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四庫提要(春秋類3)053

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)に訳し直しました。

程端学『春秋本義』30巻

○両江総督採進本

元の程端学の撰。端学,字は時叔,号は積斎。慶元の人。至治元年に進士第二として合格した。官歴は国子助教から翰林国史院編修官になった。生涯は『元史』韓性伝(儒学伝)に附伝がある。本書は端学が国子監にいたとき作ったものである。

本書所収の学説は,三伝以下,全百七十六家,巻首にその書目を列挙している。『寧波府志』と『千頃堂書目』はいずれも「一百三十家の学説を採った」とするが,〔巻頭引用の書目数と合致しない〕理由は詳らかにし難い。巻頭に通論一篇,問答一篇,綱領一篇があり,その次に経文の下に学説を配している。諸種の学説を順序だてて並べ,まま自身の案語を附しているが,左伝の事績も諸学説の間に混ぜており,注釈の体裁としては頗る蕪雑である。

本書は「通常の事柄は春秋に記述されない」「春秋は貶なすのみで褒めることはない」(*1)を主旨としている。そのため徴証された学説はみな孫復以後のもので(*2),往々にして煩瑣にして支離滅裂に陥り,勝手に推論を加え,一事一事について貶なされた根拠を追求している。

例えば,経文は「紀の履緰 来りて女を逆う。伯姫 紀に嫁ぐ」(*3)と書いている。これは事柄を書いただけで,もともと褒貶に関係ないものである。ところが端学は「履緰は命卿ではない。紀は魯に来迎してはならぬし,魯も来迎を許してはならぬ」(*4)と力説している。そもそも履緰が命卿であるか否か,確かに明文はない。しかし命卿でなかったということも,どこに根拠があるというのか。また紀の叔姫が酅に帰ったこと(*5)につき,旧来の学説では,〔嫁ぎ先の〕盛衰でもって心を変えず,夫の一族に帰ったことを褒めたものだ,とする。しかし端学は「魯に帰るべきであって,酅に帰るべきでなかった」と力説している。これなどは既に深読みのし過ぎだが,これに加えて「紀季は〔妾としての〕節を失った」と誣告までしている。(*6)これなども何を根拠にこう言うのだろうか。

宋代の学者が左氏伝を批判したのは,経文と矛盾のあるところ――例えば経文に「楚子麋 卒す」とあるのに,伝に「弑された」とするようなところ(*7)――だけであった。ところが端学は一事一事にみな「真偽不明」などと言って〔すべての左氏伝の事柄を疑って〕いる。これでは天下に頼りとすべき古書などなくなってしまうだろう。(*8)

しかし本書は適切に胡伝を補正しており,また本書引用の一百七十六家も,それらの大半が隠滅した中,本書に梗概を残しているのである。そこでしばらく〔四庫全書に〕残して参考に留めることにした。

『四庫全書総目提要』巻28



(*1)原文「常事不書,有貶無褒之義」。
(*2)孫復以後の学者は常事不書を主唱したので,本書も常事不書を主張する以上,孫復以後の学者を引用すると言う意味。
(*3)隠公2年。
(*4)『本義』該当箇所は「愚謂逆非命卿,魯又順其非礼,即使伯姫随其大夫以往,非礼矣」となっている。
(*5)莊公12年。
(*6)『本義』該当箇所は「愚謂:国君死社稷,其兄弟臣妾可知也。紀国既亡,叔姫死之可也。而帰依於叛兄之叔,失節甚矣」となっている。ちなみに心を変えぬ云々は,紀が斉に滅ぼされた後,紀に嫁いでいた魯の姫君は,母国の魯に帰国せず,嫁ぎ先の紀の末裔に帰ったことを指す。
(*7)昭公元年。
(*8)四庫官には悪いが,『本義』全体はそれほど左氏伝を批判していない。ただ学説が分かれるとき,程端學は自分の都合の悪い事実を否定するべく,「左氏伝の事柄は信頼できない」と言い捨てるに過ぎない。

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