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四庫提要(春秋類2)021

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

崔子方『春秋経解』12巻

○永楽大典本

宋の崔子方の撰。子方は涪陵の人。字を彦直といい,号を西疇居士という。晁説之の文集には,別に伯直と字したとある。(*1)二つの字があったのだろう。

朱彝尊の『経義考』には,「むかし滁州知事となり,曾子開が子方のために茶仙亭記を書いた」とある。『経解』などの書物は官僚を辞めた後に作ったものである。(*2)そもそも子方は『宋史』に伝がない。ただ李心伝の『建炎以来繋年要録』には,「紹聖年間,子方はみたび上奏し,〔廃止された〕春秋博士を〔朝廷に再び〕置くよう求めたが,認められなかった。そのため真州の六合県に隠居し,家にこもって著作に専念すること三十余年」(*3)とある。陳振孫の『書録解題』の記載もほぼ同じである。朱震の進書箚子(*4)にも「東川の布衣」(*5)とある。彝尊が何に依拠してああ言ったのか不明であるが,『永楽大典』に引用される『儀真志』には,「子方は蘇軾や黄庭堅と交遊をもっていた。あるとき知滁州の曾子開のために『茶仙亭記』を作り,酔翁亭のそばに石刻を作った。黄庭堅は六合佳士と言って称えた」とある。彝尊はこの記事を読み間違って,あのように言ったのであろう。

子方が本書を著したとき,王安石の主張が世を席捲しており,〔子方の学説が〕世間に認められることはなかった。しかし南渡の後,本書はようやく世に知られるようになった。王応麟の『玉海』には,「建炎二年六月,江端友が要請した。――湖州に命じ,崔子方の著した『春秋伝』を取り寄せ,秘書に収蔵させますように,と。紹興六年八月,子方の孫の若が〔子方の書物を朝廷に〕献上した」とある。当時,朱震は翰林学士であったが,彼もまた箚子を提出して〔子方の著書を表彰するよう〕求めたのである。その当時,子方の書物にひときわ注目が集まっていたのだろう。

子方の自序には,「聖人は当時(春秋時代)の是非を正すことで,来世の人々に勧戒を教え諭そうとした。〔......〕そのため辞(*6)によって明らかにし難いものは,例(*7)を用いて指し示し,例でも思いを尽くせぬので,日月の例(*8)が設けられ,変例(*9)が生じた。〔......〕細やかに思考をめぐらせること,網(あみ)に綱(つな)があるようなものである」といい,後序にも本書の主旨を詳述しているが,要するに,経文の意味を推し量り,多くの三伝の誤謬を訂正したものである。

例えば,晉の文公が鄭を包囲したことについては,翟泉の会に参加しなかったことを責めて討伐したのであると言い(*10),また郕伯が魯に亡命したのは,斉に迫られたからであるとし(*11),また斉侯が萊国を滅ぼしたとき,〔経文に斉侯の〕名を記さないことに対する解釈では,『礼記』の「諸侯が同姓を滅ぼしたときには〔滅ぼした国の君主の〕名を記す」という記述の間違いを訂正している(*12)。これらは往々にして諸学者の未だ知り得なかったものである。本書は日月の例に拘泥し,論述に偏ったところもあるが,優れたところを数え挙げれば,確かに一家を立てるにふさわしいものがある。

〔子方の〕著書には『経解』『本例』『例要』という三つがあった。しかし『通志堂経解』の刊本に収められたものは,わずかに『本例』のみである。このたび『永楽大典』から佚文を拾い集め,三書を旧来の形にもどした。ただ僖公十四年の秋から三十二年まで,および襄公十六年の夏から三十一年までは,『永楽大典』が欠落していた。そこで『黄震日抄』所引部分と『本例』によって〔欠落部分を〕補った。その他,『本例』の解釈には,本書に言及されていないことが書かれてあったり,本書と少しく異なるところがあるので,それらも節録して注文に示すことにした。また巻数と書名については,すべて『宋史』に従った。

子方の原書に用いられていた経文はもはや知り得ない。この度の編集にあたり,〔子方の〕解釈を調べると,おおむね左氏〔の経文〕に従いながらも,まま公羊と穀梁に従うところがあった。そのため胡安国の『春秋伝』と相違が生まれたのである。しかし本書の主旨とは直接関係のないことなので,この度は原文に従うことにした。(*13)

『四庫全書総目提要』巻27


(*1)『嵩山文集』巻12の三傳説,巻19の江子和墓誌銘に見える。
(*2)原文「朱彝尊『經義考』稱:其嘗知滁州,曾子開爲作茶仙亭記。『經解』諸書,皆罷官後所作。考子方......」。朱彝尊の発言は『経義考』になく,『曝書亭集』巻34の涪陵崔氏春秋本例序に見える。その場合,「『經解』諸書,皆罷官後所作」までが朱彝尊の発言で,「『經解』諸書,皆罷官後所作」は四庫官の発言ということになるが,文章の流れからすると,『経義考』の引用は「『經解』諸書,皆罷官後所作」まで懸かっているようにも思える。なお朱彝尊の発言は提要所引の文章では分かりにくいが,文集所載のものは「涪陵崔子方彦直,自稱西疇居士。嘗與蘇、黄諸君子游,知滁州,曾子開曾爲作記,刻石醉翁亭惻。其説春秋有『經解』十二卷,『本例』二十卷。建炎中,江端友請下湖州,取所著『春秋傳』,儲秘書省。于是其孫若上之于朝。今其解不可得見。惟『本例』獨存,序之曰......」(『曝書亭集』巻34)となっており,意味明瞭である。
(*3)『経義考』に引かれないので,一応原文を挙げておく。「初,東川布衣崔子方治春秋,紹聖間三上疏,乞置博士,不報,乃隱居真州六合縣。子方剛介有守,雖衣食不足,而志氣裕然,杜門著書,三十餘年而死。至是,兵部員外郎江端友請下湖州,取子方所著『春秋傳』,蔵於秘書監。從之」(『建炎以来繋年要録』巻16,建炎二年六月丁卯条)なお『経義考』に引用を見ないのは,『建炎以来繋年要録』が永楽大典本に懸かり,朱彝尊の見得ない書物だったからにすぎない。
(*4)四庫本の崔子方『春秋經解』冒頭に付録として残っている。進書箚子とは,崔子方の書物を朝廷に献上させるよう求めた箚子の意。箚子は上奏文の形式の名前で,奏とか疏とかいうものの一つ。
(*5)布衣:官僚でない人間,つまり普通の人間のこと。朱震の発言が正しければ,崔子方は官僚になったことはなく,随って朱彝尊の発言は間違いということになる。
(*6)辞:春秋経文の字,もしくは句,もしくは文のこと。
(*7)例:辞例や義例と呼ばれるもの。経文の一定の書き方に,一定の意味(是非善悪褒貶)を付与するもの。謂ゆる一字褒貶説は,この例の限定的な利用法を指す。
(*8)日月の例:例の一種。時月日例とも言われる。経文に時(四時=四季),月(正月~十二月),日が記されるか否かでもって褒貶を読み解こうとする立場で,春秋学の伝統的解釈法の一つ。
(*9)変例:変則的な例のこと。例に含まれる場合もある。例と変例を対置する場合は,経文を通して一定の意味を持つ「例」に対し,敢えて「例」を破って特殊な書き方をしたものを「変例」という。変例と対置される例は,凡例や定例とよばれる。
(*10)僖公30年経文,晉人秦人圍鄭。ただし後述する『永楽大典』欠落部分にあたる。四庫官の案語に「按:黄震『日抄』云:諸家多據『左傳』謂:『晉文舊嘗過鄭,鄭無禮而報怨』。考:踐土與温之會,鄭伯皆在。豈至是始責舊怨哉」とある。
(*11)文公12年経文,春王正月郕伯來奔。四庫官の案語に「按:此條係崔氏獨闢之解,三傳及諸家,倶未之及」とある。
(*12)襄公6年経文,十有二月齊侯滅萊。『禮記』云々は曲礼下の「滅同姓名(同姓を滅ぼせば名いう)」を指す。崔子方の『經解』には,「萊,姜姓也。齊侯滅萊不名,則知衞侯燬滅邢,非為同姓而名,明矣(萊は姜姓なり。齊侯 萊を滅ぼして名いわず。則ち知る,衞侯燬 邢を滅ぼすに,同姓の為にして名いうに非ざること明らけし)」とある。要するに,もし同姓を滅ぼした場合は,滅ぼした国の君主の名前を書すという法則が正しいなら,齊国と萊国はともに姜姓なので,齊が萊を滅ぼした場合,同姓を滅ぼしたことにより,春秋経には「齊侯某滅萊」と書されるはずである。しかし経文は「齊侯滅萊」とのみあって,齊侯の名を挙げない。随って,春秋経文の「衛侯燬滅邢」には衛侯の名(燬)が記されてはいるが,これは同姓の国(邢)を滅ぼしたからでない,別の理由によって名前が記されたのだということが分かる。併せて(四庫官が考えるには)『禮記』曲礼下の定義は間違っていることも証明される。・・・・・・驚くべき論理展開ではある。
(*13)原文「以非宏旨之所繋,今亦各隨原文録之焉」。書前提要にこの二句は存在せず。いずれにせよ若干文章が浮いている。

・・・・・・經解本文を引かれるとどうしても解説が長くなって嫌だね。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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