スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

四庫提要(春秋類2)043

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

黄仲炎『春秋通説』13巻

○両江総督採進本

宋の黄仲炎の撰。仲炎,字は若晦,永嘉の人。その進書表に「科挙に力を費やしたもののうまくいかず」とあり,李鳴復の奏挙状にも「科挙以外にも古代の聖賢を篤く信じるものがおり」とあれば,恐らくは〔仲炎は〕長く科挙に合格できないでいた士人なのであろう。本書は紹定三年に完成し,その上呈は端平三年である。(*1)

自序に云う――「春秋は聖人が天下を教戒するために作った書物であり,褒貶の書物ではない。〔では教戒とは何かというに,〕書法を教といい,事柄を戒というのである。三伝が褒貶説を立てて以来,春秋を専門とする師弟らはその誤りを受け継いできた。そして漢代以後になると,〔褒貶のための〕類例(義例)は複雑煩瑣になり,かえって春秋の大義は隠れてしまった。」つまり本書の主旨は,〔春秋は〕事柄を直書したもので,義理はおのずから明白であると言うことにある。そのため古代以来,春秋の経師が伝授してきた学説――王に天を書さぬ,桓公に王を書さぬ,といった類例(*2)は,一切排除されている。朱子の『語録』には,「聖人は事実によって書いたのである。是非や得失について言外の意があるとはいえ,〔経文の〕一字一辞について褒貶の所在を求めるというのは,恐らくは正しくあるまい」とある。(*3)仲炎の表書に「朱熹の意見を酌んで」とあるが,恐らくはこの発言にもとづいたものだろう。何夢申が呂大圭の『春秋或問』に序文(*4)を書き,「春秋を伝えたものは幾百家あるが,大抵は褒貶賞罰を中心としている。ただ『或問』だけは朱子にもとづき,それらの褒貶賞罰説を全て排斥している」と言っている。仲炎が既に論じていたのを知らなかったのである。(*5)

書中,南季の来聘について,〔仲炎は〕三伝と『礼記』を根拠に,「天子に諸侯を聘問する礼制はない。『周礼』時聘の一節は信ずるに足らない」(*6)と言い,滕侯と薛侯が来朝したことについて,「諸侯間に私に相朝する礼はない。三伝はいずれも間違っている」(*7)と言うが,これらは過度に古代以来の学説を疑ったものである。また首止の盟に対して,王の世子(世継ぎ)が党派を立てて父〔である周王〕を牽制した(*8)と言うが,これは深読みのし過ぎである。「子同 生まる」に対して,左氏伝の文字が経文に混入したものだと言い(*9),「蔡の桓侯を葬る」に対して,〔侯の字は〕公の字の誤植だと言い(*10),「同に斉を圍む」に対して,圍の字は〔同の字の〕重写の際の誤字だと言う。(*11)これらは疑惑の目が経文にまで及んだもので,憶測推論〔の害〕を免れない。しかし「季友は巨悪。後宮と結託していた」(*12)と言う。〔その根拠とする〕成風の私事は左氏伝に明文がある。〔これに対する仲炎の〕文字遣いは厳正で,論旨は正しく,千古の戒めとするに足るものと言えよう。

また胡安国の『春秋伝』を論評しては,「孔子は顏淵の質問に応じて,『夏時(夏王朝の暦)を用いる』と仰った。しかし春秋を修められたとき,躊躇なく〔周の暦から夏の暦に〕改定されたとは考えられない。胡安国氏は『春秋は夏正を周月にかぶせている』(*13)と言い,朱熹氏はこれを批判しているが,恐らくは〔朱熹氏の批判は〕当たっていよう。孔子が春秋で述べられたのは古来の礼制についてである。そのため諸侯の強者を憎んで〔殊更に〕天子に論及したり,大夫の専横を厭うて諸侯に論及したり,呉楚の暴虐に憤って中国を持ち上げたりすることは,臣下として為し得ることである。しかし当時の制度を改め,天子の賞罰を盗むことなど(*14),孔子が望まれるとは考えられない。そもそも孔子が春秋を修められたのは,これによって当時の専横を律しようとしたためである。それをどうしてみずから専横な振る舞いをしようか」(*15)と指摘している。論旨は明白正大,深く聖人の意を得たものである。安国の遠く及ぶところではあるまい。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)年月日の推定は進書表および序文によると思われる。
(*2)春秋は天子を天王と書くが,まれに「王」と書かれることがある。一説に,天王が余りにふざけた行いをしたので,孔子が「天王」の天の字を削って,「王」だけにしたというものがある。また桓公に王を書さぬ云々は,春秋各年のはじめは王を書すのを書法とするのに,桓公だけは王が書されておらぬことが多いが,これは孔子が王の字を削ったのだ,ということを指す。いずれも有名な学説。
(*3)『朱子語類』巻83,春秋綱領に見える。
(*4)正しくは跋文。呂大圭『春秋或問』巻末に見える。
(*5)四庫官には悪いが,黄仲炎の『春秋通説』は南宋から明朝初期にそれほど参照されていない。また厳密に言えば,何氏は世の学者は「概ね」褒貶賞罰説を採っているというのであり,必ずしも「全て」が褒貶賞罰説だというのではない。もう一つ付け加えておくと,褒貶賞罰説の否定は北宋末ごろから既に始まっているので,なにも朱熹の手柄というものでもない。
(*6)隠公九年春天王使南季來聘条。
(*7)隠公十一年春滕侯薛侯來朝。『通説』巻1該当条には「古者諸侯有因相見,無私相朝」とある。
(*8)僖公五年の首止の盟。
(*9)桓公六年九月丁卯子同生条。
(*10)桓公十七年癸巳葬蔡桓侯条。
(*11)襄公十八年同圍齊条。
(*12)閔公元年季子來歸条。
(*13)以夏時冠周月:張洽『春秋集注』のところで説明した。
(*14)天子の賞罰を盗むとは,天子に成り代わって,天下の諸侯や卿大夫に筆誅を加えることを意味する。具体的には経文上で爵や身分を上下することを指す。
(*15)隠公元年の春条に見える。献上書とはいえ,胡安國氏とか朱熹氏という文字遣いが愉快。

(*)以上は四庫全書総目提要の訳文であるが,書前提要にはかなり出入りがある。書前提要の大旨は総目提要と同じだが,引用条文に変化があり,胡安國云々の議論も見えない。また本書の論述の仕方(後代の史事に論が及ぶなど)についても一言を残し,「釈経の正体に非ず」と批評している。本書のそのものの解説としては,むしろ書前提要の方が役に立つだろう。

宋の黄仲炎の撰。端平の初め,尚書の李鳴復が本書を朝廷に献上した。仲炎,字は若晦,温州の布衣。本書の大意は「春秋には教と戒がある。そして教は書法にあり,戒は事実にある。褒貶はない」というにある。義例にこだわらず,毅然と直に己の心情によったものである。例えば……(中略)……これらは一つや二つのことではないが,どの発言も好んで異説を発したものである。また類に触れて議論を広げ,往々にして後代の史事に言及し,その得失を論断しているが,これも経文を解釈する適切なやり方ではない。ただ文辞は流暢で議論も厳正であり,いい加減に作ったものではない。そもそも春秋は史事によって経文を作ったものである。だから史を論ずるものは,必ず春秋を基準とした。仲炎は史によって春秋を証明し,同時に春秋によって史を断じてもいる。道理として本来相通ずるものがあるのである。正当な議論もあることとて,本書の全てを譏るべきではない。

スポンサーサイト

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

コメントの投稿

非公開コメント

カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
プロフィール

awatan

Author:awatan
HN:江藤清通
かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

自営サイト
最近の記事
カテゴリー
リンク集
全記事表示

全ての記事を表示する

FC2カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。