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四庫提要(春秋類2)039

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

戴溪『春秋講義』4巻

○永楽大典本

宋の戴溪の撰。溪には『続呂氏家塾読詩記』があり,既に〔四庫全書に〕収録している。(*1)〔南宋の〕開禧年間,溪は資善堂説書から太子事にまでなった。当時,景献太子(*2)は〔自己の学問のため,溪に命じて〕易・詩・書・春秋・論語・孟子・通鑑の論説を作らせ,それを献上させた。(*3)本書はその春秋についての論説である。

本書には以下のような論説がある。例えば,斉の襄公が紀侯を脅迫して〔紀侯が〕国を去ったことについて(*4),〔斉の襄公は〕復讐に託けて諸侯を欺いたと講釈し,秦と楚とが庸国を滅ぼしたことについて(*5),〔秦と楚は遠く離れているのに,共同で庸国を討伐できたのは,〕巴国や蜀国が道を通したからであると講釈し,〔春秋経文に〕しばしば「公 晉に如き,河に至りて乃ち復る」と書くことについて(*6),晉人は季氏の君主追放の心を助長させたと講釈し,定公が〔正月朔日ではなく〕戊申の日に即位したことについて(*7),季氏には定公の即位を阻もうとする心があったと講釈している。これらの解釈は,当時,韓侘冑が北伐を起こして失敗し,再び〔金朝と〕和議を結んだことを受けたものである。だから国内を治めて外国に当たり,隣国と交友をもちつつ武事を修めることに対して,最も心を砕いているのである。

また〔本書は君主の〕死亡記事について一切解釈を施していない。宋代は喪礼について特に忌避するところがあった。例えば「何居(何ぞや)」の「居」の字は『礼記』檀弓に見えるが(*8),『礼部韻略』は〔典拠として檀弓を〕載せていない。他のことは推して測るべきであろう。溪が〔本書で君主の死亡記事を〕講釈しなかったのは,恐らく当時の経筵のやり方を反映したものであろう。

〔本書は〕嘉定癸未の五月,溪の長子の桷が金陵学舎にて印刷に付し,沈光が序文を書いた。宝慶丙戌,牛大年がまた泰州で印刷に付したが,その序文には「本書は君主に訴えるべく作られたもので,世の学者は見ることができなかった」とある。恐らく経学者や訓詁家の学説でなかったため,世間にあまり広がらなかったのだろう。陳氏の『書録解題』に本書を収録していないは,きっとこの理由によるものだろう。(*9)

『宋史』芸文志は十巻とし,王瓚の『温州志』は三巻とし,朱彝尊の『経義考』は散佚したと言っている。現在,世上に本書の流通は全くない。ただ『永楽大典』は〔本書を〕収録しており,なおも経文各条の下に〔本書の佚文が〕散見される。このたび謹んで佚文を集めて校正を加えた。僖公十四年秋から三十三年までと,襄公十六年三月から三十一年までは,『永楽大典』に欠落があるので,『黄震日抄』の引用によって増補した。かくして『宋史』の記述に従い,四巻本として編集しなおし,各巻を上下に分けた。溪の依拠する経文は左氏に従うことが多い。しかし敢えて公羊・穀梁に依る場合は,いずれも下方に案語を附すことにした。(*10)

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)『続呂氏家塾読詩記』の提要から戴溪の経歴を挙げておく。「溪,永嘉人。淳熙五年為別頭省試第一。歴官工部尚書・文華閣學士,卒贈端明殿學士,理宗紹定間賜諡文端。事蹟具『宋史』儒林傳。」
(*2)寧宗の皇太子。嘉定13年に29歳で薨じた。
(*3)『宋史』戴溪伝には「凡六轉為太子事,兼祕書監。景獻太子命溪講中庸、大學,溪辭以講讀非事職,懼侵官。太子曰:講退便服説書,非公禮毋嫌也。復命類易、詩、書、春秋、論語、孟子、資治通鑑,各為説以進。」とある。また『南宋館閣續録』巻9(同修國史)には「〔開禧〕元年五月以兵部侍郎兼,三年正月除太子事,四年四月為權工部尚書並兼」とある。ここからすると,戴溪が『春秋講義』を提出したのは,開禧三年正月以後ということになる。いずれにせよ開禧用兵の最中のこと。
(*4)莊4年の紀侯大去其國条。
(*5)文16年の楚人秦人巴人滅庸条。
(*6)昭公に頻発する条文。以下の季氏云々は,魯の季孫氏が君主の昭公を放逐した事件を指す。
(*7)定1年の条文。
(*8)檀弓の「何居」は喪礼の記事中に見える。
(*9)二回も刊本が作られて流伝が広くなかったはないだろう。南宋末から元朝にかけての春秋經解には本書の引用を多く見る。
(*10)簡単に説明すると:『永楽大典』は左氏の経文を用い,各解釈者の用いた経文を挙げないため,四庫官が新たに経文を附す場合,三伝中のどの経文を用いるか判断しなければならないため,それに対する処置としてこの言葉を加えたもの。長く説明すると:春秋経文は独立で存在せず,宋代以来,春秋三伝の中に引用される経文を用いてきた。しかし三伝に引用される経文は,時として異なる場合がある。そのため宋代や元代の春秋学者は,三伝引用の経文が異なる場合,自分の解釈に適した経文を選んで用いていた。ところが,このたび四庫官が編集した『永楽大典』は,春秋経解を収めるとき,一律に左氏伝の経文を挙げ,公羊穀梁の経文は割り注に落とした。そしてこの左氏の経文の後ろに,三伝以来,宋代や元代の解釈を列挙した。しかも左氏の経文を用いなかった宋元代の解釈に対しても,一切彼らの用いた経文を挙げなかった。そのため四庫官が宋元代の佚文を収集した場合,対象となる解釈書が三伝のどの経文を用いていたかを改めて判断しなければならなくなる。戴溪の場合は概ね左氏伝の経文を用いたようだが,まれに公羊傳や穀梁傳の経文を用いていたと考えられるため,その場合は特別に四庫官みずから割り注を附して読者に注意を喚起した,ということ。

(*)四庫官はさらっと書いているが,本書は宋元時代の有名な注釈書の一つなので,この時代の春秋学を理解するには必読のもの。ただ大典輯佚本なので通志堂経解には収録されておらず,四庫本でしかお目にかかれないのが残念なところである。春秋經筌と並んで黄氏日抄によく引かれているので,そちらで目にした人も多いと思う。

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