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宣和年間

宣和三年
正月、童貫が方臘討伐に向けて宣撫使に。張苑が叛乱を報告しても、王ほが遮って報告しなかったという話がここにも出ている。出所はどこなんだろうか。
二月、花石の禁止。編管及び安置の人の自便、復敘とある。方臘の乱にびびってるのだろうか。しかし編管人らは力があるんだな。つぎつぎに新法を廃止してる。やはり彼らには新法が特殊だという観念があったのだろうか。同じ新法系の話でも、官名戻すのは南宋に入ってからだしなあ。新法の改廃を調べるのも面白いな。杭州を奪回してるから、ぼちぼちだな。そういえば女真から使者が来たけど、童貫不在でうまくいかなかったらしい。
四月、方臘が捕縛された。梁師成が使用人に同進士出身を与えたことが記されてる。
五月、女真の使者がついに到着(童貫がいないとかで阻まれたので徒歩で国都に向かったとか前の記事に出てた)、でも朝廷ではなにもできず、童貫の帰国を待って対処するらしい。さすがは童貫。彼がいないと何もできないんだな。方臘の残党もおおむね始末された。
六月、方臘の残党狩り。災異を記してる。さすがは古い歴史書だな。呆れ返ってしまう。
七月、童貫の凱旋。
八月、女真の使者が帰国。話し合った内容は特に書かれていない。方臘が処刑された。
十一月、女真と宋との間で国書云々。さっきの使者のことはやはり重要な話だった。女真の契丹攻略が激しさをます。

宣和四年
二月、陳瓘が死んだ。
※以下、契丹と女真の絡みのものは省略。多すぎるので。ともかくカタカナ名であるべきところを漢字で書かれるとわかりにくい。
九月、王安石の子孫が表彰される。
十月、吾復た汝を信ぜず……徽宗から童貫とさいゆうへ。

宣和五年
五月、やはり鄭居中は出世している。阿骨打が死亡。
六月、張覚の乱。
七月、童貫と蔡攸が頗る徽宗の意を害して、王黼と梁師成が譚稹を進めたとある。なるほど。で、童貫は致仕。あ、福建路で蘇軾と司馬光の文集を刊行していたとある。で、破壊させて、元祐学術を禁止。
九月、蔡京の息子の一人が降格。蘇軾と黄庭堅を宗としているらしい。蔡攸の仕業だろうか。
十一月、王黼と梁師成の家に行く。なにか通説と違うような。

宣和六年
閏三月、元祐学術を禁止。
六月、元豊の法制を改めよとの主張は、大不恭をもって論ずるらしい。
八月から

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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