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ふと思うこと

最近の中国の出版物(思想系だけど)は日本のむかしの研究のあとを追ったものが多い。こういうと中国人に怒られそうだが,「あとを追う」というのは,日本の後塵を拝しているという意味ではなく,むかし日本で行われていた研究と同傾向のものをよく見かけるという意味だ。単純に研究の広さや精確さ,専門性という意味では,数年前から中国の研究は日本を遙か追い越している。本場なのだから当たり前だが。

特に経学あたりは到底日本人に適うはずもなく,研究対象の広さは感心させられることが多い。もちろんこういうと,変に日本の研究に誇りを持った日本人がいかりそうだが,そういう人は相手の研究を批判する前に,自分がどれほど懐の深い研究をしているのか,結果を示してみなければならない。自分の心だけで分かっている(つもりの)ようなものは,分かった内に入らない。私には昨今出つつある中国の研究の中でも一流どころのものに対するほどのものを,日本の研究者の著作から読み取ることはできない。これも相手は本場だから当たり前だが。

それはそうと,確かに中国の研究は立派な研究技術を持っているが,私のような曲がった人間がそれを読むと,「懐かしい」感じがするのは否めない。一口に中国の研究といっても,研究者の数も著書の数も夥しいので,一概に論ずることができない。しかしある程度の水準を超えたものを読むと,なんでもかんでも「歴史」に還元する傾向を読み取ることができる。

この手の研究方法はむかし日本に存在し,いまでも猛威を振るっているが,私はもはや無意味だと思っている。技術的な理由はいろいろ言えるだろう。そのような歴史の研究は,結局は資料の操作の研究であり,そのような研究を深めるということは,結局は資料上の関係を極度に緊密ならしめるだけのことであり,そのような研究を続けても,結局は目的によって結論がいくらでも変化する。あるいは歴史など存在しない。あるいは歴史は現在に集約されるのだ。等々。

しかしなんでもかんでも歴史に還元してしまう研究に対する最も大きい不満は,そのような研究に意味を感じられなくなったという,感覚の問題だったりする。歴史に於いて現在を読み取っても,全く無意味だという感覚,知りたいことは現在から未来であって,過去から現時点ではないという感覚である。

とはいえ,ものは言い様考え様で,別段歴史に還元してならぬものでもなければ,逆にそうでなければならぬものでもない。ただそれが一般に意味を持ち得るかという一般性の問題に過ぎない。だから歴史を信じる人間はそれで突き進むしかないだろうし,それが学問の純粋性だと思うなら,首を括ることになっても後悔はないだろう。後悔するくらいなら,日本のような貧乏国に於いては,一流の学者ではない。

ならばそれとちょうど逆に,歴史に還元することに意味を感じられない人間は,そのような研究を行い得ないことになる。そしてそのような問題意識は,研究の目的にかかわるものだけに,そのような問題意識を持つ人と表面上に於いてしか同意し得ないことになる。

ただ,歴史はそんなに価値のあるものだろうか?各々信じるところに進むのは仕方のないことだら,己が信じているだけで価値があり,他人もそれを認めるべきだという意味不明な暴論を振りかざすのだけは止めてもらいたいものだ。中国がどうあろうと,とりあえず足下に感心されないようでは,その分野そのものが消滅する。まあ,滅びるものは滅びればいいというのが,日本的な考えなのかも知れないし,それならばそれでいいのかも知れないが。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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