二〇七 七年,公伐邾,取須句。左氏曰:「寘文公子焉。」非也。僖公取須句,反其君,義事也,經不襃。今文公取須句,以封叛臣,惡事也,經不貶。不唯不襃貶而己,又略無所見。豈春秋之實邪。
二〇七 七年、「公伐邾、取須句」(公 邾を伐ち、須句を取る)。左氏 曰く、「文公の子を寘(お)く」と。非なり。僖公の須句を取り、其の君を反すは、義事なるに、経は褒めず。今 文公 須句を取り、以て叛臣を封ずるは、悪事なるも、経 貶せず。唯だに褒貶せざるのみならず、又 略して見る所無し。豈に春秋の実ならんや。
二〇七 七年、「公伐邾、取須句」(公 邾を伐ち、須句を取る)。【注1】左氏は「文公の子を寘(お)く」という。【注2】間違いである。僖公が須句を取り、その君を返したことは、義事であるのに、経は褒めていない。【注3】いま文公が須句を取り、叛臣を封じたことは、悪事であるのに、経は貶していない。ただ褒貶しないだけではなく、省いて経に示すことがない。これでいて春秋の事実といえるだろうか。
注
1 「春、公伐邾。三月、甲戌、取須句。」杜預の注に「須句、魯之封内属国也。僖公反其君之後、邾復滅之。書取、易也。例在襄十三年」(須句は魯の封内の属国なり。僖公 其の君を反すの後、邾 復た之を滅ぼせり。取と書すは易ければなり。例は襄十三年に在り)とある。
2 伝は「春、公 邾を伐つは、晉の難を間(うかが)ふなり。〔公 霸国に難有るに因りて小を侵す。〕三月甲戌、須句を取り、文公の子を寘く。礼に非ざるなり。〔邾の文公の子 叛して魯に在り、故に公 須句を守るの大夫たらしむ。大皥の祀を絶ち、以て鄰国の叛臣に与す、故に礼に非ずと曰ふ〕」という。なお亀甲括弧内は杜預の注。
3 『権衡』巻四の一六九条及び一七〇条を参照。
参考
・『劉氏伝』に伝なし。
・『意林』に説なし。
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