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晩年の神宗

神宗が晩年に司馬光を用いようと思ったというのは本当か?

簡単な所では,『宋史』と『續資治通鑑長編』(以下,長編)に以下の記事がある。

「元豐五年に新官制の施行を練っていたころ,皇帝は禁中で悩まれ,成案を出されず,さきに輔臣にむかって,『新官制の実施に当たっては,新旧(新法支持者と旧法支持者)の両者を用いたい』と仰った。また『御史大夫は司馬光でなければ駄目だ』とも。蔡確は進み出ると,『国是が定まったばかり。願わくは少しく遅らせたまえ。』王珪も蔡確を助けたので,取りやめになった。……元豊七年の秋,宴を催したとき,皇帝は疾病に冒され,はじめて立太子の意向を固められた。そこで輔臣に「来春に皇太子を建てる。司馬光と吕公著を師保とするつもりだ」と仰せられた。(これは邵伯温の『元祐辨誣』,および呂大防が著した呂公著の「墓碑」に拠った。大防はただ「公著」とだけ言い,「光」については言及していない。存疑。)」(『長編』巻350,元豊七年十二月戊辰)

「元豊の新官制が行われ,(王珪は)礼部侍郎から銀青光禄大夫を特に授けられた。(元豊)五年,三省の官名を正したとき,(王珪は)尚書左僕射兼門下侍郎を拝し,蔡確は右僕射になった。これ以前,神宗は執政に,『新官制の実施に当たっては,新旧の両者を用いたい』と言っていた。また『御中大夫は司馬光でなければ駄目だ』とも言っていた。王珪と蔡確は互いに色を失った。王珪はひどく狼狽し,自失茫然としていた。蔡確が『陛下は(西夏に奪われた)霊武の奪回を念願とされている。公(王珪)が充分に責任を果たされたなら,宰相の位は大丈夫ですよ。』王珪は喜び,蔡確に謝意を示した。帝はいつも司馬光を召そうとしていたが,王珪は兪充を慶州知事に推薦し,西夏平定の策を献上させた。王珪の腹は,軍隊を西夏の地に送り込めば,きっと皇帝は司馬光を召さないだろうし,たとえ召しても司馬光はやって来ないだろうというものだった。そして司馬光はやはり召されなかった。(宋は)永楽城で敗北し,十余万もの死者を出したが,これは王珪が発端を作ったのである。」 (『宋史』王珪伝)


第一は,北宋の官制は元豊五年に大変革を遂げるが,神宗はこの機会を利用し,新旧両派から人を取ることを考えた。その目玉の一つとして,司馬光を御史大夫に抜擢しようとした,とするもの。

第二は,元豊七年の秋,体調不良により万一を考えた神宗は,立太子の曉に,司馬光と呂公著を中央に呼び,皇太子(後の哲宗)の師保(先生)にしようとしていた,とするもの。

おそらくどちらの記事も新法関係者の資料には存在しなかったか,存在しても文脈を変えていたと思われるが,それではこの両者の出処はどこか。『長編』の李の自注から判断すると,直接的には邵伯温の『辨誣』と呂大防の「呂公著墓碑」に依って編修したと推定される。(ただし司馬光と御史大夫の典拠は微妙)『辨誣』は北宋末から南宋初年に生きた邵伯温が,紹聖年間に行われた宣仁太后への誹謗(誣)を雪ぐ(辨)ために著したもの。執筆の目的からして,旧法党系の資料になる。『辨誣』現存しないが,同じ邵伯温には『聞見録』があり,以下の記事が発見される。

元豊の官制が出来たとき,皇帝は「御史大夫は司馬光でなければ駄目だ」と仰った。蔡確は進み出て言った,「国是が定まったばかり。願わくは少しく遅らせたまえ。」元豊七年の秋になり,『資治通鑑』が完成した。……この時,皇帝は少し疾病に冒されたが,やがて癒えると,宰輔に「来春に皇太子を立てる。司馬光と呂公著を師保とするつもりだ」と仰った。皇帝は司馬光と呂公著の二公でなければ,皇太子を託すことは出来ぬとお考えだったのだ。来春の三月になり,まだ皇太子を立てられる前に,帝は崩ぜられた。神宗は公(司馬光)を深く信頼されていたのである。煕寧の初年,荊公(王安石)が新法の建議をしたとき,皇帝はこれに惑わされた。元豊の初年になり,聖人の御心は大いに悟られ,荊公を退け,用いられぬこと七年。公(司馬光)を御史大夫に任じ,東宮の師保にとお考えであった。恐らくは宰相にとのおつもりだったのだろう。ああ,天下の不幸,皇帝はまだ公を用いるまえに崩ぜられた。これこそ後世に朋黨の禍の起こった原因である。(『邵氏聞見録』巻11)


もう一つの資料,呂大防の「呂公著墓碑」は,朱熹の『三朝名臣言行録』所引注に「呂汲公神道碑」とあり,呂公著の神道碑であることが分る。ただしこれも同書引用の断片を除いて現存しない。神道碑は行状を本に草されるが,呂公著の行状の執筆者は不詳。もちろん行状も現存しない。

神宗が呂公著を師保に想定していたとする記事に限れば,『名臣碑傳琬琰集』下巻(呂正獻公公著傳實録)の中に同様の文句を見つけられる。『実録』は『哲宗実録』を指すのだろうが,これには蔡京の手になるものと,南宋に編纂された重修本がある。前者は蔡京の手になる通り新法系統の編纂物で,後者はそれを補正する目的で,旧法党の范祖禹の息子の范注が編纂したものである。随って旧法党色の強いものだったと推定される。ただし後者は,蔡京編修の『哲宗実録』を書き直した理由も『重修実録』に添付し,天下に公平を示したそうである。もちろん『実録』は現存しない。

通常,『実録』は官僚の子孫が,その行状を朝廷に提出し,それを本に実録編修の官僚が『実録』附載の「伝」を作製するのだが,『哲宗実録』は成立が複雑なので,現存の呂公著の『哲宗実録』所載の「伝」が何を本にしているのか,蓋然性という点でも不明とせざるを得ない。

随って,『長編』の記事に限れば,呂大防と邵伯温という旧法党系の人物の手になる資料を本にしたことになる。しかし両者ともに神宗から徽宗までの(後者は高宗最初期までの)政治を実際に見聞していた人間である。事件当事者の記事だけに信頼しかねるとも言えるし,その逆も成り立ち得る。

なお『宋史』の記事は『長編』より少し潤色がされている。これが史官の筆(『宋史』編纂官ではなく,恐らく南宋の史官)になるものが,それとも別に基づく資料があってのかは不明である。


ある事件が本当にあったのか否かは,論理的には判断不可能である。しかし神宗が晩年に司馬光や呂公著の登用を計ったか否か示す現存資料の有力な根拠という点に限るならば,旧法党系の手になる資料に基づいているようである。ただしそれは北宋後半の現実政治に無関係な南宋の人間が伝文に基づいて作ったものではなく,該当時期に実際に活躍していた官僚や知識人の手になる文章に基づいたものである。

ちなみに神宗崩御の後,蔡確や邢恕が旧法党(当時は旧人とか呼ばれていた)を用い,自分で自分の首を絞める結果になったという意見もある。元祐の始めに死んだ程は,むしろ司馬光らが政治を執らず,蔡確や章惇らに新法を改訂させた方が無難に行われるのではないかという向きのことを論じている。

原文
「初,元豐五年,將行官制,上於禁中自為圖,帖定未出,先謂輔臣曰:『官制將行,欲取新舊人兩用之。』又曰:『御史大夫非司馬光不可。』蔡確進曰:『國是方定,願少遲之。』王珪亦助確,乃已。……是歳秋宴,上感疾,始有建儲意。又謂輔臣曰:「來春建儲,其以司馬光及吕公著為師保。」(此據邵伯温『元祐辨誣』,及呂大防所為「呂公著墓碑」。大防止稱公著,不及光。當考。)」(『長編』巻350,元豊七年十二月戊辰)

「元豐官制行,(王珪)由禮部侍郎超授銀青光祿大夫。五年,正三省官名,拜尚書左僕射兼門下侍郎,以蔡確為右僕射。先是,神宗謂執政曰:『官制將行,欲新舊人兩用之。』又曰:『御中大夫,非司馬光不可。』珪・確相顧失色。珪憂甚,不知所出。確曰:『陛下久欲收靈武,公能任責,則相位可保也。』珪喜,謝確。帝嘗欲召司馬光,珪薦兪充帥慶,使上平西夏策。珪意以為既用兵深入,必不召光,雖召,將不至。已而光果不召。永樂之敗,死者十餘萬人,實珪啓之。」 (『宋史』王珪伝)

元豐官制成,帝曰:「御史大夫,非用司馬光不可。」蔡確進曰:「國是方定,願少俟之。」至元豐七年秋,『資治通鑑』書成。……時,帝初微感疾,既安,語宰輔曰:「來春建儲,以司馬光、呂公著為師保。」帝意以為非二公不可託聖子也。至來春三月,未及建儲,而帝升遐。神宗知公之深如此。當煕寧初,荊公建新法之議,帝惑之。至元豐初,聖心感悟退荊公,不用者七年,欲用公為御史大夫,為東宮師保。蓋將倚以為相也。烏乎,天下不幸,帝未及用公而崩。此後世所以有朋黨之禍也。(『邵氏聞見録』巻11)



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お答えいただき有り難うございます。

丁寧な現代語訳有り難うございます。
私は神宗が司馬光や呂公著たちを用いようとしていた事を捏造と疑っていましたが、少し無理があるようですね。やはり呂公著の墓碑に嘘を書くとは思えません。ただしょう伯温の著作に関しては、父のしょうようと司馬光の関係から少し疑わしいかなと思っています。
私は神宗が長寿を全うし新旧両派を用いて(事実である事前提)いれば、後の新旧両派の対立はあそこまで酷くならなかったと思います。長文失礼しました。

それはありうると思います

コメントありがとうございます。

邵伯温の記録は確かに怪しいですね。范沖の『実録』と南宋以後の記録は,基本的に伯温の記事に基づいているので,かなり問題があります。そこで呂大防の神道碑が重要になります。神道碑は普通「行状」と呼ばれる伝記史料(死亡者の近親や弟子が書く)を下敷きに執筆しますから,呂公著の「行状」を誰が書いたかが問題になります。もし呂公著の行状を伯温やその周辺が書いておれば,事実上,司馬光と呂公著の復帰問題は伯温関係者が情報源だということになってしまいます。

新旧両者の暗闘は,関係者以外は同時代人でも不明な部分が多かったそうです。政局そのものが複雑であり,さらに公文書や手紙の偽造が混乱に拍車を掛けたと思われます。
こんな話しがあります。鄒浩という官僚が,元祐皇后(哲宗の嫁)の廃后を批判したことがありました。上奏文は宮中にのみあり,中味は世間に知られていませんでした。ところが,後々,蔡京一派は上奏文に細工して,全く関係ない文章を作り,鄒浩は皇后の暗殺を是認したと言って鄒浩を陥れたのです。当時,鄒浩の上奏文を知らない一般官僚は憤慨し,時人の反感をかったそうです。
神宗末年以後の政局は,なかなか理解が難しい問題ですね。おかげさまでいろいろと考えさせられました。ありがとうございます。

党争は激化しなかったか否かですが,これは私もあり得ると思います。もしかすると,「北宋」は金朝が生まれても生き残り,南宋滅亡か金朝滅亡のころまで存在して,単に「宋」王朝だったかもしれません。
ただ新法は言われるほどには成功せず,神宗の後半には既に崩れ始め,章惇も修正やむなしと言っていました。募役法は評価が高いですが,これも違う方向で生き残ったようです。もし新法が所期ほどではなく,宋が三百年ちかく続けば,王安石の改革は,明の張居正と同じだったかもしれません。新法が有名になったのは,旧法との対立のおかげですから。

最後に,長文を気にされるようでしたら,リンクの「偏局観測所」にあるメールアドレスに送ってもらってもいいですよ。あれも私の運営サイトですから。ここにリンクをつけると,迷惑メールがいやなので敢えてつけません。悪しからず。

返信有り難うございます。

私のような素人の質問や疑問が江藤さんのお役に立てて本当に嬉しいです。
党争云々の件、確かに北宋が続けば王安石の改革は張居正の改革の様になっていたかもしれませんね。ただ張居正の死後改革が萬暦帝に反故にされたようなことにはならなかったと思います。多分新法そのものは現状に合わせて修正されていったんじゃないかと。神宗も元豊年間に官制の大改革や国威発揚の為に開封の城壁の修築や西夏遠征(残念ながら失敗してしまいましたが)と頑張っているんですけどね(梅原郁氏とかの評価は低いですが(^_^;))。
メールアドレスの件、ご親切に有り難うございます。こちらの方が使い易いので私は今後もこちらにコメントしたいと思います。
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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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