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『太極図説・通書・西銘・正蒙』(岩波文庫)

今を去ること数十年前、戦前に岩波文庫から出版された本書は、もはや稀覯本といっても言い。まれに古本屋で見かけることもあるが、なかなかの高値が付いており、普通の人間の買えるものではない。もし千円前後で入手可能なら、ぜひとも買っておきたい本といえるだろう。

とはいえ、たしかにAmazonに本書のページはないが、岩波文庫のサイトには一通りの解説が存在し、またISBNもついており、単に「在庫切れ・重版未定」という扱いらしい。もしかすると再版される可能性も絶無とは言えないようだ。

さて、説明が前後したが、本書はその書名の通り、周敦頤の『太極図』『図説』および『通書』、張載の『正蒙』(附「西銘」)の全文の訳注だ。いずれも朱子学を習得するための必須の文献で、これに朱熹とその畏友呂祖謙の編纂した『近思録』(本書の大部分をその中に含む)を加えれば、朱子学前史で目にすべき諸命題は、ほぼおさえることができる。

ただし本書の購入を考えている人は、一つだけ気をつけておかなければならない点がある。本書にに上の諸書が収録されているのは確かだが、いずれも現代語訳はなく、単なる書き下しを収めるのみである。各条文に注釈が附されてあるとはいえ、分量は少なく、今日の研究水準から見て、既に訂正を要する部分も少なくない。さらに各書に対する解説もほとんどなく、底本の選定もとうてい最善とは言い難い。本書に代わる便利本のない現状では、本書の利用価値はまだあるが、それはやむを得ぬからであって、必ずしも進められるものではないのだ。その意味から言えば、仮に本書が再版されても、しかるべき学者が大幅な改訂を加えない限り、喜べるものではない。

しかし私は本書に特別の愛着を感じている。それは本書の編纂者について思うところがあるからだ。本書の訳註者は、西晋一郎・小糸夏次郎の両氏ということになっている。西氏は現在でこそ無名になりつつあるが、かつては西田幾多郎と並び、哲学・倫理学の大家として知られた。一方の小糸氏は、今で言う中国哲学ないし中国思想の専門家だった。そして本書は恐らく実質的には小糸氏の手になったと推測される。

小糸氏は西氏以上に知られていない。かくいう私も詳しくは知らないのだが、幸いにして山田昌治氏の『興亡の嵐』(かんき出版、昭和55年、216頁)には次のように記されている。すなわち小糸氏は、その晩年に建国大学で教鞭をとり、同大学の学生を守るためソ連軍に連行され、最期はシベリアのタシケント・アルアマタの収容所で病死した。昭和21年3月9日のこととある。山田氏の中に、次のような一節が引かれており、一段と興味を引く。

終戦でオレたち建国大学の学生は、お互いにいろんなことを経験したよなあ。それまでは立派に見えた先生の中には、戦後、すっかり変ってしまった先生もあった。だが、小糸先生は、その中でも少しも変らなかった数少ない先生の中の一人だった[……]」(207頁)


文中の「変らなかった」とは、国粋運動に余念がなかったという意味ではなく、「小糸助教授は、敗戦とソ連軍の侵入掠奪のあの混乱の中で、冷静そのもの、読書三昧の毎日であった」云々(208頁)との意味である。

敗戦の混乱の中、小糸氏は漢学の講義をしていたらしいが、その生徒達が進駐してきたソ連軍の嫌疑を受けたという。それに対して、小糸氏は生徒を助けるべく、進んでみずからソ連に連行され、あのシベリアの地で亡くなったというのだ。小糸氏の妻はその少し前に亡くなり、遺児は建国大学の学生が艱難辛苦を経て日本の故郷に連れ帰ったという。

小糸氏の遺児を連れ帰った建国大学の学生の立派さは言うに及ばず、生徒を守るべくシベリアに散った小糸氏も当然にして偉人と言うにふさわしい。もはや教師の鑑というには収まり切らないものがある。時として戦争は偉人を生むが、小糸氏も地味ながら偉人の一人に数えられるだろう。

なお小糸氏については、山田前掲書のほかにも『歓喜嶺 遥か』下(建国大学同窓会、平成3年)に「小糸先生のことなど」がある。後者の方が当事者の文章である。

本書は朱子学の必須文献が手軽に持ち運べるという点は重宝できる。しかし内容は既に古く、また専門家以外にはあまり勧められず、さりとて専門家がこれを使う必要はあるまい。しかし小糸氏の学問の賜かと思うと、私としては、何とはなく本書を重宝したい気にもなるのだ。

最後に本書の訳註方針を挙げておくと以下の通り(本書の訳註者の著作権は既に切れている。なお原文は旧仮名・旧漢字)。

一、太極図説・通書は張伯行の正誼堂全書康煕刊本を底本とし、徐必達の周子全書本、黄宗羲の宋元学案本などによって校合した。
一、西銘・正蒙は朱軾の張子全書康煕刊本を底本とし、徐必達の張子全書本、宋元学案本、正誼堂全書本、李光地の注解正蒙、王夫之の張子正蒙注などによって校合した。
一、太極図説と西銘は、極めて短編のため読者の便を思って朱子の解を掲示した。而して太極図説解は正誼堂全書本、西銘解は朱軾本に拠って訳出した。但、朱子の解釈に就て異説のあるところは、伊藤東涯などの説に参酌して簡単な註を附しておいた。
一、註は大体出典及び校合の跡を示す程度に止め、訓詁的注釈を避けることに努めたが、已むを得ぬところは訳文の中に()で括って捜入した。
一、註に徐本とあるは徐必達本、正本とあるは正誼堂本、学本とあるは宋元学案本、朱本とあるは朱軾本、王本とあるは王夫之本を指す。
一、正蒙には張子の自註が散見し、王植の正蒙初義によれば、参両・神化・至当・三十・楽器の諸篇に見ゆるもの各一、王禘篇に五、乾称篇に四、と言へるも、諸本或は後人の註釈を以て誤って自註とせるものあり、何れを自註とみるかが一定せず、且つ思想の上からはそれほど重要と思はれるものも見当らぬので、煩を避けてすべて省略した。



西晋一郎・小糸夏次郎『太極図説・通書・西銘・正蒙』(岩波書店、昭和13年。岩波文庫207-209)

改訂:2010/02/10

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