四庫提要(春秋類3)067
○内府蔵本
明の永楽年間に胡広らが勅を奉じて撰定した。そもそも宋の胡安国の『春秋伝』は高宗の時代に経筵で進講されたものの,当時の科挙の出題には三伝が使用されていたにすぎない。これは『礼部韻略』の後ろに附された貢挙条例を見れば明らかである。(*1)『元史』の選挙志によると,延祐の時代に科挙の新制度が発布され,ようやく春秋に胡安国の『春秋伝』を用いるよう条例が定まった。汪克寛が『春秋胡伝附録纂疏』を作ったとき,原則として安国を解釈の主軸に据えたのは,この時代のやり方に従ったのであろう。
かくして広らは〔勅を奉じて〕本書を編纂したのだが,それは克寛の『纂疏』に少しく手を加えただけであった。朱彝尊の『経義考』には次のような呉任臣の発言が引用されている。――「永楽の時代,勅を奉じて『春秋大全』を編纂し,纂修官は四十二人いた。その凡例には,『紀年は汪氏の『纂疏』に依拠し,地名は李氏の『会通』に依拠し,経文は胡氏のものを用い,その他注釈の作法などは林氏に依拠した』とある。しかるに実際には『纂疏』をそのまま剽窃しただけであった。勅を奉じて編纂したとはいいながら,実際には編纂などしていなかったのである。朝廷を欺くこともできよう,給与をかすめ取ることもできよう,賜物を奪うこともできよう。しかし天下後世を欺くことなどできはしないのだ。云云。」これは広らの不徳義を暴いたものと言えるだろう。
本書に採用された諸学説について見ても,ただ胡氏を基準にその取捨を決めており,発言の是非については検討を加えていない。明朝二百余年の間,経文によって科挙の問題を出したとは言いながら,実際には胡氏の『春秋伝』を経文解釈の基準としていたのである。元代の合題の制度(*2)は,なおも経文の異同によって問題を出していた。しかし明代では,胡氏の『春秋伝』中の一字一句を轄裂し,これを引き合わせたものを合題と呼んでいたのである。春秋の大義が荒廃に及んだこと,広らがその波を導いたのである。我が聖祖仁皇帝は『欽定春秋伝説彙纂』を著され,胡氏『春秋伝』中の空論・非道・迂濶・失当の発言に対し,始めて一つ一つ駁正され,これを学宮に頒布された。また我が皇上は科挙に於いて合題を用いることを廃止され,学者らが妄りに偏った解釈を行うことを防がれた。かくして春秋の筆削や微旨はまた燦然と天下に輝くに至ったのである。
この広らの『大全』は本来捨て置くべきものだが,王朝一代の科挙制度に関わることであるから,参考のため残さぬわけにはいかない。また〔人は〕荒れ果てた状態を目にすればこそ,害悪なき状態のありがたさが分かるものであり,迷路に足を踏み入れたればこそ,正しき道を歩むありがたさが分かるのである。本書を残し,学者に相互参照させることこそ,前代の学術のみすぼらしさ,それに対する聖朝の経学の輝かしさを知らしむることになるであろう。
『四庫全書総目提要』巻28
(*1)貢挙条例が胡伝に論及せぬことを指したものと解される。
(*2)実際には南宋後半から行われた。
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