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『春秋学入門』2-6

サイトの方に改訂版を公開しました。改訂済みの訳文は『春秋学綱要』と改題し、こちらサイト本館)にあります。なおブログ掲載の訳文は、煩瑣を避けるため、補注を削除しております。ご了承ください。
○最終更新日:2009/11/01
第二論文

(つづき)

〔事実の把握〕(続)

かの名称爵号の異同については、事の大小によって、詳しく書いたり簡略に書く場合がある。また前の事に対しては「目」を記し、同じ事が後文に出たときは「凡」を記す場合もある(*43)〔校6〕。また上の文章を受けて辞を減らすこともある。もとより一例によって括るのは難しいが、これらによって時勢の変化や世道の盛衰を調べることはできる。

例えば、一つの楚に対して、始めは荊と書き、次に楚と書き、ほどなく楚子と書いている。一つの呉に対して、始めは呉と書き、次に人と書き、ほどなく呉子と書いている(*44)。これによって夷狄の強くなりゆく様子が分かる。魯の柔と溺〔校7〕、鄭の宛とに対して(*45)、始めは氏を書いた大夫などいなかった。しかし後には氏を書かない大夫がいなくなる(*46)。鄭の段、陳の佗、衞の州吁など〔の悪逆な臣下〕に対して、始めは名を書いていた。しかし後には弑君の賊であっても、氏を書くようになった(*47)。これによって大夫の強くなりゆく様子が分かる。始めは曹と莒に大夫はいなかった。しかし後には曹と莒ともに大夫が登場するようになる。これによって小国の大夫が政権を握る様子が分かる。始めは、呉と楚は君も大夫もみな「人」と書いていた。しかし後には呉と楚の臣下にまで名が書かれるようになる(*48)。ここから夷狄の大夫が中国と関係を持つようになった様子が分かる。

先君の喪にある諸侯は「子」と書く。そして「子」と書かれながら、会や伐に参加するものがいる(*49)。これによって、喪中の身でありながら会や伐に参加した非礼が分かる。杞は公爵である。それにも関わらず杞伯と書いている。滕は侯爵である。それにも関わらず滕子と書いている。これによって当時の諸侯が周の爵を用いず、国の大小によって強弱を決めていたことが分かる(*50)。曹の会では蔡を衛の前に書き、鄭の伐では衛を蔡の前に書いている。これによって、当時の諸侯は目前の利害のために、周の班列を用いなかったことが分かる〔補3〕。幽の盟では男爵が伯爵の前に置かれ (*51)、淮の会では男爵が侯爵の前に置かれ(*52)、戚の会では子爵が伯爵の前に置かれ(*53)、蕭魚の会では世子が小国の君主の前に置かれている(*54)。これらによって、伯者の政治は私意でもって諸侯の軽重を決め、周の礼制を無視していたことが分かる。垂隴の盟では、国内に於いて、魯の公孫敖が諸侯と会している(*55)。諸侯が召陵に会して楚討伐の軍を起こしたときには、国外に於いて、斉の国夏が伯主と会している(*56)。これらによって、大夫が諸侯のごとく振る舞いながら、しかもその過ちに気づかなかったことが分かる。

およそこれらはどれも名称はその名称に従い、爵号はその爵号に従ったものである。これらによってその是非善悪は明らかである。しかし聖人が名称爵号によって褒貶を発したと考えてはならない。聖人の褒貶を名称爵号の間に求める学者は、必ず解きがたい矛盾に陥る。そして矛盾に陥ると、強いて意見を通すべく、新説や妙論を忌憚なく生み出すことになる。それらは聖人の明白正大な心からかけ離れたものである。

〔小結〕

春秋を修める後学の徒は、まず日月を例とする学説と名称爵号に褒貶を見る学説の二つを論破しなければならない。これが論破できて、ようやく春秋の主旨を論ずることができるのである。

〔訳者注〕
(*43)「凡」と「目」は春秋経の書き方を説明するとき用いられる用語。目は小目の意味で、事を詳細に記述すること。凡は大凡の意味で、事のあらましを記述すること。
(*44)呉の初出は成公7年、呉人の初出は襄公5年、呉子の初出は襄公12年(ないし29年)。
(*45)柔、溺、宛、ともに大夫の名。
(*46)春秋の初期は「柔會宋公、陳侯、蔡叔、盟于折」(桓11)や「溺會齊師伐衞」(荘3)などのように、「柔」「溺」の名だけが経文に書かれている。しかし後になると「季孫行父如齊」(文18)などのように氏が書かれるようになる。
(*47)隠春秋の初期は「鄭伯克段于鄢」(隠1)のように、悪逆の人は「段」と名のみが書かれ、氏は書かれなかった。しかし後になると「晉趙盾弑其君夷皐」(宣2)のように氏が書かれるようになる。
(*48)呉と楚は、君主と臣下とを問わず「呉人」「楚人」と書かれあったものが、後になると楚の「楚公子結帥師伐陳」(哀10)や呉の「閽弑呉子餘祭」(襄29)と書かれるようになる。
(*49)僖公9年の左氏経文に「夏、公會宰周公、齊侯・宋子・衞侯・鄭伯・許男・曹伯于葵丘」とあるのを指す。宋子は後の宋の襄公で、当時は喪に服していた。
(*50)杞伯の爵位は諸説ある。桓公3年の左氏経文(三伝同じ)には「六月、公會杞侯于郕」と記され、杞侯になっている。しかしそれ以外は杞伯と記されている。滕侯は隠公10年の「十有一年、春、滕侯・薛侯來朝」(左氏経文)を最後に、滕子と記される。
(*51)荘公16年の左氏経文に「冬、十有二月、會齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・滑伯・滕子同盟于幽」とあり、男爵の許男が伯爵の曹伯・滑伯の前に置かれている。
(*52)僖公16年の左氏経文に「冬、十有二月、公會齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・邢侯・曹伯于淮」とあり、許男が邢侯の前に置かれている。
(*53)襄公5年の左氏経文に「公會晉侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・齊世子光・呉人・人于戚」とあり、薛伯の前に子爵の君主が置かれている。
(*54)襄公11年の左氏経文に「公會晉侯・宋公・衞侯・曹伯・齊世子光・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子伐鄭、會于蕭魚」とあり、斉世子光が子爵や伯爵の君主の前に置かれている。
(*55)文公2年の左氏経文に「夏六月、公孫敖會宋公・陳侯・鄭伯・晉士穀、盟于垂隴」とあり、公孫敖が諸侯と会盟している。
(*56)定公4年の左氏経文に「三月、公會劉子・晉侯・宋公・蔡侯・衞侯・陳子・鄭伯・許男・曹伯・莒子・邾子・頓子・胡子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子・齊國夏于召陵、侵楚」とあり、斉の大夫である国夏が伯者・晉侯と会している。

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かつては春秋学・宋代史・南学(秦山関係)関係の記事を中心に書いていました。最近は開店休業状態で、数ヶ月おきに思いついたことを書いてます。

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