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好きになれないもの

昨日,『明儒学案』の修訂本について書いたが,折角なのでパラパラ眺めて見た。私は朱子学とか陽明学とか,そういうものが嫌いだ。特に陽明学は嫌いだ。もちろん,嫌いだからと言って,不当な評価をする気はないが,趣味で読む分には,自分の好悪を全面的に押し出すのは人間として当然だろう。

さっそく上巻を開くと,陽明学者のつまらん寝言が書いてあった。下巻を開くと,ここでも泰州学派という,陽明学者の中でも私が最も嫌いな集団の言葉が溢れていた。最後の東林とか劉宗周にいたっては,見る気もしないくらいだ。諸儒学案は,明朝初期までの最初の方は悪くない。しかし中頃になると,どうだかねえ,読みたくねーな,という感じに襲われる。

でも気を取り直して,黄宗羲のいう陽明の中軸,江右王門学案(江西の陽明学者)の中でも特に「深い人間」だったらしい王塘南とか定宇とか万思黙とかを見てみる。平天下の平は最も妙とか,意味不明なことが書いてあるが,しらーっとするのは避けられない。ちなみに平天下というのは,『大学』の八条目の最後,天下を平らかにすることを指す。分らない人は分らなくていい。人生になんの益もないから。

なんというか,私は陽明学に興味はないし,そこに現代的意味を感じられない。だから彼等のテリトリーには入っていない。彼等からすれば,人間の霊妙な心の働きを深く考え,それを可能な限り文字に写し取ろうとしたのだろう。この場合,深く考えるというのは,平たい意味での「頭で考える」ことではない。日常の,ごくささやかな日常の生活から,人間の心の霊妙で微妙な働きを察知することを意味する。そういう心の軌跡を,彼等は文字に書きとめたのである。だからもし私が彼等と同じテリトリーに入ることさえできるなら,彼等の遺した文章から,人心の精妙な軌跡を知ることが出来るし,その努力に感嘆もするのだろう。

しかし私は彼等の外に立っている。その私からして彼等の議論を読むと,まるで中世欧州の魔女のように見える。

自分のサークル以外の人間にはほとんど理解不能の言葉を駆使して,仲間同士で分っているとか分っていないとか言い合って悦に入る。外から見ると気色の悪い連中だが,その努力は大変なものである。また人間それ自身は決して有害でない場合が多い。中には泰州学派のように有害な連中もいるが,概ね大人しい人間が多い。しかしながら,その全存在は明らかに異質だ。

私にとって,陽明学は閉じられた学問なのだ。陽明学はその中に入らなければ意味をもち得ず,さればといってその中に入ればすでに足をとられいるのだ。それを脱却するには,それ自身まるごと焼き捨てなければならないような,そういう存在である。

昨今よく見かける,陽明学者の社会活動!みたいなのりで陽明学者を見るなら,それほど気色悪い存在には見えない。しかしそれは本当に陽明学者の本質なのだろうか。陽明出でて以後,陽明学の虜になった人間は,本当にそんな社会活動に魅力を感じたのだろうか。如何に昨今,そんな社会活動に注目が集まっても,当の陽明学者が熱心に聞き入った言葉というのは,気色の悪い言葉の数々ではなかったのだろうか。

私は陽明学の本質は,やはりその理解不能な気色悪さにあると思っている。


ちなみに陽明学が好きな人にケチをつける気はないので。そもそも好き嫌いというのは論理的なものではない。人間生活上,好悪が先に決まっていて,それを弁護するために難癖を付けると言う場合が多い。私の場合も,嫌いだからその理由を探したというに留まる。好きな人にはまた別に,好きな理由があるだろう。ただ予め言っておくと,食わず嫌いを除いて,本当に好悪が分かれる場合は,好きなものが好きである理由こそ,嫌いなものが嫌いである理由なのだ。だからはじめから分かり合えはしないのだ。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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