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春秋釈例

昨日からのことだが、近くのスーパーでレトルト製品が品薄になっている。昨日は偶然かさもなくば被災地に優先的に送っているのかと思っていたが、必ずしもそればかりが原因ではないのかもしれない。量販店だから普段から箱買する人もいるのだが、なんとなくそれも普段より多い気がする。いざというときの備えを普段からしておかなければならないと思ったのだろうか。でもまぁこの近辺は数年前にそこそこの地震があったはずなんだが。


春秋釈例十五巻

永楽大典本

(晉)杜預の撰

杜預の生涯は『晉書』本伝に詳しい。本書の論点をまとめるとこうなる。──春秋経の本義は『伝』にあり、『伝』の義例は「凡」にある。『左伝』の「凡」は五十、その実質は四十九である。これらはいずれも周公の垂れたもうた書法であり、史書の旧章である。仲尼はこれを拠りどころとして『春秋』を修めた。一方、『左伝』に「書(書す)」「不書(書せず)」「不言(言はず)」「不称(称はず)」「書曰(書して曰く)」とあるのは、いずれも仲尼が新たな意味を込め、大義を発明した部分であり、これを変例とよぶ。また旧史に記述のないところで仲尼の意に適合していた場合、仲尼は旧史の文面をそのまま春秋の義として利用した。さて〔『左伝』は編年体であり、記事が各所に散在している。そのため各年の記事を〕相互に比較しなければ、〔仲尼の下した〕褒貶の意図を明らかにしがたい。これを明らかにするために杜預は義例および地名、家譜、暦数を〔四十〕部の書物として別にまとめた。その体裁はまず経文と伝文の数条を列挙してその意味するところを示し、次に『伝』の「凡例」を引き、最後に杜預自身の解釈を記したもので、これを『釈例』と名づけた。『釈例』のなか、地名(*1)は『泰始郡国図』を、世族譜(*2)は劉向の『世本』を拠りどころとした。この『釈例』と『集解』とは相互に表裏の関係にある、と(*3)。

さて『晉書』によると、「杜預は孫呉を平定した後、余裕が生じたことから、『春秋経伝集解』を著した。またこれとは別に諸家の家譜を参考にして『釈例』を著し、さらには『盟会図』『春秋長暦』をも著すことで、一家の学を完成させた。これらは杜預が老年になってから出来上がったものである」という。しかし本書の土地名篇に「呉において孫氏が僭号を用いていたので、江表の地名は粗略である」とあるのによれば、本書の草稿は孫呉平定以前に完成していたはずである。それゆえにか本書に記された地名には両漢三国の郡県が多く、西晉時代のものと完全には一致しない。また『盟会図』と『長暦』は両者とも『釈例』中の一篇であり、独立した書物ではない。杜預の著書については、〔杜預自身の手になる〕春秋経伝集解序を参考にするのがよく、『晉書』の記載は実情に一致しない。そればかりか『晉書』は「杜預の文章は実直で堅苦しいというので、当時の人々に重視されず、ただ秘書監摯虞の称賛を得たにすぎなかった」ともいう。しかし嵇含の『南方草木状』には、「晉の武帝は杜預に一万枚の蜜香紙(*4)を与え、『春秋釈例』および『經傳集解』を書き写させた」と記されている(*5)。これによるならば、杜預の『春秋経伝集解』等は当時から既に重視されていたものと考えられる。すなわち『晉書』の記述は不確実なものと言わねばなるまい。

『釈例』の記録は『隋書』経籍志以後にあらわれ、それらはいずれも十五巻とする。しかるに(元)呉萊の後序にのみ「四十巻」と記されている。元代の刊本は〔十五巻本を〕分巻したものであろうか。明代以来、本書は世上から消失し、ただ『永楽大典』に三十篇と(唐)劉蕡の原序を残すのみとなった。そればかりか遺文〔三十篇〕中の六篇は釈例(*6)のみあって経文と伝文の引用がなく、その他の部分にも闕文が多い。このたびは『大典』から佚文を輯集してそれを篇ごとに並べ、さらに孔穎達『正義』および諸書引用の佚文を集め、不足分を増補し、『大典』佚文の誤謬を正した。そして原本の体裁とおぼしき全二十七篇十五巻にまとめ、呉萊の後序もあわせ付すことにした。

さて杜預の春秋経伝集解序には「『釈例』は全四十部」とあり、『崇文総目』には「全五十三例」とある。そして孔穎達の『正義』には「『釈例』は同じ事柄を「部」にまとめ、小異ある事柄はその附録としている。また特殊な経文で例と見なしがたいものは終篇に集められている。四十部の順序は、隠公即位から始まり、以下、初出の事柄の順に並んでいる。また世族譜と土地名は、例とは見なし得ないので、終篇の前に配置している。そのうち土地名は宋と衛が「垂に遇した」のが初出で、世族は「無駭卒す」が初出である。そして「無駭卒す」は「垂に遇す」の後にあるので、地名を世族譜の前に配している」という。現在、本書原本の篇順は考えるべくもないが、孔穎達の論述から推測するならば、経文に現れた事柄の先後でもって篇順を決めたものと推測される。また長暦篇は土地名と世族譜の後に配列するのであろう。なぜなら〔杜預は〕春秋経伝集解序において土地名と世族譜に論及した後、暦について論じているのだから。

(つづく)

(*1)『釈例』第四十四。
(*2)『釈例』第四十五。
(*3)以上、杜預の春秋経伝集解序の文をもじって杜預の春秋学を説明したもの。杜預の序文を知っていれば理解できるが、知らないと理解が難しい。要するに、杜預の私見によれば、孔子の作った春秋は旧史の文章に依拠したもので、その旧史の文章は周公の作った書法に依拠したものである。その書法を「凡(凡例)」という。ただ孔子は完全に旧史に依拠したのではなく、ところどころ新意を加えた。それが「変例」とよばれるものである。ただし旧史の文章の中、意図せずして孔子の変例と合致する部分は、孔子はことさらに手を加えることなく、そのまま旧史の文章を用いた。これらの凡例、変例を通じて春秋経の意味するところを理解するのが春秋学であるが、春秋経は編年体のため、凡例、変例が各年にちらばって存在し、初学者には発見しにくい。そこで杜預は凡例や変例をひとまとめにして学者の便に供そうとした。それが『釈例』である。とまあ、こういう感じのことになる。
(*4)蜜香樹の皮葉によって作ったもの。
(*5)『南方草木状』巻中の蜜香紙に見える。
(*6)『釈例』は経、伝、釈例という三部構成をとる。ここでの「釈例」は書名の『釈例』ではなく、『釈例』中の一構成要素を指す。

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