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『春秋学入門』2-2

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

第二論文

(つづき)

〔日月の例〕

蔑の盟(隠1)には日が書かれていない(*7)〔補2〕。この理由を求めて、〔穀梁伝は〕「盟約が守られなかったからだ」という。ところが柯の盟(荘13)に日が書かれていない(*8)ことに対して、〔同じ穀梁伝は〕「盟約が守られたからだ」という。果たして「守られなかった」から日が書かれなかったのだろうか、それとも「守った」から日が書かれたのであろうか。また〔公羊伝と穀梁伝はともに〕「桓公の盟には日が書かない」と言いう(*9)。しかし〔桓公の盟の一つである〕葵丘の盟(僖9)には日が書かれている(*10)。これに対して、片方は「危ぶんだのだ」と言うが、もう片方は「褒め称えたのだ」と言っている(*11)。果たして「危ぶんだ」〔から日が書かれた〕のだろうか、それとも「褒め称えた」からなのだろうか。

公子益師の卒(隠1)には日が書かれていない。これに対して左氏伝は「公(*12)が〔公子益師の〕小斂に参加しなかったからである」という。しかし公孫敖が国外で卒したとき、公は国内にいた(*13)。また叔孫婼が国内で卒したとき、公は国外にいた(*14)。ならば両者ともに公が小斂に参加できなかったのは明白である。それなのになぜ日が書かれているのだろうか。公羊伝は「公子益師〔の卒〕に日が書かれていないのは、遠い時代のことだからだ」という。しかし公子彄も遠い時代の人間である。それなのになぜ〔公子彄の卒には〕日が書かれているのだろうか(*15)。穀梁伝は「〔公子益師の卒に〕日を書かないのは、〔公子益師が〕悪人だからである」(*16)という。しかし公子牙(*17)や季孫意如(*18)も悪人である。それなのになぜこの二人に対しては日が書かれているのだろうか。

「葬」には月と日が書かれるはずなのに、月と日が書かれていない場合がある。これに対して、「期日に先立つ葬儀に対して、日が書かれているのは (*19)、〔嗣子が〕葬儀を望んでいたことを示したのである。期日に先立つ葬儀に対して、日が書かれていないのは、礼制に沿った葬儀を実施しなかったことを示したのである。期日に後れた葬儀に対して、経文に日が書かれているのは、〔葬儀の遅れを〕痛ましく思ってのことである。期日に後れた葬儀に対して、日が書かれていないのは、期日通りに葬儀を実施できなかったことを示したのである。期日通りの葬儀であり、経文に日が書かれていないのは、〔礼制に沿った〕正しい葬儀だったからである。期日通りの葬儀であったのに、経文に日が書かれているのは、葬儀が実施できないことを危ぶんでのことである」という (*20)。しかし「期日に後れた葬儀に対して、経文に日が書かれている」というのは、具体的には斉の桓公を指してのことである(*21)。当時、〔斉の国では〕公子たちが国君の地位を争っていた。だから葬儀ができないことを危ぶみ、これを痛んだとは言えるだろう。しかし衛の穆公や宋の文公は斉の桓公ほどの賢君ではなく、国内紛争の憂いもなかった。それなのに期日に後れた葬儀に対して、経文には日が書かれている(*22)。なにを痛むことがあるのだろうか。宋の穆公の葬に日を書くのは(*23)、なにを危ぶむことがあるのだろうか。およそこれらは経文解釈に困難を生じさせるものばかりである。それにも関わらず、春秋は日月によって褒貶を示したなどと言えるだろうか。

〔訳者注〕
(*7)隠公元年の左氏経文に「三月、公及邾儀父盟于蔑」とある。「蔑」は地名。公羊伝と穀梁伝の経文は「蔑」を「眛」に作る。「日が書かれていない」とは、「三月、○○、公及邾儀父盟于蔑」の○○の箇所に干支(甲子、乙丑など)が記されていないことを指す。
(*8)左氏経文に「冬、公會齊侯盟于柯」とある。
(*9)斉の桓公の主導下で行われた盟は経文に日を書かない、という意味。
(*10)左氏経文に「九月、戊辰、諸侯盟于葵丘」とある。
(*11)「危ぶんだ」のが公羊伝の解釈で、「褒め称えた」のが穀梁伝の解釈。
(*12)公は魯公のこと。魯の国の君主。ここでは魯の隠公を指す。
(*13)文公14年の左氏経文に「九月、甲申、公孫敖卒于齊(九月、甲申、公孫敖 齊に卒す)」とあり、「九月」の下に日(甲申)が書かれている。
(*14)昭公25年の左氏経文に「冬、十月、戊辰、叔孫婼卒」とあり、「冬十月」の下に日が書かれている。昭公は同年九月に季孫氏との抗争に敗れ国外逃亡を謀った。また左氏伝によると十月戊申に叔孫婼は魯の正殿で死んだとある。したがって国外にいる昭公が叔孫婼の小斂(葬儀の一)に参加できたはずはなく、左氏伝の解釈を推せば、「冬、十月、叔孫婼卒」と書かれるべきだということになる。
(*15)「遠い時代」とは、春秋の執筆された孔子の時代から遠く離れた過去の時代を意味する。隠公元年に死んだ公子益師は遠い時代に属す。しかし隠公5 年という同じく遠い時代に死んだはずの公子彄に対しても、公羊経文には「冬、十有二月、辛巳、公子彄卒」とある。呂大圭はこの矛盾を指摘したのである。
(*16)公子益師の悪行については経伝に明文がない。穀梁疏は「益師の悪行は経伝に明文がない。春秋より前にあったのだろう」とし、さらに「益師は忍び寄る邪謀を阻止し得ず、桓公に隠公を弑逆させた云々」(麋信の説)を引いて、「この学説には根拠がない」と退けている。
(*17)荘公32年の経文に「秋、七月、癸巳、公子牙卒」とある。公子牙は荘公の後継者をめぐって姦計を張りめぐらせたと言われている。
(*18)定公5年の左氏経文に「六月、丙申、季孫意如卒」とある。季孫意如は魯の君主(定公の先代)の昭公を追放した人物で、善悪を論ずれば、国君に刃向かった悪人の側に入る。
(*19)礼において、諸侯が死んだ場合、その後継者は、先君死亡から五ヶ月後に葬ることになっている。以下はこの規定を前提とした発言。
(*20)以上の規定は隠公3年の公羊伝に見える。
(*21)何休の解釈をふまえたもの。「賢君(桓公)が礼制に定められた日時に葬られなかったことを痛んでのことである。〔経文の〕『丁亥、斉の桓公を葬る』は、これである」とある。
(*22)成公3年の公羊経文に「辛亥、葬衞繆公」とあり、同年の公羊経文に「乙亥、葬宋文公」とあり、両君とも葬に日が書かれている。
(*23)隠公3年の公羊経文に「癸未、葬宋繆公」とある。なお左氏経文は「繆」を「穆」とする。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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