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四庫未収書(春秋類)10

追記(2009/03/15):以下の翻訳はこちらのページ(別館:公孫樹内)にまとめ直しました。

劉絢の春秋著作

四庫未収書(春秋類)シリーズは今回で終わりの予定。

さて劉絢の春秋著作だが,これには少しやっかいな問題がある。以下,基本事項からさきに説明しておこう。
『読書志』

『劉質夫春秋』五巻
皇朝の劉絢質夫の撰。絢は二程の門に学んだ。伯淳はかつてこう言った。――「門人の中には機敏なものはいるが,それを持続できるものはなかなかいない。この人だけは全く心配するところがない。」正叔もこう言った。――「わが門に学ぶものは多いが,信じること篤く、得ること多く、行うこと果断で、守ること堅固なもので、質夫君のようなものはほとんどいない。」李参の序文が附されている。

『春秋伝』十二巻
劉絢質夫の撰。二程の門人。その師(二程)はしばしば褒め称えた。本書の解釈は簡明適切である。


ここに一つ不明の刊本が存在する。それは浙江にあるとされる『劉質夫先生春秋通義』12巻(存巻3至巻12)である。未見につきこの本の詳細は不明だが,目録にこの書物は確かに存在する。なお『四庫全書』所収の『春秋通義』1巻はこれと異なるとされている(四庫提要を参照)。

とまあ,普通はこれで終わりだが,劉絢の春秋学について調べたことがあるので,以下にそれを書いておこう。


まず『春秋通義』を実見できないことから,手元にある史料から劉絢の著書と学説を可能な限り再現する必要がある。そのためまず(1)劉絢の春秋著作の種類,(2)著作の動機・内容・性格,(3)佚文の蒐集の3つを抑える必要があるが,以下に述べる通り,劉絢の場合はこの3つをほぼ推測し得るため,『春秋通義』を実見するまでもなく,私の手元の史料でほぼ劉絢の春秋学説を想像し得ることになる。

ちなみにこの作業は『春秋通義』の真贋を見定める試金石にもなり得る。仮に首尾よく『春秋通義』を実見できたとしても,そのまま『通義』を劉絢の著作と認めてよいか否かは別である。突如出現した書物には常に偽作の可能性がつきまとう。随ってまずは可能な限り劉絢の春秋著作の特徴と佚文を蒐集を行い,それを以て現存文献と比較する必要が生じるからである。

(1)劉絢春秋著作の種類

管見の限り,劉絢の春秋著作を探索するに有益な史料は下の7種である。

Ⅰ)『読書志』の『劉質夫春秋』五巻
Ⅱ)『書録解題』の『春秋伝』十二巻
Ⅲ)『程氏外書』引用書目の『程氏学』十巻(中五巻)
Ⅳ)劉絢墓誌銘の「平時有遺藁未就」(未完成)
Ⅴ)『外書』第12の「伊川没後方見之今世『伝』解至閔公者」(閔公まで)
Ⅵ)李明復『集義』諸家姓氏事略の「惟〔謝〕有全書,〔劉〕絢之書則『程氏雜説』及李參所録『程氏學』載焉,間亦有頤語也。(謝は程頤の弟子。『程氏雑説』『程氏学』)
Ⅶ)同上の『十三家春秋集解』

この中,Ⅳの墓誌銘(『伊洛淵源録』所収)は李籲(端伯)の手になる。李籲は劉絢と同じく程頤の門人で,また劉絢とも交友が深いばかりでなく,外兄弟であり,劉絢の没後半年あまりで歿した人物である。そして李籲の弟が『読書志』に見えた李参である。随って,李籲の手になる墓誌銘の記述は極めて信憑性が高い。

墓誌銘にはこうある:

君自幼治春秋、其学祖于程氏、専以孔孟之言断経。将没之時、尚以類例質于大夫君。平時有遺藁未就。


ここから判断して,劉絢の春秋著作は未完成であるが,遺稿は残っていたと断じて間違いない。
この記述はⅤの指摘とも合致する。

昔劉質夫作春秋伝、未成。毎有人問伊川、必対曰:「已令劉絢作之。自不須某費工夫也。」劉伝既成、来呈伊川、門人請観。伊川曰:「却須著某親作。」竟不以劉伝示人。伊川没後、方見之今世『伝』解至閔公者。(『外書』第十二。『全書』39-18a。祁寛所記尹和靖語)


尹和靖は尹焞のことで,程頤晩年の弟子である。ちなみに劉絢は程頤初期の弟子であり,その死亡時には尹焞は程頤の門に入ったか否かの時期であり,その意味から言って上の尹焞の発言を盲信することはできない。特に劉絢の解釈を否定的に捉えたところは,同じく程頤の同門であり,また程門四先生の号を得た謝良佐の「其門人惟劉絢得先生旨意爲多」にも矛盾する。概して尹焞は程頤を美化し過ぎる傾向にあるため,劉絢の春秋学説の得失については少しく割り引いて考えておく必要があるだろう。

しかし劉絢の遺著についてはまた別である。著書はモノであって評価とはことなる。随って尹焞が劉絢の遺著を見たというのは嘘ではあるまい。その指摘によると,劉絢の春秋学説は「閔公」に止まっていたということになる。だいたい春秋の三分の一前後の分量である。

以上が劉絢没後の状況なのだが,ⅠとⅡの間を埋める史料はないだろうか。ここに最も参考になるのがⅢの『程氏学』である。そもそも『読書志』の「劉質夫『春秋』」という書名はまた奇っ怪である。あるいは『読書志』のミスであろうか。恐らくそうではなく,本書は『春秋』で正しいのだと推測される。その理由はこうである。

程頤の語録に『程氏外書』というものがある。これは朱熹が必ずしも出典明確でないも程子の言葉を蒐集したものだが,朱熹は自分の蒐集した史料の性格を目録に書き付けている。その蒐集書目の一つに『程氏学拾遺』なるものがあり,こう指摘する:

程氏學拾遺
李參録。參、端伯之弟、學於伊川先生。此書十巻、其巻五乃劉質夫『春秋解』、其五巻雜有端伯・質夫・入關諸篇。


朱熹の指摘によると,『程氏学』は李参の編集になり,全十巻。しかし半分の五巻は劉絢の春秋解が占め,残りの五巻が程氏の言葉(端伯・質夫・入関などの篇と類似のもの。端伯などは『程氏遺書』の篇名)だったという。『読書志』の『春秋』は全五巻,そして李参の序文付きであった。ならばそれは『程氏学』の五巻分を独立させたものか,半分が分離したものと見なし得る。随って『読書志』の『春秋』とは,『程氏学』の「春秋」という意味だと推測される。逆に言えばⅠとⅢは同一系統の板本ということにもなる。

既に触れたように,李参は李籲の弟であり,劉絢と極めて近い関係にある。広い意味での遺族であり,また同門の兄弟子でもある。その李参が序文を付して刊行したものが『程氏学』就中『劉質夫春秋(解)』であったならば,この五巻本は劉絢春秋学説の最初期のものの1つに数えられるだろう。

しかし気になるのは『読書志』に『劉質夫春秋』の未完成について言及のないところである。書物の完備すると否とは一見して明らかなので,ここに何等発言が見られないのは疑問を遺す。そこで次にⅥとⅦの史料が頼りとなる。

Ⅵには程頤の説明して次のようにいう。

〔程〕頤,之弟。終西京國子監教授。諡正。頤傳春秋,雖無全書,然論春秋大法,則一序盡之矣。其他見於門人記録,有果為頤之言者,有得其意而非其言者。其徒謝、劉絢,最得其意,亦各為傳。惟有全書,絢之書則『程氏雜説』及李參所録『程氏學』載焉,間亦有頤語也。頤於春秋,發明大有功。至胡安國,遂廣其説,而春秋之義明矣。(『集義』巻首,諸家姓氏事略)


Ⅶは劉絢について:

〔劉〕絢,字質夫,河南人。以通春秋召,為太學博士。有人問程頤春秋學,曰:「已令劉絢作傳。」絢傳成來呈頤曰:「却看頤親作據。」尹焞謂:「程傳竟不成書,劉傳亦不出。」然今世傳『程氏雜説』首卷所載皆絢傳,而李參所編『程氏學』自言:「併程子語録之。」今『十三家春秋集解』,皆目為程解誤矣。臣今亦不能別其孰為程,孰為劉。各按其書為標題,亦疑以傳疑焉。若其師友淵源之學,則昭若日星,無可疑也。若夫朱熹所定『程氏經説』,自有『春秋傳』二卷。胡安國毎援以為據,與今劉傳不同,是則為程傳。又何疑焉。(同上)


これによれば『程氏雑説』冒頭に劉絢の春秋伝が掲載され,さらに『程氏学』(劉質夫春秋)には程子の発言を併存させていたことが知られる。また『十三家春秋集解』所収劉絢学説は『程氏学』系統であろう。『十三家春秋集解』は何を指すのか不明であるが,呂祖謙『春秋集解』である可能性もある。(*1)

(*)呂祖謙『春秋集解』所引姓氏を,三伝,陸淳,孫復,劉敞,孫覺,蘇轍,程頤,劉絢,許翰,胡安國,呂本中と数えるならば十三家になるが,陸淳を啖助・趙匡・陸淳,三伝を三伝注疏に解体するなら,十五家~二十一家となる。ただし以下に論ずる通り,呂祖謙の『集解』である可能性もあるが,推測の域を超えない。

試みに李明復の『集義』から『程氏雑説』と『程氏学』を蒐集すると,『程氏学』は濃淡あるものの比較的全書に散見するが,『程氏雑説』は閔公で引用が止まっている。閔公というのは,既に見たⅤ尹焞の指摘に合致する。ならば『程氏雑説』所引の劉絢春秋学説は尹焞の見た「閔公まで」の本と同系統のものと推測される。以上から次のことが明らかになる。

まず劉絢春秋著作:

程氏学系統‐『読書志』の『劉質夫春秋』五巻(Ⅰ),『程氏学』五巻(全十巻)(Ⅲ・Ⅶ),未完成遺稿(Ⅳ),『十三家春秋集解』所収劉絢学説(Ⅶ)の系統。
閔公系統‐閔公以前の未完成著作(Ⅴ),『集義』所引『程氏雑説』(Ⅶ)
十二巻本‐『書録解題』の『春秋伝』十二巻(Ⅱ)
現行本‐『春秋通義』十二巻(存十巻)


この中,程氏学系統と閔公系統の関係は定かでないが,いずれも程門関係者から出たものである。ただ十二巻本は不明と言わざるを得ない。春秋学に於いて十二巻というのは意味があり,通常は十二公一巻の全巻完備の書物を指す。随って普通の意味からすれば,十二巻本は全巻完備の劉絢の学説とも推測できるのだが,果たしてその内実はどうであろうか。後述のごとく『程氏学』の佚文も一応は十二公満遍なく存在する。佚文にして然りとすれば,あるいはそこに程頤の学説を付加して分量を増やし,十二公一巻に編集しなおせば,『程氏学』系統のものも十二巻本にならないではない。しかしいずれにせよ推測の域を超えない。

(2)著作の動機・内容・性格

劉絢がなにゆえに春秋を研究したのかは不明だが,その重要な要因の1つに師の程頤が関わることは否定できない。

そもそも程頤は五経の注釈を志していたとされ,『周易』は自分が,他の経書は門人に各々注釈を任せていたとされる(尹焞『師説』)。劉絢はその中の一人として『春秋』を担当したらしい。

劉質夫作春秋伝、未就、毎有人問伊川、必対曰:「已令劉絢作。自不須頤費工夫也。」劉伝既成、門人斯観、伊川曰:「却須著頤親作。」竟不以人。伊川没後、方見之。(『伊洛淵源録』。但し『外書』所収文書には異同がある。何れも祁寛所記尹和靖語。)


とあるのがそれである。これがどの程度信頼できるか不明だが,既にみたように劉絢の遺著も決して完成したものではなかった。あるいは後々研鑽を積み続けた程頤から見れば,劉絢の学説にはまだまだ満足できなかったのかもしれない。しかしだからといって劉絢の学説が全く取るに足りないものであったとは考えられないことは,謝良佐の言葉について見た通りだが,それは2人の解釈文の類似からも推測できる。一例に劉絢の学説として知られる極めて特殊な解釈を引いておく。

紀侯大去其国

程頤語録。曰:「紀侯大去其國」、大名、責在紀也。非齊之罪也。齊侯陳侯鄭伯遇於垂、方謀伐之、紀侯遂去其國。齊師未加而已去。故非齊之罪也。(『遺書』巻17、179。張洽『集注』にも程氏曰として引かれる)

紀侯大去其國、自去也。大者、紀侯名也。生名之、著失也。按:元年齊師遷紀郱鄑郚、逼遷其邑、志固在於滅矣。然兵未始加乎其國、而紀遂不能守。故三年秋紀季以酅入於齊、至是而紀侯大去其國也。夫守天子之土、承先祖之祀、義莫重焉。雖天下無王、諸侯不道、借使齊以兵臨我、猶當率臣民、申固備禦、而爲之守、不幸而力不足者、則亦死之可也。惡有使弟以邑入齊、而已委國去之哉。先儒或擬以太王之事過矣。苟有太王之徳、民從之如歸市、則爲之可也。彼尚未能效死而勿去、何太王之足議哉。故曰紀侯大去其國、自去也。梁亡、自亡也。鄭棄其師、自棄也。齊人殱於遂、自殱也。四者皆自爲之也。(『程氏学』。呂祖謙『集解』も冒頭部分のみ引用する)


通常これは「紀侯,其の国を大去す」と訓む経文である。然るに程頤はこれを敢えて「紀侯大,其の国を去る」と訓んだ。「紀侯大去其国」の「大」を紀侯の名と解釈したのである。これは程頤にしてみれば合理的な解釈なのだが,春秋学上,極めて特殊な解釈に属する。もちろん劉絢もこの学説を踏襲し,「大」を「紀侯の名」としている。

劉絢に対して「胡氏伝文、大概本諸程氏。程氏門人李参所集程説、頗相出入、而胡氏多取之。」(『宋元学案』武夷学案)と評されるのも故ないことではない。仮に程頤が劉絢の学説に満足できなかったにせよ,尹焞の発言の如く,さも劉絢の解釈が程頤と相当乖離していたように捉えるのは間違いである。むしろ逆に,程頤が『春秋』の伝を任せるほどに,劉絢の春秋学説は師程頤と相当接近していたと見なすべきであり,極めて細かい部分,随って自己の注釈の一字一句に至るまで責任を持てるほどに摺り合わせていなかったものと理解される。もとより完全な納得を求めるならば,程頤本人が注釈を執筆するより外なかったであろうし,事実劉絢が死んだ後は程頤みずから執筆に乗り出すのである。

最後に劉絢の春秋学説の特徴について一言しておく。これは程頤の春秋学説が孫復と類似しているのと同様である(孫復ほどに鋭利とは思えないが)。左伝によって事柄を確認し,経文によってそれを検証し,経文と三伝とが矛盾する場合は経文を優先させた。そしてその根本には尊王の思想が横溢している。

元年、隠公之始年。春、天時。正月、王正。書「春王正月」、示人君當上奉天時、下承王正。明此義、則知王與天同大、人道立矣。周正月、非春也。假天時以立義爾。平王之時、王道絶矣、春秋假周以正王法。隠不書即位、明大法於始也。諸侯之立、必由王命、隠公自立、故不書即位、不與其爲君也。……(程頤『春秋伝』)

元年者、始年也。春者、天時也。月者、王之所建也。書春王正月者、若曰上奉天時、下正王朔云爾。董仲舒所謂「道之大原出于天、求端于天」是也。堯之大政、所先者欽若昊天、茲可見已。王者所行、必本於天、以正天下、而下之奉王政、乃所以事天也。春秋、天子之事。故先書曰春王正月、然後是非褒貶。二百四十二年之事、皆天理也。(『集義』所引程氏学)


ちなみに孫復の学説を引いておくと:

孔子之作春秋也,以天下無王而作也,非為隱公而作也。然則春秋之始於隱公者,非他,以平王之所終也。……平王庸暗,歴孝逾惠,莫能中興,播蕩陵遲,逮隱而死。夫生猶有可待也,死則何所為哉。……『春秋』自隱公而始者,天下無復有王也。夫欲治其末者,必先端其本;嚴其終者,必先正其始。元年書王,所以端本也。正月,所以正始也。其本既端,其始既正,然後以大中之法,從而誅賞之,故曰「元年春王正月」也。隱公曷為不書即位。正也。五等之制,雖曰繼世,而皆請於天子。隱公承惠,天子命也。故不書即位,以見正焉。(『尊王発微』巻1)


また紀侯大去其国でも見たように,北宋の春秋学説によく見られる新説の発表(当時の言葉では「経旨の発明」と言った)にも余念がなかった。

先ほどは紹介に止めたが,紀侯大去其国の大がなぜ人名と見なし得るかというと,滅国の君主は生きながら名を書されるというのが春秋の書法だからである。通常,春秋経文は国君の名を書くことがない。あくまでも某侯,某伯,某子と爵を書き,死亡時のみ国公某と名を書くのである。君主は死んだときにのみ名を書かれるのである。しかるに生きながら名を書かれる場合がある。それが滅国の君主である。国が滅ぼされたとき,君主はまだ死んでいないのに名が書かれるのである。(衞侯燬のような貶文とみなす場合もあるが,これは後段の衞侯燬卒が上に誤写されたと解釈される場合があって春秋学上の難解の1つになっている)

ならば紀侯は斉に国を滅ぼされたのだから,名を書かれるべきである。従来の学説では紀侯は賢君だったが,齊侯の暴虐の前にやむを得ず国を去った(紀は滅びた)ため,聖人はそれを惜しんで名を伏せ(経文に書かなかった/削った),「大去」の二字を加えたとされる。しかし程頤は一貫した書法を追求してか,「大去」を「大いに去る」ではなく,「大,去る」と訓んだのである。

書法の一貫性を求めすぎると自滅するというのが春秋学の不文律だが,北宋には書法(時に義例)の極端な一貫性を求める学者が登場する。程頤もその仲間の1人だったと言えるだろうし,逆にそう言えるのであれば,程頤の春秋学説,随って劉絢の春秋学説は極めて北宋的な学説であったとも言えるであろう。

(3)佚文の蒐集

最後に劉絢春秋学説の佚文を蒐集しておく必要がある。劉絢の佚文は南宋から元朝にかけて広く散見するが,その中心となるのは既にみた李明復『春秋集義』(程氏學および程氏雑説)と呂祖謙『春秋集解』であり,他に胡安国『春秋伝』,張洽『集注』,家鉉翁『詳説』,戴溪『講義』,程端學『本義』,陳深『読春秋編』,兪皐『釋義大成』,呉澄『纂言』,李廉『會通』,鄭玉『闕疑』,汪克寛『纂疏』(および『春秋大全』)がある。

以上から佚文を蒐集し,経文ごとにひとまとめにすると,劉絢の学説は佚文間で増減はあるものの,基本的に一致する。しかしごく稀に程頤の『春秋伝』と合致する場合がある。これはもともと程頤と劉絢の学説は類似しており,さらに両者の学説が混ざって世に出ていたことを考えると,単純な引用ミスと考えられる。

それ以外の特徴は,まず引用間の重複が多い。これは後行の書物が先行の書物から孫引きした可能性も充分考えらるが,同時に劉絢の学説として引用に足る部分は概ね諸学者の間で一致していたということでもある。ちなみに『程氏雑説』は重複引用文が少なく,本書が『程氏学』系統のものに対して特殊な史料であった可能性もある。

他に『程氏学』や『程氏雑説』『呂氏集解』未収に関わらず,張洽『集注』や程端學『本義』にのみ見える学説もある。これは劉絢の著作が何らかの形で南宋後半から元代まで現存していた可能性もあるが,逆に程頤の学説の誤認,引用姓氏の誤植なども充分考えられ,軽々しく判断できない。

(☆本来はここに佚文一覧を掲げるべきなのだが,分量が多いし,使う人もいないだろうから省略する)

以上が劉絢の春秋著作に対する調査結果(というほどでもないが)である。本来はここに現行本との比較を行い,現行本の得失なり,輯佚作業の得失を書いておくべきなのだが,残念ながら現行本未見につきそれは適わない。


いや~,むかし劉絢で論文でも書こうかと思って史料を蒐集したものの,現行本の存在に気がついて諦めたのを思い出した。懐かしい思い出だな~と言いたいところだが,苦々しい思い出だ。ちなみに個人的な所感を言わせていただくと,劉絢の春秋学に価値はない。確かに程門の春秋学の流れを調べる場合には,劉絢ははずせない人間である。程頤と楊時と胡安國の間に,劉絢と謝がおり,しかも謝の解釈は李明復『集義』にほぼ全文残っているのだから,劉絢や謝の学説を輯佚し,それらと楊時・胡安國らと比較したり,または程頤の佚文を蒐集して程頤の『春秋伝』の流伝過程を調べたりと,その他にも調べなければならないものは多い。

しかしそれはあくまでも程門の春秋学を調べるためであって,春秋学というものに正面からぶつかるつもりなら,劉絢の春秋学説など知っていようがいまいがほとんど価値はない。珍しいものは呂祖謙の『集解』に収録されているのでそれでこと足りる。

とまあ,その程度のものなわけだが,なくなった書物を復元したり推測するのは,研究価値とは別個におもしろさがあることも否定できない。


そうそう劉絢の史料が欲しい人はご連絡ください。完璧なものではないけど,まとめただけのものならExcelデータで持っているので。ただしこれを使って失敗しても知らないよ。

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