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林癸未夫『西洋思想の日本化』(つづき)

昨日の続き。

しかし林氏の国家社会主義で四回も書くことになるとは思いもしなかった。ほんの余興だったのに。

それはともかく,『西洋思想の日本化』の巻頭論文にして書き下ろし論文「西洋思想の日本化」は,本書所収論文の中で最も重要なものだが,その論旨は至って簡単明白,特別に解説を要しない。概論すれば以下のようになる。

  • 日本が西洋思想を受け入れるには,西洋思想の日本化が必要である。さもなければその西洋思想は日本に根付かない。
  • 日本の大衆は西洋思想を欲している。だから官憲は適宜配慮して西洋思想を受容すべきだ。その際必要なのは,上に述べた日本化である。
  • 日本に輸入された西洋思想の中で重要なものは三つある。一つは耶蘇教,一つは自由民権運動,もう一つは社会主義である。これらはいずれも日本の大衆が望んだものである。そして前者二つは幾多の問題を抱えながらも,結局各々日本化して日本に受容された。随って,社会主義も大衆の望みに随って輸入されるべきだが,それには日本化が必要である。
  • 社会主義は資本主義に対抗して生まれたものだが,資本主義は個人主義,社会主義は階級主義である。しかし日本は伝来の国家主義である。その日本伝来の国家主義を根底としつつ社会主義を行うものが国家社会主義である。
  • 換言すれば国家社会主義とは,「個人や階級を超越して,全国民の社会即ち国家のために資本主義を害悪と認め,これに代へるに社会主義を以てすることが,国家そのものの隆昌発展のために必要缺くべからざる手段と認める」ものである。これこそが日本的な社会主義である。
  • このように社会主義を日本化(国家社会主義化)するならば,社会主義も耶蘇教や自由民権運動とともに,日本に受容されるであろう。あるいはこうすることが,日本の興隆と社会の進歩と文化の向上に貢献する。

平たく言えば,林氏の国家社会主義は進歩史観と地域主義(適当な言葉が思いつかなかったので便宜的にこういっておく)を両立させたようなものである。社会主義は日本に必要な進歩的思想であるが,それは日本化させなければ受容できない。では日本的なものはなにかと言えば,国家主義である。だから国家主義に社会主義を足して国家社会主義となる。

逆から言えば,資本主義の基礎である個人主義を国家主義に代え,さrないそれに社会主義的政策を加えるならば,国家社会主義になる。こんな考え方では,林氏が社会政策に近いのもうなづける。当然,他の主義者の如き火を吐くような言葉は絶無である。

ちなみに林氏は「暦の文化史観」の中で,ソ連が国際社会を無視して勝手に暦を改めたことに論及し,「併し今日の複雑を極めた国際関係の上から考へると,或一国だけが単独に改暦するのは乱暴だ。これは必ず世界共通の問題として考究し,各国同時に改暦する方法を講じなければならぬ」(189頁)と指摘する。

ならば国情だからといって,勝手に資本主義を離脱したイタリアのファシスト政権はなぜ許容され,それに習おうとする日本の国家社会主義はなぜ認められるのか。林氏にとっては余りに当然すぎることだったのだろう,特別に断りは入れられていない。


林氏の「西洋思想の日本化」の読後感はこれだけだが,その他,三つほど面白かった点をあげてみたい。

国家社会主義は戦争の時代に登場したので,どうしても黒ずんだ印象を受けるが,林氏の議論にはあまり血なまぐさい話は登場しない。むしろいかにも学者・知識人として余裕ある地位からの,切迫することのない,現実味のないところからの発言が多い。その「ツンベルグの日本文化観」冒頭にはこうある。

恒久的な国際平和が,若し可能であるとするならば,それは各国民が其国民的利己心を放棄して,全人類の福祉のために真摯なる協働を継続すること以外に,これを期待すべき途はないであらう。だが,この協働の実現は先づ以て各国民が相互に他国の実情を明にし,其特徴を識り,其文化を理解することから初まらなければならぬ。何となれば個人間に於けると同様,国際間に於いても,不和や抗争の原因は,相互の誤解に在ることが最も多いからである。……このゆゑに恒久的な国際平和を要望し,全人類の福利と文化とに貢献しようと志す者は,常に他国民の真相を理解することに努めるのが何よりも必要であって,この用意を怠る国民は結局国際間の異端者として排斥せられるか,或は落伍者として自滅するの外はないであらう。(228-229頁)


あたかも他人が弱者を助けてくれるのが当然と言わんばかりの現在の社会評論とは明白に一線を画しているが,甘い幻想と言わざるを得ない。その程度で理解し合えるなら,あるいは理解し合えて平和になれるなら,人間はとっくに幸せになっている。

次に林氏は極めて常識人である。権藤成卿の農本主義,即ち農民が自治をすれば自然と天下が治まるという時代錯誤の発言を批判して,「私はそれが正気の沙汰であるか否かを疑はざるを得ないのである」と締めくくっている。(「農村の自治自救は可能なりや」)確かに林氏の所論の通りであろう。裏を返せば,林氏は明らかに近代的な知識人の側に属する人間であり,観念的な主義者でなかったことをよく著している。

最後にもう一つ。これはこの時代によく見かける論法であるが,「西洋思想の日本化」で民主主義を批判してこう言っている。(引用文の誤字は原文のママ)

かくの如くにして我国に於ける民主主義的議会政治の形態だけは一先づ完成するに至った。併しながらその現実的効果は余りにも期待に反し過ぎた。所謂憲政の常道たる二大政党の交互政権授受は,政党の信用を向上せしめずして却て失墜せしめた。彼等は財閥と結託して利権漁りに吸々とし,選挙の勝敗は一つに買収費の多少によって決定せられ,党首の選定は党費調達力の有無によって左右せられ,一切の政策は党利党略によって割出され,党人の眼中には私利あって更に公益なきことが公然曝露されるに及んで,国民は全く彼等に愛憎をつかしたのである。今や国民は国家の大事を党人に委ねることのいかに危険なるかを明察し,政党政治の害毒の遂に救ふべからざることを痛感してをるのである。
併しながら政党政治の立脚地は議会政治にあり。議会政治の基礎は民主主義にある。このゆゑに議会政治の内容を革新することなしに政党政治の弊害を除去することは不可能であり,民主主義の缺陥を矯正することなしに議会政治の革新を行ふことは不可能である。病源は実に民主主義そのものの胎中にあるのである。由来民主主義は個人主義の産物である。……
然るに我日本国民の伝統的精神は由来個人主義でない。遙にヨリ多く全体主義或は国家主義である。……


現在このような発言はまずあり得ない。そもそも政治制度に民主主義以外の選択肢はない。随って,民主主義は欠陥だらけだが,どのようにそれを巧みに運用するかが問題となる。だから林氏のように,民主主義は個人主義に立脚するが,日本は伝統的に個人主義ではないから民主主義を放棄(或いは本質的な修正)すべきだ,とはならない。

昭和七年のこの時代はまだ民主主義のみが絶対の政治制度ではなかったということなのだろう。政治制度の選択肢に民主主義以外のものがあり得る時代ならば,当然このような発言も生まれるだろう。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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