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自暴自棄

『孟子』が出典のこの言葉、自暴も自棄も「みずからそこなう」という意味で、もちろん「暴力を振るう」や「暴れる」という意味ではない。

では「みずからそこなう」とは何ぞや。孟子はみずから仁義をすてることだと言う。仁義とはまた古風な表現だが、強いて現代的に解せば、「道徳」とか「人間として守るべきもの」という程度の意味になる。つまり自暴自棄とは、「人間として守るべきものを、自分自身で投げ出し、諦めてしまうこと」と、このような意味になるだろう。

さて、自暴自棄の人間は助けられない。理由は言わずもがな、みずから助かろうと思わない人間を助けることは、不可能だからだ。

例えば、死を覚悟した人間は、この世に背を向けた人間だ。生きようと思えばこそ、自分を大切にする。他者との関係が必要になる。思いやりも必要になる。しかし自ら死を決意した人間に、他者との関係など必要ない。あるのはただ自分だけだ。しかもその自分すら不要なのだ。こんな人間をどうして救えるのだ。一体、どんな言葉をかければよいというのだ。自暴自棄の人間は救いがたい。

しかしこれは正常な人間から見た場合の言い草に過ぎない。私はもう駄目だというところから話しを進めれば、またその後の展開も異なるだろう。もはや何も必要なく、ただ死を待ち、生を棄てるとき、他人との関係にどのような意味があるだろうか。死してすべてが終わりなら、死後の名声に、あるいは死後の世の中に、いったいどのような価値があるだろうか。

こうなればもう手は付けられない。経験と学問を両立させることが重用だと言われる。しかし経験的にも学問的にも自暴自棄になった人間ほど手に負えないものはない。あー言えばこー言う、しかも根本が違うものだから論破できない。

たまに相手の理屈を論破すれば、考えを改めると思っている人がいるが、それは全くの間違いだ。理屈なんてものは、初めの第一歩が正反対の場合、正反対に伸びていくものだ。突き詰めて突き詰めて突き詰めたさきの第一歩を、正反対に歩み始めれば、もうそこで議論は終わりだ。有益なものを導き出すものが議論だといったところで、有益の内容が正反対なんだから、どうにもならない。

いちど自暴自棄の回路に追い込むと、なかなか回復が難しい。経験したことのない人間は、努力が足らないとか、人の気持ちが分かっていないと批判するが、本当のところ、自暴自棄の人間にとっては、この批判そのものが無意味なのだ。努力に意味を求めず、人の気持ちに価値を感じない人間の、何が痛むというのだ。これは経験しなければ分らない。人間は思いのほか不便な生き物なのだ。

もっとも、自暴自棄を通り越して、ただ「何もない」とでもいう境地に達すると、面白いことに、これは有害な人間にならない。ただ無益だというに止まる。

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ジャンル : 本・雑誌

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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