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四庫提要(春秋類)008

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

陸淳『春秋集傳辨疑』10巻

○江蘇巡撫採進本

唐の陸淳の撰で,啖助・趙匡両氏の三伝駁正の発言を叙述したものである。〔本書について〕柳宗元の手になる淳の墓誌には『辨疑』七篇とあり,『唐書』芸文志も同じであり,呉萊の手になる序文も七巻と言っている。ところがこの〔手許にある〕本は十巻である。誰が分けたものか不明である。刊本には萊の序文の末尾に,延祐五年十一月の集賢学士の克酬(原本は「曲出」に作る。今,改正する)の発言を添付しているが,そこには「唐の陸淳の著書――『春秋纂例』『辨疑』『微旨』の三書は後学に有益である。そこで江西行省に上梓するよう求めた」云云とある。分巻されたのはこの時であろうか。

淳の撰述した『纂例』は,啖助が逐条列挙し,みずから筆削の主旨を明らかにしたものであり,三伝批判については大意を挙げるに止めたものと考えられる。本書は三伝の学説の中で『纂例』に採用しなかったものを取り上げ,その間違いを列挙し,一字一句につき批判を加えている。このような理由で辨疑と名づけられたのである。引用は趙匡の学説が多く,啖助はそれに次ぐ。冒頭に凡例一篇計十七条を冠しているが,〔それは『集傳』で〕経文や伝文を節録したことについて弁明したものである。〔三伝の学説の〕採用不採用については,経文の年月にしたがって説明を加えている。

本文中,「鄭伯克段(鄭伯 段に克つ/鄭伯が段に勝った)」の伝(左氏)について,啖氏は「鄭伯は母を幽閉しはしなかったろう」と言うが,臆断の嫌いなしとしない。このようなやり方を認めては,信頼できる史書など存在しなくなる。まして大隧の古跡は『水経注』に明記されている。左氏の虚偽だと言い張ることはできまい。この種の論法は,伝統に泥むこと以上に弊害を生じるものである。(*1)

また「斉衛胥命」の伝(公羊および穀梁)について,伝の学説は『荀子』と同じである。〔公羊や荀子が生れた〕当時,聖人〔孔子〕の生きた時代に接近していたのだから,きっと〔筆削についての〕伝承があったのだろう。ところが趙氏は「無礼を譏ったのである」としている。この種の論法はあら探しの譏りを免れまい。(*2)

また「叔姫歸于紀(叔姫 紀に帰ぐ/叔姫が紀に歸いだ)」の伝について,穀梁は「〔経文に〕『逆(むか)えたこと』を言わぬのは,卑しきものが逆えたからである」と言っている。淳は「逆えたことを言わぬのは,夫みずから逆えたからである」と言う。そもそも礼に於いて,媵(=叔姫)を送ることはあっても,媵を逆えることはない。だから伝の間違いではあろう。しかし礼として,みずから妻を迎えることはあっても,みずから娣姪(=叔姫)を迎えることはない。淳の説も当を得たものと言えぬ。この種の論法は,相手を批判すればするほど支離に陥るといったものである。(*3)

しかし左氏は事実に根拠はあるが論述に粗雑なところが多く,公羊と穀梁はいつも曲折を吐き,中でも公羊は特にひどいものがある。漢代以来,学者は専門を守り,甘きを論ずるものは辛きを忌み,赤を認めるものは白を譏っていた。本書と『微旨』が世に出て以来,三伝の誤謬を攻撃し,それを利用すること(*4),往々にしてその核心を衝くものがあった。美点と欠点が並び存するとはいえ,その核心に就いて見れば,確かに漢代以来の学者が未だ発見し得なかった〔聖人の微旨を明らかにした〕ものがある。根拠のない空論を振りし,末節を争うような〔末流の〕学者と同列に論ずることはできない。

『四庫全書総目提要』巻26


(*1)春秋始まってすぐ見える鄭伯(鄭の莊公)とその弟の公子段との争いを前提に置いた話し。兄弟の争いの詳細は『左氏伝』隠公元年伝を参照のこと。『左氏伝』の記事を簡単に説明すると,鄭の莊公が即位した後,弟の公子段と権力闘争を始めたが,兄弟の生母は弟に加担した。後,兄の莊公は弟の公子段を追放(または殺害)するに至り,弟に加担した生母に対しても,黄泉の国でなければもう面会しませぬと言って幽閉した。しかし莊公の生母に対する情愛は絶ちがたく,潁考叔の助言を得て,地下道を掘って(黄泉の国になぞらえて)生母に面会し,親子のわだかまりは解けたというお話し。この時の地下道を隧(大隧)と言った。この『左氏伝』の解釈に対し,啖助は『辨疑』巻1の鄭伯克段于鄢条に於いて,鄭の莊公は一時の迷いで弟の訓育を誤ったに過ぎぬのだから,生母を幽閉することなどあり得ぬと論断した。この啖助の見解に対し,四庫官は,『左氏伝』が指摘する生母幽閉事件に登場する「大隧」は,『水經注』(古代の地理書)に確かに存在するのだから,『左氏伝』のエピソードが全くのニセモノだとは考えられない。(大隧は四庫本『水經注』の巻22に見える)啖助の論断は,単に自分の思いこみを論断の根拠にしており,到底その正当性を認められない。自分に都合の悪い史実はすべて間違いだというような論法を認めては,あらゆる歴史書は無意味になってしまう,伝統的学説を盲信する学者よりも危険なやり方だ,と主張したのである。

(*2)胥命は桓公三年に見える経文の文句。古来,難解の一つに数えられるものである。胥命は諸侯同志が約束することを意味するが,これは誓約書を作り,生贄の血を注いで神に約束の実行を誓うという儀式を行わず,単に口約束ですます。つまり諸侯同志の発言は信頼で結ばれており,一々誓約書を交わしたり,神に誓う必要はないのである。ところが春秋の時代はそのような口約束はほとんど無意味であったから,敢えて誓約書を作り神に誓う「盟」の儀式を行った。ところが桓公三年に齊侯と衛侯は胥命を行っている。諸侯が勝手に会合を持つのは好ましくないとはいえ,盟の儀式を行うよりはよほど善い。だから公羊伝と穀梁伝は「経文に胥盟と書かれてあるのは,ほぼ正しいことだということを聖人が読者にお示しになったのだ」と論評を下した。これに対し,趙匡は『辨疑』巻2の桓三年齊侯衞侯胥命于蒲条に於いて,「会も寓(注‐いずれも経文に見える言葉)も盟を言わぬ。会や寓も〔胥命と同じく〕口約束だけですますものだ。なぜこの〔胥命の〕経文だけを特別視できよう。また〔齊侯と衛侯の〕二君は賢君といえず,特異の事迹もなかった。経文から判断すれば,〔胥命と書いてあるのは〕齊侯と衛侯には人君として行うべき礼がなかったことを譏っただけだなのだ」と批判した。趙匡は胥命を「諸侯の会合に相応しからぬ粗雑な会合」とみなしたのであろう。この趙匡の見解に対し,四庫官は,『春秋経』が成立して以後,孔子の遺志は弟子達に伝えられたはずだが,その遺志は戦国末期にはまだ残っていたはずだ。その戦後末期の大儒である荀子には,「春秋は胥命を善しとしている」(大略篇)とある。ならば胥命を善と理解するのは孔子の遺志と認めることができ,趙匡のような勝っては発言は慎むべきだということになる。四庫官からすれば,趙匡は無理矢理でも三伝の間違いを見つけ出し,別の解釈を導こうという姿勢があるように見えたのである。なお現在では『荀子』大略篇は成立の遅い篇とされている。

(*3)叔姫云々は隠公七年に見える経文。穀梁伝および范注に従えば,叔姫は五年前に紀に嫁いだ伯姫の媵ということになる。媵とは夫人が他家に嫁ぐとき,付き添いでやって来る親族の女性を指す。また叔姫の場合は,伯姫からすれば,伯姫の娣姪(妹もしくは従姉妹)となる。陸淳の発言は『辨疑』巻1の七年叔姫歸于紀条に見えるもので,「穀梁は『逆を言わぬのは何故か。卑しきものが向かえた逆えたため,言うに足らぬからである』という。逆を言わぬのは,いずれも夫じしんが逆えたからである。経文に書さぬのは,尋常のことであれば書さぬからである」という。これに対し,四庫官は,媵に夫の出迎えも親迎もないとし,媵に出迎えを認める穀梁の学説を斥ける一方,媵の親迎を認めた陸淳の学説も達論とは見なさなかった。なお礼には「諸侯は夫人を迎える場合に親迎(みずからお出迎えすること)すべきだ」とする規定があると言われるが,これには古典籍中に反論があり,定説とはなっていない。親迎云々は宋代の解釈で大もめになった議論の一つでもある。

(*4)原文「抵隙蹈瑕」:抵隙は間違いを批判すること,蹈瑕は失敗を利用すること。直後の「往往中其窾會」と併せて,「陸淳らの三伝批判のポイントは,なかなか核心をついていた」という意味と推測される。「三伝の誤謬を攻撃し,それを利用すること」と訳したが,「蹈瑕」の意味の取り方には自信がない。

*思わず長くなってしまった。疲れるので次回から細かい注釈は省略する。

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