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四庫提要(春秋類2)045

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

趙鵬飛『春秋經筌』16巻

○湖北巡撫採進本

宋の趙鵬飛の撰。鵬飛,字は企明,号は木訥,綿州の人。本書の主意はこうである。――春秋経を学ぶ人々は三伝に拘泥し,各々師説を護り,多くは聖人の本旨を理解しておらぬ。そのため本書は経によって経を解釈することにした,と。その自序には「春秋を学ぶものは,伝を用いずに経を明らかにすべきであって,伝によって経を求めてはならない。まだ伝のなかった時代,経の主旨はどこにあったというのだろう。心奥深くに於いて〔聖人の微旨を〕理解しなければならないのである」と言い,また「三伝は全く依拠するに足りないが,心を公平にしてこれを評すならば,まま聖人の心を得たものもある」とも言っている。(*1)

そもそも三伝は聖人の時代から遠く離れておらず,学問にも受け継ぐものがあったはずである。三伝が出来るまでの間,経師の解釈の中には,聖人の本旨から外れていったものも確かにあっただろう。しかしそれらを一概に除き去るならば,春秋経に載る人物を調べようにも,その人の関与した事柄を明らかにすることはできず,経文に記された事件を調べようにも,そこに関わった人間を明らかにすることはできない。開巻の一二のことでもってこれを論じてみよう。「元年春王正月」には即位が書かれていない。その過誤は夫婦嫡庶のあいだにあったのだが,もし三伝がなければ,いかに窮理格物の学者が畢生の力を振り絞り,経文に依拠して沈思してみても,声子と仲子のことは分かるまい。(*2)「鄭伯 段に鄢に克つ」には段が誰であるかを言わない。その過誤は母子兄弟のあいだにあったのだが,もし三伝がなければ,いかに窮理格物の学者が畢生の力を振り絞り,経文に依拠して沈思してみても,武姜子と荘公の弟について分かりはしまい。(*3)これでよいというなら,三伝を捨てて経を評釈することなど,なんと容易なことであろう。

啖助と趙匡が三伝を批判したのは,既に異説発生の萌芽であるが,孫復になると完全に伝来の学説を棄ててしまい,かくして春秋家に無窮の弊害が生じた。蔡絛の『鉄圍山叢談』には鹿溪生の黄沇の次のような話しを載せている。――「昨今,春秋を修めるものは,聖人の志を探らず,伝を襲うては魯の三桓や鄭の七穆を論じ,経を論じては甲子はどれだけ,「侵」や「伐」を書いてあるのはどれほど,などと計算している云々」と。(*4)沇は陳瓘や黄庭堅に学んだ人であり,その学問の授受にはまだ基づくところがある。それでいながらにしてその主張はすでにこうである。恐らくは復の学説を襲うたのであろう。鵬飛のこの書も復の亜流である。その最たる珍説は,「経文には成風とあるが,荘公の妾であるか,僖公の妾であるか分からない」(*5)といって,これを疑問のまま置いているところである。張尚瑗の『三伝折諸』は憶測で経文を論ずることを批判し,「左氏に『成風が季友と結んで僖公を託した』とあるのを知らぬ,譏るにも足らぬ」(*6)というが,まことに適切な発言である。

しかし孫復は好んで筆誅を主張するが,鵬飛は深く情実を求めている。その穏当なところは廃すべきではない。ほんの少しでも長所があるなら,一説としてこれを残しておいてよいのである。

『四庫全書総目提要』巻27



(*1)確かに趙鵬飛の序文にはこうあるが,これではその主張が正しく伝わらない。一節をぬくと,「世の学者らはみな伝がなければ経は分からぬという。嗚呼,聖人が経書を作ったとき,後世に三家が伝を作るなどと考えただろうか。もし三伝が作られねば,経は永遠に明らかにならぬであろうか。聖人は王道を偶して万世に示した。故意に不可解な意味を込め,後世の人々を眩ますようなことがあろうか。」とある。要するに,聖人は王道を示すために経書を作った。だから原則として経書を読めば聖人の意図は分かるはずである。ところが世の中の人間は,三伝がなければ経書の意味は分からないという。ならばもし三伝が作られなかったなら,経書の意味は永遠に不明のままなのだろうか。言葉を換えれば,易や尚書は伝がなくても意味は理解できる。それと同じように,春秋も伝がなくとも意味は分かるはずだ,ということになる。ちなみにこの論点は崔子方とほとんど同じ。ただし崔子方は義例を極度に重んじるが,趙鵬飛は例もあまり好まない。(例も三伝以来の学説と考えてのこと)
(*2)隠公になぜ即位が書されないかを論じたもの。隠公と桓公は兄弟だが,父の意向とか母親の身分とかで,跡目は桓公が継ぐことになっていた。しかし桓公がまだ子供だというので,兄の隠公が政務を執った。そこで経文には「公即位=隠公が魯侯の位に即いた」とは記さない,というような伝統的解釈がある。このような事情は三伝(特に左氏伝)にしか書かれていない。だからどれほど読者が心を潜めて経文だけを読んでみても,それだけでは上の事情は全く分からない。四庫官はこの点を指して趙鵬飛の説を批判した。なお隠公の母は声子,桓公の母は仲子。ただし異説もある。
(*3)鄭の荘公が弟の共叔段と戦ったことを論じたもの。理屈は上と同じ。ただこちらは兄弟ともに同じ母親だが,母親は弟を溺愛し,そこで兄弟間の確執が深まった。
(*4)『鉄圍山叢談』巻3鹿谿生黄沇欽人也条。なお三桓は魯の桓公の子孫の三家,七穆は鄭の穆公の子孫の七家を指す。
(*5)『経筌』文5年三月辛亥葬我小君成風王使毛伯來會葬条。趙鵬飛は僖公の妾と推論している。
(*6)『三伝折諸(穀梁)』巻1母以子氏条に見える。

(*)四庫官は本書に対して批判的だが,本書のファンは案外多い。本書は君主に対して頗る優しく,珍しい解釈が多い。『黄氏日抄』にも多く引かれている。それに蔡絛の話は趙鵬飛と全く無関係だし,第一,陳瓘や黄庭堅は真面目な学者だというだけで,古義を守った学者でもなんでもない。ここの四庫官の発言は全く見当違いで,趙鵬飛の学説の紹介にも批評にもなっていない。四庫官がこれほど無内容で長い文章を書くのも珍しい。

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