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『春秋学入門』2-3

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01

第二論文

(つづき)

〔称謂の例〕

〔天王が宰咺を派遣して〕仲子の葬儀に賵(*24)を贈ったことに対して(*25)、「宰」に〔咺という〕名が書かれているのは、貶したからであるという(*26)。一方、〔王が〕栄叔を派遣して成風の葬儀に含(*27)と賵を贈ったことに対して、「王」に「天」の字が書かれていないのは、貶したからであるという(*28)。仲子の賵を贈った罪は、宰にあって天王にはないというのだろうか。成風の含と賵を贈った罪は、天王にあって栄叔にはないというのだろうか。そもそも春秋に「王」が書かれているのは、周王治下の秩序を正すためである。それにも関わらず、夫子じしんが周王を貶し、その「天」の字を削るという。これでいて秩序を正すことができるというのだろうか。

穀伯と侯には名が書かれている(*29)。これに対して、「弑逆の人に朝したから貶したのだ」という学者がいる(*30)。しかし滕子や杞侯も弑逆の人に朝したのではないのか(*31)。また滕侯と薛侯の来朝に際し、経文に「侯」と書くことに対して(*32)、「滕と薛は微弱な国であるが、先んじて隠公に朝したので、これを褒め〔て侯爵と書い〕たのである」という学者もいる(*33)。しかし隠公に朝すことのどこに褒める理由であるのだろうか。もし隠公を始めて天命を受けた君主と見なすというなら、それは甚だしき誤謬と言わなければならない。

また「滕はもともと侯爵だった。弑逆の人に朝したので、貶して子爵に降したのである」という学者がいる(*34)。なるほど魯の桓公に朝したのことは貶すべきことである。しかし〔滕侯は〕春秋の最後まで、もはや侯爵と書かれなくなるのである。はたしてこれで「桓公に朝したから貶された」と言えるだろうか。また「当時の周王が〔滕侯の〕爵位を降したのだ」という学者もいる(*35)。しかし、もし当時の周王に諸侯の爵位を上下する力があるなら、まだ天王じしんが礼楽賞罰の権を握っていたことになる。それでいて春秋と言えるだろうか。

〔楚の記述法を見ると、経文は〕まず「荊」と書き、次に「楚」と書き、ほどなくして「楚子」と書いている。これに対して、「夷狄を昇進させたのだ」という学者がいる(*36)。中国の諸侯でありながら夷狄の振る舞いをしたものに対して、これを夷狄とみなすことは、あり得ることである。しかし夷狄でありながら中国のように振る舞ったからといって、これを中国とみなしてよいだろうか。聖人が春秋を作ったのは、もともと夷狄と中華をきっちり区分するためである。それにも関わらず、夷狄を進め、中国を退けるようなことがあるだろうか。

これらの矛盾は一つや二つではない。しかし、これを要するに、どれもこれも経文の解釈に困難を生じさせるものばかりである。それにも関わらず、春秋は名称爵号によって褒貶を示したなどと言えるだろうか。

〔訳者注〕
(*24)車馬。葬儀を助けるために贈られる物品の一つ。以下は胡安国『春秋伝』の学説を反駁したもの。
(*25)隠公元年の左氏経文「天王使宰咺來歸惠公仲子之賵」を指す。胡安国の解釈に従うならば、天王は周王(天子)、恵公は隠公の先代。仲子は恵公の妾。宰咺の「宰」は官名で、冢宰(六卿の長)。「咺」はその名。ただし仲子と宰咺については諸説ある。
(*26)胡安国は「王朝の公卿は官を書き、大夫は字を書き、上士と中士は名を書き、下士は人と書く」との規定を加え、恵公の妾の仲子に装具を贈るのは人倫を乱したものだから、筆誅を加えて冢宰の名を書いた、とする(胡安国『春秋伝』巻1)。
(*27)「含」は含玉のこと。死者の口に含ませる葬具。
(*28)文公5年の左氏経文に「王使榮叔歸含且賵」とある。一般に春秋経は周王を天王と書く。しかるにここでは「天王」ではなく「王」と書かれている。これに対して胡安国は、宰咺のときと同様に人倫を乱した罪を指摘し、天王が天の道を踏み行えなかったので、天の字を削ったと解釈する(胡安国『春秋伝』巻 14)。
(*29)桓公七年の左氏経文に「夏、穀伯綏來朝。侯吾離來朝」とある。綏と吾離はおのおの穀伯と侯の名。いくつかの例外を除き、一般に生きながら名を記される諸侯はいない。
(*30)何休の学説。「弑逆の人」は魯の桓公を指す。桓公は、先君であり、かつ自身の兄にあたる隠公を弑して魯の君主になった。弑は臣下・子供が君主・親を殺したときに用いる言葉。弑逆も同じ。「朝す」は謁見の意。聘との区別もあるので、訳語は充てない。
(*31)滕子と杞侯の来朝は桓公2年に見える。なお公羊伝と穀梁伝は杞侯を紀侯に作る。
(*32)隠公11年に「十有一年、春、滕侯・薛侯來朝」とある。
(*33)何休の学説。「侯という理由。春秋は隠公を始めて天命を受けた王とみなしている。滕と薛は先んじてその隠公に朝した。だから褒めたのである」とある。隠公を受命の王とみなす考えは公羊伝特注のもので、宋代では完全に否定され、むしろ公羊伝(何休)の誤謬を証明する有力な根拠となった。
(*34)胡安国の学説。ただし類似の学説は他にも多い。以下、三伝以外の学説は、比較的有名なものの姓名を挙げるに止める。
(*35)杜預と范の学説。
(*36)公羊学にこの種の解釈がある。なお荊の初出は荘公10年、楚人の初出は僖公元年、楚子の初出は僖公21年にあたる。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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