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高畠さんのこと

というわけではなく、佐藤優氏の一連の投稿を見て思うところがあった。あまりこういうところで特定個人のことを書くのは気が引けるが、非常に著名な人でもあるし、少し触れさせてもらうことにする。

【佐藤優の眼光紙背】国家翼賛体制の確立を!
【佐藤優の眼光紙背】大和魂で菅直人首相を支えよ
【佐藤優の眼光紙背】福島原発に関する報道協定を結べ

この人は高畠素之が好きだとか尊敬しているとかで、その種の読み物をどこかの雑誌に投稿もしたらしい。私も高畠さんは好きではあるが、別に高畠好きと仲良くしたいわけでもなく、今まで佐藤氏の論文はネットで目についたものを流し読みするのがほとんどだった。しかし上の三つはずいぶん危険な発言をしていたので、少々まじめに読んでみた。

翼賛体制という日本人が嫌悪感しか抱かない言葉をわざわざ使ったり、大和魂というもはや存在しない精神論を口にしたりと、わざわざ一般人に嫌われるような発言をするところは、いかにも高畠さん好きらしい感じもした。しかし、どうもこの人は高畠さんが好きだというより、高畠さんの主張が好きなように感じる。

上の論文は、早い話が、平素は意見の対立があっても、国家存亡のときには日本の名の下に国民は一致団結し、困難を打破しよう、というもので、この種の国家主義者にめずらしくない発言といえる。高畠さんの場合は、「国家存亡のときには日本の名の下に国民は一致団結し、困難を打破しよう」、でも、平素にもどれば当然戦うぜ、という展開が多いのだが、まあ高畠さん的な発想の派生形態(あるいは積極形態)のように見えないではない。

いちおう高畠さんの言葉を引いておくと:

日本國民の中には、謂はゆる資本主義者もをれば、社會主義者もをり、富豪もをれば貧乏人もをり、華族もをれば平民もをり、政友會員もをれば憲政會員もをり、その他何々主義、何々階級、何々職業、何々黨員等、無限に種々異なつた傾向と要素とを含んでゐる。しかし、これ等の要素これ等の分子が一齊に立つて、日本國家の肇創を祝賀せんとする至情に、區別のあるべきはずはない。

日本國民にとつて、日本國家は皇室と共に最高無二の權威である。この權威のためには、國民は一切を犠牲とするの覺悟を要する。けれどもこの權威の限界内においては、理由と必然の存する限り、國民同志間の抗爭もまた鬪ひ通されなければならない。それが却つて、國民を發展し向上せしめる所以ともなるのである。政友會は憲政會と、三井は三菱と、大毎は大朝と、日活は松竹と、福田博士は河上博士と、而して勞働者は資本家と、等、等、等。

來るべき建國祭の發起人たり、參加者たる人々の中には、社會上の主義主張において、私が平素敵視してゐる人々も決して少くない。私は自己の所信に忠である限り、將來社會上の問題について、これ等の人々と一致し提携する機會があり得るとは信じない。が、それもこれも、國家の限界内に立つての相對的斷案である。こと一たび國家の死活に關すれば、我々は社會上、經濟上の一切利害主張を超越し、個人的反感の矛を納めて、一齊に内を固め外に當るの覺悟がなければならない。

建國祭(『自己を語る』より)



他にも高畠さんは至る所でこの種の発言をしている。そしてその主張は佐藤氏の発言と似たり寄ったりとまでは言わずとも、相当の親和性があるように見える。だから高畠さんがそういう思想の持ち主であるのだから、高畠さんが好きだという人なら、その種の思想そのものに共感してもおかしくはない。しかし高畠さんは次のような発言をしていることも忘れてはなるまい。

マルクスの本領は古いとか、新らしいとかいふところにあるのではない。マルクスは死んでも、時間は死なないのだから、時間の齎す新しい事實のうちには、マルクスの學説を古くしてしまふところも、無論あるにはあるだらうさ。けれどもマルクスの偉いところは、たとひ彼れの學説の全部が時間で腐らされても、時間の力ではどうにもすることの出來ないある種の生命を掴んでゐるところにあるのだ。

この生命は彼れの學的實感の強さ鋭さから來てゐる。彼れは單なる組み立ての雄ではない。社會人生の生きた現實に對して、錐の穗のやうな實感力を有つてゐた。そして、この鋭い實感力に觸れた現實の生命は、直ちに彼れの鋭い直感的推理を通して尨大なる學的構造の鎔爐のなかに流し込まれる。彼れの偉大さは試問(フラーゲシユテルング)の急所にあるのだ。必ずしも、問題の解決案そのものにあるのでない。彼れの提出した學説的命題は、時間の齒にかかつて磨滅することもあるだらう。けれども、彼れの捉へた問題の急所は、永遠に腐滅することがないと信ずるのだ。

マルクスの不滅性(『論・想・談』より)



自分の好きなものに対して牽かれるのはしかたのないことで、逆にそれあるが故に価値ある発言ができるとも言い得るが、あまりに命題そのものにこだわりすぎると、かえって命題の価値そのものを失わしめることになりかねない。あるいは高畠さんの価値とは、実は彼の提示した国家社会主義や愛国的発言そのものには無いのではないか、ということにもなる。

まぁ私の好きな高畠さんは「マルクスの不滅性」に現れた高畠さんなので、佐藤氏のとは違うのかも知れない。おのおの自分の信じる道を進しかなく、他者の意見と異なるからといってどうこういうでもない。ただ今回の佐藤氏の論文を読んで、なんとはなく佐藤氏の尊敬するか好きかする高畠像と私の夢想する高畠像とは異なるものだという気はした。

そんだけ。

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