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四庫提要(春秋類)015

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

劉敞『春秋伝』15巻

○内府蔵本

宋の劉敞の撰。敞の著書の中,『春秋権衡』と『意林』は宋代に刊本があったが,本書は家々に蔵されたまま抄本として流伝した。(*1)近年,通志堂において『経解』に収められ(*2),ようやく刊本が生れた。このため僞作を疑うものもいたが,本書の議論や体裁を調べると,敞の他の著書とぴったりと一致しており,とても後世の人間の贋作し得るものではない。

本書は三伝の事迹を節録しているが,〔その取捨は〕自己一身の考えによったものである。(*3)褒貶や義例は公羊伝と穀梁伝から採る場合が多い。例えば,莊公が郕を圍んだ後,軍をもどしたことをもって仁義のこととし(*4),公孫寧と儀行父をもって国家存続の功績があったとし(*5),晉が先穀を殺したことをもって過失を忌んだとし(*6),九月の郊祭をもって人を犠牲にしたとする(*7)具合である。そのため「趙鞅 晉陽に入り以て叛す」の一条(*8)などは,二伝が「地を以て国を正した」とする間違いをそのまま襲っている。これらは誤解や固執の弊害とも言うべきものである。

本書の経文は三伝〔の文字〕を混用し,一伝を中心としたものではない。いつも経と伝を連ねて区別を設けず,頗る〔経伝間を〕混乱させている。(*9)また好んで三伝の字句を増減し,しかも改竄によって〔三伝の〕真意を違えたところが多い。例えば,『左氏伝』には「惜しむらくは,国境を越えれば〔罪を〕免れたものを」という一句(*10)がある。後世,孔子の言葉とは考えられぬと言われたところだが,敞はこれを「賊を討てば免れたものを」と改めた揚げ句,「孔子が言った」と付け加えており(*11),まったくのでたらめである。黄伯思の『東観餘論』を見ると,「『尚書』の武成篇を考訂したのは敞からである」(*12)とある。つまり宋代の経文を改める弊風は,敞が先導となったのである。伝を改めるに躊躇しないのも当然である。

しかしながら大旨から論ずれば,経の主旨を得たものが多い。蓋し北宋以来,春秋学に新解釈を提示したのは孫復と敞からだが,復は啖助・趙匡の余波を受け,ほとんど三伝を用いなかった。しかし敞は三伝に全く従うことはなかったが,伝を全く用いぬこともなかった。だからその解釈ははるかに復より優れているのである。

『四庫全書総目提要』巻26



(*1)間違い。各地で何度も出版されている。
(*2)原文「近時通志堂刻入經解」。近年,通志堂が〔本書を〕印刷して『〔通志堂〕経解』に入れ云々の意。
(*3)直訳すると「断ずるに己が意を以てす」というもので,宋代の経学を批判するときによく利用されるフレーズ。現代の読者には理解しにくいが,要するに,何の根拠もなく主観的に論断することを指す。ここでは,三伝に引く事迹の中,根拠もなく「どれがただしい,どれが間違い」と判断すること。
(*4)莊8年のこと。
(*5)宣11年のこと。
(*6)宣13年のこと。
(*7)成17年のこと。
(*8)定13年のこと。紀年だけ挙げるのも面白くないので,本条だけ,四庫官の判断基準を示しておく。『春秋傳説彙纂』巻35の晉趙鞅歸于晉条に云う,「案ずるに,臣の罪は叛より大なるは莫く,春秋の必ず誅す所なり。趙鞅 地を専らにし以て叛き,韓・魏に結び以て其の君を脅かし,復た晉に入る。聖人の之を書すは,晉侯の刑を失ふを譏る所以にして,而して三卿分晉の禍 実に此より始まればなり。公穀は察せず 趙鞅 地を以て国を正すと謂い,陸氏淳は君に叛くに非ざるなりと曰い,孫氏復は此れ王法の赦す所なりと曰い,劉氏敞は其の忠義 恃むに足るなりと曰う。謬妄相承け,以て訓とすべからず。今,並びに之を刪す」とある。陸淳・孫復・劉敞と四庫官と,どちらに軍配をあげるかは,人によって異なるだろう。
(*9)春秋を原文で読んだことがないと分りにくい。左氏伝は経文と伝文とが離れており,どこが経文で,どこが伝文か一目で分かる。公羊と穀梁は経伝が連書されており,初心者は経文と伝文との区別を間違えやすい。宋代以後は注釈形態こそ公羊と穀梁をまねたが,経文と伝文を区別するのが一般的であった。よくある形式が,経文を一条引いた後,改行して解釈を述べるというものである。しかし劉敞は公羊や穀梁(恐らく唐石経のまねだろう)のように,経文と伝文を連ねて書くので,どこまでが経文でどこからが伝文か一目で分からない形態の注釈書を作った。
(*10)宣2年左氏伝に見える。
(*11)根拠なく左氏伝の文章を改竄した揚げ句,自分の文章の上に「孔子曰く」と加えて,あたかも孔子が言ったかのような注釈を作ったことを批判したもの。ここらは宋代改経の弊害としてよく引かれるが,四庫官の判断はあくまでも四庫官の立場からしたもので,宋代の経学からすれば別に弁解の方法はある。これも宋代流のテキストクリティークの所産なのである。
(*12)劉敞の武成改正については,『東観余論』巻下の跋古文書武成篇後条に言及がある。ただ内容は異なる。

(補足)内容にわたる注釈は控えるつもりだったが,連続投稿の関係で,少しだけ問題点を挙げておく。

四庫提要は本書の提要で,啖助・趙匡の流れを孫復に位置付け,その特徴を三伝全廃の学であるとした。また前回の『春秋劉氏伝』(前回の劉敞『春秋伝』のこと)の提要で,葉夢得の發言を引きつつ,孫復の礼制に対する不勉強を挙げ,劉敞から葉夢得の流れを一瞥した。分かりにくいが,四庫提要は漠然と,孫復と劉敞を区別し,劉敞に軍配を挙げたように思われる。また啖助・趙匡から孫復・胡安国への流れと,劉敞や葉夢得らの学者とを並列しているようにも見える。しかしここには少しく注意が必要である。

劉敞ヨリの葉夢得には『春秋讞』とよばれる書物がある。現行本は『永楽大典』輯佚書で序跋などが欠落しているが,陳振孫の『書録解題』にその序文の一部が残されている。それによると,葉夢得は自己の春秋学の淵源を啖助・趙匡‐劉敞に位置付けていることが分る。またその『春秋考』から判断すると,葉夢得らの立場に対立するものとして,孫復・欧陽修以下の三伝全廃論者が想定されていたことも理解できる。

また陳傅良の『春秋後傳』に序文を与えた樓鑰は,その序文の中で啖助・趙匡・陸淳から孫復・劉敞・程頤を経由し,胡安国・呂祖謙らに流れる春秋学説が宋代の主流であると指摘する。この樓鑰の立場は宋代によく見かけるもので,恐らく最大公約数的な見解だったのであろう。(もちろん例外も多いし,だいたい宋代の春秋学などという括り方が問題なのだが,これを問題にしだすときりがないので,ここでは触れない)

随って,四庫提要のように啖助・趙匡を孫復だけに結びつけること,また孫復と劉敞を対立的に捉えることは,あくまでも四庫官らの春秋学理解によって立つものであり,宋代の春秋学者達の認識とはかけ離れたものである。

……とはいえ,四庫提要の内容の是非を論評する段になれば,一々難癖をつけられるのだから,あまり気にする話しではない。読者としては,四庫提要の指摘は四庫官の見解であるにすぎないという常識的な感覚を失いさえしなければ,それでいいのである。どんな見解にも難癖はつけられる。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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