがため、「官を侵した」ことをもって、処父に汚名を着せているにすぎない。【校2】およそ「党」というものは、こそこそ私的な結びつきをもち、中正の立場で人材を推挙しないことをいうのである。もし正しい人材を推挙したのであれば、それをなぜ「党」といえよう。例えば、処父は趙盾を推挙し、趙盾はついに優れた大夫となった。また賈季を退け、賈季はついに反乱を起こして出奔した。いずれも適切な推挙であったといわねばならない。含むところがあって、人材を進退したわけではない。春秋がこの点を見逃して処父を貶するだろうか。もし大臣が見知する賢者を推挙することが「官を侵す」ことになるというのであれば、見知する賢者を推挙しないことが、大臣のつとめとなってしまう。なんと誤った考えではないか。


1 「言之□矣」、四庫本同。『弁疑』作「言之宜矣」。
2 「必以侵官塗汚處父耳」、四庫本同。『弁疑』作「必於侵官以塗汚處父耳」。


1 文公六年の晉殺其大夫陽処父に関わる伝をふまえる。
2 伝には「陽処父至自温、改蒐于董、易中軍」(陽処父 温より至り、改めて董に蒐し、中軍を易ふ)とあり、晉侯の判断であるとは記されていない。「易中軍」については、公羊伝と穀梁伝に晉侯が決裁したと記されている。
3 注1の中に見える。

参考
・『劉氏伝』……穀梁伝を主にしたもの。最後に「然らば則ち処父の罪せらるるは何ぞや。処父は人臣と為りて、華にして実ならず、剛を好みて上を犯し、事を興して以て自ら名と為せば、以て其の身を殺すに足るのみ」と指摘する。
・『意林』……「晉殺其大夫陽処父」(晉 其の大夫の陽処父を殺す)。事に即て情を探れば、陽処父 罪無しと謂ふべし。而るに春秋 免ぜざるなり。以て謂へらく陽処父の自ら其の身を事とすること、未だ始めより其の死の道を得るに至らざれば、則ち其の死は不幸に非ざるなり。孔子 曰く、「人の生くるや直し、之を罔して生くるや、幸にして免かる」と。処父をして其の死を得しむるは、固り幸いのみ。豈に直の謂あらんや。子路 側に侍り、行行如なり。子 曰く、「由 其の死を得ず」と。然して盆成括に才有り、而して君子の大道を聞かず。孟子 曰く、「死なん」と。故に君子 其の身を愛し其の生を全うする者、必ず其の道に由る。其の道に由りて死さば、比干の若きと雖も、仲尼 之を仁と謂へり。其の身を愛し其の生を全うするも其の道に由らず、其の道に由らずして死さば、処父の若きと雖も、春秋 之を罪ありと謂ふ。春秋は幸にして免かるるを貴ばず。

権衡205

二〇五 五年,王使榮叔歸含且賵。王使召伯來會葬。左氏曰:「禮也。」非也。庶子為君,為其母無服。不敢貳尊者也。妾母稱夫人,王不能正,而又使公卿會之葬,何禮之有。

二〇五 五年、「王使栄叔帰含且賵」(王 栄叔をして含 且つ賵を帰らしむ)。「王使召伯来会葬」(王 召伯をして来りて葬に会せしむ)。左氏 曰く、「礼なり」と。非なり。庶子 君と為れば、其の母の為に服する無し。敢へて尊者を弐(なら)べざればなり。妾母 夫人と称し、王 正す能はず、而して又 公卿をして之が葬に会せしむ、何の礼か之れ有らん。

二〇五 五年、「王使栄叔帰含且賵」(王 栄叔をして含 且つ賵を帰らしむ)。「王使召伯来会葬」(王 召伯をして来りて葬に会せしむ)。【注1】左氏は「礼なり」という。【注】間違いである。庶子が君主となった場合、生母のために喪に服することはない。尊き者(夫人)と並ぶ存在を認めてはならないからである。妾母が夫人と称しながら、王はそれを正すことができず、そればかりか公卿をつかわして、その葬儀に参加させている。このどこが礼に適ったおこないであろう。


1 経は「五年、春、王正月、王使栄叔帰含且賵。三月、辛亥、葬我小君成風。王使召伯来会葬」の順に並ぶ。
2 伝は「五年、春、王 栄叔をして来りて含 且つ賵せしむ。召の昭公 来りて葬に会せしむ。礼なり。」という。これに対して杜預は、「成風は荘公の妾なり。天子 夫人の礼を以て之に賵す。母は子を以て貴きを明らかにす。故に礼と曰ふ」と注す。これに対して『正義』は、「伝は二事を挙げ、一の「礼なり」を以て之を結べば、則ち含賵・会葬 皆 礼を得るなり」という。

参考
『劉氏伝』……
(1)王使栄叔帰含且賵。
含とは何ぞや。口 実たすものなり。王 何を以て天無し。是れ天の法に非ずと言ふなり。是れ天の法に非ずとは何ぞや。是れ始めて妾を以て嫡と為すなり。此れ帰なり。何を以て来を言はず。帰りて来る有り、帰あるも来らざる有り。含 且つ賵を帰るは、正に非ざるなり。帰りて来らざるも、亦た正に非ざるなり。交 之を譏れり。
(2)王使召伯来会葬。
葬に会するの礼、鄙上に於いてす。葬に会し、猶ほ含を帰るなり。之を成して夫人と為せり。

『意林』……「王使栄叔帰含且賵」。知らざる者、乃ち以て謂ふ、「天子 人の妾に賵するは小過のみ、而るに之を譏ること深し。車を求め、母弟を殺すは大悪なり、而るに之を譏ること略せり」と。是れ春秋 人倫を正すの意を知るに及ばざるなり。君臣、父子、夫婦は、治の三綱なり、道 焉より先なる莫し。桓 臣を以て君を殺し、而るに王 之に命ず。成風 妾を以て嫡を僭し、而るに王 之を成す。三綱に於いて廃れり。是れ人の人たる所以を去るなり。王の天無きこと、亦た明らかならずや。古の文を為す者、三画して一 之を貫きて王と為す。一 之を貫くとは、能く天に法るを謂ふなり。苟も天に法る能はずして、何ぞ王の称あらん。

権衡204

二〇四 四年,逆婦姜于齊。左氏曰:「卿不行,非禮也。」非也。假令卿行,獨可謂之禮乎。

二〇四 四年、「逆婦姜于斉」(婦姜を斉より逆ふ)。左氏曰く、「卿 行かず、礼に非ざるなり」と。非なり。仮令ひ卿 行くも、独に之を礼と謂ふべけんや。

二〇四 「逆婦姜于斉」(婦姜を斉より逆ふ)。左氏は「卿 行かず、礼に非ざるなり」という。【注1】たとい卿が出向いたとしても、これを礼といえるだろうか。

1 伝には「婦姜を斉より逆ふ、卿 行かず、礼に非ざるなり。君子 是を以て出姜の魯に允あらざるを知りて曰く、『貴 聘して賤 之を逆ふ。君なるも卑しまれ、立つも廃せらる。信を棄てて其の主を壊す。国に在りては必ず乱れ、家に在りては必ず亡ぶ。允あらざること宜なるかな。詩に曰く、天の威を畏れ、時(ここ)に于いて之を保んずと。主を敬まうの謂なり』と」とある。
【参考】
『劉氏伝』……孰れか之を逆ふ。内の微者 之を逆ふ。逆は大夫の大礼なり、公 之を親らす。大夫を使ふは、正に非ざるなり。微者 甚だし。云々。(「大夫の」は原文のママ。不詳)
『意林』……「婦姜を斉より逆ふ」は、正始の道なり。之を待つに夫人の礼を以てせず、故に夫人 其の位を以て終はらず、国 乱れ子 弑され、強臣 命を擅ままにし、亡ぶに幾し。夫れ文公 妻子を存し世を伝ふるを欲せざる者に非ざるなり。闇弱惰慢にして、礼に率ひて行ふ能はず、以て苟若にして可と謂はば、何ぞ礼を之れ守らん。故に卒に禍に至るなり。夫婦の際は、人倫の首なれば、慎まざるべけんや。故に末を鑒み以て本を原ね、微に因り以て著を知る。又 独り文公の罪のみに非ざるなり、夫人と雖も罪有るに預れり。是の時に当たり、夫人 早くに喪娶の辱を避くる能はず、大礼を冒し以て往く。国人 皆 之を賤しみ、遂に據依する所無く、以て其の身を危うくし、而して其の子を亡すは、本 正しからざるに由るが故なり。殆うくして天に呼ぶも、亦た晩からずや。吾 此を以て之を観る、礼の人に於ける大なり。是れ存すれば則ち存し、是れ亡ぶれば則ち亡ぶ。文公の其の後嗣を保つ能はざるは、以て其の妻を刑むる無きに由るなり。夫人の其の位に安んずる能はざるは、以て礼に謹しむ無きに由るなり。此れ正始の道なり。

王時槐集

前に紹介した「王時槐集」を入手したので、その感想でも書いておこう。むろん古典の読書の友として、という程度の感想であって、研究の資料に堪えられるかというのは、もとより埒外の話である。

「王時槐集」は以下の4部から成っている。
1.友慶堂存稿
2.友慶堂合稿
3.自考録
4.広仁類編

基本的に大陸の版本を用いているらしいが、2.友慶堂合稿は一部に存目叢書所収本を底本にしたらしい。1.と2.は一部の重複を除き、基本的に別系統の本で、収録文章もかなり異なる。3.は民国時代に出版されたらしいが、限定出版だったらしい。大陸のほか、九州大学の楠本文庫にも所蔵とのことだが、楠本文庫は九州大学にないので、なにかの間違いだろう。(楠本は楠本正継のことだろうから、楠本先生にまつわる九大の文庫か、あるいは国士舘にある楠本文庫だと思う。手元に目録はないので詳細不明。)

編者の編集説明と目録、内容から考えると、1.友慶堂存稿は公的なものが多く、2.に未収録の公移を多数含んでいる。2.友慶堂合稿は思想的なものが多い。3.自考録は年譜ではないが、王時槐の回想記的なもので、王時槐の思想を考える上で興味深い記事が多い。4.広仁類編は古典から仁的行為をおこなった人の逸話をもちよったもの。四庫提要の評価がおもしろい。

編者によれば、1.友慶堂存稿と2.友慶堂合稿ともに、王時槐の全集ではなく、それぞれの編集目的にそって作られたものだとのことであり、どちらが先行するかも現時点では断定できないとのことであった。ちなみに現行本では、会語は2.に収録されており、1.には収録されていない。また1.は王時槐が生前編集していた同名の「友慶堂存稿」とは別物で、後人が王時槐の編集物を集め直したものだという。

やはり一番おもしろいのは自考録だと思うが、それ以外も日本ではなかなかお目にかかれなかった1.友慶堂存稿を読めるようになったのは、ありがたいはなしだと思う。まぁ、わたしが王時槐の著作を精読することはないが、ぱらぱら読むぶんには楽しいだろう。というよりも、彼の著作を読んでも、変態的な朱子学者には見えど、陽明学者に見えないところがおもしろい。

そういえば書虫に張元忭集が写真つきで紹介されていた。もう発売されていたようだ。

権衡203

二〇三 公子遂如齊納幣。左氏曰:「禮也。」則是以喪娶為禮,不亦悖乎。杜預遷僖公薨月,以就傳説。然文公此年大事于太廟,則已自除喪矣。彼尚能逆祀,何故不能於此娶乎。明此傳誤無為,歸過于經而疑之也。

書き下し文
二〇三 「公子遂如斉納幣」(公子遂 斉に如き幣を納む)。左氏曰く、「礼なり」と。則ち是れ喪を以て娶るを礼と為す。亦た悖らざるや。杜預 僖公の薨ずるの月を遷し、以て伝の説を就す。然れども文公 此の年 太廟に大事あれば、則ち已に自ら喪を除けり。彼れ尚ほ能く逆祀す、何の故に此に於いて娶る能はざるや。明らけし此れ伝 誤るも為す無く、過を経に帰して之を疑ふこと。

現代語訳
二〇三 「公子遂如斉納幣」(公子遂 斉に如き幣を納む)。左氏は「礼なり」【注1】という。つまりは喪中の婚姻を礼とみなしているのである。なんと道理に悖る発言ではないか。杜預は僖公が薨じた月を遷し、伝の学説を成り立たせている。【注2】しかし文公はこの年に「太廟で大事をおこなった」【注3】のであるから、すでにみずから喪を除いている。文公は逆祀【注4】ですら実施できるのだから、ここにおいて婚姻を結び得ぬ道理はあるまい。実に杜預の意図は明白で、伝が間違っていても何もせず、かえって間違いを経になすりつけ、経を疑っているのである。


1 伝には「襄仲 斉に如きて幣を納むるは、礼なり。凡そ君 即位すれば、舅甥を好し、昏姻を脩め、元妃を娶り、以て粢盛を奉ずるは、孝なり。孝は礼の始めなり」とある。
2 巻四の一九五条を参照。杜預は僖公三十二年十一月に僖公が薨じたと考えるので、文公元年の三月の閏月を加えると、文公二年九月で三年の喪(足かけ二十五ヶ月)が終わる。一方、経に従えば、僖公三十二年十二月に僖公が薨じたことになり、三年の喪を終えるのは、文公二年十一月(閏月を加味しなければ十二月)。なお三年の喪については、『礼記』壇弓上・孟献子禫条の『正義』を参照。
3 経の「八月丁卯、大事于大廟、躋僖公」(八月丁卯、大廟に大事あり、僖公を躋(のぼ)す)を指す。伝は「君子 以て礼を失ふと為す。礼は順ならざる無し。祀は国の大事なり。而るに之を逆にす。礼と謂ふべけんや」といい、杜預はこれを承けて「大事は禘なり。躋は升なり。僖公は閔公の庶兄なるも、閔を継いで立たば、廟の坐は宜しく閔の下に次すべし。今 升して閔の上に在り。故に書して之を譏る。時 未だ吉禘に応ぜずして大廟に於いて之を行ふ。其の譏り 已に明らかなり。徒だ逆祀を以て、故に特に其の事を大とし、其の文を異にす」と注す。ここでの「大事」は禘祭(宗廟の祭りで、先君および祖先の位牌を宗廟に納める祭り)の意。
4 逆祀は位牌の順序を逆にすること。ここでは僖公の位牌を閔公の位牌の上位に置いたことを指す。

参考
『劉氏伝』は公羊伝に同じ。
『意林』に説なし。

権衡202

二〇二 晉人宋人陳人鄭人伐秦。左氏曰:「卿不書,為穆公故,尊秦也。」非也。於經何以知其非微者稱人乎。

二〇二 「晉人宋人陳人鄭人伐秦」(晉人 宋人 陳人 鄭人 秦を伐つ)。左氏曰く、「卿 書せざるは、穆公の為の故なり、秦を尊ぶなり」と。非なり。経に於いて何を以て其の微者なれば人と称ふに非ざるを知らんや。

二〇二 「晉人宋人陳人鄭人伐秦」(晉人 宋人 陳人 鄭人 秦を伐つ)。左氏は「卿 書せざるは、穆公の為の故なり、秦を尊ぶなり」【注1】という。間違いである。経のどこを見れば、「微者であるから人といった」のではないとわかるというのか。


1 伝に「冬、晉の先且居、宋の公子成、陳の轅選、鄭の公子帰生 秦を伐ち、汪と彭衙とを取りて還り、以て彭衙の役に報ゆ。卿 書せざるは、穆公の故の為なり、秦を尊ぶなり。之を徳を崇ぶと謂ふ」とある。これについて杜預は経注で「四人 皆 卿なり。秦穆 過ちを悔い終に孟明を用ゐる、故に四国の大夫を貶し以て秦を尊ぶ」といい、これに対して『正義』は「四国の大夫 伝 皆 名氏を称へば、是の四人 皆 卿なり秦穆 過ちを悔い終に孟明を用う。仲尼 特に其の事を善とするも、辞 以て文に寄すべく無し。故に四国の大夫を貶して人と称ふ。秦の徳を尊崇する所以なり。諸侯の名 加ふべき所無ければ、大夫を貶し以て秦を尊ぶ。大夫に罪有るに非ざるなり」と敷衍する。

参考
・『劉氏伝』に伝なし。
・『意林』に説なし。

日々の雑感

そういえば先月か先々月くらいから左手首が痛い。放っておけば治るかと思っていたけど、悪くならないものの、よくはならない。年末にダラダラしていたときはマシになった気もしたが、またもとに戻ってしまった。一度病院にでもいった方がいいのだろうか。

権衡を更新するつもりだったが、今日は見合わせよう。一日一条を目安に進めているが、二、三条さきで困ったことになった。本文はさほど難しくないのだが、参考資料が増えてしまった。どうしたものかな。無視すればはやいが、それだと意味もない。まぁ急くものでもなし、ゆっくり進めていこう。はたして生きている間に左伝の部分だけでも終わるのだろうか。いや、終わらないからといって、キリが悪いということの他に、困ることはないのだが。

後漢末と晩唐五代とでは行政区分(というか支配領域の区分)が異なって、三国志の地図では、やはり晩唐五代は再現できないな。周の世宗か、あるいは宋の太祖・太宗あたりで契丹と戦ってみたい。馬とか物量とか、三国志のでは対応できない部分が多いはずだから、雰囲気を楽しむだけになるだろうが。あ、三国志ツクールの話ね。

子どものころに読書をしていなかった所為か、あるいはもともと頭が悪い所為か、文章を読んでもピントのずれる感想を持つことが多い。もちろんこれは前からわかっていたことだから、それを承知で生きてきたが、やはり現実問題として行きにくいところがあることは確かだ。とはいえ、これもはやり今更の話であって、どうこういっても仕方あるまい。

何をしても欠点しか見えないと思うのは、やはりある種の自己顕示欲の現れなんだろうなぁ。どーでもいいけど。

権衡201

二〇一 二年,及晉處父盟。杜云:「處父不能匡君以禮,而親與公盟,故貶其族。」非也。既沒公如晉,又沒公於盟,諱義備矣。復去處父氏,反不明。豈其然乎。

二〇一 二年、「及晉処父盟」(晉の処父と盟す)。杜 云ふ、「処父は君を匡すに礼を以てする能はず、而して親ら公と盟す、故に其の族を貶す」と。非なり。既に公の晉に如くを没し、又 公を盟に没すれば、諱の義 備はれり。復た処父の氏を去れば、反て明らかならず。豈に其れ然らんや。

二〇一 二年、「及晉処父盟」(晉の処父と盟す)。杜は「処父は君を匡すに礼を以てする能はず、而して親ら公と盟す、故に其の族を貶す」という。【注1】間違いである。すでに経は公が晉に向かったことを記さず【注2】、さらに盟において公を記していない【注3】のだから、それだけで諱んだ意味は十分に明らかである。そのうえ処父の氏まで除いてしまえば、かえって意味がわからなくなる。このようなことがあるだろうか。


1 杜預の注は経に対するもの。ただし劉敞の駁論は伝をふまえたものなので、以下に伝を引いておく。(亀甲括弧は杜預の注)
(経)及晉処父盟。〔処父 晉の正卿と為り、君を匡すに礼を以てする能はず、而して親ら公と盟す、故に其の族を貶す。族を去れば、則ち卿に非ず。故に微人の常称を以て耦と為し、直を以て不直を厭す。地いはざるは、晉の都に盟すればなり〕
(伝)晉人 公の朝せざるを以て来りて討つ。公 晉に如く。夏、四月己巳、晉人 陽処父をして公に盟せしめ以て之を恥かしむ〔大夫をして公に盟せしめ、以て魯に恥辱あらんと欲す。……〕。書して「晉の処父と盟す」と曰ふは、以て之を厭すればなり〔厭は猶ほ損のごとし。晉 非礼を以て公に盟す、故に「之を厭す」と文し以て譏りを示す〕。晉に適くこと書せざるは、之を諱めばな〔公 晉に如くを書せず〕。
2 伝に「公 晉に如く」とあるのに拠る。
3 経に「公及晉処父盟」とないことに拠る。

参考
○『劉氏伝』……孰か之に及ぶ。公なり。公なれば則ち何を以て公を言はず。大夫の公に敵するを得るを与さざればなり。何を以て地いはず。晉を地とすればなり。晉を地とすれば、何を以て「公 晉に如く」と曰はず。恥ずればなり。此れ陽処父なり。何を以て氏いはず。未だ其の氏を以て通ず能はざればなり。
○『意林』に説なし。
○『正義』(経の正義)……春秋 卿は則ち名氏を書し、賤者は則ち人と称す。外卿の貶は、例 皆 人と称し、魯の卿の貶は、乃ち其の族を去る。族を去ると人を称すとは相類すれば、即ち是れ卿と為さざるなり。処父 晉の正卿と為り、国を匡すに礼を以てする能はず、君 魯に盟せしむれば、即ち君の命に従ひ、親ら公と盟す。故に貶して其の族を去る。処父は是れ晉の賤人と言ふが若し。則ち復た公と書せず、直に「晉の処父と盟す」と言ふは、魯の賤人 往きて之と盟すと言ふが若きなり。魯の賤人は合に名を書すべからず、其の為す所の事を挙ぐるのみ。「及」と言ひ、「名」を言はざるは、是れ微人の常称なればなり。微人の常称 処父と偶を為すを以て、処父も亦た賤人の若きなり。魯は微人を以て微人に敵するは直なり。晉 卿を以て公に敵するは、直ならざるなり。此くの若く経に書すは、魯の直を以て晉の不直を厭すればなり。然らば則ち処父を貶して人と称はざるは、之を貶して人と称へば、則ち悪名 見えざればなり。其の族を貶して其の名を留むるは、処父を悪む所以なり。……

権衡200

二〇〇 傳曰:「晉師獲衞孫昭子。衞人使告于陳。陳共公曰:『更伐之,我辭之。』衞孔達帥師伐晉。君子以為古。古者越國而謀。」非也。古者雖越國而謀,所謀者,必義事也。今陳與衞何謀哉。謀畔命侵小者也。謀畔命侵小,是非古矣。何以謂之古。

二〇〇 伝に曰ふ、「晉師 衛の孫昭子を獲。衛人 陳に告げしむ。陳の共公 曰く、『更に之を伐たば、我 之を辞せん』と。衛の孔達 師を帥ゐて晉を伐つ。君子 以て古と為す。古者は国を越へて謀る」と。非なり。古者は国を越へて謀ると雖も、謀る所の者は、必ず義の事なり。今 陳と衛とは何をか謀るや。命に畔き小を侵すを謀るなり。命に畔き小を侵すを謀るは、是れ古に非ず。何を以て之を古と謂ふや。

二〇〇 伝〔注1〕には「晉師 衛の孫昭子を獲。衛人 陳に告げしむ。陳の共公 曰く、『更に之を伐たば、我 之を辞せん』〔注2〕と。衛の孔達 師を帥ゐて晉を伐つ。君子 以て古と為す。古者は国を越へて謀る」〔注3〕と。間違いである。古代には国境を越えて相談したとしても、相談の内容は、必ず義に適ったことである。ところがいま陳と衛は何を相談したのだろうか。〔覇主の〕命令に背き、小国を侵略することを相談したのである。〔覇主の〕命令に背き、小国を侵略することを相談するのは、古代になかったことである。いかなる理由から、彼らの行為を古代のやり方に適ったこというのだろうか。


1 前条の経に対する伝。伝の概要は、──晉の攻撃にさらされた衛は、陳に協力を求めたところ、陳の共公は「戦争に負けて和平を求めたのでは分が悪い。いちど戦ってからにしてはどうか、さすればわたしが晉にとりもちましょう」といってきた。そこで衛は孔達に晉を伐たせた。これについて、君子は古代のやり方であると評価した。古代には国境を越えて外国と相談することがあったからである、となる。
2 杜預は「見伐求和、不競大甚。故使報伐示己力足以距晉」(伐たれて和を求むるは、競はざること大いに甚だし。故に伐に報ぜしめ己が力以て晉を距むに足るを示さしむ)という。
3 杜預は「合古之道、而失今事覇主之礼。故国失其邑、身見執辱」(古の道に合するも、今の覇主に事ふるの礼を失へり。故に国は其の邑を失ひ、身は執へられ辱かしめらる)という。したがって伝の主旨は、杜預の解釈にしたがえば、古代の道に合致はしていても、現今の覇主に対する例を失っているという意味になる。なお『釈例』侵伐襲例に「君子但明言合古、而不釈其尤也」(君子は但だ古に合するを明言するのみにして、其の尤を釈さず)とあるほか、『正義』所引劉炫の学説にも「君子以為合古之道、失当今之宜、亦不言其謀全非礼也」(君子 は以て古の道に合し、当今の宜を失ふと為すも、亦た其の謀 全く例に非ずとは言はざるなり)とある。

参考
・『劉氏伝』に伝なし。
・『意林』に説なし。

陽明後学文献叢書および続編

むかし「陽明後学文献叢書」が発売されたとき、このブログにも感想を書いたが、ぼちぼちその続編も出そろいそうなので、どんなものが出版されているのか、少しまとめてみる。ちなみに「陽明後学」というのは「王陽明の後学」の意味で、「文献叢書」というのは、該当人物の著作および伝記資料をまとめたものという程度の意味らしく、編集物を含むいわゆる全集よりはやや狭いが、その人物の主要著作はほぼ網羅している。

「陽明後学文献叢書」(鳳凰。大陸の出版物)
1.徐愛、銭徳洪、董澐合集
2.鄒守益集(上下)
3.欧陽徳集
4.王畿集
5.聶豹集
6.羅洪先集(上下)
7.羅汝芳集(上下)

この中、「羅洪先集」に対して、「羅洪先集補編」(2009年。台湾の出版物)が出版されている。これは台湾に所蔵されていた別本から「羅洪先集」未収録の文章を集めたものらしい(『補編』は未見)。

鳳凰の「陽明後学文献叢書」は、さすがに陽明後学として名高い人々のものがほとんどで、特に鄒東廓(守益)や欧陽南野(徳)の著作が出版されたのは、陽明学研究にとって大変に価値のあることだと思う。もっとも前にも書いたが、これほど錚錚たるたる人々を集めているのに、王心斎が入っていないのには、やはり手落ちの感は拭えない。

「陽明後学文献叢書」(続編。上海古籍出版社)
1.薛侃集
2.黄綰集
3.劉元卿集
4.胡直集
5.張元忭集(未刊)
6.王時槐集
7.北方王門集(未刊)

こちらは前回登場した人々の後に活躍した学者を集めたもののようである。いずれも著名な人々ではあるが、なぜ劉元卿や胡直でなければならず、周汝登であってはならないのかは、よくわからない。内容的には続編も正編と同じく、主要著作を収め、さらに該当人物に対する伝記資料を附録として載せており、有益である。

なお、これ以外の陽明学者の文献ということで、「陽明後学文献叢書」の「出版縁起」に、既刊の整理本として以下のものがあがっている。

・黄綰「明道編」(中華書局,1959)
・何心隠「何心隠集」(中華書局,1960)
・林大欽「林大欽集」(広東人民出版社,1995)……不明
・顔鈞「顔鈞集」(中国社会科学出版社,1999)
・焦竑「澹園集」(中華書局,1999。理学叢書の一)
・趙貞吉「趙貞吉詩文集注」(巴蜀書社,1999)……趙大洲のこと
・王艮「王心斎全集」(江蘇教育出版社,2001)
・張璁「張璁集」(上海社会科学院出版社,2004)
・程文徳「程文徳集」(香港銀河出版社,2005。修訂版,上海古籍出版社,2012)
・王叔杲「王叔杲集」(上海社会科学院出版社,2005)
・項喬「項喬集」(上海社会科学院出版社,2006)
・鄧豁渠「南詢録校注」(武漢理工大学出版社,2008)
・王叔果「王叔果集」(黄山出版社,2009)
・季本「四書私存」(台湾 文史哲研究所,2012)

その他、つい最近発売された万廷言「万廷言集」(中華書局。理学叢書の一)や近刊らしい周汝登「周汝登集」(「浙江文叢」の一で、一種の全集)がある。また李材「正学堂稿」、許孚遠「敬和堂集」 、耿定向「耿天台先生文集」といった陽明学者、あるいはその共鳴者の文献が「儒蔵」(精華編)に収録されており、あるいは既刊、あるいは出版予定となっている。陽明のライバル(?)という意味では、羅欽順の「困知記」(中華書局。理学叢書の一)、「整庵先生存稿」(「儒蔵 精華編」)、 湛若水「湛甘泉先生文集」(「儒蔵 精華編」)も出ている。

ということで、一時代前に比べれば、飛躍的に陽明学の研究はやりやすくなっていると思うが、同時に、明(特に明末)というのは、異常なほど文献があることでも有名なので、例えば鄒東廓について調べようとすれば、彼とその一族の言葉を集めた「鄒氏学脉」のような語録集もあれば、孫の鄒徳涵の「鄒聚所先生文集」あたりも、可能なら閲読したい、というようなことにもあり、どうにも切りのない状態に陥る。

それなりの大学に在籍している場合は、続修四庫全書なり存目叢書なりを利用できれば、それでも閲読可能な範囲は飛躍的に広がるが、そこが明末の嫌なところで、両叢書(続修四庫全書はもともと陽明学関係者の著作はあまり収めていない)に収められていないものも多く、陽明学研究には悩みの種はつきない。

とまあ、今回はこんなところで。

陽明学関係の本がたくさん出てるのね

張元忭集もでるのか。そういえば陽明後学文献叢書は、正続あわせて、そこそこ購入しているなぁ。陽明のファンでないし、そもそも読むこともないのだが、ついつい購入している。で、あるていど揃っていると、新刊がでたときにまた追加で購入してしまう。わるい癖だな。

張元忭集は近刊あつかいになっているが、現在のところ、続編は薛侃集、黄綰集、劉元卿集、胡直集、王時槐集が出ているようだな(「~集」の~の部分が人名)。薛侃集、黄綰集は読みたい部分がなかったし、王時槐集は注文してまだ届いてないのでわからないが、劉元卿集は悪くなかった。で、多分だけど胡直集も悪くないと思う(こちらは買おうと思いつつ、まだ買っていない)。むかし彼の『衡廬精舎蔵稿』をぱらぱらめくったが、逸話・寓話の類がそこそこ入っていて、読むには面白い本だったように思う。劉元卿は言わずもがな、そちらの話がうまい(らしい)ので、そういう意味でおもしろいと思う。

多分、本当に陽明学をやりたいなら、薛侃や黄綰は重用なんだと思うが、私の場合はそうでもないので、上のようなことになってしまう。

陽明関係の文献は、むかしは影印本しかなく、それも入手が難しかったが(線装本は論外)、最近ではこの前に万廷言集なんてのも理学叢書から発売されたし、なかなか勉強のしやすい世の中になったものだ。最近の研究者は当然のように中国語で漢籍を読むのだろうから、明代あたりまでくれば、その方が読みやすくもなるだろうし、なおのこと陽明学の研究はやりやすくなっているだろう。

陽明学の愛好家ではないから、うらやましいとは全くもって思わないが、結構なことに相違ない。大いに研究が進んでくれればよいと思う。もちろん、しなくても一向に構わないけど。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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